後漢王朝の都として、長年に渡り繁栄を謳歌していた都市 洛陽。 中華の各地から人が集まり、そして中華の各地へ人が散っていく街。 光武帝劉秀が築き、歴代後漢王朝の皇帝たちによって受け継がれてきた歴史と伝統ある都は今、繁栄の果てに、斜陽の時を迎えつつあった――きわめて人為的に。 洛陽の街は今、人々の悲哀の声に満たされていた。 住民たちは持てるだけの家財道具を持たされ、泣き叫びながら西へ西へと移動しているのである。 漢の都、花の洛陽を離れることを望む住民など居はしない。その移動は、兵士たちに強要されてのものであり――そして、武器を片手に、住民たちを追いやっているのは、董卓軍の軍装をした兵士たちであった。 賈駆は遠目にその状況を見やって、唇を噛み締めることしか出来ない自分を呪い、壁に拳を叩き付けた。 鈍い音を立てて、賈駆の拳から血が滲み出し、瞬く間に腫れ上がる。 だが、賈駆はそんなことは気にもかけず、更に壁を打とうと、拳を高く振り上げた。「え、詠ちゃん……駄目だよ、そんなことしたら」 そういって、慌てて賈駆の腕を掴んだのは、親友であり、主君である董卓だった。 常は思慮深い賈駆の惑乱を間近で見て、瞳に涙を湛えながら、懸命にそれ以上の自傷行為を止めようとする。「月……ごめんね。ボクがだらしないばっかりに……」 虚ろな視線で自分を見る賈駆に、董卓はきっぱりと首を横に振ってみせる。「詠ちゃん、そんなこと言わないで。悪いのは、わ、私なんだから……詠ちゃんは、悪くなんか、ないんだよ?」 そう言いながらも、しかし董卓の目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。 毅然と話さなければ、と思ってはいても、自分のしでかしてしまった罪を思えば、平静ではいられなかったのである。 主君殺しは親殺しに次ぐ大罪。その罪を犯した者は、出来うる限り残忍な処刑を行い、後に続く者が出ないようにするのが古来からの習いであった。 まして皇帝殺しともなれば、本人だけではなく、九族まで探し出して殺戮されかねない。董卓には未だ子供はいなかったが、郷里には父母がおり、幼い弟妹たちが戦乱を避けて暮らしている。その彼らにまで、血塗れの刃は届いてしまうだろう。 今でこそ、董卓がやったことを知るのは、王允を含めて数名の高官だけだが、彼らは董卓たちに利用価値がなくなれば、すぐにでもその事実を公表するだろう。そのことを、董卓はすでに覚悟していた。ただ、罪を犯した自分が命を奪われるのは当然だが、郷里の家族には無事でいてほしい。今、董卓の望みはそれだけであった。 そして賈駆は、董卓がそう考えていることに気づいていた。ずっと宮中に幽閉されていた董卓は、朝臣たちの指図の下で、賈駆が洛陽の民衆へ行ったことを知らない。知れば、董卓はもっと苦しむことになるだろう。だからこそ、賈駆は全てを独断で処理していたのである。 天下に興味を持たなかった董卓を都の政変に巻き込んでしまったのは自分であり。 政争にかまけて、董卓を皇帝から守れなかったのは自分であり。 董卓を守るために、手段を選ばなかったのは自分である。 だからこそ、董卓にこれ以上余計な負担をかけるわけにはいかない。なんとか王允たちの隙をついて董卓を解放し、董卓とその家族を、役人の手が及ばないところに逃がしてあげなければならない。それさえ出来れば、あとは自分が大罪の首謀者として処刑されれば良い。賈駆はそう考えていたのである。 それゆえ、今日になって王允たちから宮廷の一室に呼び出されたときは、何事かと緊張した。 華雄が破れ、汜水関が落ちたという報告はすでに届いている。 あるいはそれに対する叱責かとも考えた。 今頃、連合軍は虎牢関に押し寄せている頃だろう。呂布と張遼であれば、容易く敗れることはないだろうが、後方からの支援がほぼ皆無である現状では、あの2人とて長くは戦えまい。 虎牢関を抜ければ、洛陽までさしたる難関はない。王允たちに隙をつくる、という意味ではその状況も都合が良いが、かといって連合軍に董卓を捕らえられれば、結果は変わらない。 