「ぬわあんですってーーーー!!!」 連合軍の本陣に、総大将袁紹の叫びが響き渡る。 所領に残してきた部下たちから、黄巾賊蜂起の報告が、悲鳴まじりにもたらされたからである。 黄巾賊は冀州を中心として、幽州、青州で一斉に兵を挙げ、各地の城に次々と襲い掛かっていった。その兵力は冀州のみでも15万を越えると言われ、今回の蜂起で動員された兵力すべてをあわせれば、30万に達する勢いであるという。 当然、各地の官軍は大混乱に陥った。ことに袁紹の所領では、主力が遠征に出ているため、雲霞のごとき黄巾賊の大軍に対して、官軍は為す術がなく、ほとんどの領主たちは城に篭って敵を防ぐのが精一杯の状況であった。 とはいえ、これまでであれば、賊徒の大軍の攻撃に晒された場合、城に篭るその対応が最善の策といえた。敵は大軍といえど、勢いだけの賊徒。糧食も乏しく、城攻めをするだけの資材も技術もない。それゆえ、城に篭った官軍に対して、多くの場合、賊は手をこまねき、食料の欠乏を補うために周辺の村々への略奪にはしり、軍としての統制を失う。そこを官軍が衝き、賊徒を敗退させる、というわけである。 だが。 今回、蜂起した黄巾賊は、どこから入手したのか、糧食はもとより、大型の城攻兵器さえ備え、次々と官軍の城を陥落させているらしい。 すでに黄巾賊の主力は冀州の要衝である平原郡を掌握し、さらに袁紹の本城である南皮城を陥とさんとする勢いであると聞き、袁紹はあまりの事態に叫ばざるを得なかったのである。 賊徒に所領を奪われ、本拠地さえ危険に晒されるという屈辱をうけ、わなわなと全身を震わせる袁紹の前に、1人の文官が歩を進める。「袁将軍」 天幕内の燭台の明かりをそのまま照らせそうなほど、見事な艶を発するこの坊主頭の男性こそ、姓は田、名は豊、字を元皓。多彩な人材を擁する袁紹軍において、文官の頂点に立つ稀代の軍師である。「事態は急を要します。早急に軍勢をまとめ、冀州に軍を返すべきかと」「……まだ、曹操が戻ってきていませんわ」「――袁将軍、このままでは我らは本拠地を失ってしまいまする。仮に曹操と矛を交え、皇帝陛下の身柄を得ることができたとしても、拠って立つ地盤を失ってしまえば、我らが軍は洛陽の地に溶けてしまいかねませぬぞ」「ま、まだ地盤を失うとは決まっていませんわ。まだ南皮には審配に沮授に、郭図もいるのです。そうですわ、高覧や張恰も南皮にいた筈。文醜さんや顔良さんほどではないにしても、2人ともなかなかの武将。賊軍ごときに敗れる筈はないですわ!」 袁紹は部下の名を口にしているうちに平静を取り戻してきたらしい。その口調には、常の権高な様子が戻り始めていた。 だが、田豊は袁紹に追随せず、厳しい表情を崩さない。「確かに南皮城は堅固な城壁を備え、そこに篭るは袁家屈指の将帥です。本城が陥とされることは、おそらくないでしょう」「そうでしょう! ならば、心配は要りませんわ。曹家の小娘とじっくり……」「――しかし!」 何事か主張しようとする袁紹の台詞を、田豊は強い口調で遮った。「留守居の者たちとて、たかが2万や3万の軍勢では本城を守るだけで手一杯でしょう。10万を越える賊徒が、南皮以外の地域に侵攻を始めれば、それを止める手立ては彼らにはありませぬ。現に、平原はすでに敵の手中に落ちております。南皮以外の全ての領地が、黄巾賊の大軍に蹂躙されてしまえば、本城のみ安泰であったところで、何としましょうや」「そ、それは……」「領民を守るは領主の務め。それを放棄した董卓軍の末路は将軍もご覧になったばかりの筈。曹操に陛下の身柄を委ねるは、たしかに危険なことではございますが……今は、それよりも黄巾賊を冀州から追い払うことを優先すべきでありましょう――麗羽様、ご決断を」 田豊は、滅多に使わない袁紹の真名を、ここで口にした。 強い態度と口調で押して来る田豊の舌鋒を前に、袁紹は反論できずに黙り込むしかなかった。 袁紹とて、田豊の言の正しさがわからないわけではない。