「――さて、これで少しは時間が稼げると良いが」 趙雲は呟きながら、村の中を見渡す。 黄巾賊の新手を打ち破り、その将を討ち取ったとはいえ、極端な話、一寸の金も、一粒の米も、手に入ったわけではない。武器や糧食を買い求めることも、村の防備を整えることもできないのである。 そして、先刻の戦いでは、村の一部を賊もろとも焼き払うという捨て身の手段に出てしまった。無論、それはそうしなければ勝利が覚束なかったからなのだが、代償として楼桑村に容易に癒せぬ傷跡をつけてしまったことは確かであった。 とはいえ、勝利によって村人たちの士気が大いにあがったのも事実である。 村に戻った趙雲は、村人たちから手荒い歓迎を受けた。彼らは度重なる勝利を喜び、黄巾賊何するものぞ、と気勢をあげたが―― 趙雲は彼らに同調することはできなかった。将として有能な趙雲ゆえに、味方の弱点もまた良く見える。連戦の疲労、糧食の欠乏、武具の不足、そして火計の代償として、これまで楼桑村を支えてきた防衛陣が使えなくなったこと。 次に敵が侵攻してきた時、もう小細工は効かない。正面からの戦力のぶつけ合いとなるだろう。その結果が敗北であること、これは大地を打つ槌が外れないことと同じくらい、確かなことであった。「それは相手次第でしょうねー。黄巾の将はきちんと逃がしたのですかー?」「うむ、徹底的に追い掛け回して、死を覚悟させる寸前で逃がしてやったぞ」 趙雲の言葉に答えたのは風ではなく、その傍らに立っていた稟であった。「なら、しばらくは大丈夫でしょう。もっとも、そう長い時間ではないと思いますが」 稟の言葉に、風が眉間に皺を寄せる。「むむー……」「どうしたのですか、風?」「……ぐー」「だから寝るなというに!」 拳をふりあげた稟の手を、趙雲が苦笑しつつ押さえる。「星殿?」「不眠不休で罠をつくっていたのだ。さすがに、風も疲れているのだろうよ」 言われてみて、稟はようやく、目を閉ざした風の顔に、疲労が色濃く残っていることに気づく。「――そうでしたね。それに気づかぬとは、私もいささか平常心を欠いているようです」「まあ、仕方なかろう。ここまで戦力差のある戦いなど、さすがの私もはじめてだ。心身ともに、常の戦以上の負担がかかって当然」 そういう趙雲に、稟は小さく微笑みを向ける。「貴殿は、まるでいつもと変わらぬように見えますが」「これは心外な。私とて年若き乙女の1人、疲れもするし、全てを忘れて眠りたくなる時もある」「ふふ、これは失礼を」 2人は顔を見合わせ、同時に笑い声をあげた。◆「あらあら、楽しそうね、2人とも」 そう言いながら姿を現した女性を見て、趙雲らがわずかに畏まる。 勇将趙雲をして、畏怖せしめるような威厳の持ち主――ではなかった。年齢は趙雲らよりはるかに上で、それこそ母と子と言っても良いくらいに離れている。だが、その楚々とした容貌と、他者に安らぎを与える笑顔は、年齢の高低に関わり無く、人を惹きつけずにはおかなかった。 この人物、姓は劉、名は佳という。 趙雲には、この劉佳という人物に対して絶対に頭が上がらない理由があったりする。それは……「子竜殿、貴殿の度々の奮戦、楼桑村の者として、心より感謝いたします。その勲に、このような物で報いるのは、まことに心苦しいのですが……」 そういって差し出したものを見て、趙雲の目の色がかわった。それはもう、速やかに。「何を言われますか! 劉佳殿の作ったメンマの価値は、それこそ幽州一州に匹敵するほどのもの。賊将を討ち取った功績程度、メンマ一切れで十分と申し上げたい!!」 烈火の如き勢いで主張してくる趙雲に、劉佳はとても嬉しそうに微笑んだ。「ふふ、子竜殿ほどの人物にそこまで褒めてもらえると、年甲斐もなく頬が緩んでしまいそうです」 横で聞いていた稟が小さくため息を吐く。「……劉佳殿の料理の腕に異議を唱える心算は毛頭ないのですが、メンマ一切れと同等と断言されてしまった敵将が、少々あわれに思えますね」「星ちゃんの感覚は独特ですからねー。