連合軍と董卓軍が戦端を開いてから、2日。 遊撃部隊を率いる張遼の下に、信じがたい報告が届けられた。「汜水関が陥ちたーッ?! ま、まだ敵が来てから3日も経ってないっちゅうのに、ほんまかッ?!」 問われた斥候の兵士は、休まずに駆け続けた疲労で、息も絶え絶えになりながらも、主将の言葉にしっかりと頷いた。「汜水関の城壁には、すでに『孫』の旗が翻り、敗れた守備兵たちが続々と虎牢関目指して後退しております。すでに報告は虎牢関の呂将軍にも伝わっているでしょう」「まあ、奉先には陳宮もついてるから、敵の奇襲を受けたりはせんやろうけど、しっかしこんなに早く陥落するとはなー。文和が雷を落とす様が目に見えるようや」「退却してくる兵たちから聞いたところによると、敗因は……」「ああ、ええって、聞かんでもわかる。大方、華雄の猪が、敵の挑発に乗って城を出たところを、その隙にって感じやろ?」「は、はい、仰るとおりです。華将軍ご自身も、孫家の主将と、その御息女と矛を交えられたそうですが、相手は2人、こちらは1人で如何ともしがたかったと……」 その報告に、張遼は小さく肩をすくめる。「数の問題やあらへん。江東の虎・孫堅と、その娘っちゅうたら麒麟児とか言われてる孫策やろ。んなもん、一対一でも危ないわ。で……討たれたんか?」「手傷を負われたのは確かのようですが、その後のことは混戦のため、確認できなかったようです。ただ、その後の退却行でも華将軍の姿を見た者はいないとのこと。おそらくは……」「……そうか。まあ、それも戦場の習いっちゅうもんやろ」 そう口にしながらも、張遼はすぐに配下の兵をまとめ、部将たちに指示を下す。「華雄がおらんちゅうことは、退却する兵士たちの指揮をとるもんもおらんちゅうことや。うちの隊は退却中の味方の援護に向かうで!」『ははッ!!』 張遼の号令一下、鍛え抜かれた精兵はたちまち整然と陣形を整えていく。 その様子を満足そうに見やりながら、張遼は小さく口の中で呟いた。「……味方の猪っちゅうんは厄介やったが、死んだら文句も言えへんなあ……華雄、仇は討ったるさかい、成仏しいや」 ■■「はっははは、何が勇猛名高き華雄軍か! 我ら袁家の軍勢に歯もたたぬ有様で、よくぞそのような大口を叩けたものよ!」「殺せ、殺せェッ! 董卓軍、何するものぞ! 中華最強たるは我らが主君、袁公路様の軍勢であることを満天下に知らしめるのだッ!」 主将を失い、成す術なく汜水関から退却する董卓軍に襲い掛かったのは、城攻めを孫堅軍に委ね、後方で待機していた袁術軍であった。 袁術が率いてきた兵は2万。そのうち、袁術の本隊1万は、兵站を司るために本営に詰めており、この場にいるのは、残りの1万である。率いるは、袁術軍でも屈指の猛将と謳われる兪渉と紀霊の2将軍であった。 孫堅の軍勢は、汜水関攻めの折りに少なからぬ痛手を被っており、追撃の余力はなかった。華雄を見事に策に乗せたとはいえ、3万の軍勢が立てこもる城に5千の兵で挑んでいたのだから、それも当然であろう。 袁術軍の2将は、まさか孫堅軍が、孤軍で汜水関を陥とすとは夢にも思っておらず、予想外の事態に狼狽した。彼らの役目は、孫堅軍の戦いを監視し、怯惰な戦いぶりを見せるようであれば、後方から督戦することだったのである。 それゆえ、あまりにも鮮やかな孫堅軍の勝利に平静でいられなかった。華雄を失い、大混乱に陥った董卓軍を、孫堅軍が追撃し、その勢いのままに汜水関になだれ込んだあたりで、ようやく戦況に気づき、慌てて参戦したものの、すでにこの時点で孫堅軍の戦功は覆しようもないほどに明らかとなっていた。 孫堅軍にも損害が出たものの、これでは後日、主君から厳しく叱責されることは目に見えている。それゆえ、2将は敗兵を追撃し、少しでも勲功を稼ごうとしたのである。 指揮官を失った兵士はもろい。ましてや孫堅軍との激闘の後である。 