そうして、様々な状況を考えながら、賈駆が呼び出された一室にやってくると、そこにはなんと董卓の姿があったのである。 予期せぬ再会に戸惑いながらも、喜びを隠せない2人。 だが、喜びの感情が一段落すると、王允たちが何を考えているのかが気になってくる。 その理由はじきに明らかになった。洛陽の街全体が騒然とし、住民たちが追い立てられるように城外に出されていくのを見れば、王允たちが何を考えているのかは容易に察することができた。 長安への退却。いや、住民ごと連れて行こうとしているところから見て、都自体を移すつもりか。200年に喃々とする帝都洛陽の歴史に終止符を打つ愚挙、そしてその罪を董卓に擦り付けようとする王允たちの意図を察した賈駆は、激昂に駆られて、壁に手を打ちつけたのである。■■「ふふ、董太尉におかれましては、ご機嫌麗しゅう」 言葉もなく立ち尽くす2人の前に、1人の文官が姿を現した。 端麗な容姿をした男性なのだが、その目に浮かぶ暗い光が、見る者にマイナスのイメージを強く植えつけてしまうだろう。 賈駆は咄嗟に董卓を背にかばうと、入ってきた人物に鋭い視線を投げつけた。「李儒、何の用?」 すると、それを聞いた男――李儒は目を怒らせて、賈駆に罵詈を投げつけた。「黙れ、小娘が! 貴様ごときが何の故をもって私の名を呼ぶのかッ!」「なッ?!」 平時は腰が低く、卑屈ともいえる態度で接してくる李儒の豹変ぶりに、賈駆はつかの間、言葉を失った。 李儒は董卓の父である董君雅の一族の端に連なる者である。犀利な頭脳の持ち主で、これまでいくつもの献策をし、そのほとんどを成功させてきた。ただ、その策の多くが陰謀に類するものであり、李儒自身、自分の才能に酔い、手段と目的を取り違える一面を持っていた。 賈駆はその性情を危惧し、董卓の代になってからは極力李儒を董卓から遠ざけてきたのである。もっとも、不当に貶めたわけではなく、一族の1人として、その立場に敬意は払っていた。それは董卓ならびにその父董君雅の心情を賈駆が思いやったからである。 李儒自身、董卓や賈駆に対して不満をあらわにすることはなく、粛々と自身に課せられた責務を果たし続けてきた。賈駆も、最近は態度を徐々に軟化させており、董卓軍が都を制したのを機に、そろそろ董卓軍の枢機に関わる立場についてもらおうか、と考えていた矢先であった。「おっと……声を荒げて申し訳ありませなんだ」 李儒は激情を瞬時に鎮めると、董卓たちの見慣れたいつもの笑みを浮かべる。 だが、その感情の浮沈の激しさが、董卓たちの背に冷たいものをはしらせていた。 賈駆が怖気を払うように、声を張って詰問する。「改めて問う。李文優……何用あって参じたのか?」「おやおや、天下に名を知られた賈文和ともあろう御方が、私ごときの意図1つ、推察できないのですかな? まあ、貴殿の策が今日の事態を導いたことを思えば、貴殿の才腕など知れたものでしょうけれどね」「くッ」 李儒の嘲りに、賈駆は唇を噛み締める。李儒の意図はどうあれ、その言葉はまぎれもない事実であるから。 董卓が何事かを言おうと、賈駆の前に出ようとするが、賈駆は自分の身体を使って、それを制した。 今の李儒の前に董卓を出すのはまずい。李儒の様子から、そう判断せざるを得なかったのである。 その様子を見た李儒の目に、ほの暗い光が差す。「貴様らのような小娘どもが、この私を軽んじおって。董家がここまで大きくなれたのも、私が政敵をことごとく排除したからではないか。それなのに、父娘そろって恩を知らぬ者たちよ。奇麗事だけで統治が為せると思うておるのか」 言いながら、顔の右半面を手で押さえ、俯くように顔を下に向ける李儒。 低い笑い声がその口から漏れ出てきた。 顔を下に向けたまま、李儒はなおも言葉を紡いでいく。「そうだ、これは天命。我が才は漢朝の復興をなすためにこそ授けられたる物。ふふ、董家での臥薪嘗胆、これすべて天命ゆえのことと思えば、腹も立たぬ」「漢朝の復興……?」 