汜水関の攻防において、連合軍は孫堅軍と袁術軍をあわせ、1万を越える死傷者を出した。 この損害は決して小さいものではなかったが、実のところ、この数字は、大本営が想定していた汜水関攻めの損害をはるかに下回るものだった。 勇将華雄率いる3万の軍勢が篭る汜水関を陥落させるのは、それだけの難事であると考えられていたのである。 しかも、その犠牲の多くは、関陥落後の不用意な追撃を、董卓軍に逆撃されたことによるものであったから、汜水関攻めのみを見れば、事実上の大勝利と言ってよい。 孫堅軍の武名はおおいに高まり、主将である孫堅は、連合の諸侯から滝のような賛辞を浴びせられ、苦笑いを浮かべる羽目になった。 一方、大きく面目を損なったのは袁術である。汜水関攻めの折りの動きの鈍さ、そしてその後の追撃戦における無様な戦ぶりは諸侯の憫笑を誘うものであった。 それと悟った袁術は怒りに震えたが、その怒りをぶつけるべき配下の将軍は、2人とも討ち取られており、全ての責は主君である袁術の背に負わされることになったのである。 袁術軍の大将軍である張勲が、懸命に主君の機嫌を取ろうとしている間にも、軍議は速やかに進められていた。 孫堅軍の活躍により、連合軍の兵士たちの士気は大いに高まっている。参謀を務める曹操は、この勢いに乗って、速やかに虎牢関に迫るべしと訴え、諸将は全会一致で、曹操の案を採択した。 同時に曹操は、大勝利を得たとはいえ、先鋒を務めていた孫堅軍の被害が大きく、また配下の兵士も城攻めの疲れが抜けきっていないことを考慮して、陣替えが必要であろうとの見解を示し、これも諸侯に認められた。 当然、次に問題となったのは、孫堅に代わる先鋒を誰が務めるか、という点である。 汜水関攻めでは躊躇していた諸侯であったが、孫堅軍の大勝により、連合軍は今、勝勢に乗っている。これに乗じ、虎牢関に押し寄せることが出来れば、天下に勇名を馳せることも可能になるとあって、皆、我も我もと名乗りを挙げた。 しかし、それら功名に逸る諸侯を制し、先陣に選ばれたのは、西涼の太守馬騰であった。 西涼の騎馬軍団は勇猛にして精強、それを率いる馬騰本人も、女性の身ながら、優れた統率力と武勇を誇る歴戦の将である。そして、朝廷へ篤い忠誠を捧げるその篤実な為人は、天下に広く知られていた。 緒戦が渡河を要する戦いであった為、騎馬が主力である馬騰は後衛に甘んじたが、汜水関から虎牢関までの道のりに大きな河水はなく、騎馬軍団がその真価を発揮できる地形が広がっている。となれば、もう後衛にじっとしている理由はどこにもなかった。「名高い飛将軍とは、1度矛を交えたいと思っていたところよ。ここは、我ら西涼の軍兵に任せていただこうかの」 そう言う馬騰の言葉は、表面上こそ穏やかなものであったが、その両眼には荒らぶる波濤の如き戦意が飛沫をあげていた。 先鋒を望む諸侯の中に、その視線をまともに浴びて、なお反駁できるだけの度量を持つ者は1人もおらず、連合軍は馬騰軍を先鋒として、虎牢関へ進軍することを決定したのである。 なお、第二陣には引き続き公孫賛があてられると思われたが、ここで曹操が再度口を開いた。「はるばる西涼から参られた寿成殿が先鋒に立たれるというのに、檄を発したこの孟徳が、緒戦のみならず此度も本営でじっとしているとあっては、祖先に顔向けができぬ。この孟徳が第二陣を務めたいと思うが、異存のある方は?」 それを聞いた総大将の袁紹が、かすかに顔を引きつらせながら、口をはさむ。「あーらあら、たかだか1万程度の小勢が後詰とあっては、寿成殿も心もとないでしょう。この本初の軍が、第二陣を務めさせていただきますわ」「総大将が第二陣? 本営はどうするつもりなのかしら?」「おーっほっほっほ。あいにく、私の軍勢はあなたの3倍。