天公将軍 張角「みんなー! てんほー、みんなのこと、とってもあいしてるー♪」 沸き立つ聴衆。高まる歓声。 地公将軍 張宝「みんなの妹、ちーほうだよぅ! 応援、ありがとー♪」 足を踏み鳴らし、台上のアイドルたちを称える人々。老若男女を問わず、彼らの視線は台上にいる3人の姿に集中していた。 人公将軍 張梁 「みんな、今日は私たちのために集まってくれて、ありがとー♪」 呼びかけに応える声は、もはやこの世のものとも思えぬ熱気を孕み、張家のアイドル3姉妹が持つ求心力と人気が、どれだけ大きいものかを如実に示していた。 そう、たとえば、旭日のごとき勢いで高まる人気にファンが暴走し、1国の王朝を倒壊させる引き金となってしまうほどの、それは力だったのである…… 台無しだった。 いろんな意味で台無しだった。 おれは黄巾党の設立された経緯を知り、地面に膝をつきたい気分に駆られた。「ありえないって。なんだ、アイドルグループの延長の末に起きた黄巾の乱って?!」 と叫びたい気持ち。きっと、三国志のファンならわかってくれるはずである。 あいにく、この地に、そんな人間はおれしか居そうになかったが。 だが、いくらおれが嘆こうとも、それで歴史が変わるわけではない。今、この時、この場所で、それは紛れもない事実なのだ。 これまで、おれは自分の体験を、タイムスリップとか時間転移とか、そのあたりの領域のことであると漠然と考えていた。古来より、神隠し、という言葉はあるし、小説やゲームなどで、そういった展開は珍しいものではない。 だが、これだけあからさまに史実と異なる状況を見てしまうと、単純に過去の世界に来てしまった、というわけでもないようだ。一体、どういう状況に巻き込まれてしまったのやら、見当もつかない。「まあ、死にそうな状況に変わりはないわけだけど、な」 そうつぶやき、おれは作業に戻ることにした。 冷静に考えれば、監督役どもがいない今、絶好の逃げる機会であったのだが、そこまで頭が回らなかった。冷静になったつもりでいたが、実際はそうでもなかったようだ。それくらい、おれの受けた衝撃は強かったのである。 そのことに気づいて臍を噛んだのは、夕食後のこと。くたくたになるまで働き、天幕に転げ込みながら、ああ、そういえば逃げ出す好機だったな、とようやく思い至ったのである。我ながら、間の抜けたことだった。 ところが、翌日。この行動が、おれに思わぬ幸運を招き寄せることになる。 朝、まだ早い時間。おれは、例の監督役の男に連れられ、ひとつの天幕まで連れてこられた。豪奢な布地を使ってつくられた天幕は、これが黄巾党の幹部クラスの人間が使っている物であることを物語っている。 これまでは近寄ることさえ許されなかった一画で、おれは困惑の表情を隠すことができなかった。 男の説明によれば、なんでも、件の張家の姉妹が、じきじきにおれを呼び出したらしい。正確には、おれというより、姉妹のステージが行われているというのに、見向きもせずに労働に従事していた奴隷を呼び出したのである。 こんなことは今までなかったらしく、監督役の男も、おれにどんな態度で接して良いやらわからないようだ。もっとも、おそらくなんらかの叱責を加えられるであろうとは思っているらしく、特にこれまでと大きく態度を違えることはなかったのだが。「張梁様、お言いつけどおり、例の者をつれてまいりました」「わかったわ。中に入りなさい」 予想していたよりも、ずっと落ち着いた声音が、天幕の中から、おれの耳に飛び込んできた。 張梁、ということは、人公将軍か。正史での役回りは……何だっけかな。まあ、少なくとも、アイドルグループの一員ではなかったな、うん。 背中を小突かれたおれが、転げるように天幕の中に入ると、中にいた少女が、眼鏡(?)をくいっと持ち上げ、おれに観察の視線を走らせるのがわかった。 当たり前だが、黄巾の連中に捕まってからというもの、着替えはしていないし、風呂も入っていない。そもそも、風呂というものが、この時代にあるのかも良くわからんが…… つまりは、おれの姿は、小汚い路上生活者そのもの。自分ではわからないが、悪臭もぷんぷんと漂っているのではなかろうか。 だが、目の前の少女は、そういった些事は気にも留めず、ただおれの姿を見つめ、そして最後におれの瞳を覗き込むような視線を向けてきた。 怜悧な視線は、おれの内心さえ分析しているかのようで、おれは視線を逸らすこともできず、ただ見返すことしかできなかった。 どれだけ、そんな状況が続いたのか。 不意に、張梁はおれから視線を外すと、おれの後ろで控えていた監督役の男に声をかけた。「ご苦労様。あなたは帰って良いわ」「は、はい。この者は、いかがしますか? 処刑するのであれば、将軍の手を煩わせる必要は……」「処刑? 誰がそのようなことをいいましたか?」「は、いえ、ですが……」 戸惑う男に、あくまで冷静な張梁。「罰を与える、という意味では間違いないですが、処刑などという真似をする必要はありません。