陣を立て直すことさえ出来ず、ただただ虎牢関を目指して逃げていく華雄軍は、袁術軍にとって、狩りの獲物と変わらなかった。 降伏を申し出る者もいたのだが、袁術軍はことごとく斬った。天下の巨悪である董卓軍にかける情けはない、と侮蔑の笑みを浮かべながら、容赦せずに。 少しでも身を軽くするために、武器も鎧も捨て、ただひたすらに逃げ続ける華雄軍の姿は、これが昨日まで精鋭を謳われた部隊の兵士かと疑わせるものであった。 だが、当の兵士たちにしてみれば、少しでも生き延びる確立をあげるために必死である。名高い華雄軍とはいえ、常備兵は華雄の本隊と、その配下の部将の手勢くらいのもので、他は徴兵された民たちである。一度、敗北すれば、戦意よりも死への恐怖が勝る。 そして、そんな彼らの背に、容赦なく突き立てられる矛と、降り注ぐ矢の雨。 袁術軍の凄まじい猛追の前に、華雄軍3万が殲滅させられるのも、もう間もなくだと思われた。 ■■ 袁術軍の兵士たちは、武器といわず、鎧といわず、敵兵の血で染め上げた格好で、会心の勝利に浮かれていた。「は! まったく、狩りの獣の方が、まだ歯ごたえがあるぜ」「違いない! まあ、たかが5千の軍に負けるような奴らだ。おれたち袁家の軍の敵じゃねえよ」「お、みろ、あいつ、まだ逃げようとしてるぜ。誰かとどめをさしてこいよ」 兵士の1人が指差す先には、太ももに矢が突き刺さったまま、何とか戦場を離脱しようとしている董卓軍の兵士がいた。 哄笑をあげながら、袁術軍の兵士たちがその兵を取り囲む。 その姿を見た董卓軍の兵士は、小さく悲鳴をあげると、急いで敵の手から逃れようとする。 だが、足に矢が刺さった状態で、複数の兵士から逃れられるはずはなく、たちまちのうちに周りを取り囲まれてしまった。「あぅッ」 身体の均衡を保てず、逃亡兵は倒れ込む。「はっは、間抜けなやつだな」「ほら、さっさと逃げないと死んじまうぞ!」 囃し立てる袁家の兵士たちの中から、1人の若者が逃亡兵に近づく。「待て待て、矢が刺さってたら逃げられないだろ。ここはおれが助けてやるぜ」「なんだ、お前、医者の真似事が出来たのか?」「できるわけねえだろ。なあに、無理やり引っぱれば、矢なんて簡単に抜けるだろ」 それを聞いて、逃亡兵はもう一度小さく悲鳴をあげる。身体に刺さった矢を抜くのは、医者であっても高い集中力を要する作業だ。素人が力任せに抜こうとすれば、激痛でのたうちまわる羽目になるだろう。「おら、何を逃げようとしてんだ、せっかく俺様が助けてやろうっていうのに」 そういうと、男は、地面を這ってでも逃げようとしている兵士の髪をわしづかみにする。「きゃあッ?!」「何を女みてえな悲鳴をあげてやがるッ! おら、こっちむけ!」 怒鳴りつけながら、無理やり兵士を振り向かせた男は、その顔を見て、少しの間、呆然とした。「おい、どうした?」 怪訝に思った他の兵士が声をかけると、その男は我に返ったように、はっと目を見開く。 そして、男は口を大きく開いて、大笑しはじめた。「はっははは、なんだ、てめえ、もしかして女か?」 それを聞いて、周囲の兵士たちも色めき立つ。 男の言ったとおり、負傷したその兵士の顔は、戦塵と血潮で汚れてなお、可憐さを失わない女性のものだった。「こいつあついてる。おい、おれが気づいたんだ、おれが最初で文句ねえよな?」 勝ち誇って言う男に、周囲の兵士たちから妬みまじりのやっかみの声が飛んだ。「ちッ、運が良い奴め。ちゃんとおれたちにもまわせよ」「おい、他にもいねえか探してみようぜ」「ああ、そうだな。どこの軍でも、女の兵士は固めて組織するっていうしな」 三々五々に散っていく兵士たち。だが、女兵士はそれに安堵することもできなかった。目の前の男が荒々しい息と共に襲い掛かってきたからだ。「い、いやああ、やめ、やめて下さいッ?!」