洛陽城内で発生した火災は、民衆や連合軍将兵の必死の消火にも関わらず、止まるところを知らず広がり続けた。 炎が消えたのは、発生からおよそ3日後。それも人の手によるものではなく、ようやく振り出した雨による鎮火であった。 しかし、火は消し止められたとはいえ、3日の間に、炎は歴史ある街並みの半ば以上を嘗め尽くしており、宮殿に至っては全焼の状態となっていた。 この大火によって、民衆、兵士を問わず、犠牲になった人々は数え切れない。 都市1つを覆い尽くした大災害であり、くわえて人々が宴で騒ぎ疲れ、寝静まった頃に発生したこともあって、被害は予測をはるかに越えており、被害状況を聞いた諸侯も顔色を失うほどであった。 これにより、漢の都として栄華を誇っていた洛陽は、事実上、帝都としてのみならず、一個の都市としての機能すら失い、衰亡の道を辿ることになるだろうと思われた…… 一方で、董卓軍追討のために参集した諸侯の間では、別の問題が持ち上がっていた。 すなわち、連合軍をここで解散するか、それとも長安まで攻め上るか、という問題である。先には曹操が単独で追撃を行い、諸侯は洛陽への入場を選択したが、洛陽が廃都となった以上、このまま駐留し続けることに意味はない。 だが、長安へ攻め上るという案が、現実性を欠くことは、今や衆目の一致するところであった。大火で失った兵はもちろんのこと、洛陽城内に運び込まれていた連合軍の糧食や武具といった輜重の多くが灰となっていたからである。 今や、追撃どころか、連合軍を維持することさえ難しい状態なのである。 すでに諸侯のほとんどが、解散もやむなしと考えていた。 糧食なしでは戦えないし、これ以上戦う理由もない。何より、国許を長く空けておくことに不安があったからだ。 黄巾賊をはじめとした賊徒は、ここまで大きな動きを見せてはいないが、ここから先も今まで通りとは限らない。くわえて、賊以外にも注意しなければならない相手はいくらでもいる。連合軍に参加していない領主たちや、あるいは主君の不在をねらう不逞の輩がいつ蜂起しないとも限らないのである。 だが、連合軍を率いる袁紹は、ただ1人、強行に長安への追撃を主張して譲らなかった。 袁紹にしてみれば、このままでは総大将をつとめながら、己の利がほとんどないのである。虎牢関を抜き、董卓軍を破ったとはいえ、肝心の董卓は取り逃がし、皇帝を保護することもできなかった。くわえて、洛陽の大火では、占領軍の総帥たる袁紹の責任を問う声すらあがっているのである。 袁紹としては、明確な勝利の証となるものを欲せざるを得ない状態であった。 だが、無論、袁紹に賛同する者がいるはずもない。この上は自軍だけでも、と袁紹が考え始めたとき、驚くべき知らせが連合軍にもたらされた。 それは、董卓軍を追撃していた曹操が、函谷関前の平野にて董卓軍を撃破し、皇帝を保護下にいれたという知らせであった……■■「曹将軍が、皇帝陛下を?」 その知らせを聞き、おれをはじめ、劉家軍の面々は驚きの声をあげた。 知らせを持ってきてくれた公孫賛は、どこか疲れたような面持ちで、言葉を続けた。「曹操は陛下を保護した後、徐栄の軍を急襲したそうだ。張太守との連携で徐栄軍は一戦で蹴散らされ、陛下の御名でその兵力のほとんどを傘下におさめたらしい。今や曹操の兵力は、袁紹に匹敵するな」 お陰で袁紹が大騒ぎをしててな――と、公孫賛はため息を吐きながら言った。 ああ、なるほど。その疲労の跡はそのせいでしたか。えーと、なんというか、お疲れ様でした。 おれだけでなく、玄徳様たちからも同情の視線を向けられ、公孫賛は肩をすくめた。「逆臣曹操から陛下を取り戻す、なんて息巻くものだから、抑えるのが大変だったんだぞ。まあ、そちらは田豊が何とか思いとどめてくれたけどな」「では、陛下の還御を待つことになりますか?」 諸葛亮の問いかけに、公孫賛は頷いてみせる。「ああ、目端の利く者は、すでに曹操に使者をはしらせているよ。