星ちゃんにかかれば、天下の一州も、メンマで例えられてしまうのです」「おや、風、目が覚めたのですか?」 風はちょっとだけ不機嫌そうだ。「耳元でメンマメンマと叫ばれたら、寝ていられないのですよー」 それを聞き、趙雲が軽やかに笑い声をあげる。「はっは、すまんな、風。メンマを見て動かざるは趙子竜にあらざるなり。ましてや劉佳殿の一品を見ては、平静を保ってはいられぬのだ」「ふむふむ。いずれ星ちゃんと戦う時が来たら、メンマの壷を並べ立て、罠に誘導するようにしましょー」「むむ、たしかにそれはつけ入る隙のない作戦だな」 深刻な表情で考え込む趙雲に、稟は眼鏡の位置を直しつつ、呆れたように――いや、真実あきれながら、ぼそりと呟いた。「いえ、隙だらけですから」 そんな3人の様子を、劉佳は微笑みながら見守っていた。 そして、頃合を見計らい、風と稟の2人にも頭を下げる。「程立殿にも、戯志才殿にも、村のために尽力いただき、感謝にたえません。重ねてお礼を申し上げます」 頭を下げられた稟――戯志才は、恐縮したように首を横に振った。風――程立も同様である。 2人とも、趙雲とは似て非なる意味で、劉佳には頭が上がらない気分になるのである。それは、武勇や才略ではなく、人としての経験、器の差であったろうか。 劉佳は趙雲が楼桑村に留まる理由をつくり、同時に年若い乙女である風や凛が考案した作戦に不安を見せた村人たちを、ただひと言で納得させた徳望の持ち主でもあった。 曰く「琢郡の県城を救ったのは、彼女たちと同じ年齢の、私の娘たちでしたよ」と。 娘の名は劉玄徳。義理の娘の名は関雲長、張益徳。 すなわち、劉佳こそ、桃園の誓いで結ばれた3姉妹の母親であった。◆◆ 趙雲に散々追いかけられる醜態を晒し、頼みの援軍と副将を一戦のもとに蹴散らされた張曼成の求心力は、黄巾賊の内部で地に堕ちた。追いかけられたのは作戦の上での行動だったが、実際、その作戦が功を奏さなかった以上、その事実は敗軍の将兵にとって何の意味も持たない。 これでは軍を指揮するどころではない、と張曼成は判断せざるを得ず、やむなく、楼桑村を遠巻きに包囲する態勢をとることにした。 張曼成はじっくりと敵を干しつつ、その間に指揮系統を整え、補給を受けた上で、再度の攻略を計る心算であった。 何十日かぶりに賊徒の攻撃から解放された村人たちは歓喜の声をあげたが、趙雲たちの表情が緩められることはなかった。むしろ、黄巾賊が持久策に出てきたことは、状況の悪化を招くであろう。すでに村の中に貯蔵していた糧食も少ないのだ。 くわえて、これまでの黄巾賊の襲撃はすべて撃退したとはいえ、楼桑村は多大な被害を受けている。命を失った村人も少なくない。 黄巾賊が糧食の尽きるを待って、再度の襲撃を仕掛けてくれば、今度こそ皆殺しの憂き目に遭ってしまうことは明白なのである。 彼我の戦力差が覆しようの無いものである以上、それは仕方のないことかもしれない。どれだけ戦術上の勝利を積み重ねたところで、最終的な勝利には到達しえる筈もない。 趙雲たちにできるのは、精々、やがて来る敗北の刻を、少しでも遠ざけることくらいしかなかったのである。 趙雲たちははじめからそれを知っていた。だからこそ、浮かれ騒ぐ村人たちの姿を見れば、心が痛む。 ほんのわずかな可能性としては、琢郡の官軍ないし他国からの援軍が来着してくれれば、包囲の輪を破ることも出来るかもしれないのだが……「まあ、期待するだけ無駄でしょうね。とくに琢郡は、主力が遠征に出ているとはいえ、あっさり県城を陥とされる体たらくですしー」 程立の言うとおりであった。そして、黄巾賊が各地で蜂起している以上、他所からの援軍が来る可能性も、かぎりなくゼロに近い。「星殿の御力で、黄巾の将は配下の将兵の信頼を大きく損なっているはず。部隊をまとめ直すには、しばらく時がかかるでしょう。その間に、何とか村人たちを逃す策を講じねばなりません」 戯志才はそう言うが、ここまで状況が限定されると、いかに優れた才能を持つ3人であっても、策をほどこす余地がほとんど残っていなかった。 