というより、田豊が主張するより早く――冀州からの報告を聞いた時点で、すでに袁紹の脳裏には「退却」の文字が瞬いていたのである。 だが。 それを素直に受け容れられなかったのは、悔しさの為。ここで軍を返せば、残った曹操が主導権を握り、連合軍と、その戦果を独り占めにすることだろう。袁紹はそれが我慢ならなかったのである。 無論、個人的な感情だけではない。曹操を小娘と呼び捨てつつ、実はその実力を無意識のうちに認めている袁紹は、現在の曹操の隆盛を放置すれば、後々の大患になるということを本能的に察していたのだ。 そして、そんな袁紹の心理を、この場にいる人々――文醜、顔良、田豊――はしっかりと悟っていた。真名を許されるということは、そういうことなのである。 しかし。「麗羽様、元皓のおっちゃんの言うとおりじゃないですかね?」「そうです。悔しい気持ちはわかりますけど、ここは一刻も早く冀州に帰るべきです」 それでも、今、この時、他に採るべき策はなかった。 ここで選択を誤れば、袁紹軍は存亡の淵に立たされることになるとわかっていたからである。 そして、袁紹はそういった部下の提言が届かないほど無能な主君ではなかった。もし袁紹が自分の感情を全てに優先するような主君であれば、袁家の勢力がこれほど大きくなることはなかったであろう。「……仕方ありませんわね」 ぼそりと呟く袁紹。 田豊らはそれを聞き、それぞれに安堵の表情を浮かべた。「では、早急に帰路を策定して参ります」 田豊はそういうと、速やかに立ち上がった。その脳内には、すでに膨大な量の情報が入り乱れ、最も利の多い帰路の選別に入っている。ただ軍を返すだけでは芸が無い。ここは留守宅に押し入った黄巾賊の心胆を寒からしめるものにしてやらねばなるまい。 その田豊の後ろに、袁家の2大将軍が続く。「じゃあ、あたしと斗詩は軍勢をまとめてきますよ」「麗羽様はご自分の支度をしておいてくださいね」 顔良の言葉に、袁紹が露骨に顔をしかめる。「ふん! 顔良さん! 子供ではあるまいし、そのようなこと、いちいち言わないで結構ですわ!」「す、すみませーん」 その顔良に、文醜は小声で囁く。「斗詩、今の麗羽様に余計なこと言うなよ。こっちまでとばっちりが来るだろ」「文醜さん! 何か言いまして?!」「な、何にもいってないですよー。ほら、斗詩、早くいくぞ!」「ああ、文ちゃん、待ってよ~」 慌しく天幕から出て行く2人。 独り残った袁紹は、ここにはいない相手に向かって悪態をついた。「ふん、曹操さん、今回はあなたに手柄を譲ってさしあげますわ。もっとも、いずれ利子をつけて返していただきますけどね。逆境を乗り越えることで、この袁本初はますます輝きを増していくのですわ!」 おーほっほっほ、と高笑いが響く。それは袁紹のいる天幕を中心に、軍全体に届くかと思われた。 そして。「おい、また袁将軍が笑ってるぜ」「南皮がやばいって聞いたけど、大したことなかったんか?」「そうじゃねえかな。さすがに本拠地が危ないってのに、笑う奴はいないだろ」「なんだ、じゃあ誤報か?」「そうとも限らないが、まあ、将軍には成算があるんだろ。おれたちはこれまで通り、将軍についていけば良いさ」 そうだそうだと頷き合い、彼らは黄巾賊蜂起の報に浮き足立っていた自分たちを戒めるのであった。■■ 黄巾賊蜂起の報告は、当然ながら幽州に所領を持つ公孫賛の所にまで届けられた。 公孫賛にしても、事情は袁紹と変わらない。本拠地である易京城は容易く陥落することはなく、その点に対して心配はいらないが、手をこまねいていれば、易京城以外の地を黄巾賊に蹂躙されてしまうだろう。 公孫賛は即座に決断する。「全軍、遼西に帰還する」 中央の政情――董卓軍や漢帝の動向、そして曹操の今後の動きなど、気にかかる事柄は幾らも残っているが、何よりも優先すべきは太守として治めている領地の安全である。 この点、公孫賛は袁紹よりも頭の切り替えが早かった。 ただちに部隊長たちの下に帰国の命令が下され、公孫賛軍は慌しく動き始めたのである。