目の前に繰り広げられる走馬燈。
父親の顔が浮かんだ。母親の顔が浮かんだ。幼なじみのあの子の顔が浮かび。楽しかった小学校の遠足の思い出や、中学の運動会、高校の文化祭、打ち上げのキャンプファイアー。卒業式の校舎裏。懐かしいセピア色の光景。記憶に新しい最近の出来事。嬉しかったことも楽しかったことも腹の立ったことも悲しかったことも色々とあった。目の前を様々な光景が流れていく。
思わずそのまま動きを止めそうになって。
サシカイアはシュリヒテの言葉を思い出す。
「まるでスローモーションであいつの腕が迫ってきて。避けるのはすごい簡単だと思ったのに、身体が全然動いてくれなくて。そしたら、頭の中にこれまでの人生とか、パパとかママとか姉ちゃんとかの顔が浮かんで……」
走馬燈。
……それは死に神の異名。
ロードス島電鉄
016 傷だらけの栄光?
我に返った瞬間、時間感覚が元に戻っていた。
すぐそこに迫るゴブリンのショートソード。
それから逃れようと必死で、精一杯首をよじる。
がつんと、左耳の僅かに上の地面で堅いモノを打ち付ける音。左耳に感じるかすかな痛み。
何とか致命的な一撃を受けずにかわすことに成功。危うく片耳エルフになるところだったが、ゴブリンの一撃は地面を叩いていた。生き残ることが出来た。
「Go、Gobu~」
思い切り地面を叩いて手が痺れたのか、ゴブリンが情けない声を上げる。
生存を喜ぶことも、安堵する余裕も今はない。サシカイアは必死でその剣を握るゴブリンの腕にしがみつく。
次もかわせるとは限らない。いや、きっと無理だ。今回は運良くかわせた。しかし、こんな酷い体勢。次は絶対にかわせない。この隙に何とかしなければ殺される。
その思いから、ゴブリンの腕を捕まえる。もちろんゴブリンはそれを嫌がってこちらから逃れようとするが、必死でしがみつく。
このまま腕を捻って剣を取り落とさせれば……
顔に衝撃。
一瞬、意識が飛んだ。
何が起きたのか分からない。それでも腕をつかむ手を離さなかったのは僥倖。
鼻の奥に鉄の匂いが広がる。ぽたぽたと落ちる何かアカイモノ。
血。
鼻血。
何が起きた?
そこへもう一度顔に、右の目元に衝撃が来た。
がくんと顔がのけぞり、ゴブリンの上半身が眼に入る。
ゴブリンはこちらに剣を握る右腕を掴まれたまま、左腕を振り上げている。
振り上げられたゴブリンの左腕。サシカイアの見ている先で、握られたその左拳が振り下ろされる。
今度は右の頬に衝撃。
一瞬の暗転と、眼の奥に飛び散る火花。
殴られた。
やっと、何が起きたか理解する。
ゴブリンに殴られた。
更にゴブリンは左腕を振り上げる。
顔を殴られた。
殴られた鼻が痛い。殴られた右目が霞む。殴られた頬が熱を持っている。鼻血が顔の下半分をぬらしていて気持ち悪い。口の中も切ったのか、それとも鼻血が流れ込んだのか、不快な血の臭いと味。こみ上げてくる嘔吐感。
血が頭に上った。
たかがゴブリンごときに。
たかがゴブリンごときに顔を殴られた。
それも、この超絶美形なエルフっ子である自分の顔を。
「ぅぅあああああああああああああああああああ!」
意識せず、喉の奥から絶叫が零れた。
それは。それは万死に値する行為。絶対に許されない行為。美に対する冒涜。償うには命を持ってしか、いや、それですら対価としては釣り合わない。
怒りともに身体の奥底から力が湧いて出る。恐怖とか、怯懦とか、悲観とか、不安とか、今まで自分の行動を阻害していた全ての感情が、怒り一色で上から塗りつぶされていく。
こちらが下であちらが上。圧倒的に相手が有利な体勢。だが。幸いなことに、ゴブリンはまともなマウントポジションにない。だから不自由とは言え、まだまだ十分に身体を動かす余地はある。
身体を捻り、ゴブリンの腕を胸元に抱き込み、巻き込む様にして横に転がる。こちらは正直非力だが、ゴブリンだってものすごい怪力と言うわけではない。そもそも人に比べて小柄だし。タイミングと、そして勢い。そして、身体の構造。特にゴブリンの身体は変な作りをしているわけではない。腕の関節なんかは人と変わらない。その辺りも利用する。
うまいこと、こちらの回転に併せてゴブリンも転がってくれた。抱き込んだゴブリンの腕で何かが折れる様な感触があり、やたらやかましい声を上げた様な気もしたが、構って等いられない。構う気もない。
地面を数度転がり、うまいこと身体を入れ替えて上になることに成功する。そのまま身体を動かして、両足でゴブリンの両腕を押さえつける格好になる。
完璧なマウントポジション。
