ベルン北部はイリア地方に近いことからわかるように、穀物の生産に向いていない土地である。
冬になれば大雪が降り注ぎ、年によっては夏場に冷たい風が吹きつける。
収穫高が少なく、かつ二毛作もできない。
だから、ベルン北部はあまり発展していなかった。
そのため人口が少なく、近隣の領主も地図上の土地の広さに相応する軍事力を持っていない。広大な領地を持っている侯爵が、わずか百ばかりの兵士しか擁していないということも、ままあることだった。
「静かなところですね……」
街道を行く馬車に揺られていた初老の男が、ボソリと呟いた。
エリミーヌ教の司祭の法衣を着た、六十歳前後の老人である。柔和な目をした、人当たりのよさそうな顔をしていて、司祭というある種の権力者というより、孫の面倒をみているご隠居といわれた方が不思議と納得できた。
エリミーヌ教の司祭、ヨーデルである。
(兵隊の居ない街ですか……)
それが、果たしていいことなのか、ヨーデルは両目を閉じて考える。
兵士がいなければ民が圧迫感を感じることはないだろう。兵がいなければ戦は起こらない。
なら、それで良いのか――といわれると、ヨーデルは素直に頷けない。
兵がいなければ賊が増える。
余所では治安を維持するだけで手一杯の領主もいるほどだ。
(そう考えると……)
この領地では良心的な政治が布かれているのだろう。人々の顔に生活の苦しさは浮かんでいない。
しかも、各村の入口には帯剣した青年が見張りをしており、村に入る者をチェックしている。
武器を持てるほど人々の生活に余裕があるのである。
民衆が賊と化すのを恐れて自警団の編成を許可していない領主もいるというのに、ここの領主は随分と寛容なようだ。
この土地を治めているのは現当主の息子、ナーシェンである。
「ただのうつけ者ではないようですね……」
大陸中の情報が集まるエトルリアでは、とんでもない噂が流れてきている。
曰く、ナーシェンは剣を弾き返す鋼鉄の皮膚を持っている。
曰く、ナーシェンは麻痺毒のお茶というブレスを吐き出す。
曰く、ナーシェンがひと睨みすればどんな幼女でも篭絡されてしまう。
そんな眉唾物の噂話から、信憑性のありそうな噂話まで、様々な話題がエトルリアの首都に供給されている。
歴史を紐解いてみればわかるのだが、エリミーヌ教会から破門された者は少数だけだが存在している。
大抵は『教会の身内の不正を裁くための処置=破門』となっている。
破門されたのは主に街娘を強姦した神官や、光魔法で罪のない人々を傷つけた司祭である。
当然、民から金銭をむしり取るのも、破門の対象になる。
だが、破門状は教会の部外者であるナーシェンに叩き付けられた。
――普通ではない。
そう思わせる何かを、ヨーデルは感じていた。
【第2章・第5話】
ベルン王国の首都。
王宮の周囲に建てられた貴族たちの邸宅の前を、黒毛の馬が通り抜ける。
馬上の男は通行人を蹴飛ばさないようにゆっくりと市街地を抜けると、王都の入口を守る番所の兵をどかして、一気にスピードを上げて駆け出した。
馬上の男は、バルドスであった。
老齢に入っているのに、まったく衰えを感じさせない手綱さばきは流石と言えるだろう。
この姿を他の貴族が見たら、仮にも男爵の爵位を持つ者が、共の者も付けずに外出するのは如何なものかと思われるかもしれない。
いくら急いでいるからといって、これはない――とバルドスは苦笑した。
ナーシェンが領内の村々に平民が着る服で出かけていくのを見ていて、その手の感覚が鈍くなっているようだった。
「そういえば……」
後学のために王都へ連れて行け、と護衛の従者としてナーシェンに押し付けられたイアンが屋敷に取り残されていることを今さらながらに思い出し、バルドスは額に汗を浮かべた。
だが、別にどうでもいいか、と思えた。
バルドスはそのことを意識の外に追いやり、これからのことを考える。
事態は、置き去りにされたイアンよりも酷いことになっていた。
ナーシェンの父の屋敷に強盗が入ったのである。
使用人十数人が大怪我を負い、何人かが死んでいる。
ナーシェンの父も剣を抜いて応戦しようとしたそうだが、扱い慣れない剣を振り下ろそうとして転び、そこを刺客に斬りつけられたそうだ。
転んだ最中に斬られたためか、傷は即死に至るものではなかったが、意識はまだ戻っていない。
医者は今すぐ息が止まっても不思議ではない、と苦々しく語っていた。王家に召抱えられている御殿医の診断だ。
おそらく、あの方はもう長くない。
「……となると、次代を担われるのは」
まず間違いなく、次の当主はナーシェンになるだろう。
そのことについて、バルドスに異存はない。
現当主が仕えるに値しないものだったので、バルドスはナーシェンに期待していた。だが、幼少期のあの少年には何度も失望させられ、そしてバルドスにエトルリアへの寝返りを考えさせたものだ。
だが、最近のナーシェンは鬼気迫るものがある。