連合の総大将だったとはいえ、結局、袁紹軍は大した戦果は挙げられなかったんだ。論功に関しては連合の発起人であり、陛下を擁した曹操が大権を握ることになるだろうからな」 玄徳様が小首を傾げながら、公孫賛に問いかける。「伯珪は曹将軍に使者を送らないの?」「うん。まあ、論功に関しては相応の主張をする心算だが、小賢しいご機嫌取りはしないさ。多分、曹操もそういう輩は好まないだろう。使う、使わないは別にしてもな」「ふーん。確かに、あの曹将軍なら、恩賞も不公平な扱いをしたりすることはないだろうね」 玄徳様の感想に、皆、それぞれの表情で頷く。 おれも間近で見た曹孟徳の姿を思い起こして、小さく頷いた。覇気が顕現したような、あの少女は、今後の中華帝国の動乱の中心に位置するようになるのだろう。おれの知る歴史ではそうなっていったし、そういった知識がなくとも、1度でも間近で曹操と会った人間であれば、その確信を抱くのはさほど奇異なことではあるまい。 だが、さしあたって焦眉の急となるのは、遠くの歴史ではなく、近くの難民である。 洛陽が大火に嘗め尽くされ、都市としての機能が半壊状態となった今、数十万の民衆が洛陽城外に焼け出されているのである。 これには、諸葛亮や鳳統にも成す術がなかった。 無論、出来る範囲で炊き出しを行ったり、あるいは怪我人の手当てをしたり、といったことは行ったが、全体から見れば本当に微々たるものに過ぎない。 すでに食料の不足は深刻な状態にあり、一部では疫病の発生も囁かれだしている。 本来はこういった時こそ、国の出番なのだが、後漢王朝は倒壊したも同然であり、その代理を務めるべき諸侯にしても、自分の領地なら知らず、洛陽の民衆のために資金や糧食を供与しようとする者は少数派である。何より、諸侯にしたところで、余分な物資など持っていないのだ。下手にそんなことをすれば、今度は自分の軍勢を飢えさせる結果になってしまう。 それは劉家軍も同様だった。 これ以上、自軍の物資を難民に与え続ければ、兵士たちが飢えにさいなまれることになる。そして、それを覚悟の上で行ったところで、500の兵士を支えるだけの物資が、数十万の難民に対してどれだけの効果を挙げられるかは、甚だ疑問であった。 何より、そんなことをすれば、劉家軍はここで滅びる。どれだけの大義を掲げようと、飢えを強いるような将についていく兵がいるはずもなかった。 劉家軍の陣は、重苦しい雰囲気に包まれていた。 皆、さきほどから口を開こうとしない。その顔には疲労の色が濃かった。 中でも、玄徳様はここ数日で明らかに憔悴の色を深めていた。 玄徳様の性格を思えば、それも仕方のないことかもしれない。悪政に苦しむ洛陽の民を救いに来たというのに、実際には何1つできないという現実。それも、自分が一緒になって苦しむならば、まだ自身への言い訳のしようもあったろうが、玄徳様はじめ劉家軍の将兵は、まだ飢えるには至っていないのである。 もっとも玄徳様は、自分の食事をこっそり難民の子供たちに分けてあげているため、ここ数日は満足に腹を満たせていないことを、おれは知っていた。いや、おれだけでなく、この場にいる面々は皆知っているだろう。 本来ならば、おれたちはそれを止めなければならない。玄徳様が一時の情で倒れれば、平和をもたらすという大志そのものが失われてしまうから。そして、巻き起こる戦乱は、大陸全土で、今の洛陽と同じ状況を生み出していくだろう。 それを食い止めるためにも、今はわだかまりを捨てなければならない時なのである。たとえ不公平であろうとも、心が痛もうとも、目の前にお腹を空かせた子供たちがいようとも、自分たちが倒れれば何もできないのだから。おれはそう思っていたし、またそれは正しいとは言えずとも、決して間違ってはいないはずだ。 ――とはいえ。 正しいか否かは別にして、それが机上の空論であることを、おれは学んでいた。 