賈駆は李儒の言葉に看過し得ないものを感じた。 疑問には思っていたのだ。 そも、住民たちを追い立てる董卓軍の兵士たちは誰の命令で動いているのか、と。 何故、これまで頑なに董卓と賈駆を会わせようとしなかった高官たちが、急に2人を会わせるような真似をしたのか、と。 それは、もはや董卓軍を動かすにおいて、賈駆の力を利用する必要がなくなったからではないのか。董卓の存在がなくても、董卓軍を動かせるようになったからではないのか。「まさか、李儒、あなた………ッ!」 賈駆がその可能性に気づき、声を高めた。 顔の半面を押さえたまま、李儒は董卓たちに顔を向ける。隠れていない左の目が、正視しがたい光を放った。「ようやく気づいたか。すでに董卓軍は貴様らのものではない。李、郭、徐の3将は朝廷への忠誠を誓約した。今や、我らは皇帝陛下の親衛隊、偉大なる羽林の軍よ」 李儒は半面に嘲りの色を浮かべ、言葉を続ける。「そうそう、王司徒よりこれまでの労を感謝する、とのお言葉を預かっているぞ。皇帝陛下弑逆の大罪人どもに対して、何とも寛大なお言葉ではないか。ひれ伏して、感謝するが良い」「なッ?!」 李儒がその事実を知っていること。それはすなわち、王允らと李儒との紐帯をはっきりと示すことであった。 言葉を失った賈駆たちを心地よさそうに見下すと、李儒は踵を返して部屋を出て行こうとする。 だが李儒は、部屋を出る寸前、なんでもないことのように、虎牢関に使者を発した事実を告げた。 全軍、虎牢関を放棄して、洛陽に戻るように、との軍令を出したと聞き、賈駆が絶句する。「た、退却命令ッ?! そ、そんなことをしたら……」 いかに呂布や張遼が優れた統率力を持っているとはいえ、敵前での退却は困難を極める。まして、拠るべき砦もなく、ただ洛陽に戻れと言うことは、全滅しろと言っているようなものではないか。「ご心配には及びますまい。なにせ軍を率いるのは飛将軍と、神速を謳われる張遼殿ですからな。無事に戻ってこられますよ……さて、では私はこれにて失礼いたします」 低い笑い声を残して、李儒はさっさと部屋を出て行ってしまった。 すぐに扉は閉められ、錠のかけられる音が室内に重く響く。 賈駆には、その音が、自分たちの未来を閉ざしたもののように聞こえていた……■■「本当に虎牢関を放棄したのか」 信じられん、と言いたげに関羽が呟く。 玄徳様、簡擁、諸葛亮、鳳統いずれも関羽と似たような面持ちであった。■ 関羽と張飛が呂布の突進を止め、連合軍が呂布率いる董卓軍を包囲するという作戦は成功を見た。 だが、この場合、包囲する側よりされる側の方がはるかに強い。董卓軍を討つために、連合軍はさらなる出血を余儀なくされるものと思われていた。 だが。 これから両軍がぶつかる、まさにその時、虎牢関の城壁上で振られた一本の旗。そして高らかに鳴り響く銅鑼は、董卓軍に退却を告げるものであった。 呂布の補佐をしつつ、後陣で馬騰、曹操、袁紹の軍を一手で食い止めていた張遼は、最初に目を疑い、次に耳を疑い、最後に命令を下した人間の正気を疑った。 連合軍に四方を囲まれた董卓軍の将兵が、退却の命令を聞けばどのように行動するのかなど火を見るより明らかだったからである。 しかし、一度下された命令は、もう取り返しがつかない。張遼は舌打ちしつつ、己の手勢を掌握すると、今にも逃げ出しそうな兵士たちに向かい、高らかに告げた。四方は囲まれ、逃げる道はない。生き残りたければ、全軍一丸となって、後方の馬騰軍を突破せよ、と。 恐慌に陥る寸前であった董卓軍は、その張遼のひと言でかろうじて指揮系統を失わずに済んだ。 かくて、董卓軍は少なからず混乱しながらも、転進し、馬騰軍に襲い掛かった。 馬騰は「囲師はめぐらすなかれ、じゃな」と呟くと、先刻と同じように部隊を両翼に分け、敵に突破を許しつつ、その側面および後方をねらい撃ち、更なる出血を敵に強いたのである。 殿軍をつとめた呂布により、虎牢関への侵入を阻まれた連合軍は、虎牢関攻めに備えて、1度、軍を立て直すために退いた。 