無論、だからといって諦める心算など、3人には欠片もなかったが。「ここまで不利な戦というのも、また一興といえるかもしれん。罪無き村人たちとメンマのため、この趙子竜の武、黄巾の賊徒どもに知らしめてやらずばなるまい」「ええ。メンマはともかくとして――民草を踏みにじる無道な賊が、天下を横行するなど許されません。それに、この村が抜かれれば、次は遼西郡の民が踏みにじられてしまう。断じて、負けるわけにはいかないのです!」「稟ちゃん稟ちゃん。そんなに熱血すると、また鼻血が出ちゃうかもしれないのですよー」「風!」 戯志才が声を張り上げ、程立に向かって拳を伸ばす。 程立は素早く趙雲の後ろに隠れようとしたのだが――その目が、遠く、黄巾賊の陣中に沸きあがった砂塵をとらえた。やがて、その砂塵をかき分けるように、一直線にこちらに向かってくる騎兵の姿が見て取れる。 数はおおよそ30騎といったところか。「おや、何だか稟ちゃんみたいに熱血してる人がやってきますよー」 程立の言葉に、趙雲と戯志才は同時に頷いた。「ふむ、あの重囲を寡兵で破るとなると、なかなかの武勇だな」「敵の策略かもしれません。油断はできませんよ」 それは十分にありえることだったから、趙雲は村人たちに警戒するよう伝えようとする。 だが、近づいてくる騎兵の顔が目視できるまでになった時、趙雲は完全に警戒を解いていた。「ふむ。ようやく洛陽から戻ってきたようだな」 趙雲の視線の先には、かつて県城で顔を合わせた者たちの姿があったのである。◆「母さん、母さん、母さん! だ、大丈夫だった?! 怪我は無い?! あ、元お爺ちゃんは平気なの?! そうだ、お向かいの麗華ちゃんは無事?! それから、それから、えーと……」 慌てふためいて母親や、近所の人たちの心配をする劉備に、母である劉佳はたしなめるような視線を向ける。「これ、桃香。少し落ち着きなさい」「でもでも!」「もうあなたは一軍の将なのだから――この村で暮らしていた時と同じままでは、いけませんよ」「う……」 劉佳の声は穏やかなものであったが、娘を諌める言葉には確かな芯が感じられた。 その劉備の隣では、張飛が不安そうに劉佳を見上げている。「母者、本当に大丈夫なのか?」「ええ、大丈夫よ、鈴々ちゃん。趙雲殿たちが私や村の人たちを、しっかりと守ってくれましたからね」「ふあー、よかったのだー!」 ほっと胸を撫で下ろす張飛の隣では、こちらも、ほっと安堵の息を吐く関羽の姿がある。「ご無事で何よりです。助けに参るのが遅れまして、申し訳ありませんでした」「あなたたちが叶う限り急いで駆けつけてくれたということは、あなたたちの格好を見ればわかりますよ。ありがとう、愛紗ちゃん」 幾度目かの報告で楼桑村の危難を知った劉家軍は、騎兵のみを選抜して、取る物もとりあえず、村まで駆けつけてきた。劉佳は軍事に関しては素人であったが、汗と砂塵に塗れた劉備たちの姿を見れば、その騎行がどれほど急で、過酷なものであったかは一目で理解できたのである。 母娘の再会が一段落すると、今度はもう1つの再会が劉備たちを待っていた。「お久しぶり、と申すべきですかな。琢郡の県城で別れてから、さほど時が経ったわけではないのだが」 趙雲が口を開く。「そうですね。私もまさか、子竜さんが私の村にいるなんて思ってもいませんでしたよ」 劉備はこの予期せぬ再会を心から喜び、そして母と村人たちを助けてくれた礼を述べる。「なんの、ご母堂には色々と世話になりもうした。それに、黄匪どもの横暴を黙ってみているわけにもいかぬ。礼を言われることではござらぬよ」「――とさわやかに言う趙子竜だが、実はメンマのために戦ったとは、誰が知ろうや。いや誰も知らないであろー」 程立が茶々をいれると、劉備の目が丸くなった。「へ? メンマ?」 趙雲が、ごほんとわざとらしい咳をする。「――風よ、余計なことは言わんでよろしい」「了解ですー」 顔に?マークを浮かべながら首をひねる劉備に、戯志才が苦笑しつつ声をかける。