「なぜだ!? なぜ必勝の策をこうも容易くひっくり返す!?」
ブルガルの政庁、ヒステリックな男の悲鳴が屋敷の空気を切り裂いた。高価な壺が割れる音に、かけつけた侍女が見たのは、ギラついた目をしたベルトラン子爵ゲクランだった。凛々しい美丈夫の姿はもうそこには残っていない。バルドスはいよいよ馬脚を現したかと、深々と嘆息した。
(その策、焦土作戦すら私に頼っていたと言うのだから笑わせる。他人の策を必勝の策だと?)
バルドスは侍女に手振りで下がるように指示する。恐怖に立ちすくんでいた侍女は、救いの手を差し伸べられたかのような顔をして走り去った。その侍女がバルドスを見る目には心酔のようなものが含まれていたが、とっくの昔に枯れ果てている老人は彼女の思慕に気付いても、何の感慨も浮かばなかった。
「サカから抑えの兵を残して撤退。……となると、奴はブルガル以外の都市を落としにかかるはずだ。私たちに背後を見せながら、他都市を攻めるのは危険すぎる。と言うことは、迂回して西部を叩くと言うことだ」
バルドスは感心した。この程度の男でも、これぐらいは頭が回るようだ。
「バルドス!」
「はい」
「ブルガルの残存兵力で、抑えの兵を破ることは可能か!?」
「無謀ですな。ブラミモンド公はブルーニャ将軍とダヤン殿を残しておられます。兵力800も、敗戦を重ねた我らを上回っておりますし、モンケ殿はご子息を失われて意気消沈しております。エトルリアからの援軍を待つしかないでしょうな」
「……来んよ。エトルリアは、私たちを見捨てた」
「ならば籠城し続けますか。なに、民衆を虐殺すれば三年は堪えられますとも」
ゲクランは黙り込んだ。それを実行すれば、ゲクランは歴史に悪名を残すだろう。しかし、あえてそれを実行できる者もいる。そう言う者が、逸物と呼ばれるのである。と言っても、そのような非道を顔色変えずに実行できるのは、大陸中を探してもただひとり、ゼフィール王だけである。
「もうよい、貴様のしかめ面も見飽きた。下がれ」
バルドスは無言で踵を返した。
籠城は続く。商人から物資の徴集。次は民衆への強奪。そうして雑巾を絞りきって何も出なくなった時、馬を喰らう。これで半年は持つだろう。離反者が出なければ……だが。
飢餓に耐えかねて離反する者が多数現われる。それで、ゲクランは終わりだ。西部から挟撃されているので、エトルリア本国に逃げ帰ることもできない。
「元々勝てる戦でもなし、そろそろ潮時か……。相手が悪すぎましたな、ゲクラン殿」
【第8章・第8話】
領地に帰還してから数日、ナーシェンはジェミー夫人とさんざんいちゃついてから出発。そしてついに、文豪ナーシェン、正式にオスティアに入る。
ナーシェンの著書を愛読している知識人、資産家たちが歓迎の意を示し、城下町正門で待ち構えていた。市民たちも何か面白いことがあるのかと集まり出し、露店まで正門付近に集中、ナーシェンらがオスティアに入れなくなるというパニックが発生していたりする。
またもや秘密の地下道を使用しオスティアに侵入、そして太守ヘクトルとの対面となった。
「うぉぉぉぉぉぉぉ! リリーナぁぁぁ! リリーナぁぁぁ!」
「リリーナ様万歳! リリーナ様万歳!」
オスティア太守ヘクトル、重臣たちの熱烈な歓迎に、ナーシェンとリリーナ、揃ってドン引きである。「あれ? オスティアの家臣ってこんなのだったっけ?」と首を傾げているリリーナ。ナーシェンは何時ヴォルフバイルで斬り付けられるかとビビッていた。
「リリーナぁぁ、おお、かわいそうに。慣れぬ他国での生活、さぞ辛かったことだろう」
気持ちはわかるが、ナーシェンの前で言うことではない。
ヘクトルは両手を広げて今にもリリーナに飛びかかりそうだったが、その寸前、ナーシェンの背後に控えているある人物に気付いて表情を凍り付かせた。
剣魔カレル。
「げぇっ、カレル!?」
そう、あれは、遠い記憶のこと。
『君はいずれ、世に聞こえた将になる。こんな所で、その力、潰えるには惜しい。もっと、強くなってもらわねばな。私はその時を、楽しみに待とう』
いよいよ斬りに来たのか――!?
