ぱたぱたと血が大地に落ちる。
シュリヒテは剣を杖のようにして身体を支えていた。
その左手に盾はない。
酷使に耐え続けてきた盾は遂に限界を迎え、魔神将の一撃でたたき割られた。そのまま籠手を砕かれ、刃は腕にまで達した。流石にその頃には勢いが弱められ、腕を切り落とされるようなことはなかったが、それでも負った傷は浅くない。零れる血が止まらない。
激しく肩を揺らし、荒い呼吸をしているシュリヒテ。
眼光は鋭く魔神将をにらみつけ、まだ心は折れていない事を端的に現している。
しかし、身体の方は限界に近い。そうでなくとも、出血や痛みは疲労を加速させるファクターだ。最早限界までの猶予は乏しい。
そのシュリヒテを、魔神将は傲然と見下す。
戦えない豚はただの豚だ。
魔神将の瞳がそう告げている。
そして、戦えない豚は屠殺するだけ。
「見下してるんじゃねえ」
シュリヒテはうなり、剣を構える。しかし、それだけのことが重労働の様で、動きに軽やかさを欠いている。
サシカイアは、せめてヒーリングで怪我の治療だけでも、と一歩前に出るが、すかさず魔神将の視線が飛んでくる。
余計な手出しをするな。
その視線が告げてくる。
「──くっ」
ヒーリングは、一発でHPが全回復するというすばらしい精霊魔法だ。だが、その使用方法に難がある。女性限定というのもサシカイアの心が折れそうな分類だが、それはとりあえず置く。今問題なのは、効果を顕すためには対象に接触する必要があると言うこと。こんな一騎打ちの状態、しかも動きをいちいち警戒されているとなれば、使うどころか対象に近付くこともできない。
ならば、マーファ神官戦士達のキュアウーンズ──こちらは有効距離10メートルで離れていても大丈夫──をお願いしたいところ。しかし、神官戦士達は先の魔神将の咆哮による精神力へのダメージが大きく、なかなか行使へ踏み込めないでいる様子。次の咆哮が来ればおそらく神官戦士達のほとんどが終わる。そして、魔法を使ってくるならば吼えるぞ、と魔神将が牽制してくる状態で、それでも使え、と促す事も難しい。
魔神将は、こちらから視線を切ると、シュリヒテに向き直る。今こそ、と動きたいところだが、残念ながら、それでもこちらに注意の幾ばくかを払っていることがわかる。わかってしまうだけに下手な動きができない。ただ、シュリヒテを見守ることしかできないでいた。
膝が震えつつもようやく立って構えている。
そんなシュリヒテの様子に、ふん、とばかりに鼻を鳴らすと、魔神将はポールアックスを構えた。興が冷めた。その視線がそう告げている。
それは死の宣告。
そのまま魔神将は無造作に距離を詰めて、その得物を振りかぶる。
シュリヒテは反応しようとするが、悲しい程に身体が動いていない。
「──!」
打ち倒されるシュリヒテを幻視し、思わず悲鳴を上げかけたサシカイア。
そこへ。
「FALTZ!」
1音節の神聖語の高らかな叫び。
魔神将が、まるで見えない何かを喰らったように、顔をのけぞらせる。否、喰らったように、ではない。実際に何かを喰らった。おそらくは神聖魔法のフォース。不可視の衝撃波を敵に叩き付ける魔法。
残念なことに、この一撃は魔神将の分厚い面の皮を貫くには至らず、ダメージは皆無。しかし、それでも不意に鼻面に一撃を食らえば驚き、僅かなりとも動きが止まる。
ほんの一瞬の停滞。しかし、その一瞬が、シュリヒテが魔神将の攻撃から逃れる為の貴重な時間となった。ほとんど転がるようにその場から逃れ、魔神将から距離を取る。
「──!」
サシカイアは魔神将に一撃を加えたのは誰かと視線を巡らせ、驚きに絶句する。
そこに立っていたのは、全身鎧に身を包んだドワーフの神官戦士。
完全にリタイアしたと思われた自分たちの仲間。
「ギネス!」
ブラドノックが驚き混じりにその名を呼ぶ。
それに応じ、ギネスはちっちっちと舌を鳴らした。
「違うね」
あのへたれが嘘のように自信に満ちあふれ、ギネスは堂々と嘯いた。
「生まれ変わった今の僕はもう先刻までのギネスじゃない。そう、今の僕は、スーパーギネス!」
「……なんか、発泡酒とか、第3のビールみたいで安っぽいな」
ぼそりとサシカイアの感想。