2つに分けたとて、あなたの軍よりはるかに勝りますわ」「つい先日、軍を分けて痛い目を見た人がいたと思ったのだけど、あなたは大丈夫なのかしら」「ふふん、私の軍は兵も将も精鋭中の精鋭。同じ袁家といっても、どこかの小娘の軍と一緒にしないでもらいたいですわ」 ちらりと視線を袁術に向けて、袁紹が余裕たっぷりの笑みを見せる。「ぐぬぬぬ、妾の子風情が、妾を侮辱するのか?!」「あらあら、負け犬が遠吠えをあげてますわね」「なんじゃとーーッ!」 時ならぬ騒ぎが沸き起こる本営。 その騒ぎを鎮めたのは、肩をすくめた馬騰のひと言であった。「ならば、孟徳殿と本初殿、2人で二陣を務めればよろしかろう。どの道、虎牢関は全軍で当たらねば陥落させることは難しい。先陣だろうと、後衛だろうと、大した違いはないゆえな」「ここで時を費やすのも惜しい。麗羽、寿成殿の提案で良いかしら?」「ふん、良いでしょう。もっとも、寿成殿と私が続けば、あなたのようなおチビさんに出番はまわってこないでしょうけれど」「それならそれで、連合にとってはめでたいことよ。では、先鋒は寿成殿に。第二陣はこの孟徳と袁家の一軍が務める。お集まりの諸侯の中に、異議のある方はおられようか?」 曹操は一座を見渡したが、あえて今の流れに反駁しようとする者はおらず。 ただ1人、納得いかない様子であった袁術も、視線をさまよわせた末に、小さく賛同の言葉を述べたのである。 ■■「でもお姉様、私たちに出番ってあるのかな?」 整然と馬を進める西涼の騎馬部隊の最前列で、まだ顔にあどけなさを残す少女――馬岱が、傍らにいる年嵩の少女に声をかけた。「あるに決まってるだろ、たんぽぽ。あたしらは連合軍の先鋒の、そのまた先鋒にいるんだぞ。敵が現れれば真っ先に槍をつけられるだろ」 白銀の武装を身に着けた少女は、そう答えながら、これまで後方に引きこもっていた鬱憤を少しでも晴らそうとするかのように、隆々と槍をしごいた。 銀閃と名づけられた業物を、少女の細い手足で軽々と操るその様は、圧巻のひと言に尽きる。 主人の戦意を感じ取った馬が、鼻息あらくいななき、人馬ともに迫り来る戦いを今や遅しと待ち受けている状態であった。 雄雄しき武者ぶりもまた当然のこと。白銀の武装に身を包むこの少女こそ、西域にその名も高き錦馬超、その人なのだから。「でもさあ、こっちは少なく見積もっても13万。向こうは多く見積もっても8万くらいでしょ。前の戦いで随分やられてたみたいだし、もうちょっと少ないかなあ? 普通、これだけ戦力に開きがあれば、篭城すると思うんだけど。そうなったら、私たちの出番、なくないかな?」 騎馬を用いる利はその機動力にある。 河水の戦はもとより、城に篭る敵に対しても、その利を活かしにくいのは自明のことであった。「そうかあ? 敵を前にして、戦わずに城に引っ込むなんて、臆病者のすることだぞ」「敵がいれば猪突猛進するお姉様よりは賢いかも……」「なんか言ったか?!」「なーんにもいってませーん♪」「うそつくな、たんぽぽ! こら、待ちやがれー」 馬超には遅れをとるが、馬岱もまた優れた武技と馬術の持ち主である。ふざけあいながらも、両者ともに軽やかに馬を操る様子は、馬に慣れぬ者が見ればほれぼれと見蕩れるほどであった。 この場にいる西涼軍の兵士たちにしてみれば、2人の言い合う姿は見慣れたものだ。誰も特に止めに入ろうともせず、2人の様子をにこやかに見守っていた。 結果、2人の追いかけっこは止まらず、実力で勝る馬超が、ついに馬岱を捕まえる寸前まで行ったときだった。「何をしとるんじゃ、おまえらは」 ガツン、ゴツン、と良い音が2回。 閃光のごとき槍の一撃は、無論、刃は収めてあるが、十分に痛い。