「あーッ!! もう、どこまで追ってくれば気が済むのよ! 張家の姉妹に矛を向けるなんて、黄巾党の風上にも置けない連中ね!」 張宝の苛立たしげな叫びに、張梁が嘆息混じりに反応する。「まあ、その黄巾党から逃げ出そうとしてるあたしたちが言って良い台詞じゃないでしょうけどね」 険悪な雰囲気漂う2人の間に、のんびりとした声が割ってはいる。「もう、2人とも。こんな時に喧嘩なんかしないの」 張角のひと言に、それまでにらみ合っていた2人は、まったく同じタイミングでため息を吐いた。「姉さん、状況わかってる?」 張宝の呆れたような顔に、張角は不満げに答える。「むー、ちぃちゃん、お姉ちゃんをばかにしてるでしょ。もちろんわかってますとも。わたしたちはー、暴走する黄巾党から逃げ出そうとして、見事に波才さんの罠にはまっておいつめられそうになってまーす♪」 今度は張梁が呆れたように口を開く。「それはその通りなんだけど……姉さん、なんでそんなに余裕があるの?」「それはねー、お姉ちゃんの女としての器が、2人よりも大きいからよ」「この場合、女の器は関係ないような……人としての器ってこと?」「あ、そう。それそれ」 慌てて言い直す張角に、今度は張宝がぼそりと呟く。「姉さんの場合、器云々じゃなくて、単にお気楽極楽なだけじゃない?」「あー、やっぱり2人してお姉ちゃんをばかにしてるー」 ぷんぷん、と憤慨する張角。 姉妹の命を奪わんとする敵が迫る中、交わされるのはいつもと変わらぬ会話であった。 ◆◆ 事の起こりは、3人のユニットである『数え役萬☆姉妹』の活動が全面的に取りやめられたことであった。 これは、黄巾賊大方 波才及び張曼成による決定であり、姉妹は半ば強制的に河北へと連れてこられたのである。 当然ながら姉妹は抗議したのだが、その時にはすでに姉妹に近しい者は遠ざけられ、波才直属の無愛想な男たちが、面倒くさげに対応してくるだけであった。 その態度に張角は口を尖らせ、張宝は激怒したが、張梁は姉たちとは異なり、背筋に氷片を感じとった。いつか来るとは覚悟していたが、まさかこうも早く来るとは、張梁をして予想外と言わざるをえなかったのである。「今の黄巾党の力では、諸国を荒らすことは出来ても、一国を建てることなんて出来ない。波才も張曼成も、その程度の判断はつくと思っていたのだけど……」 だが、そう思っていた張梁は、征服した平原郡に展開している波才の軍団を見て、慄然とすることになる。 そこに集うは、黄巾30万の軍勢の中でも最精鋭と呼ぶべき精強なる軍団。整然とした進退は、もはや賊と称することを許さない錬度を示し、統一された軍装はあたかも官の正規兵を見るようであった。 さらには、各処に見える投石器や、攻城櫓といった兵器は、これまで黄巾党が持っていなかった技術と資材である。「一体、どうやって……?」 張梁は呆然と呟く。 建前とはいえ、大方たちは党首たる張角に従ってきた。彼らが差し出す資料など信用できなかったが、そこからある程度の予測をたてることは、張梁にとって難しいことではない。それに、波才の軍団にせよ、張曼成の軍団にせよ、軍団長とは異なり、その配下には素直に党首たちを敬愛する者たちは多く、そういった者たちから様々な形で情報を仕入れ、張梁は形ばかりの部下の動静を監視し続けてきたのである。 いよいよ、連中が事に及ぼうとする時は、素早く逃げ出さなければならない。担ぎ上げた神輿は、不要になれば捨てられるだけだ。大方よりも人望の厚い党首たちを、彼らがほうっておく筈はないのである。 張梁が掴んでいた情報には、実際と比べて多少の誤差はある。それは張梁とてわかっていた。