ゴブリンがその右腕に膝を乗せたとき、一際甲高い叫びを上げた。これは完璧に折れてる。折ったのは自分だが、同情も後悔もない。そんな余裕がないというのが本当。余裕を持ってはいけないというのが本当。このまま勢いのままに突き進む。それしかない。
背中、腰の後ろに手を伸ばし、予備の武器であるダガーを鞘から抜き取る。
右手逆手に握りしめ、柄頭に左手を置いて。大きく振り上げ、ゴブリンの顔めがけて思い切り振り下ろす。
がつんと、両手に衝撃。
先刻のサシカイア同様に首を振って逃れようとするゴブリン。そのせいでダガーはまともに当たらなかった。ダガーはゴブリンの頬を切り裂いたモノの致命傷とはならず、頬骨を滑る様にしてずれて地面を叩いてしまう。
「つっ!」
衝撃に手が痺れる。
だけど、ここで手を休めるわけにはいかない。その気もない。
痛みも痺れも一切合切を我慢して、もう一度振り上げる。
ゴブリンの瞳がまっすぐにこちらを見ている。涙を浮かべて助けを求めている様にも見えたが、それは無視する。気が付かない振りをする。そう、自分は全く何も気が付いていないのだ、と言い聞かせる。
一瞬の躊躇。
しかし、思い切り振り下ろす。
今度は右の眼窩にダガーの切っ先をたたき込むことに成功。
ゴブリンの血が飛んで、こちらの身体を汚す。
「う、うわぁああああああああああああ」
絶叫。今度は先刻の様な怒りによるモノではない。恐怖。己のやろうとしていることに。己のやったことに。
だけど、最早ここで止めるわけにはいかない。最早元に戻ることは不可能。分水嶺はとっくに越えた。後は進める方に進む事だけしかできない。やりかけたことをやりきるしかない。ここで手を止めれば、きっと自分が殺される。躊躇は自分の死を招く。ならば突き進むしかない。
もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。もう一度振り上げて叩き付ける。
恐怖に背中を押されて何度も何度も繰り返しダガーを振り下ろす。
そして狂乱の波が引き、不意に我に返る。
確認してみるまでもなく、ゴブリンはとっくの昔に死んでいた。
殺人事件で、被害者がやたらとたくさん刺されて殺される、なんて事がある。アレは別段猟奇的な理由やら、怨恨によるモノばかりではなく、単純に恐怖から。本当に殺せたのか分からず、怖くて無駄にたくさん傷つけてしまうのだ。そんな話を聞いたことがある。
それを今、サシカイアは実感していた。
ぐちゃぐちゃになってしまったゴブリンの顔。それは最早原形など留めておらず、スプラッタでグログロな、何だかよくわからないものになってしまっている。自分は一体何度ダガーを突き立てたのか。手に残る不気味な感触。命を奪うという感触。それは、ウサギの比ではなかった。
慌てて立ち上がり、馬乗りになっていた死体から飛び退く。少しでも遠くに離れようと思ったのに、膝から力が抜けてすぐそばで尻餅をついてしまう。
視線を逸らしたいのに、逸らすことが出来ず。今し方自分が生産したばかりの凄惨な死体に視線は引き寄せられ、目を閉ざすことも思いつけない。
喉の奥、こみ上げてくるモノがあり、サシカイアは堪えきれずに嘔吐した。
四つんばいになって何度も何度もえづき。地面に胃の中のものをぶちまける。苦しみ。悲しみ。恐怖。いろんな感情が飽和してどうしようもなく涙を流しながら。思い切り吐き。吐き続け。吐く物がなくなって。
それでようやく、そんな場合ではないことを思い出す。
今の自分が全くの無防備状態。敵がその気になればあっさり殺されかねないと、ようやく気が付く。全身の血が引いていく。気が付かないままに殺されていたかも知れない、自分のあまりの愚かしさ。
口元を乱暴に袖口でぬぐいながら、はじかれた様に身を起こし、大慌てで周りを伺う。
すると、ちょうど戦いは終わるところだった。
シュリヒテの斬撃が、最後のゴブリンを切り伏せるところ。さすがにこれまでも前に出て戦ってきたシュリヒテである。サシカイアの様に無様な攻撃ではなく、鮮やかな、鮮やかすぎる斬撃。さすがはLV10ファイターと感心できる程のすばらしい斬撃。一撃で身体を斜めに分断されたゴブリンが、あっさり死体となって大地に転がる。
そして、ソレを見届けたシュリヒテが顔を逸らして嘔吐する。
感心した事がなんだか、損した様な気分になった。結局、シュリヒテもサシカイアと大差ないらしい。
その近くでは、右肩を押さえたブラドノックが地面にしゃがみ込んでいる。