だが明けて翌日、虎牢関は不気味な沈黙を保ち、城壁上にも兵士の姿を見かけなかった。いぶかしんだ諸侯は斥候を放ち――そして、董卓軍が虎牢関を放棄したことを知ったのである。■「孔明、士元、何かの罠ではないのか?」 関羽の言葉に、2人の軍師は困惑した顔を見合わせる。「確かに関将軍の仰るとおり、そうとでも考えなければ説明がつかないことなのですが……」「……虎牢関を差し出すことに見合うような効果のある策が、あるとは思えないんです」 玄徳様がなにやら考え込みつつ、ぽんと手を叩く。「そうだ、洛陽で決戦を行うために兵力をとっておきたかった、とかじゃない?」「それはどうでしょうか。たしかに洛陽は漢の都として栄えた場所。城壁も高く厚いです。けれど洛陽城内には数十万の民たちがいます。篭城するとなれば、彼らの分の水と食料も確保しないといけません」「……それに、董卓軍の暴政が本当なら、住民たちの反乱にも気をつけなければいけなくなる。兵士たちだけが篭る虎牢関に比べ、守りにくいのは間違いありません」「うーん、確かに2人の言うとおりだよね。そうすると、相手の狙いは何なのかな?」 玄徳様の言葉に、劉家軍一同、うーんと腕組みをして考え込んでしまった。「あるいは、いくつもの思惑が交錯してるのかもしれませんね」 おれの言葉に、諸葛亮、鳳統が同時に頷いた。「私もそれを考えていました。董卓軍の動きには、おかしな点が多すぎます」「……一刀さんの言うとおりかもしれません」 2人の軍師の賛同を得て、おれは少しだけほっとした。さすがにこの場面で見当違いな発言は恥ずかしすぎる。「えーと……どういうこと?」 玄徳様が不思議そうに問いかけてきたので、おれは諸葛亮曰く「董卓軍のおかしな点」を挙げた。「最もおかしいのは、虎牢関にいた董卓軍の戦略目的が急に変わったことです。呂将軍らは、明らかに虎牢関を死守し、連合軍を追い返すつもりだった。虎牢関を放棄するつもりなら、出戦などしないでしょうから」 おれの言葉に、玄徳様が疑問を挟む。「でも、1度、敵と戦ってから退いた方が、追撃の危険は少なくないかな?」「桃香様にしては鋭いご指摘ですね。その通りです」「うう、愛紗ちゃん。私にしてはって……」「ああ、も、申し訳ございません。私としたことが」 慌てる関羽を尻目に、おれは玄徳様の疑問に答えた。「玄徳様の仰るとおりだとすると、退却の合図が出たとき、董卓軍が混乱した理由が説明できなくなってしまうんです」 関羽が、その時の状況を思い出しつつ、おれの見解に賛意をあらわす。「ふむ。確かに、董卓軍の将兵は、突然浮き足だったように見えた、な」「うーん、そうだったかな。鈴々はよくわかんなかった。逃げる敵に興味はないのだ」 張飛らしい言い方に、おれは思わず笑みをもらした。だが、すぐに口許を引き締めると、話を続ける。「退却が知らされ、動揺するということは、呂将軍らは紛れも無く攻めに出ていたということです。いずれ退却の命令が下るのがわかっていて、わざわざ出戦などはしないでしょう。それこそ、敵の追撃の格好の餌食になってしまいますからね」「うん、なるほどね」 玄徳様がうんうんと頷き、納得の表情をした。「もちろん、洛陽で何か変事があり、董卓軍の方針が急に変わった可能性もあるにはあるんですが……」 おれの言葉を引き取ったのは、諸葛亮だった。「呂、張の2将軍の頭越しに、兵士たちにそれを知らせるような真似を、董太尉や賈軍師がするはずがない。そうですよね?」「ああ。君主の命令とはいえ、敵に攻められている場所で、そんな真似をすれば全軍の敗北にもつながりかねない。実際、董卓軍は大損害を受けました」 虎牢関への退却時はもちろん、おれたちがこうして話している今この時も、連合軍は洛陽へ退く董卓軍を猛追していた。これまで良いところのなかった袁術や、幽州の劉焉などは、ここが手柄の立て時とばかりに激しい追撃を行っているようだ。 劉家軍はというと、すでに大本営から追撃には及ばず、との命令が下っているのである。