「貴殿が、幽州に誉れ高い劉玄徳殿であられるか。私は戯志才と申す。お目にかかれて光栄です」「ふぁ?! い、いえこちらこそ光栄です――って、あの、誉れ高いって、私がですか??」「ええ。黄巾賊の大軍を蹴散らし、琢郡を救った乙女たちの武勲は、今や幽州に知らぬ者などおりますまい。不才も、1度、お会いしたいとかねがね思っていたのです。実は此度、我らがこの地を訪れたのも、それが一因でありました。まさか、時を同じくして黄巾党が一斉蜂起するとは思っておりませんでしたが」「そ、そうだったんですか。じゃあ、戯志才さんと、あと、えーと……」 劉備の物問いたげな視線に気づき、程立が小さく頭を下げる。「姓は程、名は立、字は仲徳と申します、ですよ」 劉備は自らも名乗り返すと、改めて戯志才と程立の2人にも頭を下げ、村を救ってくれた礼を述べた。「感謝の意は謹んで受け取らせていただきます。ですが――」「まだ、黄巾党を追い払ったわけではないですからねー。早急に今後の対策を決めておくべきかと。玄徳さんたちが包囲を突破したことで、敵さんも苛立っていることでしょうし」「心配は要らぬ。村を包囲している黄巾賊どもは、まもなく退くだろう」 戯志才と程立の言葉に答えたのは関羽であった。 2人だけでなく、趙雲も、その関羽の言葉に驚きの表情を見せる。「ふむ? 何故か、と問うてもよろしいか、雲長殿」「簡単なことだ。これは貴殿らのお陰でもあるのだが――今、県城はがら空きであろう?」 その関羽のひと言で、聡い3人は状況を察した。 趙雲たちが蹴散らした黄巾賊は、県城にいた軍。それが出払い、あまつさえ惨敗を喫した今、県城の守備兵力はわずかしかいない。そこを衝けば、県城を取り戻すことは容易であろう。「しかし、こちらの兵は足りるのですか? 聞けば、劉家軍は千に満たないとのことですが」「心配いらぬ。遼西の公孫賛殿の軍が翼賛してくれているからな」「そうそう。鈴々たちがいなくても、おっちゃん(簡擁のこと)や孔明たちなら楽勝なのだ」「うんうん、一刀さんや士元ちゃんもいるし、伯珪の援軍がなくても勝てるくらいだよね」「――さて、それはどうかと思わないでもないですが……」「もー。愛紗ちゃんてば、素直じゃないんだから。本当にそう思ってるなら、愛紗ちゃんはここじゃなくて、城攻めの方にいってるでしょ?」「む……そ、それは」「にゃはは。愛紗はおにいちゃんのことが絡むと、途端に辛口になるのだ」「り、鈴々ッ?! い、いきなり何を言うのだ、おまえは!!」「そしてそれを指摘すると怒りんぼになるのだ♪」「――――ッ!!!」 張飛のからかいの言葉に、関羽は顔を真っ赤にさせて反論しようとするが、口がぱくぱくと開閉するのみで、肝心の言葉は全然出てこなかった。「あはは、愛紗ちゃんの負け~♪」「桃香様ッッ!!!」 劉備のとどめのひと言によって、関羽の絶叫が、あたり一帯に響き渡った……◆◆ どこか遠くから、聞きなれた声が聞こえてきたような気がして、おれはあたりを見回した。 だが、おれの目に映るのは県城の城壁だけだ。はて?「どうかされたか、北郷殿」「いや、なんか関将軍みたいな声が聞こえたような気がしまして」 不思議そうな顔で訊ねてきた人物に、おれは小さく頭を振って答えた。「関将軍は、楼桑村に行かれたはず。ここにはいないかと思いますが」「そうですよね? いや、すみません、気のせいだったみたいです」 おれが頭を下げると、いやいや、とその人は小さく笑みを浮かべた。「出来れば、このような時は玄徳様や関将軍にいてほしいものですからな。北郷殿が聞いた声が、まことに関将軍であれば、私も心強いのですが……」 それを聞いて、おれは苦笑する。「駄目ですよ、陳将軍。劉家軍を率いるのは、今はあなたなんですから、そんな弱気な発言を兵が聞いたら、士気にかかわります」「むむ、確かにそうですな。しかし、玄徳様も、どうして私ごときにこのような大任をお与えくだすったのやら。