「す、すみません。助けていただいた上に、こんなことまで……」 おれの背で、少女が恐縮したように小さく詫びてくる。 時折、耐えかねたような苦痛の声が漏れるのは、下半身に負った火傷と、そして先日の戦で受けたという太ももの矢傷のためだろう。「無理して喋らないでいいよ。とりあえず、火から遠ざかるから」「は、はい――セキト、みんなちゃんといますか?」「ワンッ!」 大丈夫、と言いたげに尻尾を振るセキト。そしてセキトに続く動物軍団。 大変な事態のはずなのだが、どうにも和んでしまう光景ではあった。 安全と思われるところまで逃げてきたおれたちは、そこでようやく互いの名を知ることができた。 少女は、高順と名乗り、何度もおれに頭を下げる。 聞けば、あの邸は高順が世話になった人物のもので、セキトたちはその人物に飼われていたそうな。犬猫のみならず、象まで飼うとはよほど動物好きの人らしい。 ただ問題は、どうやら彼女らが董卓軍らしい、ということである。 今回の放火を企んだ者の目的が、連合軍の掃滅にあることは明らかである。必然的に、今回の挙は董卓軍によって行われたものだ、と人々は考えるだろう。 火災の被害がどこまで大きくなるかは不明だが、鎮火した後、被害を受けた民衆や兵士たちが犯人探しをすることは必至である。それに捕まれば、無事では済むまい。 色々と考えてみたが、名案と呼べるほどのものも浮かばず、結局おれはそのまま劉家軍の陣に戻ることにした――高順を見た関羽に怒られるのを覚悟の上で。■■「ふわあ、動物がたくさんいるねえ」「おおー、お兄ちゃん、あの鼻の長いのは何なのだッ?!」 感激したように目をきらきらさせる玄徳様と、象を見てはしゃいでいる張飛。 そして……「無断でいなくなったと思えば……一体、どこで何をしていたのだ、おまえは」 口許をひくつかせた関羽が、鋭い視線でおれを見据えてくる。 その視線が、おれの傍らにいる高順にも向けられ、高順はその迫力に身を竦ませる。「あ、あの、北郷さんは、私を助けてくれて……その……」 口ごもりつつ、それでもおれをかばおうとしてくれる高順。ええ娘やなあ、同じ黒髪でもえらい違い……「……何か、言ったか?」「い、いえ、決して何も、一粒たりとも言ってはおりません!」 炎も凍りつきそうな極寒の視線に、おれは体を硬直させる。「あ、あのー、愛紗ちゃん。もういいんじゃないかなー、なんて思うんだけど。ほら、一刀さんも無事だったんだし、この子も助かったんだし」「――いいえ! 信賞必罰は兵家の基本。この緊急時に、断りもなく部隊を離れるなど、許されることではありませぬ」 おそるおそる玄徳様が出してくれた助け舟は、関羽の鉄壁の防備に傷1つつけられずに撃沈された。「う……そ、それはそうだけど、ほら、そのおかげで、高順ちゃんや、この動物たちも助かったんだし。愛紗ちゃんも一刀さんを心配してた分、余計に腹が立つのかもしれないけど――」「桃香様!」「は、はひッ?!」「私の態度に、個人的な感情など露ありません。失礼ながら、それは桃香様の考えすぎというもの……」 関羽が玄徳様に何やら言い立てようとすると、その足元に近寄ったセキトがワンと一声吠えた。「む?」 怪訝そうに足元を見下ろした関羽の視線と、つぶらな眼差しで見上げるセキトの視線が交錯する。「う……」「ワフ?」「む、むむむ」「ワンワン!」「……くッ!」 何やら会話が成立しているらしい両者の様子に、おれは高順と顔を見合わせた。 「た、確かに桃香様の仰ることも間違いではありませぬ――北郷殿!」「は、はい!」「このようなことは2度とないように願いたい。兵ではないとはいえ、そなたはまぎれもなく劉家軍の一員。断りなく姿を消せば、皆に要らぬ心配をかけるのだからな」「――わかりました」 関羽の言葉の意味を悟り、すこし言葉をつまらせながら、おれはしっかりと頷いて見せた。 