だが、それを計算にいれてなお、ここまでの軍備を整えるだけの資金を、波才であれ張曼成であれ、持ちえるはずがないのである。 考えられることは2つ。彼らが、張梁の予測を上回って狡猾に軍備を推し進めていた、という答えが1つ。もう1つは――張梁の知らない支援を、彼らが受けている、という可能性である。 だが、今の張梁たちに、その真相を探る余裕はない。 平原郡に到着するや、姉妹は幽閉同然に城に押し込められ、外出どころか、城内を歩くことさえ許されなかったからである。幽閉同然といったが、それはすでに幽閉そのものと言ってよかったかもしれない。「ねえ、ちょっと、どうするのよ! このままじゃ、あたしたちやばくない?!」「うー、もう何日歌ってないんだろ。ねえ、人和ちゃん、舞台に立ちたいよー」 張角も、張宝も、不穏な気配を察しているのだろう。閉じ込められた部屋の中で、始終、落ち着かない様子で動き回っている。「そうはいっても、今は機会を待つしかないわ。あたしたちだけじゃあ、ここから逃げ出せないし」 淡々と述べる張梁だったが、内心は姉たちと大して違いはない。面にこそ出さなかったが、臍をかむ思いだった。 波才たちの強引ともいえる行動に、奇異の念を抱いてはいたが、まさか彼らがここまでの力を持っているとは予想だにしていなかった。そのため、脱出に必要な準備がほとんど出来ていないのである。早い段階で側近たちと引き離されたことも、張梁にとっては痛かった。 口にした通り、今は機会を待つしかない。 しかし、その機会が訪れなかったなら。 あるいは、機会が訪れる前に、波才たちが行動に出てしまったら。 その時のことを思い、張梁はかすかに身体を震わせるのだった……◆ だが、幸いというべきか。 張角たちにとって、機会はほどなく訪れる。 破竹の勢いで進撃していた黄巾党の大軍が停止を余儀なくされたからだ。 黄巾賊の前に立ちはだかった巨大な壁。 1つは幽州の楼桑村。そしてもう1つは袁紹の本拠地である南皮城である。 大諸侯の1人である袁紹が帰着する前に決着をつけなければと、波才は猛攻に次ぐ猛攻を重ねたが、南皮城の城壁は厚く、高く、ただ黄巾党の兵士たちの屍が山となって積み重なるのみだった。 城を守る沮授、審配、郭図らは、平時は対立しがちな関係ではあったが、黄巾賊を相手にして、互いに足を引っ張り合う愚を冒すことはなかった。高覧、張恰ら武官たちの勇戦もあり、南皮城は波才の攻撃に小揺るぎもしない鉄壁ぶりを披露することになる。 この時点で両者の戦力差は大きかった。波才が南皮城は包囲するにとどめ、冀州の各地を劫略すれば、袁紹陣営は致命的な被害を受けたかもしれない。だが、波才は目前の城壁に拘り、平原郡に残していた予備兵力を投入して、南皮城に更なる攻撃を仕掛けようとしたのである。 必然的に、平原郡の兵力は手薄になった。くわえて、波才配下の精兵のほとんどは南皮に向かったため、平原郡に残ったのは、錬度も装備も二流の部隊のみ。姉妹を監視していた波才直属の兵も、すべて南皮に向かったようである。 少なくとも、張梁はそう判断し、逃げ出すのは今をおいて他になし、と姉たちを説得したのである。 張角のおねだりと、張宝の勢いと、張梁の説得を駆使し、城からの脱出を果たした姉妹は、城内の様子など知る由もない一般の党員を集めて、演説をぶつ。「苦戦を続ける大方2人を助けるため、大賢良師みずから兵を率い、戦場に出る」と。 何も知らない党員たちは、党首らの決断に感動し、また張角らと共に戦うことが出来る栄誉に感激しきりであった。 かくして、たちまちのうちに1万近い兵力をかき集めた張角たちは、慌しく平原郡を出る。距離的に近いのは南皮だが、当然、そちらに行くはずがない。 