幽州へと急ぐ公孫賛軍に追随する形で、劉家軍は進軍していく。 場合が場合だけに、ほとんど休息なしの強行軍であった。 馬に乗れないおれは歩卒と共に移動しているのだが、やはり休憩なしの行軍はかなりきつい。食料がかなり切迫してきたのも頭の痛いところだ。 ――だが、今のおれにとって、そんなことは瑣末なことだった。「あの、玄徳様……」「何でしょうか、北郷一刀殿?」 ものすごい他人行儀な劉玄徳。「あの、関将軍?」「おや、北郷一刀殿。まだこのような無名の義勇軍におられたのか?」 取り付く島もない関雲長。「あの、孔め……」「あ、雛里ちゃん、急がないと」「……うん、そうだね、朱里ちゃん」 話しかけることさえ拒絶してくる軍師2人。 何故だか洛陽を出てからずっとこんな感じなのである。 ……いや、冗談抜きで、胃に穴が開きそうなんですけど。一体おれが何をした?!「ふーん、本当に心当たりがないのかな、北郷一刀殿?」 実にイイカンジの笑顔で問いかけてくる玄徳様。 うう、顔は笑ってるけど、目が笑ってないですよ…… 為す術がなくなったおれは、洛陽での最後の日の出来事を思い出す。 多分――いや、間違いなく原因はあれだろうなあ、と思いながら。◆◆「本当にお世話になりました」 そう言って、黒髪の乙女――高順は頭を下げた。 劉家軍が河北に帰ることをうけ、高順は動物たちを連れて別れることになったのである。 洛陽で探さなければならない人がいるから、というのが高順の別離の言葉だった。それは偽りではないだろうが、怪我のこともあり、強行軍に耐えられない身を憚ったのかもしれない。 とはいえ、負傷の身で、たくさんの動物たちを引き連れ、人を捜し歩くというのも大変だろうから、出来るかぎりの協力を、と申し出た。おれたちが残ることはできないが、蔡邑や蔡文姫らに頼めば、1人で探すよりはマシだろう。 だが、これは高順に困った顔で拒絶されてしまった。はっきりしたことは言わなかったが、高順が探している人というのは、あまり公にされては困る人らしい。ならば、せめて高順と動物たちが安全に暮らせるところ――食料がない場合、犬猫といえど、飢えた人々に狙われかねないのだ――を世話してもらおうと、玄徳様を通じて、蔡邑たちに話を通してもらった。 すると、そういうことなら、と蔡邑は自邸の一部を快くゆずってくれたのである。大火の際、蔡邑邸周辺は劉家軍の活躍もあり、火災を免れていた為、その恩義に報いたいとのことであった。「うう、名残惜しいのだ」「ぱおーん……」 張飛と子象が別れを惜しむ場面があり。「ワンワン!」「うむ、達者でな」 関羽とセキトが互いの無事を祈り(?)。「此度の御恩は決して忘れません。いつか、またお会いできたとき、必ずや御恩返しをいたします」「困った時はお互い様、だよ。それに高順ちゃんも怪我しているっていうのに、炊き出しや子供たちの世話で私たちを手伝ってくれたんだし、助けられたのはこっちも同じなんだから、そんな堅苦しいこと言わないで」「ですが……」 高順が、玄徳様とおれに頭を下げた。 そのお礼に、玄徳様は頭を振るが、高順は納得いかない様子である。短い付き合いでわかるくらい、高順は義理堅い性格なのだ。 玄徳様はそんな高順の様子を見て、腕組みして、考え込む。「うーん、それじゃあ……あ、そうだ! もし、どうして恩を返すっていうんだったら、今度会う時まで無事でいること!」 どうかな? と問うように高順に微笑む玄徳様。 高順はつかの間、言葉を詰まらせた。こんな時代だから、またいつか会おう、という約束はとても重い意味を持つ。玄徳様は敢えて、再会の約束を、恩を返す、という高順の気持ちに重ね合わせた。 再び出会うときまで、絶対に無事でいてほしい、という願いを込めた申し出を、高順が断れる筈もない。「必ずや」 そういって、握手する2人の乙女。 うむ、絵になる光景だのう。 おれが惚れ惚れとその情景に見入っていると、不意におれの頭上に日が翳った。