玄徳様がほっと安堵の表情を見せ、口を開きかける。 すると、まるでそれを遮るように兵士の1人が血相を変えて、この場に飛び込んできた。「も、申し上げます! 関将軍はいらっしゃいますでしょうか?!」「どうしたのだ、そのように慌てて。風向きが変化したのか?」「い、いえ、それが、消火活動をしていたところ、火の中から化け物が現れまして、兵たちと衝突しております。至急、お越し願えませんでしょうか!」 その報告のあまりの突飛さに、その場にいた全員が、ぽかんと口を開けた。■■ 高順を怪我の手当てのために陣に残し、おれたちはその化け物とやらが暴れているところに駆けつける。おれは、火災で混乱した兵士の妄言か、と思っていたのだが――「ああ、確かに化け物かも」 おれはそれを見て、小さく呟く。「うーん、多分人間だと思うから、それは失礼なんじゃないかな?」 玄徳様は困ったように首を傾げる。「人間……なのでしょうか、あれは?」 関羽が疑わしげに、それに視線を注ぐ。「鈴々知ってる! あれは変態というのだ!」「はわわ、ど、どうしよう、雛里ちゃん。変態さん用の兵法ってある?」「あわわ、そ、そんなのないよう、どうしよう、朱里ちゃん?」「ふーむ、さすがは洛陽の都、けったいな者がおるのう」 諸葛亮や簡擁までがそんなことを言い出す始末であった。 しかし、それもまたむべなるかな。 紐のような下着をつけただけの、筋骨逞しい半裸――というより、あれはもう全裸ではなかろうか――の男を、他にどう形容しろというのだろうか。「あらあらあらあら、黙って聞いていれば言いたいことを言ってくれてるわねん」 その化け物――もとい、その男は、掴んでいた兵士の身体を放り投げると、言論の自由を行使するおれたちに向かって、一歩、足を踏み込んでくる。 その迫力に押されたように、おれたちは一歩後退する。 戦えないおれは、せめて戦う人を応援しようと声を出す。決して、嫌な役を押し付けるためではない。「さ、さあ、関将軍、がんばってください!」「な、なに?! 私にあれの相手をしろというのか?!」「兵士たちでは相手になりそうもないですし、やはりここは将軍の出番ではないかと愚考する次第」「なにが『愚考する次第』か! 将軍というなら、鈴々だっているではないか!」「いえいえ、さすがにここで張将軍の名を出すのは、良心が痛みますゆえ」「――ほほう、それはつまり、私なら良心は痛まぬということか?」「そういう解釈の余地もあるのではないかなと思わないでもありません」 自分でも何を言っているのかよくわからなくなりながらも、おれは関羽に言い切った。 そんなおれに、周囲からの援護射撃があたえられる。「さ、さすがに鈴々も、あれにはかないそうもないから、愛紗に譲るのだ」「あ、愛紗ちゃん、えっと、その……が、がんばって!」「はわわ、か、関将軍、兵隊さんたちの治療は任せてください!」「あわわ……しょ、将軍、御武運を」「飛将軍と伍す雲長殿のお力、思い知らせてやりましょうぞ」 おれたちの息の合った連携に、関羽が呆れたようにため息を吐いた。「全くもう……」■「あなたが私のお相手かしら?」 男は丸太のごとき腕を隆々としごきながら、ずいっと関羽に詰め寄る。 関羽は青龍刀を握り、構えを取る。「どうやらそのようだ。悪いが、手加減せぬぞ」「うふふ、したらあなたの負けよん」「良くいった。我が名は関羽。冥府で、貴様を討ち取った者の名を問われたら、答えるがよい。自分は劉家軍の青龍刀に討たれました、とな」「ならばこちらも名乗りましょう。私の名は貂蝉。洛陽一の踊り娘にして、荒廃した世を癒す、美々しき一輪花とは私のことよ!」 貂蝉のウィンクを受け、関羽がわずかに動揺の気配を見せる。