「あいたたたた……うぅ、ひどいよ、伯母様……」「あつつつ……母上、少しは手加減してくれよ」「自業自得じゃ、馬鹿者ども。指揮官たる者が、戦を前に遊び呆けていてどうするのじゃ。敵が来てからでは遅いのじゃぞ」 馬騰は娘と姪を一喝すると、配下の兵士たちに、周囲への警戒を命じた。 鍛え上げられた軍勢は、たちまち英気を滾らせ、戦闘態勢を整える。 それを見ながら、未だに馬岱は首を傾げていた。「ねえ、伯母様。董卓軍って城から出てくるのかな? 私だったら、虎牢関に篭って出て行かないけど。だって時間を稼げば、連合軍なんてすぐにバラバラになっちゃうの、丸わかりだし」「蒲公英よ、おぬしの言うことは間違ってはいないが、敵は必ず出てくる。賭けても良いぞ」「んー、伯母様が言うなら、そうなんでしょうけど、それってやっぱり敵がおバカだからですか?」 馬岱の疑問に、頭を抑えていた馬超が代わって答えた。「だから、城に篭るなんて臆病者のすることだって言ってるだろ! さすが母上はわかってるぜ」「翠……そなたには、西涼に戻ったら、1から兵法を叩き込んでやらずばなるまいのう」 にこやかに微笑む母・馬騰の顔を見て、馬超の顔から音をたてて血の気が引いていった。「うげ……」「うげ? ……ふむ。言葉遣いまで矯正せねばならんか。この際だから、花嫁修業まで仕込んでおくかの」「ちょ、ちょちょっと待ってくれ、母上?! はは、花嫁って?!」「おー、たんぽぽ、綺麗なお姉様は好きですよ、なんちゃってー♪」「こらあ、たんぽぽ! 他人事だと思って茶化すなー!」「だって他人事だもーん、あはは」 そうして再び始まる姉妹の喧嘩じみたやりとり。 馬騰は呆れたようにため息を吐きながら、迫る決戦に向けて考えを集中させる。 馬岱の言うとおり、董卓軍が現状取り得る最善の策は篭城である。 本来、篭城は援軍が来ることを前提として用いるべき策であるが、それは攻城軍が統一されている場合である。諸侯の寄せ集めである連合軍に、相互の信頼関係が育まれていないことは童子にもわかること。精々一月も粘れば、国許に不安を抱く諸侯は動揺を示し、連合は瓦解するだろう。 だが、馬騰は敵がその策をとらないことを確信していた。 理由は、ほとんど馬超が言ったとおりのことである。ただ、臆病者云々という直感に頼って、その答えを出した娘には、いずれ西涼軍を率いる者として、その思考の危険性を教えねばならなかったため、わざわざ馬超が苦手としているものを掲げて見せたのである。 では、馬騰はいかなる思考で、娘と同じ結論を導いたのか。 孫氏に言う。「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」と。 この場合、考えるべきことは、虎牢関の守将である呂布の性向であった。馬騰は、呂布のみらなず、董卓軍の主要な武将たちの戦績や、戦の仕方などをつぶさに調べ上げていた。そこから導きだされた結論は、呂布が篭城策を採る可能性は極めて少ないというものだった。 すでに袁術軍を痛破して、呂布軍の士気はおおいに高まっていることだろう。わざわざ城に篭って、その士気の高さに水を差すとは考えにくい。 なにより天下第一の武勇を謳われる呂布にとって、迫り来る連合軍など、蝗の群れにも等しい筈。一戦に蹴散らして連合軍の出鼻を挫けば、その後の戦は董卓軍の圧倒的優位の下に進めることが出来る。敵将はそう考えているだろう。 馬騰はそのように敵の思考を読み、そしてそこにこそ連合軍の勝機を見出したのである。 呂布の存在は味方にとって脅威だが、逆にその大きすぎる存在感ゆえに、呂布を失った時の董卓軍の動揺は計り知れない。 もちろん、馬騰は呂布の個の武勇も、そして兵を率いた際の破壊力も侮ってなどいない。 だが、長期戦を避けなければならない連合軍に勝利をもたらすために。