とりあえず、幽州へと向かい、頃合を見計らって姿を消す。張角たちはそう決めていたのだが――◆「それがどうして、こんなことになってるのよー!」 張宝の絶叫に、張梁が言葉少なに応じる。「ごめん、ばれてたみたい」 張梁の言葉どおり、平原を出た張角たちが幽州へと向かってから、一刻も経たないうちに、後方に砂塵が巻き起こった。 そこに翻るは、張角たちと同じ黄巾党の旗印。「蒼天已死 黄天當立」と大書された旗が翩翻と林立していた。だが、その軍はいかなる使者も送っては来ず、ただ一直線に張角たちに向かってくる。 その整然とした突進が意味するものを、張角たちは嫌でも悟らざるを得なかった。 そして…… 1度悟ってしまえば、張家の姉妹とて、やられっぱなしではなかった。黄巾党が結成される以前、貧しさに耐えつつ、各地を流浪していた頃の強かさは、今も失われていない。「えーい、こうなったら――」「ちぃ姉さん?」「みんな、きいてー♪」 舞台で鍛えた声量は、混乱する兵士たちの耳に、不思議なほどに良く通った。「後ろから来るのは、恐れ多くも私たちに刃向かって、黄巾党を牛耳ろうとする裏切り者たちなんだ。このままじゃあ、私たちは捕まって、あーんなことや、こーんなことをされちゃうかもしれないの! そんなこと、みんなは許せる?」 その言葉を聞いた兵士たちは、たちまち怒気で沸騰する。「許せるものかー!」「地和ちゃんたちはおれたちが守るぜー!!」「裏切り者に思い知らせてやるから、安心してくれ!!」 義憤に燃えた兵士たちの声を聞き、張宝と、そして張宝の意図を悟った2人の姉妹も、心底嬉しそうに叫び返す。「みんな、ありがとー! そんなみんなのために、地和は一生懸命、応援しま~す!!」「もちろん、天和も一緒だよーー♪」「人和も、皆のために、応援しまーす」 尊敬し、憧れる張家の姉妹たちに頼りにされ、応援されるという栄光を与えられた黄巾党の兵士たちの士気はたちまち沸点に到達した。『ウオオオオ、やってやるぜーーー!!!』 1万の軍勢は、たちまち心を1つにして、押し寄せてきた波才配下の精鋭軍と矛を交える。 錬度と装備の違いから、鎧袖一触、蹴散らされるかと思われた張角軍は、しかし、怒涛の如き勢いでもって、相手を押し返してしまうのであった。 かくて、見事勝利を得た張角軍だったのだが…… 一旦は引き下がった追っ手は、距離を開けつつも、不気味な沈黙を続けながら、張角たちを追尾してきた。 張角軍は、姉妹によって士気を高めたのだが、時間が開いてしまえば、高まった士気も元に戻ってしまう。根本的な戦力が違う上に、相手の奇襲、夜襲も警戒せねばならず、その心身の疲労は、戦いなれていない張角軍にとって、きわめて厄介なものであった。 最初の勝利からすでに数日が経過している。張角軍からは、すでに先日の英気は感じられなかった。 それでも、党首姉妹を守っているという誇りが、張角軍に属する黄巾党兵士の根っこを支えていた為、軍自体が瓦解するということはなく、それは張姉妹の人望の厚さを改めて示すものであった。 だが、当の張角たちにとって、事態は困難を極める一方であった。なんとか、最初の攻撃を防げたのは良かったが、今度は自軍の兵士たちが党首姉妹を守るために、常に周囲に人垣をつくるようになってしまったからである。これでは、こっそり陣中から逃げ出すというわけにもいかない。「どうすんのよ、人和。このままじゃ、私たち、本気で逃げらんないわよ?!」「落ち着いて、ちぃ姉さん。騒いだって、問題は解決しないわ」「これが落ち着いていられますか! 姉さんもそう思うでしょ?!」 張宝は張角に視線を向ける。 だが、当の張角は普段とあまり変わった様子もなく、のんびりと鼻歌を歌っていた。