「もとい、スーパーギネス改め、超絶ウルトラ・グレート・デラックス・ギネス2!」
どうやら聞こえたらしい。ギネスが名乗りをやり直す。
それでもやっぱりだせえ、と、今度は口の中だけでサシカイアは呟いた。
ロードス島電鉄
25 ブレイブストーリー
ギネスにとって、この世界は恐ろしいばかりだった。
あたりまえに人を殺す魔物が跳梁跋扈する異世界。剣と魔法の世界。日常的に殺し合いが繰り広げられている世界。
ファンタジー世界には憧れていた。もし、自分がファンタジー世界で冒険をすることになったら、なんて夢想した。だからこそ、TRPG、ソードワールドで遊んでいたわけだし。
しかし、憧れるだけ、ファンタジー世界なんてゲームだけで十分だった。
死の危険がすぐ隣の存在する世界。
そんな物騒な世界、創作やゲームであるからこそ楽しめた。現実、命の危険を隣に置いて勇者する。そんな真似、平々凡々と安閑に生きてきた一般の現代日本人にできるはずもなかった。武器を振るい、魔法を使って敵と戦う。そんなことは、命に危険がないからこそ楽しめる事柄だった。現実に生き物の命を奪うなんて事は、恐ろしすぎた。
ギネスにとって、この世界は恐ろしくてたまらない。
それでも、なけなしの勇気を奮って、これまで何とかやってきた。
この世界に3人しかいない自分の同胞。その仲間はずれにされる。それもまた、死と同じくらいに恐怖を感じさせることだった。寄る辺なく、ただ1人異邦にて孤独に存在する。そんなことは耐えられそうになかった。
だから、べそをかき、反吐を吐き、小便をちびり、恐怖に心を削られながらも、戦ってきた。
しかしそれも、神聖魔法の剥奪、と言う事態によって限界を迎えた。
正直なところ、ギネス自身もその可能性を考えなかったわけではない。
自分が戦神マイリーの神官らしからぬ性格、行動をしていることなど百も承知だ。だからと言って、容易く改められるモノでもない。承知していても、怖いのだから仕方がない。
おまけに、マイリーを信仰しているかと問われれば、もちろんノーだ。
信仰にいい加減な日本人。あたりまえにクリスマスを呪い──だって独り身だから──、お正月は初詣、バレンタインデーもやっぱり呪い、灌仏会はスルー。将来の結婚式は相手次第で洋風和風が決定されるだろう、アレは女性のためのイベントだとギネスは思っている。で、葬式は普通に仏前か、坊主にやる金がもったいないような気もするから無宗教もありか。その程度、ちゃらんぽらんな典型的な日本人なのだ。都合良く取捨選択し、あくまでイベントの一つとして楽しむ。ある特定の宗派にこだわることはない。仏教だって神道だってキリスト教だって創○や鸚○だって自分に都合が良ければ何でもいいのだ。……訂正、やっぱ後ろの二つはやだ。
とにかく、ある特定の宗教を信仰することなど、考えたこともない。
おまけにマイリーは創作、ゲームの神様なのだ。そんなモノを信じられるかと問われれば、もちろん信じられるはずがない。信じる方がおかしい。いくらファンタジーな物語を好み、ファンタジーを舞台に遊んでいるとは言え、現実と空想の区別は付く。
何故、信仰心絶無の自分がマイリーの神聖魔法を使えるのか疑問に思いながら、使えるのだから、そう言うモノ。疑問のいくつかを都合良く忘れたふりをして、都合良く棚上げして、深く考えないことにして、これまでやってきた。
そして、多分、これから先もやっていけるだろう。
そんな風に考え始めていた矢先の、プリースト技能の失効。
元々折れかかっていた心はあっさりと折れた。
泣き叫び、頭を抱えて蹲る。
恐ろしい。全てがみんな恐ろしくてたまらない。
この死が身近にある世界で、拠り所としていた力を失い、戦って行くなど考えられない。
いや、力がそのままあったとしても、戦って行きたくなどない。
戦える方がおかしい。
戦いとは即ち殺し合いに他ならない。自分が殺されるリスクを負い。そのリスクを回避するために相手を殺す。血で血をあがなう殺戮の連鎖。そんなモノに、関わりたいなどとは思えない。
正直なところ、あっさり化け物との殺し合いに順応していくように見える、他3人の仲間に対してすら、恐怖を覚える。彼らもまた、化け物ではないかという疑いを抱いてしまう。