「そ、そうか、おぼえておこう」 だが、すぐに立ち直ったのは、さすがに音に聞こえた関雲長。 関羽は貂蝉を見据えて、声高に告げた。「――では、参る!」「受け止めてあげるわあん!」 かくして、何だか良くわからない死闘が幕を開けそうになる。 すぐ近くで大火が起こっているというのに、何をやっているんだ、とは誰も思わなかった。皆、多かれ少なかれ、貂蝉の存在に意識の一部を麻痺させていたのかもしれない――あまりにショックなことが起こると、脳が防御作用の1つして行うという、あれである。 それは、貂蝉と初めて会った者には回避不可能な症状であり、必然的に劉家軍の面々は避けることができなかった。もし、この戦いを止められる者がいるとすれば、それは貂蝉と面識を持ち、なおかつ貂蝉と劉家軍との戦いを止めたいと願う者しかいないだろう。 それはたとえば。「ま、待って、待ってくださいッ!」 可憐な声を張りながら、息せき切って貂蝉たちの間に割って入った女の子のような人物である。 その声と、そして人形のような端正な容姿を、この場にいる者たちは知っていた。「あらあら、どうして出てきたの、月ちゃん?」 貂蝉が攻撃の動作を止め、困ったように腕組みする。「と、董太尉?」 関羽が目を瞬かせて、眼前の少女を見つめた。 そして、貂蝉と関羽は互いに顔を見合わせ、同時に首を傾げるのであった。■■ 長安を目指し、一路、西へと進む董卓軍。しかし、すでにその実態は、王允が組織した皇帝軍と化している。 ともすれば、洛陽を懐かしんで足を止める民衆を追い立てながら、王允は函谷関へと急いでいた。函谷関さえ越えてしまえば、後は敵の追撃を恐れる必要はなくなるからである。 とはいえ、もう追撃の心配はほとんどない、と王允は考えていた。 今のところ、追ってきているのは、あの曹操だけだということだし、これには味方の徐栄将軍を差し向けているから心配はないだろう。 未だ10万を超える兵力を抱えている連合軍が、一転して追撃に移る可能性もゼロではないが、洛陽に仕掛けた罠が機能すれば、連合軍は少なからぬ損害を被る筈。少なくとも、追撃を行う余力は残るまい。 王允が様々に思案していると、後衛からの伝令がやってきた。「申し上げます! 徐将軍よりの伝令です!」「申せ」「は! 徐栄軍が、追撃してきた曹操軍を撃退したとのこと。敵将は取り逃がしましたが、敵軍の食料、武具など鹵獲品が多数あり、曹操は継戦能力を失ったものと思われます!」 「――そうか。それは陛下もさぞお喜びになることだろう。しかし、敵将を逃したのは、徐将軍らしからぬ不覚よな。ただちに追撃に移るよう伝えよ。曹操の首をとった者には、万金と、将軍の称号が与えられるであろう」「かしこまりました!」 伝令が去ると、王允は胸中で安堵の息を吐いた。 同時に、その口許には小さな笑みが浮かぶ。「曹孟徳、か。出来れば、こちらに取り込みたかったのだが、あのような覇気の持ち主が籠で飼えようはずもなし。勢力を肥らせる前に討ち取っておかねばならん」 王允はさらにいくつかの指示を下すと、皇帝の御前に参上した。 皇帝といえど、まだ年若い少年である。洛陽からこちら――否、皇帝に即位してからこれまで、王允の言葉に従い、強行軍でここまでやってきた為、その顔には疲労と憔悴の色が濃い。くわえて、豪奢な馬車を使っているとはいえ、揺れ続ける車上で満足に寝ることもできず、疲労は蓄積される一方なのである。 王允は、皇帝の健康を案じてはいたのだが、安全と思われる場所につくまで、足を止めることができなかった。だが、明朝にも、皇帝軍は函谷関を視界にとらえる。そうすれば、ゆっくり休息をとることもできるだろう。 そのように言上する王允に、皇帝は穏やかな声を投げかける。「良いのだ、王允。そなたが漢朝と朕のことを思って奔走してくれていることは承知している。