「―――ふんふ~ん♪」「ちょ?! 姉さん!!」「ふぇ?! あ、なに、ちぃちゃん?」「なに、じゃないわよ! なんでそんなに落ち着いてるの、姉さんは!」「んー。なんでだろ?」 不思議そうに首を傾げる張角に、妹たちの声が期せずして重なる。『姉さん!』「うう、2人とも、怖い。お姉ちゃんをいじめないで~」「怒られたくなかったら、姉さんもちゃんと脱出方法を考えてよね!」「は~い」 しゅんとした様子で、言われたとおり、なにやら思案に耽り始めた張角だったが……「ねえねえ、ちぃちゃ――」「ね・え・さ・んッ?!」「え~ん、わかりました、真面目に考えます~」 その様子を見ていた張梁は、さすがに首を傾げた。 張角は確かにのんびりとした性格だったが、ただ物事の瀬戸際にあっては、昔から聡いところがあった。 それは張宝や張梁がまだ小さかった頃から変わらない。 幼い頃――父母を失い、着の身着のまま、路頭に放り出されながら、決して他人の世話になることなく、幼い妹たちを守り通してきた張角。 表面上、どのように振舞っていようと、張梁はそんな姉のことを心底信頼していた。そして、それは張宝とて変わらない。 だからこそ、今の姉の様子はおかしい、と張梁には思えてならなかった。 まるで、今、迫り来る危機など心配するにあたらない、と安心しきっているかのようにさえ見えるのだ…… 張梁がそれを口にすると、張角は「うーん」と難しい顔で考え込んだ。 張角自身も、どうしてこんなに落ち着いていられるのか、よくわかっていないようだったが、張梁の指摘には頷けるところがあったらしい。「言われてみると、そうかもね。なんかこう『危ないぞー!』って感じが、今はないかも」 張宝が目を剥いて反論する。「どうして?! あたしたち、今、絶対絶命じゃない!」「うーん、そうだよね。私も、それはわかってるつもりなんだけど」 なおも不思議そうに首を傾げる張角の姿を見て、張梁は少し考え込む。 張角が直感に優れるのは、張梁たちも認めている。張角を信じるならば、今、迫り来る追っ手は脅威ではない、ということになるが、そんなことはありえない。 では考え方を変えてみよう。 追っ手は脅威である。だが、それは張角たちの命に危険を及ぼすことはない。つまり、その脅威を払拭するほどの味方が現れれば、張角の言葉に矛盾はなくなる。 なくなるのだが、しかし、そんな都合の良いことが……「申し上げます!」 部下の報告に、張梁の思考が中断した。 張宝が慌てたように声を高める。「なに?! 敵が攻撃してきたの?」「い、いえ、そうではありません。間もなく、琢郡の県城が見えてまいりますが、このまま進軍を続けてもよろしいのでしょうか? 県城の者たちがどのように行動するかがわかりませんので、指示をいただきに参りました」 その部下の言葉を聞いたとき、張梁の瞳が一瞬、光ったように見えた。 それには気づかず、張宝ははたと手を叩く。「そう、それよ!」「は、はあ?」「琢郡の連中に私たちを助けるように命令すれば良いんじゃない! あたしってば冴えてる! あんた、ちょうど良いから、ここから県城に行って……」 目の前の部下にそのまま命じようとした張宝を、張梁が止めた。「待って、姉さん」「どうしたのよ、人和?」「私たちが、直接行きましょう。城の人たちを説得するのは、多分それが1番早いわ」「そ、そうね。張家の3姉妹が行けば、否とは言わないわよね。よし、それじゃその間、あんたが指揮官ね!」 張宝の言葉に、部下が仰天する。「な、ななな?! お、お待ちください! 私ごときが、一軍を指揮するなどとんでもない!」「天下の地公将軍が良いって言ってるの! あんた、名前は?!」「は、はい。