「一刀、疲れたー。お茶持ってきて。今すぐ」 はいはい、ただいま。「一刀! ぐずぐずしてないでついてきなさい! 今日は10の瓦版屋を回るんだからね!」 申し訳ありません、すぐに! 「このまえ預けたデータの洗い直し、終わったかしら。まだとは言わないわよね?」 もちろんです! ここに! 長い一日が終わり、床に倒れこんだおれは、冗談抜きで思った。 死ぬ。死んでしまう。何か大切なものが――魂とか、生気とか、そういったものが――口から出て行ってしまいそうだ。 眠る暇もない過酷な労働の連続。強制労働の場合と違い、何をやれば良いのかわからないことも、疲労の一因となっていた。 おれに与えられたマネージャー業とは、要するに張家姉妹の走り使いであった。パシリともいう。 身の回りの世話をするのが侍女たちの仕事なら、おれの仕事は姉妹が命じる様々な雑務を片付けることだ。 では、雑務とは、主に何を指すのか。 1、張角のわがままの相手をすること。 2、張宝の行動のフォローをしてまわること。 3、張梁のマネージングに必要な種々のデータ集め、資料分析等を手伝うこと。 張角は基本的にのんびりとした良い子なのだが、流石はアイドルというべきか、無自覚に人を扱き使う傾向が垣間見える。 もっとも、内容もさることながら、にじみ出るアイドルオーラによって、そういった無理難題をごく当然のことと相手に思わせてしまうあたり、実に末恐ろしい少女だと言えた。 張宝に関してだが。 張梁曰く、天性の扇動家である張宝は、行動力に溢れた活動家で、自分たちのユニットを売り出すことに全力を傾けていた。それは結構なことなのだが、張宝の行動力は往々にして適度や限度といった、度とは無縁に発揮されるため、おれは毎度毎度、そのフォローに回らなければならず、関係各所をかけずりまわる日々が続いている。 そして、張梁はというと。 そんなこんなで疲れ果てたおれの前に、種々の資料を山として置くと、明日までに統計を取りなさいとか、今日中にレポートにまとめなさいとか、無情な一言を残して去っていくのが常であった。 かくて、おれの毎日は嵐のような忙しさと騒がしさと共に過ぎ去っていく。 そんな日々に、内心、何やかやと不平をならしつつも、ふと今の日々を楽しんでいる自分に気づくことがある。 今をときめくアイドルグループに携わっているという事実と、当のアイドルたちと日常的に接することができる幸運を思えば、確かに悲観した立場ではない。むしろ、戦乱におびえる人たちから見れば、羨望に値する仕事なのかもしれない。 それに気づいてからは、より仕事に集中できるようになり、侍女の人たちとも、何かと打ち解けた話が出来るようになっていった。 気がつけば。 マネージャー業に就いてから、およそ1カ月が過ぎようとしていた。 その日は、しすたぁずの活動がお休みだった。 めずらしく、ゆっくり出来るかなあ、などと甘い夢を見ていたおれだったが、その夢は早々に砕け散る。「一刀、今日は買い物に付き合ってねー」 という張角の一言で。 無論、拒否など出来るはずもなく、おれは荷物持ちという名のお供をすることになったのである。 今いる冀州は、張角の出生地であり、当然のごとく黄巾の勢力も盛んであった。 同時に、冀州は中華帝国にとって、政治的にも経済的にも重要な位置にあり、袁紹をはじめとした軍閥の力も強い。 それゆえ、都市付近ではそれなりに治安が保たれており、賊徒である張角は顔を隠して入城しなければならなかった。 黄巾党の党首である張角の顔を知る者は多い。それでなくても、張角の容姿は目立つことこの上ないのである。しかして、本人にはあんまりその自覚がない。アイドルという職業上、変装には慣れているようだが、根本的に周囲への警戒心が欠けている。 それにお供するおれの気苦労や、推して知るべしである。ましてや、お供がおれ1人とくればなおさらであった。 これには、張梁だけでなく、ほかの黄巾の連中も反対したのだが、張角が押し通してしまったのである。おれを買って、というより、ぞろぞろと引き連れて歩き回るのが嫌だったのだろうと思われる。「あれと、これと、うーん、あ、それも全部くださいな♪」 都内でも指折りの服飾店で、そんなことをのたまう党首様。あ、店長、呆然としてるし。 まあ、当然といえば当然か。一般の民衆なら、1年は暮らせるような額の買い物を、一見さんがしているのだから。「ま、毎度ありがとうございます。その、お支払いの方は、どのようになさるおつもりでしょうか?」