「誰がやめるかッ! 恨むんなら、女の身で戦場なんかに出てきた自分の浅はかさを恨みな!」「や、やめて下さい、は、母と弟が、家で待ってるんです……」「ああん? どうせてめえは死ぬんだ、別に構うこたあねえだろ?」 そういうと、男は無雑作に女兵士の足に刺さっている矢に手をかけた。「ひッ?! 痛、痛いです、やめ、やめてェェェ!!」「くだらねえことをごちゃごちゃ言ってるからだろうが! おら、観念しちまいな!」「いや、いやああ、誰か、誰か助けて………!!」 一際高く、女兵士の叫び声があたりに響き渡る。「バカか、どこから助けが来るってんだよ」 男はもう何度目かの嘲笑を浮かべた。 ■ ――放たれた矢が、目標に向けて走る。 ■「へへ、こんな好機、滅多にねえしな。将軍たちに横取りされる前に、楽しませてもらうぜ」 男の手が、女兵士の服に伸びた。 ■ ――鋭い音が、中空を引き裂くように疾る。続けて2の矢を射る。 ■「さて……」 何か言いかけた男は、胸のあたりに違和感を感じ、怪訝そうに自分の胸を見下ろし。 ■ ――狙いあやまたず、矢は目標を貫いた。射手の強弓ぶりを示すように、その矢は、目標を深く貫き通している。 ■「なんだ、こりゃ?」 自らの胸板を貫く矢を見て、あまりに意外な事態に、男は痛みを感じることさえなかった。そして。 ■ ――2の矢もまた、狙いあやまたず、男の右目から貫き、頭蓋を打ち砕く。 ■「……」 どさり、と地面に倒れふす男。彼は確かに今日、幸運だったかもしれない。 地面に倒れ込んだ時には、すでに命を失っており、苦痛を感じる暇さえなかったのだから。 ■ 最初に異変に気づいたのは、誰であったのか。 追撃と掃討に夢中になっていた袁術軍の兵士は、稜線の彼方から湧き出るように現れた軍馬の一団にようやく気がつくことができた。 董卓軍の援軍か、と袁術軍の誰もが考え、陣形を整えようとしたのだが。 ああ、哀れ。 この軍に対するに、その展開はあまりにも遅すぎる。「て、敵襲、敵襲ですッ?!」「どこの部隊だ?!」「敵、陣頭に深紅の呂旗! て、敵将は呂布です! 申し上げます、敵将は呂布ッ!!」「慌てるな! 敵が呂布であれ、我ら袁術軍の力をもってすれば、何事かあらん! 早急に陣形を整えよ!」「だ、駄目です、敵、先陣、すでに我が軍の眼前まで迫っております! 展開が間に合いません?!」「馬鹿な?! 見張りは何をしていたのだ、これほどに接近を許すなど!!」「な、なんだ、あの先頭の騎馬は! は、速すぎるッ?!」 ■■「…………遅い」 呂布は小さく呟くと、味方の軍さえ後方に置き去りにする、凄まじい脚力を誇る愛馬に語りかける。「…………行くよ、赤兎」 騎手の言葉を理解しているかのように、赤兎は一瞬だけ身体を振るわせた。 中華最強を謳われる人と、中華最速を謳われる馬は、一体となり、突撃の速度を少しも緩めることなく袁術の軍に飛び込んでいく。 呂布の獲物である方天画戟が、目にも留まらぬ速さで振り下ろされる度に、攻撃されたことにさえ気づかないまま、袁術軍の兵士たちが次々と倒れていった。 敵兵を文字通り蹴散らしながら、それでも呂布の突進はわずかの遅滞も見せることはない。 その視線が、翩翻とはためく兪渉の軍旗を捉えた時、この袁術軍の将の命運は決した。 人馬一体となって突っ込んでくる敵将を目の当たりにした兪渉は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。 しかし、将たるもの、兵にそのような弱気を見せることは許されない。 兵たちの動揺を払い、自身の胸中に飛来する嫌な予感を振り払うためにも、高々と名乗りを挙げようとする。「我こそは袁家にその人ありと言われし兪渉なり! 敵将呂布よ、袁家に人無しと思ってもらっては……」 だが。「………うるさい」 名乗りを挙げる間もあらばこそ。 