半年前のナーシェンは鼻持ちならない性格で、使用人のほぼすべてから煙たがられていたのだが、本人はまったくそのことに気付かず、尊大な態度で平民を見下していたものだ。
それが今では、屋敷であの少年を見かけると、使用人たちが軽口を叩き、酒の席に誘うほどである。
「あの方なら、いい為政者になられるだろう」
器量は十分。人望もある。
なら、何も問題ないではないか。
普通ならそう思う。だが、時期が悪かった。
ベルン北部を領有している貴族は、ナーシェンの父の派閥か、トラヒム侯爵の派閥に集まっている。
ナーシェンの父は無能者だが、あれで権力だけは馬鹿にできないものがある。そのため、周囲の領主たちが頭を下げざるを得ないのである。
トラヒム卿は広大な領地を有し、戦場の猛者としても名高く人望があった。政治家としての能力は話にならないと聞いているが、カリスマ性があり人が集まってくる。
この二つの閥は静かに対立している。
これが、ベルン北部の二大侯爵と言われる所以である。
ナーシェンの父が死ねば、トラヒム卿に付く領主も出てくるだろう。ナーシェンは十三歳になったばかり。派閥をまとめられないと思った貴族がナーシェンを見限ることも有り得る。
まさか、このタイミングでナーシェンの父が死にかけるとは思わず、ナーシェンは他の貴族との付き合いは最低限のものしかしていない。バルドスも、今は色んなことをやらせて力を付けさせるのが先決と判断していた。
それが、ここにきて裏目に出てしまった。
「くッ――もっと急げッ!」
バルドスは馬に鞭を打った。
エリミーヌ教からの破門。
そして、現当主の危篤。
現状はおおよそ考えるものの中で、最悪といえた。
―――
ファンタジー世界に憑依して過労死。
「笑えん。……どう考えても笑い話にならないな」
ナーシェンはベッドの上でひとりごちる。
手元には教会から叩き付けられた書類と、密偵が調べてきたオルト司教とやらの資料。いい加減に休んで下さいと涙声でいさめてくる使用人たちに内緒で、服の下に隠してきたものだ。
エトルリアの王都の防衛を任され、リキアの連中に逆襲されて死亡するよりも、過労で死にそうな気がする。
多分、労災は下りない。
あ、今度から過労で死んだ家臣の家族にも、戦死した者と同じぐらいの手当を支給することにしよう。遺族年金というやつである。
などと、頭の中でさらに仕事を増やしながら、ナーシェンは書類に目を通す。
だが――。
「まぁ、そのオルト司教とやらもサウエルと同じ穴のムジナ。大した人物ではなさそうだな」
実際にサカ教という馬鹿げた宗教に改宗した者などひとりもいないのに、何をトチ狂ったのか、破門なんて言っちゃって――とナーシェンは内心でせせら笑う。
領民の大半がサカ教に改宗してもいいかな、と思ってきた頃に、詐欺の種を明かしたため、領民が呆れ果てて宗教から離れていったためだ。
「私の詐欺も、教会の奇跡の魔法も、大して変わらんさ」と笑うナーシェンに、領民も怒る気にはなれず苦笑するだけだった。
「失礼しまーす」
現状を見ずに賠償金五万ゴールドを要求するとは片腹痛い。
必ずや痛い目に遭わせてやるわ、ふはははは――。
「――って、ナーシェン様!? 何やってるんですかー!?」
「ぶっ――!」
いつの間に部屋に入ってきたのか、ジェミーが魔道書をナーシェンの頭に振り下ろした。
「寝てないと駄目ってお医者さんが言ってたじゃないですか!」
「いや、その……、ジェミー? もしかして、怒ってる?」
「当たり前です!」
ジェミーは即答する。
「ナーシェン様は私とお兄様の命の恩人なんです。そして、ナーシェン様はこんな私たちを引き取り、食事も、寝床も、生活に困らないだけの給金も支給してくれています。私たちの命はナーシェン様に拾われたんです。ナーシェン様のためなら、私は命を捨てれるんです!」
「………………」
八歳……いや、九歳児の言葉じゃないぞ、とナーシェンは苦々しさに顔を歪める。
擬態、か。
彼女は膨大な量の魔道書を丸暗記するほどの天才らしい。見かけによらず、この小娘は然るべき術者に師事すれば、エトルリアの魔道将軍に比肩するほどまで伸びるかもしれないと言われている。
自分の身を守るための擬態。無知で、無力な子どもを装っていたわけだ。
「………………」
だからと言って、ナーシェンはジェミーを責めるつもりはない。
死神のような剣客を引き連れて自分を拉致した輩を信用しろと言う方が無理だろう。
「……すまん」
そんな彼女に、信用して貰った。
擬態を止めたということは、つまりそういうことだと思っていい。
「わかってくれたらいいんです。次は黒焦げにしますよ」
「わか――あっ、それは燃やさないでー!」
ナーシェンの手元の書類にジェミーの指先が触れ、一気に燃え上がる。
枕で書類を叩いて火を消そうと躍起になっているナーシェンに、こいつ全然理解してねー、とジェミーは呆れた目を向けた。