というか、目の前で子供たちがお腹を空かせて泣いているのに、自分だけはこっそりご飯を食べるなんて出来ないって、いやほんとに。 というわけで、玄徳様以外の腹の虫も、あっちこっちから響いていたりするのだ。 ――これが自己満足なのだ、ということは理解している。何故なら、劉家軍の目の届かないところでは、なお泣いている子供たちがいるのだから。おれたちがやっていることは、ただ少しの難民と、自分たちの心を慰めるだけの行いに過ぎないのである。 だが。 偽善と言いたい者には言わせておこう。 目の前の子供の涙すら拭えない人間が、大陸の平和を語ることはできないのだと、そう思う人間が劉家軍には集ったという、これはただそれだけの話なのだと、おれはそう思うのである。 ■「んふふ、なるほどねえ。それがあなた達のやり方、ということなのね」 野太い声が、卓の沈黙を破る。 その声を聞くたびに、身体に走る震えは何ゆえか。 発言の主を見て、誰も問い返そうとしないので、仕方なくおれが口を開いた。「そういうこと。何か言いたいことがあるのか、貂蝉?」「ないわけではないけれど、すでにあなた達も理解していることだから、あえてここで、わたしの口から言う必要はないでしょう。ねえ、月ちゃん。詠ちゃん」 声をかけられた2人――董卓と賈駆はそれぞれの表情で頷いた。「はい……それに、こんな事態になった責任は、私にありますから……」「私、じゃないでしょ、月。月は何も知らなかった。洛陽を荒廃させたのは、ボクがやったことだよ。月の所為なんかじゃない」「でも、詠ちゃんがそんなことをしたのは、私を助けるためだったんだよ。何より、私は君主なんだから、董卓軍の名において行われたこと全てに対して、私は責任をとらないといけないの。そう教えてくれたのは、詠ちゃんだよ?」 その言葉に、賈駆が小さく呻く。それは確かに、賈駆が言った言葉なのだろう。 だが、それを認めれば、賈駆は自分の行動の責任を董卓に押しかぶせることになる。それは王允たちがやったことと何の違いがあるというのか。 賈駆はそう思っているのだろう。ここ数日――いや、宮中で貂蝉に助けられて以来、ずっと董卓と話し合いを続けているようだった。 すでにおれたちは、董卓たちから今回の事態の裏面を説明されていた。 そのため、董卓の面に浮かぶ悲哀も、賈駆の焦燥も、理解できている。 言葉もなく、2人の様子を見つめるばかりであったが、ここで貂蝉が大きく2回、手を打った。「ほらほら、年頃の乙女が、そんなくら~い顔をするものじゃないわ。少なくとも、今ここで延々話をしたところで、何の解決にもならないのよ」 貂蝉の言葉に、2人はうなだれるように俯いた。「それに玄徳ちゃんたちも、そんな憂鬱そうな顔をしてちゃ、ダ・メ♪ 為すべきことを決めたのなら、後は自分が選んだ道を駆け抜ければ良いの。振り返ったり、立ち止まったりしたところで、物事が良くなることなんて滅多にないんだから」 ね、と貂蝉はおれに向けてぱちりとウィンクする。 貂蝉の言わんとしていることを察し、おれもそれに同調する――ウィンクで一瞬怯んだのは不可抗力です。「――だな。ここで暗くなってても、何も解決しないのは確かだしな」 たとえ空元気とわかっていても、ここはあえて吹っ切れたような明るい声を出す。一介の義勇軍に、数十万に喃々とする難民の救済方法などあろうはずもないが、ここでその現実を慰めあったところで、建設的な案が生まれるはずもない。 それは、おれのみならず、玄徳様や関羽らも了解するところであった。「――うん、そうだね。少しずつでも、できることをしていくことしか、今の私たちにはできないんだもんね」「そうですね。では、私は鈴々と共に民たちの様子を見てくることにします。窮状に耐えかね、粗暴な行いをする者は後を絶ちませんから」「お腹が空けば、いらいらするのは当然なのだ。