私は武器を振るうしか能の無い人間、将軍などという責務には向かぬと思っているのですが」 心底不思議そうな顔をするその人物から、おれはわずかに視線をそらせた。 実は、この人物を玄徳様に強く推したのはおれだったりするのである。だが、それを口に出してしまえば、さすがに恩着せがましく聞こえてしまうだろう。 それに、旗揚げ当初から、目立たぬながらも堅実な働きぶりを示してきたこの男のことは、玄徳様や関羽もすでに気がついており、おれが口を出さなくても、いずれ抜擢されていたことは間違いない。そのことは自信をもって断言できる。なぜならば―― おれと会話を交わしているこの人物こそ、姓は陳、名は到、字は叔至。 正史において「趙雲に亜ぐ(趙雲に次ぐ)」と称えられた、蜀漢帝国でも屈指の勇将なのである。◆ そんな有名どころが、なぜ演義では登場しないのか。それはおれにもわからないが――あるいは、影の薄さが原因かもしれない、とこっそり思ってしまったり、しまわなかったり。 陳到は、戦闘では勇敢に戦うのだが、日常ではいたって気弱で、自己主張というものをしない人物なのである。年齢的には、もう壮年といってもよいくらいなのだが、この武勇がありながら、いまだに一兵士の身に甘んじているのは、その性格が災いしてのものだろう。 もっとも、当人は別に出世や名声には興味がないらしく、自分の境遇に不満を持ってはいないようだ。 ただ、それは無気力や、怠惰とは一線を画する。劉家軍に参加したことが、何よりの証。この乱世を憂う気持ちは、玄徳様や関羽たちと遜色ないものだった。 だからこそ、おれが陳到を抜擢できないだろうか、と提案した際、反対する者は皆無だったのである。 ちなみに、おれが陳到の存在に気づいたのは、単なる偶然だった。おれは戦場には出ないので、戦闘時の勇戦ぶりなど知る由もなく、陳到とはこれまで何度か顔を合わせたことがあったが、影の薄い人だな、くらいの感想しか持っていなかった。 切っ掛けは先日の孫堅軍との邂逅であった。あの時、玄徳様の護衛をしていた5名の兵士の1人が、陳到だったのである。で、孫策らと別れた後、何となく会話をして、はじめて名前を知った次第であった。 その時、おれの脳裏にはかの有名な曲が流れたのである――あら、こんなところに牛肉が♪ 幽州へと戻る際、不落の村の噂を知ったおれたちは、ようやくそこで楼桑村が危機に陥っていることを知る。楼桑村には玄徳様の母君である劉佳様がおられるし、劉佳様以外にも、旗揚げ前も、後も、お世話になっている人たちがたくさんいる。何より、玄徳様にとっては生まれ故郷だ。 ただちに救援を、という玄徳様の言葉に、反論する者はいなかった。 だが、このままの速度で行軍した場合、間に合わない可能性があった。不落と謳われる原因は、村にいる勇将のお陰らしいが、たった一人で、黄巾の大軍を押し返せる筈もなく、最終的には陥落を余儀なくされるであろうからだ。 したがって、騎兵のみで先行するという案が採択された。そして、そこに劉佳様を案ずる玄徳様や関羽、張飛らが加わるのもまた当然の流れであったろう。 馬に乗れないおれは論外として、騎馬の強行軍に耐えられそうもない諸葛亮や鳳統も、この先行部隊からは外されたのである。 問題となったのは、玄徳様、関羽、張飛が先行部隊に加わると、劉家軍の本隊を率いる将帥がいなくなるという点であった。 当初、玄徳様は簡擁か、あるいは諸葛亮に任せるつもりだったようだが、これは2人に反対された。軍を進めるだけならばともかく、幽州領内ではどのような作戦行動が求められるか、予断が許されない。ここはやはり、武官、武人たる人に任せ、諸葛亮らはその補佐に廻った方が良い、と。 とはいえ、劉佳様のこともあり、時間はかけておられず、今から、誰かを探し出すことはできない。苦悩の色を見せる玄徳様に向かって、おれはこう言ったのである。「陳叔至という人を知ってますか?」と。◆ これは結果論なのだが、この決定は劉家軍にとって大きな利をもたらした。 