「あらん、再会を誓い合う麗しの乙女が2人……なーんて美しい光景なのかしら」 振り返りたくはなかったが、振り返らざるを得なかった。 そして、振り返ったおれは、予想通り、そこに絵にならない男が立っていることを知る。「――貂蝉、何か用か?」「冷たい言葉ねん。用が無ければ、私が話しかけては駄目なのかしら?」「うん。できれば遠慮してくれ」 おれが躊躇なく頷くと、貂蝉は両手で胸を押さえて立ちすくむ。「ああ、その冷たい言葉と態度が、私の胸を貫くわ。ずきずきとうずく、この感情……はッ?! まさか、これが恋のト・キ・メ・キ?」「絶対違う!!」 貂蝉のたわ言に、おれは断固として首を横に振る。 が、貂蝉は委細構わずおれにしなだれかかるような仕草を見せ――というか、実際にしなだれかかってくる。「だー、やめい! んな筋骨隆々の身体、支えきれんわ!」「むふふ、それこそ狙い通りだとしたら?」「――はッ?! まさか既成事実をつくるつもりか」「そのとぉおおり! 先んずれば人を制すとはこのことよ!」 ずずいっと迫ってくる貂蝉の巨体から逃れようとするが――すでに敵の間合いの中か!「ちぃ、しまったッ?!」「逃がさないわよ、ダーリン♪」 おれと貂蝉は互いに腰を落とし、次の行動に備える。 おれは逃げるために。貂蝉は追うために。 その半瞬前、2人の視線がぶつかりあい、火花を散らし――そしておれたちがまさに行動に移ろうとしたその瞬間。「何をやってるの、そこのバカ2人! 月に変なもの見せるんじゃない!」 閃光の如き賈駆の蹴りが、おれと貂蝉の脛にくわえられた。 おれはたまらず地面につっぷしたが、貂蝉は平然としたものだ。その差が、鍛え方の違いにあるのは明白であった。「あらあら、詠ちゃん。人の恋路を邪魔しちゃ駄目じゃない?」「……恋路じゃないやい」 痛みにもだえながらも、そこだけは訂正するおれ。 当の賈駆は冷たい眼差しでおれたちを一瞥するだけであった――が、捨てる神あれば拾う神あり。「だ、大丈夫ですか?」 董卓が慌てておれの傍らに駆け寄って来て、心配そうな眼差しで問いかけてくる。「え、ええ、なんとか……」 可憐な少女の円らな眼差しで見つめられれば、いつまでも痛がっているわけにはいくまい。主に見栄のために。「月、ほっときなさい、そんな奴ら」 賈駆が言い捨てるが、董卓は首を横に振る。「詠ちゃん。貂蝉さんも、北郷さんも、私たちを助けてくれた人たちなんだよ。そんな風に失礼なことを言っちゃ駄目だよ」 賈駆は視線を逸らせ、呟くように口を開く。「別に、私たちが助けてって頼んだわけじゃ……」 ないわよ、と続けかけて、賈駆はハッとしたように董卓を見る。「……詠ちゃん?」 そこには悲しそうな目をして、賈駆を見つめる董卓の姿があった。 瞳に涙さえ湛えるその様子を見て、賈駆は慌てて前言を翻す。「わ、わかったわ、わかったから。もう失礼なこと言ったりしないから、ほら、月、泣かないでってば!」 懸命に董卓をなだめている賈駆。間近で見ると、この少女が、どれだけ董卓のことを大切に思っているのかが良くわかった。 董卓たちは、その素性ゆえに、高順とは逆に、洛陽に留まることが出来ない。民であれ、諸侯であれ、その正体を悟られれば、間違いなく極刑が待つのみであるからだ。 それは同時に、董卓の故郷である涼州に帰るという手段を失うことをも意味していた。董卓が涼州に戻ったと知られれば、諸侯に侵略の絶好の口実を与えることになってしまうのは明らかなのである。 とはいえ、これまで宮中で暮らしてきた2人が、いきなり市井に放り込まれて生活していくのも難しいだろう。董卓は案外、適応しそうな気もするが、賈駆はいろんな意味で無理っぽい。 というわけで、2人は劉家軍に留まることになった。無論、正体は隠して。 もし、董卓たちのことを誰何されたら、洛陽で家を失った少女2人を助け、陣中に伴ったと言いぬける予定である。不自然な点はあるにしても、言い訳としては成り立つであろう。 董卓の正体を知るのは、劉家軍の中心にいる人たちのみだが、客将という立場上、公孫賛には知らさないわけにはいかなかった。 