けど、だからって弱いものいじめをして良い理由にはならないのだ」 張飛はそういうと、勢い良く立ち上がり――そのお腹から盛大に空腹を訴える音が鳴り響いた。 そして、へにゃへにゃと地面にくず折れる猛将 張益徳。 「うう、でもお腹は空いたのだ」「天下無双の豪傑も、空腹には勝てないんだな」 ぽつりと呟いたおれのひと言を聞き、鳳統がくすりと笑みをもらした。それにつられたように諸葛亮が微笑み――やがて、卓の周囲には笑い声が弾けた。 笑っている場合ではない、というのは皆わかっていた。 玄徳様が大志を抱こうと。 関羽や張飛が勇猛を誇ろうと。 諸葛亮や鳳統が叡智を備えようと。 目の前にいる民たちを救うための糧食も資金も、おれたちは持っておらず、それはどれだけの才能を結集しようとも、どうにもできないことだった。無い物は無いのである。 それでも、俯いているよりは、前を見て笑っている方が良いに決まっている。笑みを浮かべる余裕があれば、良い案も生まれるに違いない。 ほら、言うじゃないか。「笑う門には福来る」と。 おれは笑い声をあげながら、そんな風に考えていた。 だが。 現実は非情であり。 希望は儚いものである。「申し上げます。劉将軍にお会いしたいと仰る方々がおみえなのですが、いかがいたしましょうか?」 報告の兵士の声に、関羽は声に厳しさを滲ませた。「報告はきちんとせよ。誰がどのような用件で会いに来たというのだ?」「そ、それが、雑兵に話す必要はない、と仰られていて……ただ、官服を身に着けておられましたから、おそらく諸侯軍のどなたかではないかと推察いたします」「名乗りもせずに、我らが主に会いたいなどと、無礼な! そのような怪しげな輩、桃香様に近づけられるものか」 相手の礼のない態度に、関羽は怒り心頭に発している。 それは全面的に同意するのだが、官軍の者をすげなくあしらったとあっては、後日、厄介ごとの種になりかねないだろう。おれや諸葛亮たちにそう説得され、関羽はしぶしぶではあったが、訪問者をこの場に連れて来るように命じた。■「ここが劉家軍とやらの陣か。なるほど、雑軍らしい粗末なものだな。その雑軍が、我ら州牧の跡継ぎを待たせるとは――多少の手柄をたてたからといって、増長したか」 天幕に入るや、そう面と向かって言い放ったのは、陶応。「やめよ、応。無官の将に、礼節を要求するのは無理というものだ」 その陶応をたしなめる振りをしながら、こちらを侮蔑してくれたのは陶商。 徐州の牧である陶謙の子息だと名乗る2人の様子を見て、おれは深く、ふかーくため息を吐いた。 なんだ、笑っても福なんか来ないじゃないか。 だが、おれの認識は、この時点ではまだ甘かった。否、むしろ甘すぎるぞばかやろう、と自分を殴りつけてもいいくらいだった。 相手の話を聞くにつれ、おれは関羽を説得したことを本気で後悔し始めていた。 しかし、神ならぬ身に、この展開を予測しろ、というのはいくらなんでも無理だと思います。だからそんな眼で睨まないで、関将軍。「……つまり、私たちに、陶州牧の軍に加われ、ということですか?」 わなわなと震えながら、関羽が確認をとる。 その背に鬼神を見る思いなのは、おれだけではない。この場にいる全員が同じことを思っていただろう。ああ、馬鹿息子2人は除いて、だが。 その馬鹿息子の弟が、再度、先の発言を繰り返す。あえて聞こえなかった振りをした関羽の心中を慮る様子もない。光栄のあまり、聞き漏らしたとでも思ったのかもしれない。「それだけでない。我らが父はそなたらの武勇を高く評価しておる。くわえて、そなたとそなたの主は、なかなかに器量が良い。さすがに平民を妻に迎えることはできぬが、2人は側女として我ら兄弟に仕えることを許そう。そなたらにとっては望外の幸福であろう」 そういって、陶応は好色そうな視線を、玄徳様と関羽の身体に走らせた。 ――つまりは、そういう申し出だった。 婚姻によって有力者と結びつこうとする方策は、日本でも中国でも珍しくはない。