頭を抱え蹲り。それでも視線を向けたその先で。
サシカイアが敵を焼き払っていく。
信じられない。アレは既に死んでいるとは言え元は人。それをあんな具合にあっけなく、あっさりと焼き払う。何故、そんな恐ろしい真似ができるのか、理解できない。
シュリヒテが敵を斬り下していく。
信じられない。アレは既に死んでいるとは言え元は人。それをあんな具合にあっけなく、あっさりと斬り払う。何故、そんな恐ろしい真似ができるのか、理解できない。
恐ろしい。恐ろしくてたまらない。やはり彼らもまたモンスターではないかという懸念。
そして、もっと恐ろしい奴が現れた。
一目で知れる格上の敵。これまでに苦労して戦ってきた敵が、子供に見える程に桁の違う敵。
魔神将。
無理だ、勝ってこない。あんなのと戦うなんて、絶対に間違っている。なぜなら、絶対に勝てないから。敗北が招くのはゲームオーバーじゃない。招くものは死。この世界は恐ろしい。生きていくのが辛い。それでも、死ぬのはもっと嫌だ。だから、ここは逃げるべきなのだ。
あうあうと言葉にもできずに唸るだけのギネスの視線の先で、シュリヒテが魔神将に挑んでいく。
無理だ。絶対に無理。
そのギネスの思いは正解だった。
シュリヒテは信じがたい程に強かった。しかし、それでもなお、届かない。魔神将の強さは、シュリヒテの更に上に存在した。
挑み、打ち払われ、傷を負い、疲れ果て。
シュリヒテは限界を迎えようとしている。
それでもなお、敵に向かおうとしている。
馬鹿だ。
勝てるはずがないのに。
サシカイアが短剣握りしめて助太刀しようとして、ブラドノックに止められている。
こちらも馬鹿だ。
勝てるはずがないのに。
ここは逃げるのが正解なのだ。そう、逃げればいい。
今、魔神将が警戒しているのはシュリヒテ。そしてサシカイアの、傍目にもよく目立つ活躍をした二人。二人の活躍の度が過ぎて、他の存在は眼中にない。だから、最初でリタイア、蹲って泣いていたギネス1人が逃げ切れる可能性は低くない。
殺し合いに易々と踏み込んでいった、化け物みたいな連中のことなど、知ったことではない。
魔神だって放っておいても、本物の英雄、ベルドやファーンと言った連中が片付けてくれる。原作通りであれば、魔神の最終的な敗北は確定している。ここで局地的な勝利を魔神に与えたとしても、大勢に影響などアリはしないだろう。
だから、ここは逃げても大丈夫なのだ。
所詮自分など、この魔神戦争で何事かできる、そんな大物ではない。いてもいなくても特に影響のない、取るに足りないどうでもいい存在。最悪、百の勇者に数えられるようなことになっても、いつの間にか死んでいました、と言う感じ。その最期すら1行だって描写されないその他大勢がいいところだ。
だけど。
ギネスは、震える手で自分の武器を握りしめる。
逃げるのが正解。
そんなことは百も承知。
だけど。
視線の先、魔神将の一撃で盾をたたき割られたシュリヒテが、大きく距離を取る。その左腕は力無くたれ、赤いモノをまき散らしている。
勝負は既に付いたようなモノ。
そして、シュリヒテが、目の前の障害がいなくなれば、魔神将は他の駆逐にかかるだろう。そして、それに対抗できる存在はいない。一方的に蹂躙されて終わるだろう。
逃げるならば、これが最後の機会。今が最後のチャンス。
だけど。
勝てっこない相手に挑む馬鹿など、放っておけばいい。
大事なのは自分の命。ヒロイックな行動など、ヘタレの自分には似合わない。身の丈に合わない行動など、しても何も救えない。他人はもちろん、自分自身すら救えない。そこに何の意味もない。
だけど。
ここで、仲間を捨てて逃げるのも、絶対に間違っているとの思いが頭から離れない。
ギネスは涙やら鼻水やらよだれやら吐瀉物やらで汚れた顔を持ち上げる。武器をつかんで立ち上がる。
だけど。
サシカイアが再び無謀な突撃をしようとしてブラドノックに止められている。
ブラドノックの行動が正解。たかだか5レベルシーフ、しかも筋力体力に不安有りの脆弱エルフ娘が接近戦を挑んだどころで瞬殺が落ち。
だけど。
ドワーフの8レベルファイターであれば?