董卓の顔は、多くの人に知られている。どこから秘密が漏れるかわからない以上、最悪の事態を想定しておかなければならない。最悪の事態――劉家軍が董卓を密かに匿ったと知られれば、諸侯から袋叩きに遭ってしまうだろう。そして、劉家軍を客将として迎えてくれた公孫賛は、間違いなく巻き込まれる。それどころか、公孫賛が首謀者だと思われる可能性は高い。 それゆえ、董卓を保護するに際して、何としても公孫賛の許しを得なくてはならなかったのである。 ちなみに、おれの中の公孫賛の評価は普通の人。 勇気も、義侠心も、武勇も、指揮も、政治も、全て可も無く不可もなし。ゲームで言うなら、知力武力政治力魅力オール70といった感じである。 断っておくが、バカにしているわけでは、決してない。ゲームならともかく、現実において、苦手分野がない、というのはとても大きな強みである。我が身を省みるまでもなく、公孫賛の能力と、それを自らのものとした努力は尊敬に値する。 しかし。 だからこそ、過度の期待をするわけにはいかない。公孫賛は玄徳様ほど優しくないし――というか、玄徳様並に優しい人なんて、そこらにいるわけない――諸侯としての立場や目的も存在する。董卓を匿うというリスクを犯すだけの利がない以上、異なる決断を下す可能性もあるのだ。 もしかすると、客将の地位を捨てなければならないかもしれない、とまでおれは考えていたのである。 だが、幸いにも、それは杞憂であった。 玄徳様から話を聞いた公孫賛は、最初こそ驚いていたそうだが、結局は董卓たちを匿うことを黙認してくれた。「まあ、玄徳は昔からそういう奴だったからな」 ため息まじりに、公孫賛はそんなことを口にしていたそうだ。玄徳様と昔馴染みの公孫賛は、何やら過去に何度も似たような苦労をしていたようである。 とはいえ、あくまで黙認であり、いざという時は覚悟しておいてくれよ、ときっちり釘を刺すあたり、やはり太守としての強かさは流石であると言える。 ともあれ、こうして董卓と賈駆、そして若干1名が劉家軍に加わることになった。 ……若干1名? あれ、どうして3人になってるんだ?「細かいことは気にしちゃ駄目よ♪」 残りの1名がしなをつくりつつ、そう言った。問い詰めたいところなのだが、誰もその役をつとめたがらず、結局……まあ、そういうことになったのである。 公孫賛の許可を得た上は、なるべく早く洛陽を去り、幽州に帰るべき、とおれたちは結論し、早々に出立の準備を整えた。 ところが…… 洛陽を発つ際、おれたちは思いもよらない危機に見舞われることになる。 董卓たちの姿を見咎められたのだ。それも、れっきとした諸侯の1人に。 その名を孫文台。汜水関を陥落せしめた、江東の勇将である。◆◆ 蔡邑邸で高順らと別れを告げたおれたちは、少し用事がある、といって姿を消した貂蝉を残して、洛陽城外の劉家軍の陣営に向かった――決して貂蝉を置き去りにしようとしたわけではない。貂蝉も了承済みである。念のため。 本来ならば、洛陽の中に董卓たちを連れて来たくはなかったのだが、董卓がどうしても、と頭を下げて同行を願い出てきたのだ。 賈駆の反対も聞き入れず、おれたちについてきた董卓は、途中、2人が匿われていた貂蝉の隠れ家に立ち寄ったのだが、そこで1つの髪飾りを手に戻ってきた。 賈駆からもらったというその髪飾りを取りに来たかった、という董卓に、賈駆は最初唖然とし、次いで盛大に文句を言い始めた。「そんなの、ボクに言えば済む話じゃない! 何も月が自分で来なくたって」「でも、危険なのは、私も詠ちゃんも大して変わらないでしょう?」「う。そ、それは……」 董卓の懐刀として、賈駆の悪名は董卓に勝るとも劣らない。賈駆は言葉に詰まった。「で、でも、それなら貂蝉に言えば……」「貂蝉さんにはお世話になってばっかりなんだよ? それなのに、私物を取って来て下さい、なんて頼めないよ。元々、私たちを匿ったせいで、洛陽で普通に暮らせなくなっちゃったんだから」「う……」 言葉を失った賈駆に、董卓は小さく微笑む。