身分の高い者の中には、女性とはそういうものなのだ、と考えている者もいるのだろう。 おれは男女同権をうたう世界から来た上に、当初から、張姉妹や玄徳様たちのような個性の強い女性たちと出会っていたから、どちらの世界であれ、女性蔑視という偏見は持っていなかったが、実際、劉家軍の中にも、軍を率いるのが、玄徳様や関羽といった女性であることに不満を持つ者は少なからずいたのである――もっとも、そういった者たちは大概、すぐに立ち去るか、訓練から逃げ出すかで姿を消したが。 まして、劉家軍の外を眺めれば、まだまだ女性の身分は低いものであることを悟らざるをえない。曹操や孫堅、あるいは馬騰といった女性の君主というのは稀有な例なのである。 だからして、陶謙の息子たちのような申し出をする者がいることは、決して不思議なことではなかった。なかったが、しかし、せめて言って良い相手と良くない相手を見抜く眼力くらいは持ってろよ! おれは心中で思わず、そう叫んでいた。 怒り狂う関羽を前に、平然とそう言ってのけるあたり、陶応が女性を対等の人間として見ていないことは明らかだった。 女性が男性に刃向かう、ということが理解できないからこそ、相手が怒っているということがわからないのである。 そして。 いかに相手が州牧の子息であろうと、関羽がこの手合いに遠慮する筈がなかった。ましてや玄徳様を愚弄するような相手の態度を、許す筈がなかった。 正しく神速。 瞬きすらせぬ間に、関羽の青龍刀が陶応の喉元に擬せられた。「……なッ?!」 数秒の後、ようやく事態に気づいた陶応が驚愕の声を発し、関羽の無礼を咎めようと口を開きかけたが。「……ひッ」 真正面から相手の目を見て、陶応は小さく悲鳴をあげた――ようやく気づいたのだろう。自分が竜の逆鱗に触れた愚かな人間であるということに。 言葉を失った弟に代わり、兄が口を開く。「ま、待たれよ。自分が何をしているのか、理解しておるのか?!」「ええ、この上なく正確に。私自身に対する侮辱は措きましょう。しかし、我が主桃香様にたいする侮辱は許しがたいのですよ……貴公らの死を以ってしか償えないほどに」 それは、かつておれが1度も見たことがないような、冷たい怒りに満ちた関羽の姿だった。 その姿を見て、関羽の行動が、1州を支配する陶謙を敵にまわすことを理解した上でのものであることを、陶商は悟らざるを得なかった。 落ち着こうと務めながらも、声が上ずるのを抑えることができない。「そなただけではない、この場にいる者全てが同罪となるのだぞ。それでも良いのか?!」 陶商は周りを見渡すが……返って来たのは、関羽と同質の視線と感情であった。 無論、皆、本気ではない。いまだ陶応の首がつながっている時点で、劉家軍の面々は関羽の狙いを察してはいたのである。 だが、本気ではなくとも、その感情は真に迫ったものであった。陶応の言に腹を立てているのは、関羽だけではないのだ。 そして、他者の感情を推し量ろうともしない者たちに、その機微が理解できるはずもなく。 陶姓の兄弟は、自分たちが思いもよらない窮地に立たされたことを、ようやく実感したのであった。■ そんな、うろたえる兄弟に救いの手を差し伸べたのは、新たに天幕に入ってきた人物であった。「――愚息の無礼は、この老父がいかようにもお詫びするゆえ、そこまでにして頂けませぬかな」 緊迫感に満ちた空気の中、姿を現したのは、老年に差しかかった年頃の男性であった。 その背後には数名の文官が続いている。 その台詞から察するに――「劉家軍の勇士らには、初めてお目にかかる。徐州の牧 陶恭祖と申す。愚息の礼を失した行い、まこと申し訳ない。許しがたいところではあろうが、どうかこの老骨に免じて、寛恕を賜れぬだろうか」 そう言うや、陶謙は玄徳様に向かって深々と頭を下げたのである。 これには、玄徳様のみならず、関羽も驚いた。