そして、洛陽におわす皇帝陛下を、一刻も早くお救いするために。西涼軍を率いる己が、為すべきことはただ1つと、馬騰はごく自然に決意していたのである。 それはすなわち、西涼軍の総力を挙げ、敵将呂布を討つことであった。 静かな外見の内に、激しい決意を秘めつつ進軍する西涼軍。 やがて彼らの視界に、彼方から濛々とたちのぼる土煙が捉えられた。 凄まじい勢いで迫り来るそれが、敵将呂布率いる深紅の騎馬軍団であることを、西涼軍の将兵は戦慄と共に確信したのである。「太守様! 敵、呂布軍、鋒矢の陣形を保ったまま、突撃してきます!」「うむ、申し伝えていたとおり、こちらは横列陣をとれ。中央はわしと翠の部隊で受け持つが、わしらが呂布とぶつかったら、頃合を見て各部隊は作戦通りに行動せよ」「ははッ!」 馬騰の命令に応じて、伝令が左右両翼の軍に走る。 とはいえ、すでに左右の部隊は土煙が見えた段階で、作戦通り、横一列に部隊を動かしている。その反応の速さは、さすがに音に聞こえた西涼軍であった。「ではゆくぞ、翠。名高き飛将軍の武芸、いかほどのものか、確かめさせてもらおうぞ」「おうよ! 母上に続くぞ、馬超隊、いくぜ!」 愛馬をあおって突撃する馬騰、馬超の2将の後ろを、西涼軍の精鋭部隊が雄叫びをあげて続いていく。 ここに、連合軍対董卓軍の戦いの第2幕が始まったのである。■■「おりゃあああッ!!」 気合の叫びと共に、馬超の槍が閃光の如く、敵将に向かって襲い掛かる。西域に名高き錦馬超の疾風の槍捌きは、速いだけでなく、一撃一撃が重く、正面から受け止めれば、受け止めた腕がしびれるほどの豪撃であった。 その豪撃が、瞬きをする間に幾重にも襲い掛かってくるのだ。並の将ならば、数合打ち合うだけで馬首を転じようとするだろう。「ふんッ!!」 その横で大薙刀を振るう馬騰の武芸もまた、娘に迫る見事さであった。速さこそ馬超には一歩譲るものの、長年の戦塵で鍛え上げ、研ぎ澄まされた武勇は、相手の動きを的確に見切り、そして一撃ごとに相手を追い詰める組み立ての巧みさは、今の馬超にはまだ持ちえぬものであった。 この2人の共闘は、事実上、西涼軍最強の武の競演。 その演舞の如き流麗な攻撃を、しかし。 ただ1人の傑出した武の才能が、凌駕しようとしていた。 馬超の槍が疾風ならば、それを打ち払うは迅雷の戟なるか。呂布はその身に迫る全ての攻撃を弾き返し、のみならず鋭い逆撃を加え、馬超の体勢を揺るがした。「うわぁッと?!」 体勢を崩した馬超の首めがけて、呂布の戟が唸りをあげて迫る。 だが、その一撃は甲高い金属音と共に軌道がそれ、馬超の髪を一房切り取ることしかできなかった。「ぐ……何という重い一撃か」 娘の命を間一髪で救った馬騰は、安堵の息を吐く間もなく、呂布の追撃に、わが身を晒すことになった。 身体を両断せんとする斬撃を受け止め、胸奥を貫かんとする一閃を凌ぎ、喉元を切り裂こうとする一撃から身をかわす。 戟とは、斬る、突く、払うの全てに特化した武器であるが、呂布はその多様な機能を完璧に使いこなし、相手に反撃の隙を与えない。 馬騰は死に至る呂布の攻撃をことごとくかわしきったが、顔には出さずとも内心の驚愕は隠せなかった。 間を置き、再度の攻防に備えながら、馬騰の口からは、思わず感嘆の声がもれていた。「まさか、これほどとはのう」「母上、何をのんびりと感心してんだよ、やられちまうぞ!」「うまれてこの方、会ったことのない才に出会えたのじゃ。武人として、感心せざるをえぬよ。やはり蒲公英は後方に残してきて正解だったようじゃな」「それは確かにそうかな。今のあいつじゃあ、一合も槍をあわせらんないだろうなあ」「まあ、それはわしらも大してかわらんがの。このままでは、いずれわしらの首が宙を飛ぶの」 馬騰が肩をすくめてそう言うと、馬超は図星をつかれて、うっと言葉を飲み込んだ。 