「大丈夫だよ。私だとばれないように、貂蝉さんが色々と手伝ってくれたんだし」 そういう董卓の服は、当然ながら、宮廷の官服ではなく、市井の民が日常的に着るものである。藍色を基調としたその服は、色合い的に目立たないが、董卓の慎みのある魅力を上手に引き出していた。もっとも、今の董卓は頭と左目を覆うように包帯を巻いているため、いつもの董卓に比べれば、その効果は半減していたであろう。 ちなみに包帯はおれの案である。董卓の服を見て、「会心の出来ね」と満足そうに頷く貂蝉に、おれが「魅力を引き出してどうする。余計目立っちゃうだろ」と突っ込みをいれた末の案であった。 先日の大火で大損害を受けたとはいえ、いまだ洛陽城内に暮らす人は少なくない。幸い、董卓はそういった人々の目にとまることはなく、無事に洛陽の城門にたどり着いたおれは、我知らず、ほうっと安堵の息を吐いていた。 ここまで来れば、あとは劉家軍の陣地まで、人目に触れるような場所はない。そう思ったのだが、安心するのは少しばかり早かったらしい。 厳しい誰何の声が、すぐ近くから発され、おれたちはつかの間、立ちすくむことになった……◆「繰り返しますが、この者たちは、我らが軍の一員。いかに孫家の将帥殿のお言葉とはいえ、身柄をお渡しするわけには参りませぬ」 関羽がそう言いながら、董卓と賈駆、2人の前に立つ。 関羽だけではない。その隣に並ぶように張飛が、そして顔を蒼白にさせた董卓の横には玄徳様が、それぞれ守るように付き添っている。 一方、董卓の姿を見咎め、その身柄の引渡しを要求してきた人物は、その関羽の言葉を聞き、あでやかに笑って見せた。「董卓の顔は、洛陽では童子でさえ知っておる。そなたらが知らぬとは思えぬがのう」 江東の虎とあだ名される女性は、鋭い視線を董卓に向ける。 抜き身の剣を突きつけられたような錯覚を覚え、董卓が小さく息をのんだ。 孫堅の隣にいる黒髪の女性――周瑜が、主君の言葉を引き継いだ。「それを承知で、己が軍に組み込むというのなら、相応の報いを受けることになろう。その覚悟あっての言葉なのだろうな?」「くどい。そも、いかなる権限があって、我が軍の者に疑いを差し挟むのか。我らは幽州の公孫賛殿の客将であり、貴殿らの下にいるわけではない。無礼な振る舞いは、それこそ相応の報いを受けることになるぞ」 その関羽の言葉を、周瑜は小さくあざ笑う。「一介の義勇軍が、我らに報復すると? 関雲長、呂布と戦ったことで増長したか。孫家の軍を相手どって義勇軍如きがまともに戦えるとでも思っているのか」「思っているとも。我らは大義を掲げて起ち上がった勇敢なる軍勢だ。相手を知ろうともせず、侮蔑の言を吐くような輩に遅れはとらぬ」 関羽の視線と、周瑜の視線がぶつかり、あたりには緊迫した空気が満ちる。 雑軍の将に過ぎない関羽の無礼な物言いに、孫堅を護衛する将兵の顔が怒気に染まっていく。 その数は名のある者だけで10人を越え、いずれも主の傍近くに仕えているだけあって、かなりの武勇の持ち主と思われた。 対する劉家軍は、まともに戦える将軍は関羽と張飛のみ。諸葛亮と鳳統、簡擁は陣地で出立の準備に追われているし、貂蝉は用事があるとかでいずこかに消えている。おれと玄徳様の腕は周知の通りである――おれは剣の腕だけなら、流石に玄徳様よりは上だが、殺し合いとなれば足手まといという意味で違いはない。 護衛の兵士たちは5人ばかりいて、他家の精鋭が相手でもおさおさ引けは取らないだろうが、いかんせん、数が相手の半分とあっては、太刀打ちの仕様がない。「まずいな……」 予期せぬ事態に、額に汗が滲む。まさかこんなところで、こんな人に見咎められるとは思ってもいなかった。 孫堅に周瑜。例の如く、歴史上の偉人たちは女性であったが、それは今さら驚かない。だが、こんなところで孫家の軍と敵対してしまえば、取り返しのつかない事態になってしまうだろう。それは防がねばならなかった。 とはいえ、どうするべきか。