これ以上、雑軍に手柄を立てさせてたまるか、という袁紹の本音が透けて見えるが、そこは大人の態度でスルー。 すでに劉家軍は、呂布率いる軍を食い止め、関羽は天下無双相手に、互角に近い戦いを演じたことで、連合軍中の評判になっている。当然、その主である玄徳様の名も上がっていた。今の段階で、これ以上、欲張る必要はないと皆の意見も一致していた。「北郷殿はいくつもの思惑、と言っていたな。つまり、董卓軍以外の何者かが、今回の戦いに介入していると考えているのか?」 関羽の言葉に、おれははっきりと頷いた。「はい。おそらく、今のうちに董卓軍の力を削いでおきたい何者かがいるはずです。そもそも、以前、并州であった時の董太尉の御人柄から推しても、今回のような事態を引き起こすとは思えない。初めからおかしいと思っていたんです。そして、今回の戦いで確信しました。董太尉の背後に、董太尉に悪名を押し付け、その力を削ごうとしている誰かがいる。そう考えれば、いくつもの疑問点に答えが出てくるんです」 喋っているうちに感情が昂ぶってきたおれは、勢いのままに断言してしまった。 証拠なんぞなく、ただ己の主観と状況証拠だけをもとに組み立てた醜悪なジグソーパズルである。みんなに呆れられても仕方ないところだった――のだが。「おお、さすがだね、一刀さん!」「うむ、少しだけ見直したぞ」「おー、お兄ちゃん、かっこいいのだ」 おお、なんか予想と違う反応が? しかし、さすがに諸葛亮たちからは白い目で……「はわわ、すごいです。わたしと雛里ちゃんが一生懸命考えて出した答えを、お1人で出してしまうなんて」「あわわ、そ、尊敬です……」「かっかっか、やるのう、北郷殿」 をを、こっちも何か良い反応だ。 自分で言うのもなんだが、結構穴がある推理なんだけどな。 おれが首をかしげていると、簡擁がぽんと肩を叩いてきた。「なに、要点はきっちり押さえておるよ。推測に大きな違いはあるまい」 簡擁に太鼓判を押してもらい、おれはほっと安堵の息を吐いた。■■「ふむ。面白い考えを聞かせてもらったわ」 不意に。 おれたちの耳に聞き覚えのない声が響いた。「何者ッ?!」 関羽が声がしてきた方向に青龍刀を構える。 すると、そこには3人の女性が、こちらへと歩み寄ってくるところであった。 その1人が、武器を向ける関羽に大喝を発した。「無礼者ッ!! 雑軍の将風情が、曹孟徳様の御前に立つなど、身の程を……!」「春蘭」「は、華琳様」「先触れもなく、相手を訪れたのは私たちの方よ。誰何されるのは当然だわ」 そう言ったのは、3人の中でもっとも小柄な女性だった。その背格好からいって、少女と言った方がいいかもしれない。 だが。 身体が小さくとも、その圧倒的なまでの存在感は隠しようがない。今は穏やかにこちらを見ている少女は、いざ猛り狂えば、その怒りは岩を砕き、地面を抉るだろう。 人身の竜 何故か、おれの脳裏にそんな言葉が思い浮かんだ。「そちらの問いに答えましょう。私は、姓は曹、名は操、字は孟徳。天下の安寧を願い、それをもたらすことこそ己が天命と志した者。天命を知らず、なお過去の栄光にすがろうとする愚か者たちが織り成した、諸侯連合という名の茶番の発起人でもあるわ」 そういうと、曹操は堂々とした足取りで、玄徳様の前までやってくる。 対峙する両者。 口を開いたのは、曹操だった。「あなたが、劉玄徳?」「あ、は、はいッ! あの、姓は劉、名は備、字は玄徳です。は、はじめまして、曹孟徳殿!」「はじめまして――ふーん、あなたが、ねえ」 どこか冷たい眼差しで玄徳様の総身に視線をはしらせる曹操。 玄徳様は、かちこちに緊張したまま、黙ってその視線に耐えていた。 その様子にたまりかねた関羽が、曹操と玄徳様の間に割って入る。「いかに連合の発起人とはいえ、我が主桃香様に無礼は許しませぬぞ。そも、いかなる用があって、我々の陣にいらしたのですか」 曹操がその問いに答える前に、またも春蘭と呼ばれた女性が激昂した。「き、貴様ァッ! 一度ならず二度までも、華琳様に無礼を働くか! そこに直れ、たたっ斬ってやる!」 