呂布の武は、ただ膂力と天性の才だけで成り立つものではない。天賦の才を、鉄の努力で鍛え上げた、まさしく武神の業であった。 2人の眼前では、当の武神が、攻撃してこようとしない2人の姿を見て、小首を傾げていた。「………まだやる?」「当然だ! この錦馬超をなめるなよッ!」「………なめてない。おまえたち、強い」「……へ? そ、そりゃどうも」 思わぬ素直な返答をうけ、馬超はつい答礼してしまう。 だが、そういった次の瞬間、呂布の周囲から砂塵が巻き起こった――一瞬、馬超がそう錯覚してしまうほどに、圧倒的な迫力で、呂布が戟を一閃させた。「………でも、恋の方が強い。そこをどけ」 呂布の迫力に怖じぬように、馬超は気合を込めて叫び返そうとする。が。「どけと言われて、はいそうですかと……ッ!」「うむ、では退くとしようかの」「母上ッ?!」 馬騰はあっさりと呂布の言葉に頷くと、驚き騒ぐ馬超の首根っこを引っつかむようにして、さっさと馬首を返してしまった。 呂布はつかの間、その後姿を黙って見守っていたが、その程度の時間で稼げる距離など、赤兎馬にとっては無いに等しい。呂布は赤兎馬をあおって、背後から馬氏の母娘を討ち取ろうとするが、その眼前をせき止めるように、矢の雨が降りそそぐ。 母娘の直属部隊が騎射を行って、主君たちの退却を援護したのである。 矢の雨で怯む呂布ではなかったが、それでもわずかに馬の脚は緩み、馬騰たちは無事に本営までたどり着くことができたのであった。 主将同士の戦いで敗れた馬騰軍は、呂布軍の勢いに押され、本営奥深くまで押し込まれた。 天上から俯瞰すれば、現在の陣形は、呂布軍が鋒矢の陣形、対する馬騰軍は横一列の陣形の中央が押し込まれた為、奇しくも鶴翼の形となりつつあった。 だが、それもごく短い間のみ。馬騰軍の中央は、呂布軍の勢いをとどめることが出来ず、中央突破を許してしまう。馬騰軍は左右に分断され、呂布率いる5万の軍勢は、その勢いのままに連合軍の第二陣へと襲い掛かっていった。「ちっくしょー、呂布の奴めえッ!」「うっわー、お姉様と伯母様の2人がかりで勝てないなんて、ほんとに化け物だね」 本陣にいた馬岱と合流した馬超は、悔しげに身体を振るわせる。 一方の馬騰は、娘と異なり、幾度も敗北の戦を経験したこともあり、娘よりもはるかに落ち着き払っていた。というよりも、今の状況は、馬騰が考えていた展開から逸脱していないから、慌てる理由がなかったのである。「翠、たんぽぽもじゃ、無駄口を叩いとる暇はないぞ。たんぽぽはこのままわしと共に中央を指揮するのじゃ。翠は右翼を指揮せよ。左翼は韓遂殿が指揮してくれることになっとる。突破した呂布隊を後背より追尾するぞ」■■「さすがは馬騰。そう動いたか」 連合軍第二陣の一方を担う曹操軍の陣中で、遠目に戦況を窺っていた曹操が、口元に笑みを浮かべていた。 夏侯惇が怪訝そうに問いかける。「華琳様、どうなさったのですか。先鋒が敗れたというのに、そのように嬉しそうになさって?」「敗れた? 春蘭の目にはそう映るの?」「え? は、はい。大将同士の一騎打ちに破れ、陣形を左右に分断されては、それ以外に言い様がないと思うのですが……」 夏侯惇はそう言いながらも、どこか不安そうに曹操の顔色を窺う。 それを聞いた曹操は、今度は視線を夏侯淵に向ける。「秋蘭にはどう見える?」「私も、姉者と同じに見えますが……」 そこまで言いかけた時、夏侯淵の表情がかすかに変わった。 弓の達人である夏侯淵は、当然ながら視力は抜群に良い。その鷹の眼差しが、呂布軍に突破を許した馬騰軍が、たちまちのうちに軍列を整える姿を捉えたのである。「これは……華琳様、もしや馬騰は故意に呂布の突破を許したのですか?」