董卓を渡すことができない以上、向こうに諦めてもらうしかないのだが――おそらく孫堅は、董卓の身柄を袁術、あるいは曹操へ引き渡すことでなにがしかの利益を引き出す心算だろう。それに見合うだけの代償が無ければ、見てみぬ振りはしてくれまい。そして、そんな都合の良いものがある筈もない。 どうしたものか、と考え込みながら、おれは孫堅らに観察の視線をはしらせる。 孫堅と周瑜は、南方の人の特徴であるのか、浅黒い肌をしていた。 孫堅は外見だけ見れば豪放な感じだが、その鋭い視線と隙の無い身ごなしが、豪放さの中に細心さをも併せ持っていることを告げていた。 関羽と相対する周瑜は、関羽の威迫を受けても微動だにしない。ただその一事だけで、並々ならぬ胆力の持ち主と知れた。そして、深い知性を宿す眼差しを見れば、この周瑜が、おれの知る史実と同じく智勇兼備の人物なのだと確信できた。 その周囲にいる男女も、おそらくは後の呉を代表するような武将たちなのであろう。朱治とか、韓当とか、黄蓋とか。錚々たるこの面子と戦うようなことをすれば、関羽と張飛が揃っているとはいえ、ただで済む筈が無い。 ――そう思い、内心、あせりまくっていたおれは、彼らの中で、1人、この場の空気に染まらず、退屈そうにしている人に気がついた。 怒気と緊張に染まった孫堅軍の将兵の中にあって、その人は1人、何やらつまらなそうに欠伸なんぞしていた。 すらりとした長身に、豊麗な肢体。湖水のような瞳は吸い込まれるように深い色を帯び、いざ戦いともなれば、そこには溢れんばかりの覇気が満ちるのであろうと思われた。あと、すっごい美人である。何というか、玄徳様や関羽とは違う「大人な」女性という感じだ。 華やかで、瀟洒。涼やかで、苛烈。 そんな言葉が、自然に脳裏に思い浮かぶ。 いつのまにか、おれはその人に見蕩れていたらしい。おれの視線に気づいた相手が、小首を傾げて、問いかけてきた。「あら、私の顔に何かついてる? そんなじっと見ちゃって」「へ?! あ、いいえ、そうではないです。すみません、見蕩れてました」 やべ、と思った時には、素直にそんなことを口走っていた。この状況で何言ってんだ、おれは。 だが。 当の相手は、おれの言葉にぽかんとした顔をした後、小さく吹き出した。「あはは、この状況でそれを言う? あなた、なかなか肝が座ってるわね。それとも、空気が読めないだけかしら」「あ、あはは……多分、後者だと思います」 先刻までとは異なる理由による汗を滲ませつつ、おれは乾いた笑みを浮かべた。 やばい。素で慌てている。自慢ではないが、こんな綺麗なお姉さん的な人と話す機会なんぞ、元の世界ではなかったからなあ。 そして、相手はそんなおれの動揺を見抜いているっぽい。これまで退屈そうにしていた湖水の瞳に、悪戯っぽい輝きが宿る――「……え?」 不意に。 その様子に、既視感にも似た懐かしさを覚え、おれはつかの間、言葉を失った。 繰り返すが、おれは眼前の女性のような人と接点は皆無である。懐かしさなど、覚える筈がないのだが……?「あなた……どこかで逢ったことがあったかしら?」 見れば、目の前の女性も、おれと似たような訝しげな表情を浮かべていた。「いえ、そんなことはない筈ですが……?」「そうよねえ……?」 同時に首を傾げる男女2人。 不思議だが、互いに心当たりがない以上、考え込んでいても納得のできる答えは出てこないだろう。どうやら相手も同じことを考えていたらしい。小さく肩をすくめると、口を開いた。「まあ、考えていたって仕方ないか――私は孫伯符。あなた、名前は?」「北郷、一刀です」「え~と、ホンゴ、ウ、カズト? 変な名前ね」「す、すみません」 よくわからないが、相手の威厳に押されてあやまってしまうおれ。 いや、待て、それよりも今、何か重大な名前を聞いたような気が……って、孫家の軍に孫策がいたって、今さら驚くことでもないか。 しかし、あれだね。なんでこう、みんな揃いも揃って綺麗な人ばかりなんだろう。