呂布が無雑作に戟を一閃させた瞬間、兪渉の首は宙を飛んでいた。「しょ、将軍が討ち取られた?!」「ひ、退け、退けーーッ! 汜水関まで退却しろ!」 主将が討ち取られたところを目の当たりにした袁術軍の兵士たちは、慌てて呂布軍に背を向ける。 だが、戦友たちを嬲られた呂布軍の兵士たちが、それを見逃すはずもなく。 先刻までの戦況は完全に逆転し、追う者と追われる者は立場をかえて、新たな戦場に身を投じることになるのであった。 ■■ 「れ、恋殿~、お1人で突出するのは、いかに一騎当千の恋殿といえど危ないと申したではありませんか~」 掃討戦を終えて陣営に返ってきた呂布を、小さな人影が騒がしく出迎えた。 呂布の軍師(と自称する)陳宮である。「………平気。あの程度の敵なら」「そ、それはもちろん、恋殿にかなう奴がそこらにいるはずもないですが、それでも万一ということが」「………あの子は?」「聞いてくだされーーー……あの娘なら、すでに医者の手当ても済んでおります。敗走の疲れもあったのでしょう。今はぐっすりと寝ておりますが、お顔をご覧になりますか?」 陳宮の問いに、呂布はわずかに首をかしげた後、小さく頷いた。「………ん」 「では、こちらです」 陳宮が呂布を案内したのは、負傷兵を収容する天幕ではなく、更に奥まったところにある重傷者専用の天幕であった。それだけ、袁術軍の兵士たちに痛めつけられていた傷が深かったのだろう。 呂布たちが天幕に入ると、意外なことに、娘は目を覚まし、ぼんやりと天幕の内部に視線を送っていた。 だが、呂布たちが入ってくるのを見て、慌てて畏まろうとし……太ももの激痛に、呻き声を漏らしてしまう。「ああ、じっとしているのです! 医者は後遺症は心配ないといっていましたが、きちんと休まないと、その限りではないのですぞ!」「で、ですが、呂将軍、御自らお越しなのに、横になっているわけには……」「………気にしないで良い」「そうなのです! 恋殿はそのような些事に目くじらをたてるほど、器の小さい御方ではないのです!」「……は、はい、申し訳ありません」 俯き、小さくなってしまった娘を見て、呂布は陳宮をじっと見つめる。「………怖がらせちゃ、駄目」「あうう、わ、私が悪いのですか? 恋殿の偉大さを話しただけですのに」「…………」「ぐうう、恋殿にそのような目で見られると、心が張り裂けるようなのですよぅ……」 うちしおれる陳宮の姿は、まるで主人に叱られた子犬を見るようで。 その愛らしい様子に、間近で見ていた娘は小さく、くすりと笑みをもらした。「むむ、今、ねねを見て笑いましたね?」「い、いいえ、とんでもないです!」「ごまかしても無駄なのです! ねねの地獄耳は3里離れた場所に落ちた雷の音さえ聞き取るのですよ!」 思わず首を傾げる娘。「……それは誰でも出来るのでは……?」「何か言ったですか?!」「いいえ、言ってません……っ痛!」 勢い良く背筋を伸ばそうとした娘は、傷口から発する激痛に、再び顔を歪めた。「………陳宮」「い、今のはねねが悪かったのです」 咎めるように陳宮を見る呂布に、今度は素直に陳宮も頭を下げる。 痛みをこらえながらも、娘は今度ははっきりとした笑顔を見せるのだった。「姓は高、名は順と申します。未だ若輩ゆえ、字は持ちません」 助けられた娘はそう名乗ると、改めて呂布に感謝の言葉を述べた。 肩までしか伸ばしていないのが惜しいと思えるような、艶のある黒髪と、吸い込まれそうな黒の瞳が印象的な少女だった。 聞けば、兵卒として徴用されそうになった弟の代わりに、兵士として志願したのだという。女ということがばれれば、再び弟に徴兵の令が下るかもしれないため、ずっと男として振舞っていたのだ、と高順は語った。「………ちんきゅ」「みなまで言わずともわかっております、恋殿。傷が癒え次第、ただちに帰郷できるように手をうっておきます。