「一刀~」「はいはい、えーと、これで」 こっそり差し出される大量の財貨。目を見張る店長は、震える手で金を数えはじめる。 しばらく後、店長は信じられない、とでも言いたげにつぶやいた。「は、はい、確かに」 店長の視線が、目的の物が買えて、満面の笑みを浮かべている張角に向けられる。 顔は不自然ではない程度に隠れているが、これだけ近くで見れば、類まれな美少女であることは誰の目にも明らかである。 おまけに、これだけの買い物が出来る客とくれば、興味を持つなという方が無理であった。 何事か言いかけた店長に、おれはやや強い口調で、品物をまとめるように促す。こんなところで張角の正体がばれてしまえば、冗談抜きで命が危ない。余計な興味は遮断しておかねば。「か、かしこまりました!」 そういって、店長はあたふたと店の奥に消えていく。やがて、店長は妻らしき女性をともなって現れると、手早く買った品物を包装していった。 さて、荷物をもらったら、早いところ戻らなければな。そう思いながら、おれは荷物持ちの役割を果たすべく、店長から渡された品物を背負い上げたのである。 そうして……気がつけば、日が傾いていた。「あー、たくさん買えてよかったね、一刀」「は、はい、そうですね……」 まだまだいけます、と言わんばかりに元気な張角。対照的に、げっそりと頬がこけたおれ。 く、友人から、買い物に対する女の子の行動力のすさまじさを聞いてはいたが、まさかこれほどとは! 最初のうちこそ、張角のような美少女とお忍びで街中を歩くことにちょっと浮ついた気分でいたが、訪問した店舗が4つを過ぎたあたりから、おれの気力は下降の一途を辿り、いまや地面に潜っている状態である。 両手と背に負った戦利品が、ここに至るまでのおれの苦闘を如実に示してくれていると思う。「じゃあ一刀、次いってみようか」「ええ?!」 張角の一言に、思わず叫ぶおれ。 だが、張角はそんなおれを楽しそうに見ながら、小さく舌を出して言った。「と、言いたいところだけど、そろそろ帰ろうか。人和(れんほう)も、おかんむりだろうしね」「そ、それがよろしいかと……」 ほっと胸をなでおろすおれに、張角はくすくすと微笑んだ。 ちなみに、人和とは、張梁の真名(まな)である。 この時代、名前には姓と名、そして字(あざな)があったのは、良く知られているところだ。 たとえば劉備であれば、姓は劉、名は備、字は玄徳、という感じである。 だが、この世界にはおれが知らなかったもうひとつの名前があった。 それが真名。その人物が、真に心を許した者にのみ、呼ぶことを許すという、なんとも雅な風習である。 なお、この真名を本人の許しなく呼ぶことは、問答無用で斬られても文句は言えないくらいに礼を失した行いにあたるそうだ。 この風習に慣れていないおれは、特に気をつけなければならない。漢民族は礼を重んじる民。ついうっかり、ですむ問題ではないのだから。 もっとも、張角や張宝、それに張梁にしてもアイドルという職業上、ファンの人々は遠慮なく真名で呼びかけているし、張角たちもそれを気にすることはないから、このあたりは微妙な呼吸があるものらしい。 それにプライベートにおいて、姉妹を真名で呼ぶのは、お互いくらいなものである。 ちなみに張角は天和(てんほう)、張宝は地和(ちーほう)という真名を持つ。 なるほど、それで天公、地公、人公になったのだな、と納得したのは少し前のお話だった。「待ちな!」 考えこむおれの耳に、荒々しい呼びかけが飛び込んできたのは、城門を潜って少し歩いた頃であった。 城門は日の入りと共に閉じられるため、あたりにはほとんど人影はない。 おれたちの前に立ちはだかったのは、いかにも盗賊然とした格好の男たちが3人。「ずいぶんと、懐が豊かみたいじゃねえか。おれたちにも、少しわけてくれよ」「そうそう。それに、そんな美人は、おまえみたいな小僧にゃもったいねえ。なあ、兄弟」「まったくだ。世の中にゃあ、釣り合いってもんがあるからな」 そういいながらも、男たちはすでにそれぞれ武器を抜き放ち、これみよがしにおれの前にちらつかせている。 武器を持った大人が3人。しかも、見るからに人相が悪く、おそらくこういった行為に慣れている手合いであろうと思われた。 正直、かなりやばい状況である。おれも念のため、腰に剣を差してはいたが、3人を同時に相手どることなど出来るはずもない。 だが、それにも関わらず、おれは落ち着いていた。というのも、3人の頭に黄色い布が巻かれていたからである。