「良く見たわ。その通りよ」 夏侯淵の指摘に、曹操は会心の笑みを浮かべた。 曹操には、馬騰の思惑が手に取るようにわかった。 その目的は、敵将呂布を討ち取ること。天下に名高い呂布を討ち取ることができれば、この戦のみならず、この後の董卓軍との戦いを優位に進められる。敵将を打つという戦術面での目的が、戦略面における優位をも確立することを、馬騰は的確に見抜いていたのだろう。 まず、馬騰と馬超の2人がかりで敵将呂布を討つ。その組み合わせは西涼軍最強であるが、おそらく馬騰は2人がかりでも呂布には敵しえないと予期していたはずである。これで呂布を討ち取れる、と考えるような人物ならば、曹操ははじめから馬騰など気にもかけなかったであろう。 馬騰は自分たちが敗れたときのために、あらかじめ横列陣を布いていたのである。一騎打ちに勝った呂布が、中央突破をはかるのはほぼ確実である。それに押し込まれると見せ掛け、左右両翼を包み込むように展開すれば、呂布軍は袋のねずみである。 無論、5万の大軍を、馬騰軍1万5千で制しうるはずもないが、この際、狙いは敵将呂布ただ1人である。精鋭たる西涼軍の全力を挙げれば、いかに呂布とはいえ、討ち取る機会が出てくるはずであった。 だが、もしもそれでも呂布を討ち取れないと判断せざるを得なかった場合。つまり、今現在のような状況に陥った時の行動も、馬騰は考えていたであろう。 それはすなわち、馬騰が自軍を用いて行おうとした包囲殲滅作戦を、連合軍全軍を以って行おうとする試みである。 曹操の説明を聞き、夏侯淵が深く頷いた。「……なるほど。連合全軍を以って呂布の鋭鋒を凌ぎつつ、その兵馬を削っていく。そして、呂布の勢いが完全に止まったとき、一斉に包囲殲滅に移るというわけですね」「ええ、そうよ。中央を分断された西涼軍が、あれほど速やかに立ち直れたのは、あらかじめ馬騰からそのような指示が出ていたからでしょう」「しかし、諸侯が必ずしも馬騰の思惑通りに動くとは限らないと思いますが?」「そうかしら。全滅を望む愚か者でもないかぎり、呂布が突進してきたら、嫌でも戦わざるをえないでしょう。馬騰の意図に気づくか否かに関わらず、ね」 曹操が言い終わると、曹操と夏侯姉妹と馬を並べていたもう1人の人物が話に加わってきた。 陳留太守張孟卓。炎のような赤髪を持つこの少女こそ、曹操の盟友にして、親友。今回の連合軍において、自軍の指揮権すべてを曹操に委ねた豪の者である。 その張孟卓は、どこか楽しげに口を開いた。「それで、華琳。馬騰の思惑に乗ってやるの?」「もちろんよ、黒華(張孟卓の真名)。そもそも、私がこの連合軍を組織したのは、天下にこの曹孟徳の名と威を知らしめ、天道への一歩を踏み出すため。呂布の武を軽んじるつもりはないけれど、たかが一個人の武に怖気づくようでは、天も私に興味を持ってはくれないでしょう」 曹操の両眼に煌く覇気の輝きをまぶしそうに見つめながら、張孟卓はくすりと微笑んだ。「ここから華琳の天道が始まるならば、私の天命はそれを見届けることにあるのかしらね」「あら、見るだけなのかしら? 友達甲斐のない友人だこと」「これは失礼。では友人として、盟友として、曹孟徳の覇業に花を添えるよう務めましょうか。とりあえず、呂布の軍を横合いから削りましょう。私の武勇では、飛将軍の猛攻を凌ぐことさえできないしね」 その言葉に答えたのは、夏侯惇だった。「華琳様や黒華様の手をわずらわせるまでもありません。呂布ごとき、私が見事討ち取って見せましょう!」「さすがは私の春蘭、見事な覚悟ね。けれど、呂布の武勇は人間の規格を越えているわ。私はこんなところで片腕を失うつもりはなくてよ――秋蘭」「はッ!」「春蘭と共に、呂布の勢いを、少しでも良い、止めなさい。