それがし、馬元義と申しま……」 馬元義が言い終わらぬうちに、張宝は高らかに宣言した。「では、馬元義! 本日ただいまより、あんたに黄巾党の大方を命じる!!」「ええええッ?!!」 大方とは、黄巾党における最高の役職。あまりの驚愕に、馬元義は呆然とする。 だが、馬元義の周りにいる人たちは、そんな彼の心を察してはくれなかった。「うんうん。じゃあ、この大賢良師張角がじきじきに、ここで任命しちゃいます♪」「それじゃ、人公将軍として、私が見届け人になるわね」「え、あの、いや、ちょっとお待ちを……」 目の前で、何かとんでもない事態が侵攻していることを悟り、馬元義は慌てて、それをおしとどめようとする。 しかし。「馬元義!!」「ははあッ!」 張宝の一喝に、思わず平伏してしまう馬元義。流されやすい性格だと、常日頃から言われていた。「これより、我らが軍をそなたに委ねる。我らの命を奪わんとする追っ手を、汝の全能力をもって食い止めてみせよ!」「か、かしこまりましてございますッ!!」「敵は強大であり、味方は寡兵――我らの命は、もはや風前の灯火。されど、汝であれば、我らの生をつなぎとめてくれると信じる。張家の姉妹の信頼、裏切ることは許さぬぞ!」「お任せくださいませ!」 地公将軍の言葉は、濁流のごとき勢いで、馬元義の胸にわだかまっていた感情を瞬く間に一掃してしまう。そこにおしかぶせるように、絶対死守の命令を下された馬元義は、党首らを守ることを誓約した。 それは、装備も錬度も2流の部隊で、黄巾党の主力とぶつかることを意味するのだが、勢いに流された馬元義は、そこに思いを及ばせることが出来なかったのである。「じゃ、そういうことで、あとよろしく♪」「がんばってね~、馬大方」「よろしく。できるだけ時間を稼いでね」 そう言い置くと、張角たちはすぐさま本陣を出て行ってしまったのだが――感激に震える馬元義は、そのことにしばらくの間、気がつかなかった……◆◆ 琢郡の県城へと向かう道すがら、馬上、張梁は小声で姉たちに囁いた。「姉さんたち、わかってると思うけど……」「ええ、さっさと逃げ出すわよ」 張宝は心得たような頷く。 だが、1人、張角だけは妹たちの言葉に応えようとはしなかった。「天和姉さん、どうかしたの?」「んー、ちょっとね~」「ちょっとちょっと。しっかりしてよ姉さん、下手すると、あたしたち、ここで死んじゃうのよ?」「それはわかってるんだけどー……なんか、このまま逃げた方がまずい気がするんだよね」 張角の言葉に、張梁は目を見張る。「このまま戦うってこと?」「うそッ?! ちぃたちが勝てるわけないでしょ!」「そうじゃなくって。物事がうまく行かない時でも、安易にそこから逃げることなく、きちんと現実と向かい合って、対処していくべきなんじゃないかなーってね」 張宝と張梁は、顔を見合わせた後、異口同音に張角に問いかける。『姉さん、熱でもあるの?』「あー、ひっどいなあ、もう。熱なんかありません! ただ、ほら、この書に書いてあるんだよ」 そう言って張角が懐から取り出したのは、かの太平要術の書であった。 器用に馬を御しながら、張角が指し示す場所を覗き込んだ張宝が、その部分を声に出して読みはじめる。「えーと、なになに……『遠き慮り無ければ、必ず近き憂いあり――天命至らざるときは、行き当たりばったりの行動は慎み、ただひたすらに耐え忍ぶべし。雌伏の時、いかほど長くなろうとも、安易に逃避の道を選ぶべからず。天命至れば、必ず道は開けん』――へー、この本、まともなことも書いてあるんだ」「それだけじゃないよ、ほらほら、ここ、ここ」 張角が指したところを、今度は張梁が読み上げる。「『今日のあなたの運勢は絶好調! 行動すれば、すべて良い結果につながります。