戦慄するヘクトル。しかしカレルは、ヘクトルのことなど毛ほども気にしていない様子である。それどころか「やぁ、十年ぶりかな?」とゆるーい挨拶をする始末。数年前からカレルがブラミモンド家に身を寄せていたのは知っていたが、まさかこれほど腐抜けた顔をしていたとは、オスティア家の密偵をバッサバッサと斬ってきた男とは思えなかった。
「こほんっ、えー、オスティア侯爵家当主ヘクトル殿、此度、わが軍の通行を許可して頂き、まことにかたじけなく存じます。このナーシェン、感謝の念に堪えませぬ。また、ヘクトル殿は私の義父にあたるお方。今までこのような場を設けなかったことも、まことに申し訳なく思います」
「い、いや、私もこの機会が両家の良縁になればいいと思っておる」
相手を動揺させて有利な条件を引き出させる交渉術……なわけはない。トチ狂った相手が暗殺を目論んでいないとも限らないため、腕の立つ者を引っ張ってきただけだった。もしジャファルがここにいれば、ヘクトルの心臓が停止していただろう。……そのジャファルも物陰で気配を消してナーシェンを護衛しているのだが。
それから三日後、ナーシェンはオスティアを去った。滞在中、ひっきりなしに著名人が現われてはナーシェンとの面会を望み、雑談だけではなく政治の裏話、交易路の確保など、有意義な会談を設けることができた。オスティア家との曖昧な同盟関係であることを再確認できたのは、ひとつの収穫だろう。
それから数日後、ナーシェンとの会談を終えて胸を撫で下ろしていたヘクトルを、心臓発作で殺したいのかと疑いたくなる報告が入ってくる。
発端はフェレ家であった。
『ラウス家は十五年前に引き起こした動乱についての謝罪および賠償金を支払うべし』
フェレ家当主エリウッドは、まるでラウス家を挑発しているようにしか思えない要求を突き付けたのである。
「血迷ったかエリウッド!?」
握り拳を玉座に叩き付けたヘクトルの元に、新たな報告が入った。
ラウス候エリック、フェレを攻める。
――――
前々から準備していたとしか思えない状況だった。
フェレ公子ロイは、遠方のラウス騎馬軍団を眺め、深々と息を吐き出した。初陣である。
「総大将はエリック、直々の出陣です。兵数は400、半数が騎兵」
「こちらは300か。数では劣るが」
だからこそ、エリウッドはエリックを挑発して向こうから攻め込ませたのだろう。地の利があれば、多少の数の差はカバーできる。外交とはこう言うことを言うのかと、ロイは口中ににじむ苦々しいものを飲み下した。
「父上は何を考えているのだろうな」
「……ロイ様、戦場では迷いは禁物ですぞ」
「わかっている。ただの愚痴だ」
こちらは主将をロイ、補佐にマーカスが付いている。エリウッドは病身のため、屋敷で療養しながら策謀を巡らせていた。明るい顔をした、領民に慕われている父。それが父のすべてだと思っていたロイには、今回のことは衝撃が大きすぎた。
「前列のアーマーナイト隊。敵の突撃を受け止めた後、弓兵で狙撃、その後に騎馬を投入。臨機応変に行くぞ」
命令を下知した後、数刻後、睨み合いに焦れたラウス候が動き出した。リキアでは珍しい騎馬を主体とした軍編成のラウスは、単純な突撃力だけならリキア最強と言われている。サカの剣士も何人か飼っており、侮れない存在だ。だが、主君があれではどうにもならない。
――エリウッドは、前々から、準備していたようなのだ。
突撃したラウス騎兵、その半数が爆散する。地面に仕掛けられた罠、フレイボム。オスティアから発覚しないように少しずつ仕入れてきたそれは、おそらく数年かけて蓄えられた物。本来なら対ベルン用に使うべき代物。それが、ここで用いられていた。
「ベルンの目がサカ、イリアに向いている今しかないのはわかっている。だが、これは……」
リキア同盟の信義は、どこに行ったのだ。
他国から攻め込まれれば、一丸となって団結する、そんな同盟だったのではないか。
「いや、違うな」
フェレの騎兵が反撃を開始する。
「最初に同盟を裏切ったのは、オスティアか。父上がリキア同盟の価値に疑念を抱いたのも無理はない」
「ロイ様! 今この時だけは……!」
「ああ、わかっている! くそっ、ラウス候もこうも易々と釣られるからだ!」
レイピアを抜いた。
ウォルトが射た矢がエリックに命中し「流石ウォルト!」と味方の士気が上がっていた。