この程度の労苦で音を上げていては、幾たびも戦場を疾駆し、楚の覇王と矛を交えた高祖に笑われてしまうだろう」 だから、自分の身体のことは気にする必要はない。 そういう皇帝の姿に、王允は知らず瞳を潤ませていた。「ところで、王允。1つ聞きたいのだが」「何なりと、陛下」「洛陽を出てから董卓殿の姿を見かけぬが、何かあったのか?」 皇帝の問いに、王允は表情をかえずに返答する。「は。董卓殿は虎牢関より撤退してくる自軍をねぎらうために洛陽に残られました。洛陽には李確、郭汜、李儒らが残っておりますので、心配はいらないと存じます」「うん……王允、本当にそう思うのか?」 皇帝は不安げに眉をひそめ、言葉を続けた。「このようなこと、申すべきではないかもしれぬが、朕はどうもあの者たちを信じることができぬ。主である董卓殿を軽んじる言動も、臣下として褒められたものではないと思うのだが……」 王允は、皇帝の洞察に感じ入ったように、大きく頷いた。 皇帝は、王允が行った数々の策略を知らぬ。それゆえ、その言うことは現状からすれば見当違いのことであるのだが、年齢に似合わぬ眼力は、正しく相手の特徴をとらえていた。 長年、欲と権勢にまみれた宮廷を間近で見続けてきたゆえに、人の表裏には鋭敏なのだろう。 王允は落ち着いた様子で口を開いた。「御意、たしかに全幅の信頼をおける者たちではありませぬ。しかし、漢朝が彼らに利をもたらす限り、叛する恐れはございません」 王允はそう言うと、さらに言葉を続ける。「陛下、人は皆、我欲を抱いているものでございます。たとえ気に染まない者であろうとも、これから陛下はそういった者たちの欲を見抜き、必要とあらばそれをかなえてやらねばなりません。そして、その者たちの力を用いて王朝の土台を確かなものとしていかなければならないのです」 王允の言葉に、皇帝は神妙な顔で聞き入る。「くわえて申し上げますと、陛下ご自身も仰られているように、配下への好悪の念をあからさまにするのは感心できません。皇帝とは、万人の上に君臨する存在。内心はどうあれ、全ての者に等しき態度を示さねば、公平が保てませぬゆえ」「……うん、そうだな。すまない、王允。要らざることを申してしまった。ただでさえ、そなたには政事、軍事を問わず力を振るってもらっているのだ。せめてこれ以上、余計な負担を強いることのないよう、勤めよう」「もったいないお言葉です。されど、陛下と、漢朝のために働けるは、臣としてこの上なき栄誉。私ごときのことなど、お気になさいませぬよう」 王允は恭しく頭を垂れながら、先帝の時代には一度も感じることのできなかった充足感で胸が満ちるのを感じていた。 新帝劉協は、このまま健やかに成長していけば、稀に見る賢君として歴史に名を刻むことになるだろう。そのことを王允は確信する。 漢朝の威光があまねく天下を満たし、人々が皇帝万歳を叫ぶ光景を夢想して、王允は小さく笑う。その光景が現実となる頃には、自分はもう生きてはいないだろうが、それでもそこへと至る道筋をつくることこそが自分の天命だと――そう確信したゆえの笑いであった。■■ 夜陰、眼下に無数の灯火を眺めていた曹操の背後に、静かに夏侯淵が近づく。「華琳様」「秋蘭、皇帝の居場所は掴めた?」「はい。やはりあの大天幕におられるとのこと。密偵がその姿を確認しました」「そう」 曹操は小高い丘の上から敵の陣を見つめ、薄い笑みを浮かべる。「王允もかつては将として野を駆けたのでしょうに、宮廷での生活に慣れてしまったのかしら。どこからでも襲ってくださいと言わんばかりの布陣ね。これが敵を誘う罠であれば、巨大な将器の持ち主なのだけれど」「それはないでしょう。おそらく、敵の襲撃はないものと考え、警戒を怠っているだけかと」「でしょうね。