背負った大剣を抜き放ち、猛然と関羽に切りかかろうとする女性。だが。「春蘭、良い加減になさい」 虎でも慄くだろうその鋭気を、曹操はひと言でせき止めてみせた。 女性はしぶしぶと言った様子で剣を収めつつも、納得いかない様子で、曹操に訴える。「華琳様、このような連中、華琳様がお気になさる必要はないと思います。それよりも、早く洛陽に迫った方が……」「私が何を大切にし、何を尊しとするのか。それを決めるのは、他の誰でもない私自身よ。春蘭、あなたはそれを知っているはずなのだけれど?」「は、はい! 出すぎたことを申しました!」 春蘭は恐縮したように曹操の後ろに戻っていく。「さて、関羽。いかなる用があって、と言ったわね」「ッ?! 私の名をご存知なのですか」「ふふ、あの飛将軍 呂奉先と互角の戦いを繰り広げた黒髪の勇将。すでにその名は全軍に轟いているわよ? その武、その覇気、その忠誠、いずれも天下の豪傑たるに相応しい――このような雑軍に置いておくには、あまりにも惜しいわ」 曹操の言葉に何かを感じたのか――関羽の顔が厳しく引き締まった。「用件を言う」 静かに、けれど絶対的な確信を込めて、曹操は口を開いた。「関羽、あなたは私と共に来なさい。あなたの全てを私に捧げ、私と共に天道を歩みなさい。それこそがあなたの天命。弱き者を救うとあなたは言った。そこに至る最も近い道は、私と共に来ることなのだから」■ 静寂がその場に満ちた。 正確に言えば、誰一人として言葉を発することが出来なかったのだ。 曹操の覇気に満ちた言動は、それが絶対の真実であるかのように、この場にいた者たちの耳に響いたのである。 最初に、その硬直から解き放たれたのは玄徳様だった。「ちょ、ちょっと待ってください! 愛紗ちゃんは、私たちと一緒に……」「黙りなさい、劉備。私は関羽に問われ、関羽に答えた。ならば関羽が返事をするのが筋というものでしょう」「す、筋とかそんなの、関係ないです! 愛紗ちゃんはッ!」 曹操の言葉に反論しようとした玄徳様を制したのは、関羽だった。「桃香様」「あ、愛紗ちゃん」「確かに孟徳殿が仰るとおり、返事をするのは私の方が筋でしょう。それに……」 関羽は優しい笑みで、己が主を見つめた。「私の答えも、桃香様の答えも同じなのです。ならば、このような些事で、主に労をかけるまでもありません」■ 傍観者に過ぎないおれだったが、その笑みには心を打たれた。率直にいって、惚れ惚れと見蕩れてしまった。 関羽の笑みには、関羽を関羽たらしめている全てが篭っていたからだ。 劉玄徳という主への忠義。 劉桃香という姉への親愛。 いかなる難敵にも立ち向かう勇気。 誰もが笑って暮らせる世の中をつくるという大志。 そして――それら全てを、一時たりとも揺るがせはしないという誇り。 ああ、焦がれるように思う。 そんな笑みを浮かべられるようになりたい。 そう在れる自分を貫きたい。 今のおれでは、到底かなわぬ夢物語であるけれど、いつか関羽が立つ場所までたどり着きたい。 ――おれはそんな風に思ってしまった。 ■「では、返事を聞きましょう。関羽、あなたは私と共に来るのか否か」 曹操の言葉で、おれは我に返った。 いつのまにか、物思いに耽ってしまっていたらしい。 曹操の問いかけに、関羽はきっぱりと首を横に振った。「答えは否だ。天命がどうあるかなど、私は知らぬ。私は、私が正しいと信じた道を歩むだけだ」「……そう。劉備についていけば、それだけあなたの望みが叶うのに時間がかかる。その分、大陸の弱き者たちが虐げられる時間が長くなることになる。あなたにとって、それは正しい道なのかしら?」 関羽は、その問いに小さく笑みを浮かべた。それは自らではなく、自らの主を誇る笑み。「孟徳殿。私を、そこまで高く買ってくれたことへの礼として、1つだけ忠告をさせていただこう」「聞きましょう」 頷く曹操に、関羽は毅然と言葉を投げかけた。「我が主を――劉玄徳という人物を、甘く見ないことです。今は雲に乗れずにいても、我が主は、いずれ間違いなく天へと昇られる御方。