ただし、2人とも決して私の許可無く死なないこと」 曹操の言葉に、夏侯淵の顔に、小さく苦笑が浮かぶ。「相変わらず、華琳様は難しいことを平然と仰います」「あら、出来ない人間にやれと命じたりはしていないつもりよ?」 その主君の言葉を聞き、夏侯淵は莞爾とした笑みを浮かべて、曹操の前に頭を垂れた。「御意。姉者と共に敵将呂布の足を止めて参ります」「頼んだわ、春蘭、秋蘭」『はッ!!』 2人の股肱の臣を、虎のごとき敵将の前に送り込んだ曹操は、しばし去り行く部下の後ろ姿に視線を注いでいた。 その曹操を見ながら、張孟卓は軽く髪をかきあげながら、からかうような声を投げる。「そんなに心配なら、別の将を向かわせれば良かったんじゃないか?」「残念ながら、あの2人以外に、呂布の相手が出来る人材は、今の我が軍にはいないわ。それに、あの2人なら、袁紹の軍にも名前と顔を知られているから、丁度良いのよ」「曹孟徳の剣と弓。たしかに、あの夏侯姉妹が揃って出馬したと知ったら、麗羽あたりが黙っているはずはない、か。『おーほっほっほ、小娘の家臣ごときに手柄をたてさせてなるものですか』、とかやってそうだな」 それを聞いて、曹操が露骨に顔をしかめた。「わざわざ麗羽の高笑いを真似するのはやめてちょうだい。それでなくても、あなたの人真似は神業なんだから。思わず首を刈りそうになったわよ」「おっと、それは勘弁してほしいな。呂布にやられるなら、まだ諦めもつくけれど、華琳の腹いせにやられたなんてなったら目も当てられない」「そう思うなら、早く配置につきなさいな。あちらも、春蘭たちの姿に気づいたようよ」 曹操の言葉を確かめるまでもなく、曹操軍の右方に布陣していた袁紹軍に大きな動きが現れていた。 その陣頭を駆けるのは、曹操も見覚えのある文醜、顔良の2将軍である。袁紹軍の柱石とも言うべき勇将たちであった。どうやら、袁紹は見事にこちらの思惑に乗ってくれたらしい。 曹操は1度だけ、小さく、深く息を吐いた。 張孟卓も軍を率いるためにこの場から離れたため、今や本営に1人となった曹操。 その口からは、どこか楽しげともいえる言葉が漏れていた。「さあ、飛将軍。この曹操の陣、見事越えられるかしら?」 言い終わると、曹操は視線を後方の第三陣に向けた。そこに控えているのは、徐州刺史陶謙と、遼西太守公孫賛の2人である。 曹操と袁紹の第二陣が、曹操の予想通りに突破された場合、深紅の呂旗に対峙することになるのは、あの2人の役割となる。 曹操は大本営での軍議の際、彼らと、そして彼らの周りに控えていた家臣たちを観察していたが、いずれの君主もそれなりに有能であり、その家臣たちもそこそこに勇猛そうだったが、どちらも英雄と呼ぶに値しない程度の者たちばかりであった。 呂布と相対することはもちろん、その猛攻に耐えることさえできそうにない。あるいは、第三陣は苦も無く一蹴され、呂布軍は大本営になだれこんでしまうかもしれない。 そうなれば、馬騰や曹操の思惑など関係なく、勝敗はあっさりと決する。連合軍は敗北し、曹操はその飛躍の機会を逃し、貴重な時を失ってしまうにちがいない。 それゆえ、本来であれば曹操は、今の状況を危惧し、連合軍が敗れないように、何らかの手を打たねばならなかった。ならなかったのだが……何故か、曹操はそうする必要に駆られない自分に気づいていた。 そんな事態には絶対にならないという、不可解な確信を、曹操は強く抱いていたからだ。 曹操自身、何故、自分がこんな気持ちになるのかをわかってはいなかったのだが―― あるいは、曹操は無意識のうちに気づいていたのかもしれない。 やがて、自分と並び立つことになる1人の英雄が、自らの後ろに控えていることを。 だからこそ、こうまで胸が高鳴り、覇気が溢れてくるのだというその事実を……