■ 当然、劉家軍にも公孫賛からの通達はやってきた。 だが、劉家軍は公孫賛軍ほど素早く行動することができなかった。玄徳様が帰国の決断を下すことを躊躇ったからである。 原因は、言うまでも無く、住む所を失った洛陽の難民たちにあった。今、連合軍が帰国してしまえば、彼らを洛陽の城外に捨て置くも同然である。今でこそ、わずかではあっても諸侯から物資の供与がなされているが、諸侯がいなくなれば、彼らはそのわずかな糧すら失ってしまうのである。 飢えは弱い者たちから容赦なく命を奪う。残された者たちが自棄に陥り、暴徒と化すのは目に見えていた。それこそ、第2の黄巾賊を生み出すに等しいことであろう。 もっとも、例え劉家軍が残ったところで、その流れを変えることは万に一つもできはしない。それは玄徳様自身も承知しているのだろう。もし、民衆の暴動に巻き込まれたら――いや、この地に残れば、間違いなく巻き込まれるだろう。そして、その結果は言うまでもあるまい。戦う術を持たない草食獣であっても、群れが暴走すれば、肉食獣を容易く蹴散らしてしまうものだ。 そして、それも玄徳様は理解している筈だ。だから、後は決断を下すだけ。 金も食料もなく、領土も官位もない雑軍には、民を救う力はないのだと認め、この地から逃げ出す決断を下すだけだった。 だが、もちろん、面と向かってそんなことを言える筈もない。 そして、言う資格もおれは持っていない。 公孫賛軍が帰国の準備で騒然としている中、劉家軍は昨日までと同じように、難民たちと共に様々な作業に従事していた。 狩りで獣肉を得たり、河に魚を釣りに行ったり、あるいは森から木を切り出し、雨露をしのげる小屋を作ったりと言った具合である。 そして、玄徳様はいつものように子供たちと楽しげに遊んでいた「げんとくしゃま~」「げんとく、あそぼーぜー」「あうう、服引っ張っちゃ駄目だってばー! 遊ぶ、遊ぶからやーめーて~!」 ――訂正。子供たちに楽しげに遊ばれていた。 おれは一応、護衛の名目で玄徳様と行動を共にしている。護衛といっても、おれの腕などたがが知れているが、いないよりはマシ、といったところである。 もっとも。「かずともこっち来いよー!」「お兄ちゃん、またあれやって、あれ~。肩ぐるまー」 お子様軍団はそんなこと関係なく、容赦なくおれをも遊びに巻き込もうとする。そして、それに対抗するのが不可能であることは、日本でも中国でも変わらない。「よーし、じゃあ今日は誰から肩車しようか?」 おれー、ぼく、わたし~、と自分の顔を指差しながら、一斉に主張する子供たち。 おれは最初に肩車をせがんだ女の子を抱き上げ、肩の上に乗せてあげる。 頭の上から、甲高い子供の歓声が響きわたった。同時に、足元からは更なる催促の叫びが木霊する。活気に満ちた騒々しさは、しばらく続きそうであった。「あうう、つ、疲れたよー」「お疲れ様です」 両膝をついて、地面に座り込む玄徳様に、おれは苦笑まじりにねぎらいの言葉を発する。 こんなときではあっても、子供たちの体力は大したもので、おれも玄徳様も振り回されっぱなしであった。 とはいえ、田舎の甥っ子姪っ子とのやりとりで子供に慣れているおれは、彼らとの付き合い方のコツも、玄徳様よりは心得ている。心身ともに疲れ果てている玄徳様よりは、まだ余裕があった。 その子供たちも、今は子供同士での遊びに興じており、おれたちには目もくれない。現在の状況は厳しいものだが、今、この時、この場には、穏やかな空気がたゆたっていた。 その空気に浸りつつ、ぼんやりと子供たちに視線を投じていると、不意に、ぽつりと玄徳様が呟いた。「幽州に帰るってことは、あの子たちを放り出して行くってことなんだよね」「……そういうことになりますね」 唐突な言葉に、おれは一瞬、言葉に詰まったが、ここでおためごかしを言っても仕方が無い。やむなく肯定の意をあらわす。 玄徳様は訥々と言葉を続けた。「――わかってはいるんだ。