黒華に派手に負けて見せて、とは言ったけど、ここまで効果があるとは正直思わなかったわ」 追撃軍の指揮を委ねた友の顔を思い起こし、曹操は肩をすくめる。 曹操軍一万の大半を率い、衆目に触れながら追撃を行っていた張孟卓は、徐栄の軍勢とぶつかり、3万を越える敵勢をふせぎきれずに敗走した――王允たちはそう考えているのだろう。「華琳様、それは仕方のないことではないでしょうか。本軍をおとりにし、わずか数百の騎兵を以って敵中枢を叩くなどという作戦を見抜ける者は、そうそういますまい」「それ以前の問題よ。いかに敵の姿を見ないとはいえ、野営中の軍が警戒を怠るなど兵を知らぬも甚だしい。その程度の奴らが、中華帝国の最高位にいたのかと思うと、我慢ならないわ」 曹操は腰に下げていた二振りの宝剣のうち、倚天の剣を抜き放つ。 鋭利な刀身が、月光を浴びて鮮やかに煌いた。「華琳様! 出撃準備、整いました!」 夏侯惇が姿を現し、勢い込んで報告する。その背後には幾人かの将の姿がある。今回の一連の戦いで徴募した兵士の中から、曹操らが見出し、抜擢した者たちである。 楽進、字は文謙。 李典、字は曼成。 于禁、字は文則。 いずれも、これまで無名であったのが不思議なくらいの人材であり、これから長く曹操軍の中核を担うであろう俊英たちであった。 夏侯惇を筆頭に、彼らは皆、意気盛んである。それも当然。虎牢関からこちら、戦う機会が一向になかったが、ようやくその機会が訪れたのだから。それも皇帝救出という、これ以上ない晴れがましい戦とあって、特に夏侯惇などは血の滾りを抑えることができずにいた。「ご苦労様、春蘭」 曹操は夏侯惇をねぎらうと、将たちの前に歩を進めた。「みな、ここまでの強行軍によくついて来てくれた。敵は我らの近づくを知らず、未だ夢の中をさまよっている。ゆえに、勝利はすでに約束された。この上は、その勝利を完璧なものにせねばならぬ。逆臣どもに連れ去られた皇帝陛下をお救いし、漢王朝に巣食う亡霊を大地に叩き落とすのだ!」 曹操の檄に、将軍たちが『応!』と唱和する。 曹操は煌くような覇気を瞳に宿し、愛馬 絶影に跨ると、持っていた倚天の剣を高々と掲げ――一瞬の後、それをまっすぐに振り下ろした。「かかれぇッ!!」 その号令に従い、7百の騎兵が猛然と丘を駆け下りていく。 その先におぼろに浮かび上がる皇帝軍の灯火が瞬き、時ならぬ馬蹄の響きを聞いて不審そうに動き回る兵士たちの姿を映し出す。 ようやく「襲撃」という悲鳴にも似た声が聞こえてきたが――「愚か者、反応が遅い」 曹操は相手の手ごたえの無さに、失望すら覚えながら、皇帝軍の陣地に突入していくのだった。■■ その夜、王允はかつて感じたことのない充足感に包まれ、天幕の中で眠りに落ちた。 だが、皮肉なことに、夢の中で王允は過去の亡霊を目の当たりにする。 耳障りな笑い声をあげながら、女官を侍らし、酒食に耽溺する霊帝の姿であった。 王允らの諌めなど聞く耳持たず、女官に戯れては、彼女らの悲鳴を聞いては心地よさそうに笑み崩れる姿は、どこをとって見ても、中華帝国を統べる男だとは思えなかった。――元来、霊帝は無能であったわけではない。王允が拡充をはかっている羽林軍編成にしても、霊帝はこれと似た考えを持っていた。羽林軍は、兵を率いる将を皇帝直属とするのだが、霊帝はそれよりも更に一歩発展させ、皇帝直属の軍隊を創ろうとしていたのである。つまり、皇帝が将軍を兼ねる軍の創設である。 これにより、皇帝は実質的な武力を持つことになる。その影響力の増大ははかりしれない。これが完遂されていれば、霊帝は後漢の中興の祖となりえたかもしれない。 だが、皇帝の力が大きくなることを好まない輩――宦官や外戚の掣肘により、この案は棄却された。あるいは、皇帝が政治に関心を失ったのは、こういった出来事が多く積み重なっていったからなのかもしれない。 