やはり勝てないかも知れない。
きっと勝てないだろう。
勝てるはずがない。
だけど。
だけど。
彼らは友達なのだ。
友達を見捨てて逃げることは、絶対に違うと思う。
蛮勇?
蛮勇だ。
愚かな行動?
愚かな行動だ。
そこに意味など無い。
そこに勝算など無い。
それでも。
ギネスは武器を構えて立ち上がる。
武器を固く握りしめる。
震える足を前に出す。
全ては友達を救うために。
そこで──
声が聞こえた。
圧倒的な存在感。あまりに存在のレベルが違う。あまりに荘厳で。あまりに高次元すぎて。その声を、その言葉を正確に理解することは不可能。
しかし、その大雑把なニュアンスは理解できた。
曰く──
──《汝の勇気を祝福しよう》──
知らずに涙がこぼれてきた。
これまでこの世界で幾度と無く流した、絶望と恐怖による冷たい涙ではない。
感動と感激、大いなるモノに再び連なることができた、歓喜の熱い涙。
「……マイリー様」
意識せずとも、あたりまえに敬称が付いた。付けずにはいられなかった。
思わず跪いて祈りを捧げたくなる。
以前、神聖魔法を使うときに聞こえてきた声とは違う。アレは、どこかシステマチック。まるでコンピューターの合成音声の様。しゃべる炊飯器と会話しているような感覚。何処までも作り物じみた平坦な声だった。そこに神性を感じることなど皆無。
しかし、この声は違う。
圧倒的な存在感があった。圧倒的な力感があった。圧倒的な感動があった。これこそがまさしく神、一片の疑いもなく、そう信じることができた。
人の理解が届かない、絶対的なまでに大いなる存在。その巨大な存在の一端に触れる、その喜び。
この喜びは、神に仕える者にしか感じることはできないだろう。そして、この喜びの前には、他の喜びなど、些細なこととしか思えない。
今まで、自分が戦いを、死を恐れていたことが馬鹿らしく思えてきた。
恐れる必要など何処にも存在しない。
戦いこそ、我が神の喜び。
ならば。
戦いこそ、我が喜び。
そして、力及ばず倒れたとしても、それもまた問題ではない。
その戦いが正当なモノであれば、たとえ死んでも、マイリー神の喜びの野に召されるだけのこと。
この、大いなる存在の元へ、行くことができる。
それは恐怖ではなく、喜び。
そして、ギネスはさらなる神の啓示を受ける。それもまた、ギネスに喜びを与えた。神より、自分にだけ与えられたモノ。その「特別」に喜びが溢れんばかり。
最早この世に、恐怖などは存在しない。ただ正しく戦って、戦い続け、敵わなければ死ぬだけの話。
ギネスの視線の先で、シュリヒテが魔神将に打ち倒されようとしている。
ここから飛び込んでも間に合わない。かなりハイスペックなギネスのボディだが、敏捷度だけは低い。何しろドワーフだし。
だからギネスは、慌てず騒がず手を突き出す。
神聖魔法は失効した?
それはもちろん、過去の話。
今の自分は、あたりまえに神聖魔法を使える。
そんな確信とともに、1音節の神聖語を高らかに唱える。
そして、ギネスは名乗りを上げた。