それまでは後方に下がっていてもらいますので」「……ん。でも、虎牢関は駄目」「な、何故ですか? 恋殿が守る以上、虎牢関は難攻不落。これ以上、安全なところなどないですのに」「……なんとなく」「な、なんとなくとは……い、いえ、わかりました! 恋殿の勘に疑義を挟むなど、軍師としてあってはならぬこと。ただちに洛陽まで戻れるよう手配いたします!」「……ん」 こくり、と頷く呂布を見て、高順は身体の痛みさえ忘れて、深々と頭を下げた。「りょ、呂将軍、なんと、お礼を申し上げたら良いのか……」「……困ったときは、お互い様」 そう言うと、呂布は病人の療養の邪魔にならないように立ち上がった。 かくして、高順は負傷兵として後方に移送され、戦線から姿を消すことになる。 やがて、この少女は、武は呂布に次ぎ、智は陳宮に次ぐと称され、陳宮と共に呂布軍の左右の将となるのだが……それは今しばらく先の話であった。 ■■「おのれ、呂布め、おぼえておれよ!」 僚将を討ち取られ、さらには撤退時に壊滅的な損害を与えられた袁術軍の将軍紀霊は、汜水関の偉容を彼方に望むと、もう何度目になるかもわからない憤懣を口にした。 すでに率いる兵力は3千をはるかに下回る。あるいは2千を切るかもしれない。歴戦の将軍である紀霊であったが、ここまでの惨敗を喫したことはかつてなかった。 主君である袁術は、悪人ではないにせよ、気分屋な面があり、罪に過ぎる罰を課してくることは珍しくない。ましてこれほどの大敗とあれば、下手をすれば死罪に処される可能性さえあった。 袁術の好物である蜂蜜酒を、今のうちから差し入れておくべきか、などと戦後処理に意識を向けていた紀霊は、汜水関を視界に捉えたことで明らかに油断していた。 ここからならば、たとえ交戦することになっても、連合軍の援軍が間に合うだろうし、何より、呂布軍が退いた今、こんなところまで突出してくる敵軍はいないだろうという予断は、しかし、致命的な失策となって、紀霊に跳ね返ってくることになる。「しょ、将軍、よ、横合いから騎兵部隊、突進してきます!」「な、何だと?! いつのまに……ま、まさか、呂布が引き返してきたのか?」「違います! 横撃をかけてくる軍の旗は『張』! 敵将は張遼と思われます!」「おのれ、このような場所まで侵出してくるとは、なんと愚かな敵将なのだ!」 届くはずのない敵将への罵倒。 だが、あるはずのない返答が、紀霊の耳に届く。「愚かな敵将ですまんなあ。ただこっちにも、ちいと都合っちゅうもんがあってな」 青竜刀を模した長刀を掲げ、張遼は気軽な調子で紀霊に話しかける。「うちの名は張文遠。袁術軍の将、紀霊と見受けた。あんたにゃ恨みはないけど、その首、とらせてもらうで」 まるで、ちょっと筆を貸してくれとでも言うように、あっさりと言う張遼。 だが、その顔は次の瞬間、触れれば切れそうな戦意を宿したものに変じた。「いや、ちゃうな。あんたら、ずいぶんうちらの仲間を可愛がってくれたようやし、十分恨みはあるなあ。ま、どっちにしても、あんたの命運は、ここで終わりちゅうこっちゃ。おとなしゅう、うちの刀の錆になりくされ!!」「く、な、何をしている、応戦せよ! それと汜水関に援軍を要請するのだ!」「もう遅い……っちゅうてもわからんのやろな。まあええ、なら、その身体に直接教え込んでやるだけや!」 愛馬をあおって突進する張遼。それを慌てて迎え撃つ紀霊。 打ち合いは、ほんの10合足らずで終わった。 実力どおりの決着。 宙を飛ぶ紀霊の顔には、最後まで驚愕が張り付いていたという。 袁術軍は、この一連の追撃戦で、総兵力の半数近くを失うという大打撃を受ける。 一方で、汜水関を独力で陥落させた孫堅の声望はいやが上にも高まった。 その2つの事実が何をもたらすのか。この時点で明確に読み取ることが出来る者は、どこにもいなかったのである。