「阿呆ですかっ!? 馬鹿なんですかっ!?」
家臣たちは顔を見合わせた。床に正座させられた金髪の青年を、ベッドから身体を起こした女性が怒鳴りつけている。言わずと知れた彼らの主君ナーシェンと、その側室のジェミーであった。
「いや、でも……」
「“でも”じゃありません! 何なんですか! これは!」
そう言ってジェミーが指さした先にあったのは、うずたかく積み上げられたオシメやら赤子の衣服やら玩具であった。
それだけではない。
粉ミルクを開発するために20万ゴールドの予算をつぎ込もうとしたり、200人以上の屋敷の侍女を集めて離乳食について会議を開いたりしていたのである。
ナーシェンの行動はまさしく親バカと呼ばれるものであった。
「で、でも……私はこれからサカに遠征に行かなければならないんだ。出産に立ち会えるように、さっさとサカを平定して戻ってくるつもりだ。だが、もしかしたら間に合わないかもしれない。そんな時に、赤子に不自由させたくないんだよ」
切実に訴えてくるナーシェンに、ジェミは「うっ」と声を詰まらせた。
「あ、あのですねぇ……」
そこまで赤ん坊のことを思ってくれるのはたしかに嬉しい。
しかし、ジェミーの脳裏には嫌な未来が映っていた。
「そうやって甘やかされて育った子どもが、どうなると思いますか?」
「……………………」
「側室とはいえ大貴族の子どもです。わがままに育った貴族が、どれほどの害悪になるか、ナーシェン様ならよくご存じのはずです」
「…………そう……だな」
ナーシェンは肩を落とした。ここまで言われて理解できないナーシェンではない。民からの搾取で生活が成り立っていることに気付かず、与えられた権利を己の力で得たものと勘違いして、あらゆる人々を不幸にしていく存在。これから生まれてくる子どもを、そのような存在にするわけにはいかなかった。
「そう、だな。ちょっと調子に乗ってたよ。悪かった」
「わかってくれたらいいんです。私の方こそ、キツいことを言って申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだ。ジェミーが私を思って諫言してくれたのはわかっている」
「ナーシェン様……」
「ジェミー」
独自の空間を作り出し始めた夫婦に、家臣たちは心底呆れて溜息を吐いていた。
【第8章・第3話】
粉ミルクの開発が母乳の飲めない赤子の命を救ってきたということに、子どもを持つ立場になってからやっと気付いたナーシェンは、酪農業に従事しているサカからの移民に粉ミルクの開発を命じている。
現状ではろ過、脱脂、加熱殺菌までで、成分調整などは無理だろう。それに、自ら開発に携わっているような余裕もなかった。
「行ってくる」
「はい。どうかご無事で」
ナーシェンはジェミーと一時の別れを告げると、彼女の寝室から退室した。
紺色の地に金糸が織り込まれたオスティア製のマントを羽織り、ベルン竜騎士用の黒塗五枚胴具足を着込んだナーシェンの男ぶりに、家臣たちはナーシェンの本気を悟った。
(さっさとサカを平定して、戻って来なければならんからな)
その内心はプライベートなことで満たされていたのだが。
こんなことで本気になられたサカの民こそ哀れだった。
「おい、俺も連れて行けよ!」
「駄目。ジャファルさんとニノさんにまだ早いって言われたんでしょう」
通り過ぎようとした部屋から、言い争うような声が聞こえてナーシェンは立ち止まった。
言い争っているのは、本来ならジェミーが指揮するはずだった魔道部隊を預けられることになったリリーナと、最近になってナーシェンに弟子入りした少年だった。
「おっ、師匠じゃないか! ちょうどよかった。師匠も言ってくれよ!」
「……戦場に行きたいのか?」
「当たり前だ! 俺の力がどんなものか試すんだよ! 俺はそのために闇魔法を勉強したんだ!」
ナーシェンは両目を閉じた。最初の対面の時も思ったことだが、この少年は酷く危うい。
『アンタがナーシェンか。闇魔法、俺に教えてくれよ。損はさせないからさ。何ならお前に仕えてやってもいい』
『それだけの力を得て、なおも力を欲するのか。お前は何がしたい?』
『まだわからないけど、これだけの力があるんだ。埋もれさせるのは勿体ないだろう。俺も埋もれるつもりはない。これが大きな力と言うなら、それだけ大きなことを為せるってことじゃないかと思ってね』