まあ、演義では醜男だと書かれている鳳統が、あんな美少女になってるんだから、そこは疑問に思ってはいけないのだろう。いや、あれは病気の名残のせいだっけ? とすると、この後、鳳統は何か大きな病気にかかってしまうのだろうか。これは要注意だ。 おれが、そんなことをあれこれ考えつつ、孫策と話をしていると。「北郷殿……」「雪蓮……」 いつのまにやら、周囲からは呆れたような視線が、おれたちに向けられていた。 ――まあ、緊迫した空気の中、のんびり自己紹介を始めれば、それは注目されるよなー、あははは……「――すみませんでした、関将軍!」 電光石火の勢いで、腰を90度曲げるおれ。 今まさに雷を落とそうとしていた関羽は、機先を制され、口をぱくぱくと開閉させた。 一方の孫策は、というと。「だって~、退屈だったんだもん」「だからといって、これから矛を交えるかもしれない相手と和まないで頂戴」「やめときましょうよ。冥琳だって見てたでしょう。劉家軍の関羽といえば、あの飛将軍 呂布とまともに戦った相手よ? こっちに何人犠牲が出るか知れたものじゃないわ。董卓の身柄を奪ったって、大事な将兵を喪ったら意味がないでしょう」 周瑜と何やらやりあっているところだった。 話を聞くかぎり、孫策は董卓の身柄には興味がないようだ。そして、孫策の言に、孫堅軍の将兵の間からわずかなざわめきが起こる。 関羽の名はすでに連合軍に参加した将兵の間で知らぬ者はないくらいに高まっているが、その容姿については、様々に語られていた。 曰く、背は巌のごとく高く、その身体は筋肉で覆われた巨躯の女傑である、とか。 虎も裸足で逃げ出す凶悪の面相をした年嵩の女怪である、とか。 いやいや、そうではなく、花も恥らう小柄で可愛らしい女の子であった、とか。 関羽本人が聞けば、色々な意味で顔を真っ赤にしそうなものばかりである。あの呂布とまともに戦ったという武勲は、関羽という名に色眼鏡を付けずにはおかなくなってしまったのだろう。 その意味では、孫堅軍も例に漏れなかったらしい。眼前にいる乙女が、あの関雲長なのだと知り、歴戦の将兵に動揺がはしっていた。「策、余計な口出しをするのはおやめなさい」 苦い口調で孫策を遮ったのは、孫文台その人であった。なるほど、改めてみるまでもなく、この親子、良く似ている。もっとも、母娘というより、姉妹という感じではあったが。「はーい――と言いたいところなんだけど。母様、これ以上、欲を出しても仕方ないんじゃない?」「別に欲を出しているわけではないわよ。董卓は此度の乱の首魁。これを捕らえるは、連合軍の一員として当然のことではないの」「かりにこの子たちが董卓で、その身柄を奪ったとして。その身柄は袁術に差し出すの? 汜水関での恨みは帳消しになるかもしれないけど、袁術の勢力は今より肥ることになるわよ。袁紹にせよ、曹操にせよ、袁術の功績を認めざるを得なくなるわけだもの」 孫策の言葉はさらに続く。「逆に孫家が先に袁紹なり曹操なりに董卓の身柄を差し出せば、袁術の面目は丸つぶれ。本腰をいれて私たちを潰しに来るわ。今の私たちじゃあ、まだ袁術たちにはかなわない。袁紹にせよ、曹操にせよ、当分は私たちを援助するほどの余裕はないだろうしね」 孫策の言葉を聞いた孫堅が渋面になる。反論しないのは、それがまぎれもない事実だからか。それは黙然としている周瑜も同様なのだろう。 しかし……どうも妙だな。そんなこと、孫策に言われるまでもなく、この2人なら気がつきそうなものなんだけど。 孫堅と周瑜だけではない。孫策以外の面々は、どうも焦っているような節が感じられる。いや、焦っているというよりは、逸っているのだろうか? 先刻までの緊迫した空気は落ち着いたものの、まだ双方ともに互いに対する警戒は解いていない。何か言うとすれば今なのだが、しかし、何を言えば、この事態を収められるのだろうか。むむむ…… ――そういえば。 ――連合軍が結成された時、孫堅は洛陽で何を得たのだっけか? 答えは天啓の如く、おれの脳裏に閃いた。 ◆◆「――なるほど、孫家の方々は洛陽で天命を見つけられたのだな」 その言葉を聞き、孫策はかすかに目を見張る。 奇妙なまでの確信をもって断言したのは、北郷と名乗った少年だった。 今は、一介の兵士が口を差し挟める状況ではなく、劉家軍の者たちは驚いた表情で北郷を見つめている。その中には孫家からの叱責を憂いている者もいた。 だが。 孫家の将兵たちは、北郷が言わんとしていることを悟り、咄嗟に口を開けずにいた。あの周瑜でさえ、例外ではなかった。それほどに思いもよらない指摘だったのである。「――だとしたら、どうするつもり?」 それゆえ、孫策は自身で、北郷と対峙する。今や、孫家の秘中の秘となった事項をあっさりと看破してのけた相手は、厳しい眼差しでこちらを見据えている。「別に何もするつもりはありませんし、出来もしません。ただ――」 ただ――他者に知られれば窮する弱みを握っているのは、そちらだけではないのだと、そう告げるつもりなのだろうか? 一方で、劉家軍の者たちが、戸惑ったような表情を隠せずにいるところを見ると「そのこと」を知っているのは、北郷1人ということか。 そのこと――「受命于天 既寿永昌」と記された玉。世に言う伝国の玉璽を、孫家が握っているという事実を。 つい先刻のことを、どうして一介の兵士風情が知っているのかはわからぬ。だが、天命云々の言葉は、まぎれもなく玉璽のことを指しているに違いない。 そして、それを知るのは、今のところ、北郷のみ――一瞬、孫策の目に危険な光がちらつく。孫策は、母や他の将兵たちと異なり、玉璽を得たことに、大した意味は見出していない。しかし、このことが他の諸侯に知られれば、孫家が破滅するということは理解していた。それを知る者が、他軍にいてもらっては困るのだ。 しかし。「ただ、1つだけ忠告を」 北郷の口から出た言葉は、孫策が予測していたものとは異なっていた。「忠告?」「はい。天命は、人にこそ与えられるもの。それが物に宿ることはありません。どうか、そのことをお忘れなきように願います」「――へ~、私たちのことを、心配してくれるんだ?」 孫策の言葉に、北郷の表情が曇った。「おれは、一時、黄巾党に捕らえられていました。あそこで、乱世がどういう時代なのか……何をもたらすものかを知りました」 だからこそ、と北郷は言う。 だからこそ、乱世を終わらせることの出来る可能性を持つ人たちに、つまずいて欲しくはないのだ、と。◆◆「……ふふ」 それは、はじめは小さなものだった。だれの耳にも入らないくらいの、小さな小さな笑い声。 だが、それはすぐに大きくなり――やがて、その場にいる全員が、孫策の笑い声を聞くことになった。「あははは!」 驚きの視線が集中する中、孫策はぴたりと笑い声を止め、視線をおれに据えた。 射る様な視線を浴び、おれの背筋に戦慄がはしる。なんというか、正面から白刃を突きつけられても、ここまでにはなるまい、と思えるような、物凄い圧迫感だ。あるいは、野生の虎を前にすれば、同じような感覚を味わえるかもしれない。もちろん、檻なし状態で、である。 おれがそんなことを考えていると、孫策がにこりと――にやりと、かな?――微笑み、口を開く。「天命がどうとか書いてある石ころを手に入れたからって、調子に乗っていると痛い目に遭う。あなたが言いたいのはそんなところかな?」「は、はい。あ、いや、そこまで直截に言いたいわけではないんですけど……」「あはは、言っているも同然よ。実は私も同感だしね――母様はどう思う?」 笑みを湛えながら、孫策が孫堅に問いを向ける。 見れば、孫堅は孫策とおれのやりとりに毒気を抜かれたのか、苦笑して肩をすくめている。「調子に乗っていたつもりはないけれど――少し、逸っていたのは、確かのようね。今、董卓の身柄を得たところで、重荷になるばかり。その程度のこと、気づけなかったとは、不覚以外の何物でもないわ」「――だ、そうよ。良かったわね。董卓のことは、見てみぬ振りをしてくれるって」「は、はあ。