私たちがここに残ったって何もできないってことは。それに、今、黄巾賊が暴れてる場所にだってたくさんの子供たちがいて、戦う術を持たない人たちが虐げられているってことも。本当なら、ここでこんな風にしている場合じゃないんだよね……」 ――玄徳様はぽつりぽつりと内心を語り出す。 おれは時折、小さく相槌を打つ以外は、特に自分の意見を言おうとはしなかった。玄徳様はおれに答えを求めているわけではなく、自分の気持ちを吐き出すことで、考えをまとめようとしているのだとわかったから。 やがて、玄徳様は大きく手足を広げて、大の字になって寝転がった。 むむ、花も恥らう乙女がその格好はどうかと思うんですが……おれが視線をあさっての方角に向けながら、何というべきか悩んでいると、玄徳様が寝転がった格好のまま、なんだか吹っ切れたような、張りのある声をあげた。 あー、悔しいなあ、と。「――玄徳様」「こんな時、何にもできない自分の力の無さが、すっごい悔しいよ。助けたいって、何とかしたいって思う気持ちだけじゃ、何一つできはしないんだよね」 その言葉に、おれは咄嗟に首を横に振っていた。「そんなことは、ないと思いますよ」 「――そうかな?」「はい」 確かに、根本的な問題を解決することはできないだろう。でも、何一つできないわけではない、とおれは思う。 おれは視線を転じて、遊びに興じている子供たちを見た。「――だって、あの子たちが、笑顔で遊ぶことができるのは、玄徳様がここにいるからでしょう?」 不足ではあっても、不公平と言われても、玄徳様がこの付近の難民に劉家軍の糧食を提供したからこそ、彼らは未だ飢えを知らず、遊ぶことが出来ているのである。 玄徳様がここにいて、一緒に遊んであげたからこそ、彼らは今も笑顔なのである。「たとえ、それが一事凌ぎなのだとしても。根本的な解決にはならないにしても。それでも玄徳様はご自分に出来ることは一生懸命やっていると思います。何一つできないなんて、そんなことはないですよ」 時折、思うことがある。 本当に大切なものは、実はすぐ近くにあって、手を伸ばせば届くものなのだ、と。 何故そう思うのか。 それは、実際にそれをしている人が目の前にいて――その人は人並みはずれた武勇も、優れた智略の持ち主でもない、普通の女の子だからである。だからこそ、それは誰にでも出来ることなのだと――手を伸ばせば届くところにあるのだと――そう思えるのだ。 そんなことを口にすると、玄徳様は機械仕掛けの人形のように、ぎくしゃくした動きで上体を持ち上げ、何故か正座して、おれの顔を見上げてきた。「ど、どうしました、玄徳様?」「ううん。そんなこと言われたの、はじめてだから。なんだか、その、緊張したというか、そんな大したことをしているわけじゃないというか……」 はうー、と慌てふためく玄徳様。 ――なんというか、照れてる様子がめちゃくちゃ可愛いです。思わず魂抜けそうなくらい。戻れ、我が理性。 おれはかろうじて意識を繋ぎ止めつつ、口を開く。「玄徳様にとっては、きっと当たり前のことなんですよね。わかってるつもりです――だから余計眩しいんですよ、おれにとっては」 台詞の後半は呟くような小声になってしまったので、玄徳様には届かなかったかもしれない。 玄徳様はおれの言ったことの意味が理解できないのか、小首を傾げているが、そこはごまかそう。玄徳様の前で、はきつかない自分の迷いを吐露したところで意味はない。これは、おれが自分で考え、答えを出さないと意味を持たないものだろうから。「ん?」 不意に、大きなざわめきが起きたので、おれはそちらの方角に目を向けた。 驚いたことに、難民たちが何処かへ移動しようとしているではないか。それも1人、2人ではなく、何百という人が一斉に、である。 おれと玄徳様は顔を見合わせた。何が起こったのだろうか。 すると、遊んでいる子供たちを迎えに来た人がいたので、その人たちを掴まえて訊いてみることにした。 