情報を収集したおれたちは、幽州の黄巾賊が楼桑村近辺に集中していること、そして県城から新たに楼桑村への援軍が出され、県城ががら空きになったことを偵知する。 普通であれば、5百に満たない軍で城を陥とすなどできようはずもないが、劉家軍が幽州の県城を陥落させようというのであれば、話は別だ。なんといっても、県城は、劉家軍の功をもっとも人々が知っている場所なのである。当然、その人気も高い。くわえて公孫賛からは、軍の一部を割いてもらっている。負ける要素を探すのが難しいくらいのものであった。 実際、県城の攻撃は速やかに、かつ整然と進められ、劉家軍は難なく県城の奪還を成し遂げたのである。これについては、諸葛亮らの策略や、城内の民衆が呼応してくれたことも大きかったが、何より最前線で奮闘する陳到の功が第一であった、と断定しても異論は出まい。 総帥が簡擁や諸葛亮でも、城を陥とすことはできただろうが、あれほど速やかに陥とすことは出来なかったにちがいないのである。 今や、関羽、張飛に次ぐ劉家軍第3の将となった陳到。 だが、当人はその自覚があまりないようで、未だに自分が将軍という立場にいることに首を傾げている始末だった。 しかし、どれだけ当惑にとらわれていようとも、将軍のところにはやらなければいけないことが、山のようにやってくる。 短い間とはいえ、黄巾賊の支配を受けていた県城は治安が悪化し、略奪や破壊の名残が各処に残っている。 県城に残っていた劉焉配下の高官の多くは、黄巾賊との戦いで討ち死にするか、あるいは敗北後に逃亡しており、以前のように官に掣肘を受けることはなかったが、それは逆に全ての責任が劉家軍の肩にかかってくることを意味した。 城内の混乱を一掃し、遠からず攻め寄せてくるであろう黄巾賊に対抗するため、軍備を整え、城壁を修復し、兵を募る。 そのために、陳到は首を傾げる暇もない忙しさに放り込まれることになるのだった。 そんなことを考えているおれに、諸葛亮から噛み付くような叱責が飛んでくる。「何を他人事のように言っているんですか! ほら、一刀さんも働いてください!」「は、はい!」 おれの返事を受け、鳳統が指示を下す。「……じゃあ、これとこれと、あとそれと、そうだ、あれとあれもお願いしますね」「……あの、士元。そんなに並べられても、おれの頭では覚えきれな……」「……お願いしますね?」 潤みを帯びた瞳に見上げられ、おれは反射的に声を張り上げていた。「イエス、マム!」「いえすま、む??」「わかりました、ということだ。じゃあ、早速いってきます!」 脱兎のごとくその場を走り去るおれを見送りながら、鳳統はなおも首を傾げていた。 劉焉や、その周囲の高官たちはどうしようもない連中だったが、中級以下の官吏たちの中には、能力と志を併せ持った者たちも多かったらしい。黄巾賊の弾圧から逃れ、市井の中に隠れていた彼らは次々と劉家軍に協力を申し出てきてくれた。彼らのお陰もあって、県城を守る劉家軍の勢力は良質の膨張を遂げ、たちまち3千まで膨れ上がった。幽州の黄巾賊との戦力差は未だに大きいが、県城に篭る限り、そうやすやすと敗北することはないだろう。 かくて、県城を掌握した劉家軍。これを前にしては、幽州における根拠地を奪われてしまった黄巾賊は、もはや楼桑村のような小さな村に拘泥することは出来ず、引き返すしかあるまい。幸いにも、あちらからは急報はなく、いまだ楼桑村は健在であることは確かなのだ。 あとは、県城に篭って黄巾賊の攻撃をあしらいつつ、その後方を玄徳様たちがひっかきまわせば、大軍とはいえ黄巾賊など恐れるに足らない。易京城に戻る予定の公孫賛も、遼西の黄巾賊を一掃し次第、こちらに援軍を向けてくれると約束してくれている。 必勝とは言わないまでも、高い確率で勝利はこちらのものとなるだろう、とおれは考えていた。ただ、1つだけ心配があった。「問題は、黄巾賊が持久戦に出たときなんだよなあ……」 城壁の上から、遠く楼桑村の方角を眺めつつ、おれはひとりごちる。 県城には、当然ながらたくさんの民衆が生活している。