姉さんたちからも、黄巾党の者は、皆、仲良くするように、と言われているはずですが、この者を見るに、姉さんの言葉はあなた方に届いてはいないようですね?」「い、いいえ! そんなことはございません! こやつらは奴隷でして、黄巾党の仲間というわけではありませんので、それに相応しい扱いをしているだけでございます」 男の言葉に、張梁はかすかに顔を顰めたが、何を言っても無駄と考えたのか、軽く手を振って、男に退出を促す。「まあ、いいでしょう。いずれにせよ、この者を連れて来るのは、姉さんたちも知っていること。あなたがとやかく言うことではありません」「ち、張角様じきじきに?! ど、どうしてこのような奴隷風情を……」「それもまた、あなたがとやかく言うことではないでしょう。今度のステージの打ち合わせがもうすぐ始まるので、早く出て行ってもらいたいのだけれど?」「……は、はい、失礼いたします」 明らかに納得はしていない様子で、男はしぶしぶと引き下がった。 天幕から出て行く際、おれにむけて剣呑な視線を向けていたが、この流れで、おれに一体どうしろというのだ、おまえは。「さて、話を続けましょうか」 そういって、また眼鏡をくいっとあげる張梁さん。 たしかにアイドルらしい華やかさはあるが、どちらかと言えば委員長とかマネージャーとか、そういったマネージングを担当する役割が相応しいように思える。「……何か、失礼なことを考えていないかしら?」「いえ、滅相もありません」 きらりと鋭い眼光に、おれは平伏して許しを請うた。 張梁の話を要約すると、おれに姉妹のマネージャーをしなさい、ということだった。 なんでまた、おれにそんな話を持ち込むのか。希望者など掃いて捨てるほどいるだろうに。 おれが疑問に思って訊いてみると、張梁曰く。 たしかにいることはいるらしいが、どいつもこいつも下心満載な連中ばかりで、とてものこと、身辺に控えさせておくことはできない、とのこと。 常日頃、アイドルとして注目されているからこそ、オフの時くらいはゆっくりしたいという気持ちは、わからないでもない。たしかに、人間、始終、気を張っているのは大変だしな。 今の境遇から抜けられるという意味でも、張梁の提案は大きな好機であったが、問題がひとつ。 おれにはマネージャーを務める技能も経験もない。そのあたりはどうしたものか。 だが、張梁はただ一言。「マネージャーといっても、単なる下働きだから。というより、召使いかしらね? 姉さんたちのわがままに、諾々と従ってくれれば、文句は言わないわ……私の代わりとしてね」 最後の部分に見え隠れする人公将軍の本音。 しかし、そこは聞こえなかったフリをするのが、空気を読める男というやつである。 それにまあ、おれとしても、アイドルグループのお側付きというのは、興味あるし。少なくとも、今の強制労働を続けるよりは、よっぽどマシだろう。 そんなわけで、おれは張梁の提案にうなずくことにした。 張梁は、当然ね、と言わんばかりに小さくうなずくと、最初の命令を発した。「とりあえず、身体を拭いてきなさい。臭うわよ」 久方ぶりにさっぱりしたおれの顔を見て、張梁は少しだけ驚いた顔でつぶやいた。「……あら、思ったより良い顔してるのね」「え、何だ……もとい、何ですか?」「何でもないわ。ほら、早く来なさい。姉さんたちが待っているわ」 そう言う張梁に急かされ、おれは一際豪奢な部屋に連れてこられた。 その中にいたのは、どこか張梁と似た面立ちの、2人の少女。 その2人が誰であるのか。今更考える必要もないことであった。「ふーん、君が新しいマネさんね。わたしが張角だよ、よろしくね」 そういって、ほんわかと微笑む張角。「ふふん、張梁が選ぶだけあって、なかなか良い男じゃない。うん、合格合格。あたしたちのために、きりきり働きなさいよ! あ、そうそう、あたしのことは張宝様、と呼ぶように。いいわね!」 最初っからテンションの高い張宝。 初対面ながら、いきなり相手の性格がわかってしまった気がするおれだった。 そしてもうひとつわかったこと。 張梁に聞いていた通り、彼女らにとって、黄巾党の党首や将軍というのは肩書きに過ぎず、その本質はアイドルグループであるということである。 それも当然といえば当然のことで。 3人のユニット『数え役萬☆しすたぁず』は、黄巾党が結成される以前から、アイドルグループとして活動していたのである。それが予期しない方向に発展してしまい、現在に至るわけだが、張角も張宝も、それもありかな、と受け入れてしまっているようだ。 それで良いのか、と問いたいところだが、しがない奴隷改めマネージャーの身としては、そんなことを言えるはずもない。 おれに出来るのは、これからよろしくお願いします、と頭を下げるのみであった。 かくて、おれのマネージャー業の日々が始まりを告げる。 だが、内心で、確か、おれって三国志の時代に来てるんだよな、なんでアイドルのマネージャーになってるんだ、と首をかしげていたこの時のおれは、知らなかった。 アイドルのマネージャーというものが、ある意味、強制労働の時よりも心身を削る仕事だという、恐るべき真実を……