そして、その人たちの口から、驚くべき言葉を聞いたのである。■■ 劉家軍の天幕の中。 突然の民衆の行動に驚いた面々が集まった卓で、おれは先刻、聞いた情報を皆に知らせた。 すなわち――曹操が洛陽の東南に位置する許昌へ大規模な城市を建設しており、その住民の受け入れを開始した、という知らせを。 それはつまり、許昌へ行けば、住む所も、食べる物も与えられるということであり、双方を失った難民たちが許昌を目指して移動しはじめたのは当然と言えた。 諸葛亮が、困惑しつつ、疑問を述べる。「何十万という民を受け容れるに足る都市――曹将軍は、どこからその開発資金を得たんでしょうか。曹操軍は、陳留の張太守の軍が主力と聞きましたけど、財政面でもそちらの協力を得ている……?」 後半は、自問するような調子で、諸葛亮は考え込む仕草を見せる。 鳳統も首を傾げている。「陳留は貧しい都市ではないけれど、一太守の資金で、都市1つ建てられるほど豊かではないはずだよ。まして、1万を越える軍隊を組織したばかりなんだから……」 そこから別途、都市建設の費用を捻出するなど不可能である。鳳統はそう言い、それには諸葛亮も同意したのである。 2人の疑問の答えはおれが持っていた。 曹操は衛弘という大富豪の協力を得ていたのである。 衛弘は元々張孟卓の配下であった人物だが、思う所あって野にくだり、商人となった人物である。その商才は卓越しており、数年のうちに陳留でも屈指の豪商となり、10年を経た頃には、天下でも指折りの大富豪となっていたという。 その衛弘が、曹操の為人を見込んで全面的な援助をするようになった理由は不明であるが、聞けば、衛弘も女性であるというから、なにがしかの夢を、曹操に託したのかもしれない。 いずれにせよ、衛弘の全面的な協力を得た曹操は、しかしそれを軍に活かそうとはしなかった。もし、その資金を以って兵を集めていたら、曹操軍は今の倍を数えていたに違いないが、曹操は軍事に関しては陳留の物資で賄い、衛弘の協力を別の方面で活かすことにしたのである。「――それが、許昌の建設、ということか」 関羽が唸るような声を絞り出す。「はい。曹将軍の配下にいる荀彧という人物が都市建設の全面的な指示を行っているとか。まだ着工して間もないため、都市自体の完成はしばらく先になるそうですが、すでに噂を聞いた周辺の住民の中からも、許昌を目指す動きがあるそうです」 なぜ、おれがこんなに詳しいかと言えば、許昌から来たと思われる者たちが事細かに説明してくれたからである。 特に最後の部分を聞いた洛陽の人々は、遅れてはならじと、大急ぎで移動を開始した、ということらしかった。「なんとも、恐るべき人ですね、曹孟徳という人は」 感嘆を通り越して、恐ろしささえ感じつつ、おれはそう口にした。 大規模な都市建設など、一朝一夕で動き出す計画ではない。前々から――それこそ、連合軍が動き始める以前から、水面下で動いていたのではないだろうか。 何のために? 皇帝を奉戴する新たな拠点とするために決まっている。洛陽の大火は後漢の帝都を失わしめたが、曹操から見れば、新帝都移転のための苦労がなくなったということでもある。おまけに、難民の受け入れをすることで、名声も上がり、人材の確保も有利に進むだろう。 本来であれば、袁紹などの諸侯がそれを黙ってみているはずもないが、黄巾党の一大蜂起が起こった今、曹操を妨げる者はほとんどいないと言って良いだろう。 連合軍発足前、後漢の一介の廷臣であった曹孟徳という人物は、今や、押しも押されもせぬ大諸侯へと変じつつあるのだ。 天の時、というものがあるとすれば、今、それは間違いなく曹操に訪れている――否、それだけであるはずはない。 全てが曹操の掌の上で行われていたわけではないだろう。だが、あの曹操が漫然と幸運を待って、事に臨むとは思えない。 許昌建設の情報がここまで完全に遮断されていたことを思えば、こと情報という面で、曹操が1歩も2歩も他の諸侯を上回っていたことは明らかである。