皇帝とは名ばかりで、自分がやりたいことは何一つできない。何事も為せず、ただ周囲の言葉に頷くのみとあっては、面白かろうはずはない。政治に関心を失い、権力の責任を厭い、女色酒色に溺れていくのはある意味、当然であったのだろう。それは、宦官が強い勢力を持つ後漢王朝の特色ですらあったのである。彼ら宦官にとって、無気力な皇帝ほどありがたい存在はないのだから…… 無論、だからといって霊帝が皇帝としての責任を放棄したことが許されるわけではない。 廷臣、民衆問わず、その施政で犠牲となった者は数知れず、ゆえに皇帝の死後に与えられる諡号は霊という悪名を顕す文字が選ばれたのである。 あなたは皇帝として劣悪でした、と歴史的に銘記されたのは、他者の影響があったにせよ、当人にその責の多くが委ねられるであろう。 王允とて、その評価を否定しようとは思わない。もし、ほんのわずかでも、そう思えたのならば――忠誠であれ、同情であれ――あの時、別の行動を採ったに違いないのだから。■「これは何としたことだ?!」 王允は自らの声を他人事のように聞いていた。 場所は宮廷。所は皇帝の寝所。 目の前には呆然と佇む賈駆と、ベッドの上で小さな身体を震わせている董卓の姿がある。 そして、皇帝は――自らがつくった血溜まりの中に沈んでいた。 王允は、言葉もなく凝然と立ち尽くす。 状況がわからなかったのではない。これまでの皇帝の行状から推して、この部屋で何が行われていたのか、そして何が起こったのかは一瞬で理解できた。 ゆえに、王允が戸惑ったのは、そのためではない。 王允が戸惑ったのは、状況を理解した瞬間、まるで悪魔がささやくかのように、自らの脳裏に浮かび上がった、この後の計画のせいであった。 王允は、自身を聖人君子だとは思っていない。しかし、清廉であろうと務めてはきたし、その自己評価に異を唱える人物は少ないだろう。 だが、今、脳裏をよぎった計画は、清廉とは程遠い。悪逆と言っても良いものだ。それを実行すれば、王允はこれまで築き上げてきた物のほとんどを失うことになるだろう。 すぐに決断できなかった王允は、信頼できる衛視を呼び、董卓と賈駆の2人を別室に連れ出した。どのように行動するにせよ、2人の身柄を押さえておくことは必要であったからだ。 そして、王允は事切れた皇帝と同じ部屋で、1人佇む。これからどう行動すべきか、採るべき選択肢が胸奥をかき回し、老練な王允の胸を激しく波打ってくる。 皇帝の死を事故と処理し、董卓たちに恩を売り、漢朝に協力してもらうか。 あるいはこの件を盾に、董卓たちを傀儡として、漢朝復興の生贄とするか。 王允は突然に突きつけられた選択肢に決断を躊躇い、懊悩する。 だが。 不意に。 その耳に、ありえざる声が響いてきた。 王允は、両の目を見開いて、声が聞こえてきた場所に目を向ける。 この部屋にいるのは2人だけだ。王允と、事切れた――事切れた筈の皇帝だけ。 王允が発した声ではない。となれば、答えは1つしかなかった。 皇帝は、呻き声を挙げながら、小さな血溜まりで、もがくように身体を動かしている。まだ意識を取り戻してはいないようだが、じきに目が覚めるだろう。 王允はそれと悟り、足音を立てぬよう、ゆっくり――ゆっくり皇帝に近づいていく。 自分でも何故そんなことをするのかわからなかった。大声を出し、典医を呼べば良いだけだ。頭ではそれがわかっていたのに、王允はその行動を採ろうとはしなかった。 足元に、うごめく皇帝を見下ろした王允は、不思議そうに自らの手を見る。皇帝の居室に備えられていた宝剣の1つである。 すでに鞘から抜き放っていたそれを、王允はゆっくりと刃を下に向け、皇帝の身体に擬する。 