『……中二病か』
ナーシェンも闇の魔道書を手にした時に、同じ衝動に駆られたことがある。特別な力を手に入れたのだと錯覚してしまったものだ。そして、その力を試したくて騎士たちをぶっ飛ばしたこともある。ジェミーも子どもの頃は、そんな感じだった。
それだけ魔法とは、魅力的なものだった。
「両親の心配を無碍にするつもりか?」
「行き過ぎた心配ってのは、余計なお世話って言うんだぜ」
父と母の心遣いを、そう言うのか。ナーシェンは笑った。
それが軽蔑の笑みだと気付いたのは、妻のリリーナだけであった。
「……わかった。私の側に控えているなら、同行を許そう」
「な、ナーシェン!?」
レイはナーシェンの声の不機嫌そうなニュアンスに気付かず、瞳を喜色に輝かせた。
「レイは魔力はともかく、精神はあまりにも未熟なのよ。危険だわ」
「井戸の中に閉じ込められたままでは、大海の大きさを知ることもない」
鼻っ面を叩き折るには、ちょうどいい機会だろう。
「……痛い目にあっても知らないわよ」
「ふん、いらぬ気遣いありがとうよ」
子どもらしく喧嘩している二人に、ナーシェンはクツクツと喉を鳴らして笑った。
――――
ナーシェサンドリアの城から、十数人の馬上の騎士たちが出て来ると、民衆は身を乗り出して歓声を上げた。
先頭は烈風イアンと豪壮のブラッドを筆頭とするブラミモンド家の重臣たちであった。
少々脚色されてはいるが吟遊詩人たちが武勇伝を作るほどの騎士である。民衆からの人気も篤い。
「キャーイアン様ー! 抱いてー!」
と叫んでいるのは酒屋のオッサンであった。イアンはゲッソリとした溜息を吐いて、出てきたばかりの背後を振り返る。侍女として働いているリーザが苦笑を浮かべていた。交際期間は長かったが、ようやく結ばれることになった妻である。
「ブラッド様ー! うおー! ブラッド様ー!」「ガビーン!だんぜん俺好みのいい男!」
こいつは……もう説明するまでもないだろう。せめて目の届かないところでやって欲しい。
城から出てくるブラミモンド家臣の行列に、それぞれの個性的な声援があった。やっぱりスルーされたスレーターがもうやけくそとばかりに胸を張っていたり、女性から黄色い声援を浴びせられたディートハルトが竜騎士たちにふるぼっこにされている。
ちなみに、竜騎士たちは歩行である。
やがて、金髪の儒子が出て来ると、民衆は静まりかえった。
放生月毛という、第四次川中島の合戦で上杉謙信が武田信玄に斬りかかった時に乗っていたと言われる馬の名を与えられた軍馬であった。
二人乗り用の鞍の前に金髪の青年が座り、その後ろに青い髪の少女が横乗りしており、金髪の青年の背中に頭を寄せている。
年の差はともかく、仲むつまじい夫婦の姿に、民衆たちは見惚れていた。
青年は右手を挙げて、サッと横に振った。
「諸君、私はこれより悪を為す」
それだけだった。民衆はゴクリと唾を飲み込んだ。
直後、街中に歓声が響き渡った。
「悪が何だい! アタシらはお前さんを信じてこの街に住んでいるんだ! たとえお前さんがエレブ大陸の大悪党と呼ばれても、アタシらは付いていくよ!」
「おう、そうだそうだ! お前さんが何度うちの魚を盗んだことか! 悪ガキなのは昔から知ってるさ! だがな、俺の店の魚を食って育った悪ガキが、外道に育つわけがないだろ!」
魚屋夫婦だった。ナーシェンは苦笑する。
「たまには『ブー太郎』に顔を出せよー! お前さんのお陰でうちの店は大繁盛してるんだぞ!」
「アンタの次回作を待ってるんだからなー! 絶対に死ぬなよー!」
「俺は妹喫茶の常連だぁぁぁ――!」
何だか妙なテンションの者もいる。
リリーナがナーシェンの背中、心臓の裏側に手を触れた。
「いい人たちね。とても、素敵な街……」
「ああ、そうだな。」
「これが、ナーシェンの街なのね」
「……ああ。…………ああ!」
思いを馳せる。すべてが手探りで始まった大都市造り。そこに集まる人々。そこにある笑顔を守るため、奔走してきた日々。ジェミーと首を捻って、無い知恵搾って実行してきた施策。商人たちと顔を付き合わせて時には激論を交わしたりもしてきた。
わずか10年のこと。すべてが得難いもののように思えた。
ナーシェンは手を上げた。
「行ってくる!」
大歓声が、それに答えた。