各地からの情報を丹念に分析し、現在の情勢を導いたと考えて良いだろう。 そのことは、劉家軍の面々も理解するところだ。関羽などは露骨に渋面となっている。 とはいえ、劉家軍にとって、悪いことばかりではないのも確かである。「許昌には、糧食が山と積まれているそうです」 民衆を誘導する宣伝文句かも知れないが、許昌開発に携わるのが、あの荀文若だというのなら、底の浅い偽りを以って、曹操の評判を落とすような真似はするまい。「これで、洛陽の人たちが飢餓に晒されることはなくなりました。おまけに住む所もあるし、城市建設ともなれば、働き口も無数にある筈です。それはまぎれもなく曹将軍の功績でしょう」 そして、これで劉家軍は憂いなく幽州に帰ることができるようにもなった。 文句を言うのは罰当たりというものだろう。 もちろん、そこまでは言わなかったが、おれの言わんとしているところは、皆、わかってくれたようだった。 玄徳様がゆっくりと言葉をつむぎだす。「うん、そうだね。私たちには出来なかったことを、曹操さんはやってくれたんだから、感謝しないといけないよね。でも――」 玄徳様は胸に手をあて、真剣な表情で言う。「私たちも、もっと力をつけて、曹操さんに頼らないでも、皆を助けることが出来るようにならないといけないよね。みんなが笑って暮らせる、平和な世の中をつくるために――」 その言葉に、この場にいる全員がしっかりと頷いて応えた。■■ かくて、劉家軍は幽州へと軍を返す。 道々で、黄巾党の動静を探ってみると、事態は考えていたよりも、はるかに深刻なものとなっていた。至るところで黄巾党の勢力が猖獗を極め、官軍はもとより、民衆にも多くの被害が出ていたのである。 最早、黄巾党は、当初謳っていた民衆の解放という建前すら捨て去り、その膨大な兵力を以って破壊と殺戮を振りまく悪鬼の軍勢と化していた。 ことに敵主力が集中する冀州と幽州の情勢は、公孫賛がうめき声をあげるほど酷いものだった。何より驚くべきは、黄巾党側の軍備の充実である。敵は攻城兵器さえ用いて、各地の官軍を次々と打ち破っており、留守居の軍隊では、その勢いを止めることはかなわなかったのである。 だが、幸いというべきか、公孫賛の治める遼西郡には、未だ目立った被害はなく、主要な城砦も健在であるという報告だった。それを聞いて、公孫賛は安堵の表情をあらわにし、劉家軍の面々も、不幸中の幸いと、ほっと胸をなでおろす。 だが、報告を聞くにつれ、皆の顔に訝しげな色が浮かんできた。 同じ幽州であっても、遼西郡にほど近い琢郡――あの劉焉が太守を務める琢郡に至っては、すでに県城が陥落したというのだ。琢郡から、公孫賛の治める遼西郡までは大きな城砦もなく、黄巾党が琢郡を陥とした勢いのままに、遼西に向かっていれば、すでに易京城を包囲されていてもおかしくない。 否、実際、黄巾党が琢郡を陥とした時期を考えれば、逆に今の時点で遼西郡に被害がないというのは明らかにおかしかったのである。 その理由は、意外なところにあった。 県城を陥落させた黄巾党であったが、琢郡の一部の地域を制圧することができず、苦戦しているのだという。 ろくな防備もなく、村人たちが鋤や鍬をもって応戦するという状況にも関わらず、黄巾党の度重なる襲撃のことごとくを撃退しているその村を、いつしか人々は「不落の村」と呼ぶようになっていた。賊は不審と畏怖を込めて。民は、期待と希望を込めて。 この地方に攻め寄せた黄巾党は、この村に足止めされ、進撃の勢いを大幅に減じていたのである。 必然的に、おれたちは報告の兵士に問いかける。それはどこの村なのか、と。 そして、その答えを知り、おれたちは絶句する。 不落の村――すなわち幽州は琢郡、楼桑村。 ここに。 河北の地を巡る黄巾党と諸侯との戦いの中で、後に最大の激戦として知られることになる楼桑村の戦いの幕が上がる。 そして、そこでおれたちは幾つかの再会と別れを経験することになるのだが、それはいま少し先の話であった……