王允にとっては、まるで芝居を見ているかのような、希薄な現実感の中での行動だったが、もし傍らで見ている者がいたならば、王允の一連の動きがすべて一瞬の遅滞もなく行われていることを知るだろう。 それは、最後まで変わることはなく。 剣が肉を貫く粘着質な音と、かすかな絶命の声が、皇帝の居室に小さく響いた。■■ 王允が飛び起きるのと、配下が天幕に飛び込んできたのはほぼ同時だった。 時ならぬ夢と、許可も無く入ってきた配下の無礼に動揺しながら、王允は叱咤のために口を開きかける。 だが、顔を蒼白にした配下の兵士は、王允以上に狼狽したまま、報告を行った。「て、敵です、王司徒、敵が……!」 その言葉で、王允は瞬く間に我に返る。そのあたりは、かつて野戦の将軍として大地を駆けただけのことはあった。 だが。「どこから、どれほどの規模で、どこの軍がやってきたのだ。まずそれを報告せよ! 皇帝陛下におつかえする兵士が、敵襲ごときで狼狽するでない!」 王允の叱咤を受けた兵士は、しかしなおも慌てたままだ。「し、しかし、司徒、敵は……」「だから、敵はどこの誰なのだと聞いておる! しっかりせよ、愚か者!!」 再度の叱咤。 その答えは、思わぬところから返ってきた。「それは貴方自身に向けるべき言葉ね、王司徒」「な、なにッ?!」 夢の中に続き、またしてもありえない声を聞いた王允は、天幕の入り口に目をやり――そして、そこに予期したとおりの人物を認め、あえぐような声をあげた。「そ、曹操……」「いかにも、曹孟徳である。夜分、失礼とは思ったが、司徒に火急の用件があり、参上仕った。寛大な御心にて、お許し賜らんことを」 恭しく、まるでここが宮廷ででもあるかのように、優雅に礼をする曹操。 だが、その剣はすでに血に濡れ、曹操の足元に小さな血溜まりをつくりつつあった。「どのような用向きあって、このような夜分にやってきたのだ?」 王允は置いてあった武器を手元に引き寄せながら、ゆっくりと体勢を立て直していく。「そろそろ、この茶番劇に付き合うのも飽きてきたものだから、脚本の変更を要求しに」 曹操は王允の動きに気づきながら、まるで意に介することなく、言葉を連ねていく。「脚本だけではない。英雄たちが覇を競うべきこの演目に、相応しからぬ役者が多すぎるのよ、あなたを含めて」「……私は役者不足、ということか」「そのとおり。中華の大地も、そこに生きる者たちも、あなたたちの玩具ではない。女子供を罠にはめ、小細工を弄した挙句、都を落ち延びるがごとき卑怯未練な策略で、どうして一国が成り立とうか。信なくば立たず。これは万世に通じる真理でしょう」 曹操の言葉に、王允は思わず言葉を詰まらせた。 それは、儒学を修めている王允にとって、あまりにも基本的な教えだった。 にも関わらず、反駁することができない自分に気づいた王允は、顔色を蝋のように青くさせる。 曹操は、そんな王允に射抜くような鋭い視線を向け、ゆるやかに剣を掲げた。倚天の剣が、天幕の中の灯火を反射して、あやしく輝く。 王允は対抗するように、自らも剣を構え、曹操の覇気に押しつぶされそうな心身を励ますように、口を開いた。「……漢王朝の復興なくして、真の平和は戻らぬ。そのための犠牲を恐れていては、乱世は深まるばかりなのだ。そして、その間にも多くの血と涙が流れるだろう。だからこそ――ッ!」 その言葉に、曹操は何の感慨もおぼえず、冷たい口調で応えた。「――犠牲なくして何事も為しえぬは真理なれど、それを口にして良いのは、自らを犠牲として悔いぬ覚悟と、耐える強さを持つ者のみ。人はそれを以って剛毅と呼ぶの」 曹操の剣が弧を描き――次の瞬間、倚天の剣は、王允の首のある空間を左から右へ、一閃した。 闇に沈んでいく意識の彼方――「――司徒王允。あなたに決定的に欠けていたものは、それよ」 王允は最後に、そんな曹操の言葉を聞き……苦く、呟いていた。 然り、と。