それは何よりで……」 あっさりとそんなことを言ってくる孫策に、おれは驚きのあまり、はきつかない返事をしてしまう。 玄徳様たちも似たようなものだ。皆、思いもよらない展開に目を白黒させていた。「ところで、えーと、北郷、だったっけ、あなた?」「は、はい。そうですが……?」 戸惑いさめやらないおれに、孫策がずいっと顔を近づけてくる。いつのまに近づいていたのか、全然気づかなかった。「おわ?!」「ふむふむ……反応は素人同然、か。でも容姿はなかなか。頭の回転も悪くない、と」 なにやらぶつぶつ言いながら、顎に手をあて、考え込む孫伯符。 やがて、1つ頷くと、孫策は口を開き――それこそ思いもよらない提案をしてきた。「ね、北郷。あなた、私たちと一緒に来るつもりはないかしら?」「……は?」 思わず、ぽかんと口を開けてしまった。「雪蓮?!」 周瑜が驚きの声をあげているところを見ると、幻聴というわけでもないようだ。 しかし、今、何を言ったんだ、この人?? だが、孫策はおれの動揺を少しも気にせず、言葉を続ける。「ねね、どうかな? 乱世を終わらせたいなら、義勇軍にいるよりはずっと近道ができると思うけど。まあ、私たちもあまり良い立場にいるってわけでもないんだけどね」 そういって苦笑したのは、孫家が袁術の盟下にいることを言っているのだろう。 おれはようやく回り始めた頭の片隅で、そんなことを考えた。 ――というか、これはもしかしてスカウトですか? オファーですか? しかもあの孫子の末裔と言われる孫家から? あまつさえ、江東の小覇王じきじきに、ですと?! うわあ、これはちょっと本気で嬉しいかも。「ね、どうかな?」 答えを促してくる孫策。 だが。 嬉しいことはもちろん嬉しいのだが、頷くか否かはまた別の話であった。「お言葉は大変嬉しいのですが」 おれは孫策の誘いに、首を横に振る。後ろの方で、ほっとした声があがったような気がした。 直接の誘いを断られ、気分を害するかと思いきや、思いのほか孫策は上機嫌に見える。「あら、残念。でも、母様たちの蒙を啓いてくれただけでも有り難いわ、ありがとね♪」 そういって、孫策はおれに向かって片目を閉じてみせるのだった。 結局、孫策の勢いに飲まれる形で、その場は何とか収まった。 孫堅たちは「董卓に似た」少女を見ただけであり、おれたちは――というかおれは、玉璽のことを忘れるという暗黙の了解のもとに。 孫策たちが慌しく立ち去った後、おれはふと呟く。「しかし、なんでまた洛陽にあれがあったんだろう。王允たちが置いていくとは思えないんだけどな?」 たしか、演義では、洛陽が混乱している最中、宮中から持ち出され、それを古井戸から孫堅が見つけるという流れだったように思う。しかし、この時代では、それはあてはまらないだろう。計画的に洛陽を捨てた王允が、玉璽を忘れるわけがない。 ――だからこそ、孫策たちには「洛陽で天命を見つけたのか」とか無駄に思わせぶりなことを言ったのである。玉璽、という言葉を出して、それが間違っていたらえらいことになると思ったので。 はて、とおれが首をひねっていると、いつのまに戻ったのか、おれと同じように首をひねっている貂蝉の姿を見つけた。なにやらぶつぶつと呟いている。「おかしいわねえ。折角、宮廷から持ち出して、誰にも見つからないところに隠しておいたのに、どこ行っちゃったのかしら。玄徳ちゃんにあげようと思ったのにぃ」 ……あれ、なんかいきなり答えを発見?◆◆ ――とまあ、そんなことがあったのである。 以来、玄徳様たちのご機嫌は極めて悪いのだ。しかし、これはおれが悪いのだろうか? 思い悩むおれに、簡擁が達観した様子で諭す。「晴天の日もあれば、雨天の日もあるのが女子というもの。ここはじっと耐えなされ。いずれ晴れ間が見える時も来ようほどにな」 さいですか。それまでおれの胃がもてば良いのだけど。 それは結構、深刻な問いかけだったのだが……「ははは」 笑ってごまかされました。しくしく。 その後。 幽州領内に入るまで、玄徳様たちの機嫌が直ることはなかったのである……