「ひゃッ?! あ、あの頭を上げてください、わ、私、そんなに気にしたりはしてないので! ほ、ほら、愛紗ちゃん!」「むう……本当なら、もうすこし灸を据えてやりたいところなのですが」 関羽はそう言いつつも、玄徳様の言葉に応じて、青龍刀を引っ込めた。 陶謙はそれを見て、小さく息を吐く。「かたじけない。そして、重ねて無礼をお詫びする。愚息が貴殿らの陣に向かったと聞き、慌てて参じたのであるが……手遅れであったようだ」 そういう陶謙に噛み付いた者がいる。たった今、救われたばかりの息子であった。「父上、何をのんびりと! この者らは我らに刃を向けたのですぞ。ただちにひっとらえて、八つ裂きにしてやらねばなりません!」「応の言うとおりです、父上。孫乾たちも、何をぼんやりとしているのだ。早くこの者どもを捕らえよ」 陶謙は、遣る瀬無さそうに力なく首を横に振ると、背後の孫乾たちに、目顔で促した。 心得た孫乾らは、兄弟を囲むようにして天幕の外に連れ出してしまう。2人とも、何か騒ぎ立てていたが、彼らを気にかける者は、もうこの場にはいなかった。 陶謙は、この場で息子たちが何を口にしたのかを聞くと、改めて頭を下げ、その無礼を詫びた。「あれらは、戦場というものを知らぬので、貴殿らの勲の意味が理解できぬ。れっきとした将を前に、側女に、などとその場で切り捨てられていても何らおかしくない暴言じゃ」 ただ、と陶謙は言葉を続けた。「わしが、貴殿らを高く評価していたというのは、真のこと。未だ定まった官位もなく、領地も持たぬと聞き、かなうなら、我が徐州にお招きしたいものと考えておったのじゃが……」 陶謙は疲れたような、力ない笑みを浮かべて、首を横に振った。「愚息のあのような醜行を前にしては、そのようなこと、望むべくもありませぬな。許して頂けただけで大慶と申すべきことじゃ」 そう言うと、陶謙はさらばと告げて、背を丸めて出て行ってしまった。 うーむ、実に礼を知る人だ。どうしてあんな父から、あんな兄弟が生まれるのだろう。謎だ。 おれがそう言うと、皆、うんうんと賛同の意を表した。■ ところで、もしかして、今のは陶謙が徐州を劉備に譲る歴史に関わるやり取りだったのだろうか。 状況的に、まだその時期はずいぶん先の話だが、すでにこの時期に曹操が皇帝を擁したという点からして、タイムスケジュールは大きく異なっているし、やはりおれの知る歴史の知識は、大して役に立ちそうもないな。 よくよく考えてみれば、まだ黄巾の乱だって終わってはいないのだ。運良く、連合軍と董卓軍とが戦っている最中は動きがなかったようだが――そこまで考えて、おれは一瞬、嫌な予感をおぼえた。 考えるまでもなく、今回の戦いは、黄巾賊にとっては、絶好の機会であった筈である。各地の諸侯が精兵を率いて国を出たのだから、賊徒にしてみればやりたい放題だろう。無論、各々、守備の兵力は残しているだろうが、それでもじっとしている理由はどこにも見当たらない。 そして、黄巾党に属していたおれは、黄巾党がただの賊にとどまらない規模の組織であることを知っていた。兵士たちへの、張姉妹への崇敬は空恐ろしいほどだし、それらを束ねる将軍たちも、決して無能ではない。この機会を利用しようとしない筈はないのだ。 だが、実際、黄巾党はさしたる動きを見せなかった。 動かなかったのか。それとも、動けなかったのか。 動けなかったとしたら、何ゆえに? 例えば、内部で主導権争いをしていて、それどころではなかった。 例えば、大規模な蜂起に備え、準備に余念がなかった。 例えば、連合軍、董卓軍が本格的にぶつかりあい、互いに深い傷を負うのを待っていた。 あるいは――その全て…… この日の夕刻。 河北に領地を有する諸侯のもとに、次々と国許から急使が来た。 そして、彼らは皆、一様に同じ報告を届けたのである 黄巾党、河北諸州にて一斉に蜂起。 次々と砦を抜き、城を陥とし、その猛攻、沖天の勢いたり。 速やかなる帰国を願う。