党首に刃を向けていることに気づいていないのであろうが、変装を解いて張角の顔を見れば、たちまち退散することだろう。それが、おれの余裕の源であった。 だが。「あなた達なんかが、私と釣り合いがとれると思ってるんですか?」 そういって、おれの腕を抱え込む張角。腕に感じる柔らかさに、おれの顔が一瞬で真っ赤になる。「それに、この人はすっごく強いんですから。あなた達なんか、こてんぱんにのされちゃいますよ!」 って、え、え?? あの、もしかして張角様。喧嘩売ってませんか?「なんだと、このアマ!」「そんなほそっこいガキに、おれたちが負けるとでもいうのか!」「はん、てめえの目の前で、恋人をたたき殺してやるよ!」 そして、良い感じで激昂する盗賊の皆様。 うわあ、目を血走らせてるよ。殺る気満々ですね。あと、恋人じゃないです。「一刀、がんばって~♪」 そして、いつのまにやら安全な後方へと下がり、おれに声援を送る張角。 待て待て。張角が正体を明かせば済む話でしょうが?! だが、おれがそれを言う間もあらばこそ。 盗賊たちは一斉におれに向かってきやがった。こうなれば、おれも剣を抜かざるをえない。 仕方なく覚悟を決めながら、おれは心中、ひそかに張角に向かってつぶやいていた。 コノアマ、イツカヤッテヤル…… 結果だけを言えば、おれはなんとか盗賊たちを追い返すことに成功した。 もっとも、本拠に戻ってきたおれたちの前には、党首の帰りをいまや遅しと待ち構えていた人たちが、てぐすねひいて待っていた。「で、こんな泥だらけになって帰ってきた、と?」 心底あきれ果てたような張梁の眼差しが、傷ついた心身に一際沁みる。「ずーるーいーー! 姉さんと一刀ばっかりお買い物を楽しんでたなんてーー!!」 心底憤ったような張宝の叫びが、疲労した心身に一際堪える。 いや、どっちも、おれより張角の方に責任があると思うんだけど、気のせいかしら。 だが、当の張角はそ知らぬ顔で、おれの手当てを続けるばかり。おれを弁護する気はさらさらないらしい。 ちなみに、驚いたことに、張角の手当ては堂に入ったものだった。そういえば、太平道は病気や怪我の治療も行っていたっけか。党首である張角が、その方面に長けていても不思議はないのかもしれない。 とはいえ、そもそもの原因は張角なわけで、感謝するには複雑なものがあったりするのだが。一体、何だってあんなことをしたんだ、張角の奴は。 そのおれの疑問は、次の張梁の台詞であっさりと答えが出た。「姉さんも、一刀のことを認めさせるためとはいえ、こんな危険なことをしないで下さい。もし、一刀が負けていたら、どうなったかわからないんですから」 へ?「……気づいてなかったの? あなたのことを悪く言っている人たちは少なくなかったのだけど。良いのは顔だけだとか、腰巾着とか、それはもういろいろなバリエーションの讒言が届いてるのよ」 マジデスカ。いや、素で気づかなかったな。とはいえ、おれのような新参が、党首の傍近くに仕えていれば、古くからいる部下たちが不満に思うのも当然か。自分のことにかまけてばかりで、ちっとも思い至らなかった。 もっとも、マネージャー役なんて、のぞめばいつでも代わってやるのだが。「そんなことは、私たちが認めません。盗賊まがいの大男どもに、始終近くをうろつかれたら、たまったものじゃないわ」 張梁の言葉に、この時ばかりは張宝も同意する。「そうそう。まあ、最近はようやく一刀も使い物になるようになってきたしね」 それはどうもです。 あれ、ということはもしかして、今日のことは?「ふふ、たまたま、偶然ですよ」 ようやく、会話に加わる張角。 いつもと同じ、裏表の感じられない、ホケッとした声なのだが。 おれの視線を受けて、張角は小首を傾げ、にこにこと微笑んでいる。 あるいは、おれは大きな勘違いをしていたのかもしれない。おれはふとそんなことを思った。 だが、物思いにふけることができたのは、ここまでだった。「一刀、明日はあたしに付き合いなさいよ!」 決め付ける張宝。いえ、おれ怪我してるんですけど?!「そんなの、気合で直しなさい! 明日はあたしに付き合うこと! 良いわね!」 うう、了解いたしました…… うな垂れるおれに、隣の張梁がとどめの一言。 「それはかまわないけど、昨日渡した資料、明日までに完成させなさいよ?」 ……あ゛「あはは、一刀も大変だね~」 我関せずと朗らかに笑う張角。 3姉妹にいい様に扱き使われる日々は、これからも当分続くようだった……