ギネスはちょっと離れたところで、既に死体となっているゴブリンに、繰り返し戦槌を振り下ろし続けている。先のサシカイア同様、パニック状態なのか。一体何度戦槌を振り下ろしたのか、餅でもついているみたいな音が耳に障る。
吐くもの吐いたシュリヒテがこちらに視線をくれた後、よたつきながらもギネスの方に向かったので、サシカイアはブラドノックの方へ向かう。
「斬られたのか?」
見れば、だらりと下げた右腕のその先に、決して小さくない血だまりが出来ていた。
「ああ、頼む」
苦痛を堪えながらのブラドノックの声に応え、接触しようと腕を伸ばし、未だダガーを握ったままなのに気が付く。
血にまみれたダガーの刃先が大きく欠けている。一体、何度地面を叩いたのだろうか。何度敵に叩き付けたのだろうか。ダガーは柄まで、どころか己の袖口も肘の辺りまでどす黒く染まり、更にその上にも身体にも、黒いものがべっとりと染みついている。さらには肉片やらヨクワカラナイモノまでこびりついている。怖くなって大慌てでダガーから手を離そうとするが、それが果たせない。
まるで自分の腕じゃないみたいに言うことを聞かない。開けと命じているのに、指の関節がダガーをしっかりと握りしめたまま硬直してしまっている。仕方がないので、空いている方の手を使って一本一本指を剥がす。これがまたうまくいかない。右手がそうなら、左手も自分の腕ではないみたいだった。男が泣いて良いのは急所を蹴られたときと親が死んだとき、後は財布を落としたときの三回だけだというのに、またもやぼろぼろ涙がこぼれてきた。
それでも努力の甲斐あって、ようやく手を空けることに成功。そのころには涙は何とか止まった。
手を伸ばしてブラドノックに接触。知られざる命の精霊に声をかけ、ヒーリングの魔法を使う。
目に見えて、ブラドノックの表情が楽になる。一発で傷を癒すヒーリングは伊達ではない。
「助かった」
言って、ブラドノックは安堵の息を吐き、次いでサシカイアを見ると顔をしかめる。
「……そっちも酷い顔だな」
「………」
そう言えば、殴られて鼻血を流したんだった、と思い出す。その上泣いて喚いて鼻水垂らして返り血浴びてゲロ吐いて。自分は見えないが、色々混ざって斑になってで、ブラドノックの言うとおり酷いことになっているのだろう。。
鼻血は恐慌の間に止まったらしい。多少詰まって鬱陶しいが、鼻骨が折れたとかではない様で、これは幸いだ。気が付いてみれば、右の視界が妙に狭い。腫れているのかと手を伸ばし、想定よりも遠い場所で自分の顔に触れてしまい、走った痛みに悲鳴を上げる。どうやら予想以上に腫れている様子。脇腹の斬られた場所も確認して、こちらは思わず苦笑してしまう。どんな酷い傷を受けたのか、致命傷かと慌てふためいたのが馬鹿らしい限り。服こそ裂けて出血はしているが、大したことのない打ち身と小さな切り傷しかない。
もう一度、知られざる命の精霊にお願い。自分の傷を癒す。嘘の様に痛みが引き、右の視界が回復する。やっぱり魔法は偉大である。
シュリヒテが嘔吐しているギネスの背中をなでているので、ブラドノックと二人、立ち上がってそちらへ向かう。
近くで見てみると、シュリヒテも楽勝には遠かった様子。泥にまみれ、血にまみれ、左頬をはじめとして腕なんかに小さいとは言え、傷をいくつか作っている。
三度ヒーリングを使ってシュリヒテも癒す。
ギネスは未だ吐き気が収まらずにげーげー言っているが、こちらは全身くまなく纏うタイプの鎧のおかげか、怪我らしい怪我はない様子。
「10レベルでゴブリン退治」
ぼそりと、ブラドノックが呟いた。
「無傷で終わっても不思議じゃない仕事なのにこの体たらく。我が事ながら、呆れてしまうな」
全くその通りで、言い返す事なんて出来なかった。
いくつものミスを犯し。泣いてわめいて鼻水垂らして。これは最高級の秘密だが小便を漏らし。地面を転がり砂まみれになって。敵に殴られ鼻血を流し。恐慌状態で敵にやたらとダガーを叩き付ける。完全なオーバーキルでミンチを作り、敵の返り血なんかでぐちゃぐちゃになる。終われば終わったでべそをかく始末。全くみっともなさすぎて笑い話にも出来そうにない。
これで本当に冒険者なんてやっていけるのか?
あまりに暗澹とした前途を思い、サシカイアは無言で天を仰いだ。
3rd STAGE ゴブリン退治
MISSION COMPLETE
獲得経験値 1000
レベルアップ
シュリヒテ 生命力20+3(+3)→生命力20+4(+4) 残り経験値500
ブラドノック なし 残り経験値4000
ギネス なし 残り経験値3000
サシカイア ソーサラーLV1→LV2 残り経験値500