金運◎恋愛運◎。無くしたものが、ふとした拍子に出てくるかも?』」 張宝がぼそり呟く。「……訂正、やっぱり変な本よ、これ」「えー、そうかなあ?」 首を傾げる姉の姿に、張梁が冷静に突っ込む。「そもそも、ここに書いてある『今日』って、いつのことなの?」「えー、それはやっぱり私が読んだ今日この日って意味だよ~」「はあ……姉さん、まさかこれを理由に?」「え? あ、あはは、もちろんそれだけじゃないよ。えーと、あとは女としての勘、かな?」「……はあ」 ため息の尽きない張梁だったが、次の瞬間、さらに深いため息をつく羽目になる。 張梁の視線が、琢郡の城壁に翻る旗の文字をとらえたのだ。 そこにあるは『劉』の文字。黄巾党の旗はどこを探しても見当たらない。 その答えは明白であった。琢郡は官軍に奪還されたのだろう。「はあ……」「こらー、人和ちゃん。ため息ばっかりついてると、幸せが逃げてくぞー」「……そうね。ため息をついてる暇があるなら、対策を考えないとね」 眼鏡の位置を直しながら、姉におざなりの返答をしつつ、張梁は今後のとるべき行動を考える。 琢郡が官軍の手に戻ったならば、張角たちは敵に他ならない。援軍など論外、最悪の場合、波才の軍と官軍に挟撃されてしまうだろう。 双方のうち、1つでも厄介だというのに、両者に攻撃されたら、もうどうしようもない。 ここはもう、逃げるしかないだろう。敵や味方が、それを許してくれるかはわからないが…… 張梁が決断しようとした、まさにその寸前。「よーし、それじゃ琢郡に向けて改めてしゅっぱ~つ!」 張角がとっとと馬を走らせてしまった。「ちょ、ちょっと天和姉さん?!」 慌ててその後を追う張梁と、わけがわからぬながらに、姉妹の後を追う張宝。「どうしたのよ、人和?」「ちぃ姉さんも、あの旗を見て」「旗? って、ちょっとちょっと、『劉』ってなによ」「多分、琢郡の劉焉の旗印でしょ。官軍が県城を取り戻したみたいね」「えーー?! ちょ、ちょっと待って。じゃあ援軍はどうするのよ」「無理」「だよねえ……ってもう一回待って。じゃあこのままあたしたちが県城に行けば……」「飛んで火に入る夏の虫」 状況がようやく理解できたのだろう。張宝は馬足を速めて姉を追いかけ始めた。「姉さん、待ってってば! このままじゃあたしたち、官軍に捕まって火あぶりの刑にされちゃうわよ!」「――八つ裂きの刑かも」「人和! ぼそっと怖いこと言わないで!」 妹たちの必死の叫びにも、張角の表情が変わることはなかった。「大丈夫だよー」『なんで?!』 声を重ねる妹たちに、ほらほら、と張角は琢郡の城門を示して見せた。 見れば、確かに張角の言うとおり、城門がゆっくりと開かれ、城内から数十の武装した兵士たちが、わらわらと湧き出している。 だが、それはこちらを助けに来たとは限らない。普通に考えれば、城に近づく不審な人間を誰何しにきたのだろう――仮に助けに来てくれたのだとしても、張角たちの正体がばれれば、たちまちのうちに死刑台に直行、ということになるのは間違いない。 なにせ、張角たちは黄巾党の党首であり、今回の大乱の首謀者とされているのだから。 黄巾党内部の権力状態がどうなっているのかなど、官の人間が知るはずもなく、また知ろうとする理由もない。敵の総大将を捕らえれば、首を刎ねる以外の決断をする筈がないのだ。 決断を下す者の近くに、黄巾党内部の事情に通じている者がいて、張角たちのことをとりなしてくれる、などという幸運は、天地がひっくりかえってもありえない。 張梁はこの時、そう考え、自分たちの未来への扉が、大きく閉ざされる音を聞いた気がした…… ――結論から言えば、それは単なる気のせいだったのだが。