項羽のような武ではなく、高祖のような謀略ではなく、その気高き優しさを以って、天下全てを満たしてくれる御方なのですから」 深々と静まり返る空間に、ただ各人の息遣いだけが小さく漂っている。 やがて、曹操が深々と息を吐きつつ、肩をすくめた。「そう。今は、これ以上、言葉を重ねても無意味のようね。ただし、私は一時の思いつきで言葉を発したわけではない。いずれまた、あなたの天命を問いただす時が来るでしょう。そのときまで、あなたの考えが変わっていることを期待しているわ、関羽」「無駄なことです」「ふふ、その剛毅、その忠義。ますます欲しくなったわ――劉備!」 突然呼びかけられ、玄徳様は背筋を伸ばしながら、慌てて口を開く。「は、はいッ!」「――これから、天下はさらに荒れるでしょう。一刻も早く、名を上げ、大陸にその名を示しなさい。関羽のような豪傑にここまでの忠義を捧げられる人物が、いつまでも無官の義勇軍を率いているなど、このあたしが許さない」「わ、わかりましたッ! 頑張ります!」「ええ、頑張りなさい。そしていつか、英雄の1人として、私の前に立ちはだかりなさい。そのあなたを完膚なきまでに叩き潰して、私は関羽を手に入れる」 曹操の言葉に、玄徳様はきっぱりと首を横に振る。「――そんなこと、絶対にさせませんから!」 その玄徳様の顔を見て、曹操は不敵な笑みを覗かせていた。■「さて、思った以上に収穫があったわ。そろそろ失礼するとしましょう」 女性二人を従え、曹操は踵を返す。 だが、おれの前に差し掛かったとき、ふと気づいたようにこちらに視線を向けてきた。一瞬、背中が震えたのは、彼女の発する覇気ゆえだろうか。「そうそう、さっき面白いことを言ってたわね、あなた」「はッ?! お、おれですか?」「他に誰がいるの。董卓軍の背後に、その自滅を願っている者がいるという話よ」「は、はあ、それは確かに言いましたけど」 おれはわずかに腰が引けた状態で、曹操と対峙していた。背後の2人もさることながら、曹操自身の存在感は空恐ろしいほどだ。さすがは、数千年の時代を超えた英傑である。 そんなおれの態度に、曹操は少し興が削がれたような顔を見せたが、そのまま話は続けた。「正解よ、それ」「は?」 あまりにもあっさりとした答えに、おれは思わず問い返してしまう。 春蘭と呼ばれた女性がまた口を開こうとするが、それは隣のもう1人の女性に無言で制されていた。 曹操はわずかに表情に険をあらわして、もう一度同じ言葉を口にした。「だから正解といったの。董卓の背後には、朝廷の高官たちがいるわ。司徒王允、司空張温らがね。連中は漢王朝を立て直すために、董卓を生贄とした。今回の騒乱の筋書きを書いたのは奴らよ」 苛政を行い、民衆の財力を国庫に吸い上げても、その罪は董卓が担ってくれる。適当なところでその董卓を排除すれば、民衆の感謝は漢王朝に向けられ、それは衰えた漢王朝の信望を高める結果につながるだろう。 董卓軍の大きな武力を削ぎ、各地に割拠する諸侯の力を減じる意味でも、董卓軍対連合軍というのは、格好のシナリオである。ただ、袁術と孫堅の関係と同じく、強すぎる番犬は危険なものだから、ある程度連合軍を痛めつけ、かつ時間を稼いだところで、連合軍の手を借りて董卓軍を始末しようとした。 ――筋書きというのは、そういうことなのだろうか。 おれの疑問に、曹操は再びあっさりと答えてくれた。「そういうことよ」「……どうして、そのことを――あ、いえ、何でもありません」 おれは質問を途中で止めた。 曹操はさきほど玄徳様に言っていたはでないか。英雄の1人として、早く自分の前に立ちはだかれ、と。この情報を与えられたおれたちがどう行動するのか。そして何を得ようとするのか。曹操はそれを注視する心算なのだろう。「――理解したようね。では、今度こそ失礼するとしましょう。春蘭、秋蘭、行くわよ」『はッ』 そういうと、曹操は堂々とした歩調を崩さぬまま、劉家軍の陣地を後にした。 残されたおれは、地面に残された巨人の足跡に戸惑うように、しばらく呆然と佇んでいたのである……