しかも、黄巾賊の略奪で城内の物資は不足気味であった。物資の多くは、賊将の趙弘が持って出てしまったのだ。 無論、城の倉庫に残っていた分に関しては民間へ供出するようにしているが、今後の戦いを考えると、少しでも節約しておきたいところ。だが、それも過ぎれば、今度は民の不満が劉家軍に向けられてしまうだろう。 願わくば、黄巾賊が強攻策に出ることを期待したい。そうすれば、城壁を盾にして有利に戦える。だが、敵が持久戦に出てきた時は……「『あの手』を使うしかない、か」 そう。張家の3姉妹を敵にまわす、禁断の挑発戦術を再び!「……出来れば、それは避けたいよなあ」 心からの呟きを発するおれ。 脳裏に浮かぶのは、にこにこ笑いながら、得体の知れない鬼気を漂わせる張角や、目を吊り上げて怒る張宝、そして見た目穏やかながら、退路を塞いでから容赦なくとどめを刺しに来る張梁の姿である。 ただ、彼女らの姿を思い出したおれが覚えた感情は、恐怖ではなく、懐かしさだった。 思えば、予期せぬ騒動で黄巾の陣地を抜け出したから、別れの挨拶1つしていないのである。その後も、しすたぁずの活躍の噂は聞いているから、おれがいなくなったところで問題はなかったのだろう。だが、それとは別に、あの3人には色々と恩義がある――まあ、同じくらい貸しがあるような気もするが――ので、その恩義に報いることなく、黙って姿を消してしまったのは、やはり褒められた話ではないだろう。 今回の黄巾賊の一斉蜂起に、党首たる彼女らが関わっていない筈はない。というか、むしろ関わっていてほしい。 仮に関わっていないのだとすれば、それこそ問題だからだ。それは、黄巾党の将軍たちが、張角たちを担ぐのをやめたことを意味するからである。そうなっていたら、彼女たちを待つのは、ろくでもない未来だけだろう。県城に篭っているおれには、手を差し伸べようもないしな。 いささかとりとめもないことを考えていたおれは、視界の隅で砂塵が立ち上ったことに気づいた。「ん?」 楼桑村の方角ではない。東南の方角だ。冀州方面の黄巾賊の部隊が来襲したのだろうか。 見張りの兵士もすぐに気づいたのだろう。城内に緊急事態を知らせる銅鑼が鳴り響く。とはいえ、城壁近くに住んでいた人々は、すでに城の内部へと住居を移し変えている。あとはあらかじめ布告していた避難場所に民衆を誘導するだけで、城内の戦闘準備は完了するのである。 城内の指揮所に、陳到をはじめとした劉家軍の面々が集う。おれもその末席に腰を下ろした。 やがて、斥候から状況が報告されたが、その報告は誰もが予期しない奇妙なものだった。「同士討ち、ですか?」「は、はい」 諸葛亮の問いに、斥候みずからも戸惑ったような顔で、見たままの様子を答えた。「こちらに近づきつつあるのは、頭に黄色い布を巻いた黄巾賊とおぼしき者たちです。それは間違いないのですが、その後ろから彼らを追い立てている者も同じ装束なのです。ただこちらは多くが騎兵であり、甲冑も美々しく揃えており、黄巾賊の主力かと思われます!」「……他に、何か気づいたことはありませんか?」 鳳統の問いに、斥候は「強いて言えば」と付け加え、「追われている側なのですが、装備は追っ手と比べて粗末なのですが、士気はきわめて高く、武威に優る相手に対して頑強に抵抗しておりました。おそらく、相当に人望の厚い人物が指揮をとっていると思われます」 その報告を聞きながら、おれは首をかしげた。 黄巾賊の指揮官で人望が厚い、か。おれの知る限り、程遠志亡き今、大方は張曼成と波才のみ。張曼成は楼桑村にいるから、あとは波才だけなのだが、あれは人望という言葉の対極に位置する人間だ。 おれがいなくなった後、台頭してきた人物がいれば話は別だが、大方以外に、黄巾党の中でそこまでの人望を備えているのは、それこそ党首か、その妹たちくらいしかいないのだが――「まさか、な」 おれは、自分の着想に小さく首を横に振った。 まさか、3姉妹が軍を率いて戦場に出てくる筈はあるまい、と。