ナーシェンは包帯にぐるぐる巻きにされて、寝室に押し込まれていた。聖職者の杖も振って貰っているが、快癒にはほど遠い状態であったため、少なくとも二週間はベッドから起き上がってはいけないという悲劇に見舞われていた。
ジェミーは執務に忙殺されており、リリーナは他の貴族の子弟や、初等教育を優秀な成績で納めた者たちと一緒に、ニノの魔法実践の講義を受けていた。
エトルリアで食い詰めていた魔道士をスカウトして、並行して魔法理論の講義を開いているので、授業はそれなりの形になっているらしい。まだ生徒数は二十人にも満たないため、学問所の教室をひとつ開放して、そこで講義を行っていた。
バアトルはやはりと言うべきか、屋敷を去っていった。根無し草の風来坊が性に合うらしい。
しかしフィルがブラミモンド家に残り、いずれ仕官するつもりであるという旨をナーシェンはジェミ―から聞かされている。
サラたちクシャナ族には、ブラミモンド家の畜産・酪農関係に手を貸して貰っている。遊牧で培ってきたノウハウが生かされていた。また、二年後には、数は50にも満たないが、騎馬弓兵になれる若者が成人するので、ナーシェンの部隊で面倒を見て欲しいと打診されている。
その後、フレアーがナーシェンのベッドの側で土下座して「サラ殿との結婚をお認め頂きたい」と言われて、ナーシェンは胃袋が裏返るほど絶叫した。再会から一週間のスピード結婚である。そして、32歳と13歳の年の差夫婦の誕生であった。
フレアーの妻は流行病で命を落としていたため、特に問題なく婚儀の話は進んだ。
そして――。
【第6章・第13話】
「…………で、君は何なんだ?」
「あ、ソフィーヤと申します……」
ソフィーヤはペコリと頭を下げた。三十分ほど前に、ナーシェンの寝室にやって来て、ベッドの脇の椅子に腰を下ろして、微動だにせずにナーシェンの顔を見つめていたのである。その間、二人の間で交わされた言葉はなかった。
空気がやたらと重苦しい。
こんな三枚目の顔のどこが面白いのだろうか。そんなに笑える顔だとは思えないのだが……いや、ここ数年鏡なんて見ていないから、途方もない不細工になっているのかもしれない。ナーシェンが真剣に悩んでいると、ソフィーヤはローブの中に手を突っ込んで、そんなものがどこに隠れていたのか、分厚い魔道書を取り出した。
「あの……もしよかったら……一緒に読みませんか……?」
「それ『新訳・闇魔法概論』だろ? もう読んだよ」
「……そうで…すか」
ソフィーヤは悲しそうに目を伏せる。罪悪感で死にたくなった。
「いや、昔のことだから中身は覚えてないんだ。うん、読もう読もう」
「はい……」
ナーシェンが「こっちにおいで」とソフィーヤをベッドに手招きする。
「あ……あの……ちか…い…です」
ナーシェンは彼女の肩を寄せて、お互いの息が届くような距離で、魔道書を読み始めた。これを意識してやっているなら、ナーシェンは生粋の女垂らしであるが、本人は魔道書の内容に夢中になっていて、周囲の音がまったく聞こえていない様子である。
「ん、何?」
「いえ、何でも……」
「そっか」
二人が情を交わすことになるには、まだ暫くの時が必要であった。
「君は、これからどうするつもりなんだ?」
「ご迷惑でなければ……見届けさせて下さい……」
「私を?」
「はい……。救世の闇、八神将ブラミモンドの再来、ナーシェン様……」
ナーシェンはそんな大層なものではないよ、という言葉を口の中で転がした。
―――
「僕は、ここに残ります」
オスティア郊外の寒村に寄り添うように建てられている孤児院で、五、六歳の少年が高い声で言い張った。緑色の髪をした、まだ可愛らしい顔をした子どもである。少年は院長に寄りそって、離れようとしなかった。
「いいのかね? ベルンには君を生んだご両親がおられる。故あって今まで面倒を見ることができなかったが、ブラミモンド家に仕官が叶い、生活が立ち行くようになったんだ。ここよりも、裕福な生活ができることは間違いない。私が保証しよう」
ブラミモンド家の初老の騎士の言葉に、しかし少年は首を横に振った。
「たしかに両親との生活に焦がれる気持ちはあります。でも、僕にとっては顔も名前も覚えていない両親よりも、院長先生との生活の方が何よりも得難いものなのです」
「ルゥ……貴方という人は……」
涙目になったルセアがルゥを抱き締めた。
「院長先生、僕はご恩を返すまでは、ここにいるつもりです。まだまだご迷惑をかけるでしょうが、よろしくお願いします」
感動のシーンである。
こっそりと様子を見ていた孤児たちまでもらい泣きしているような場面であった。
「なぁ、ナーシェンってやつは闇魔法に通じているという話を聞いた。本当なのか?」
だが、それに水を差すように、ルゥとよく似た見目形をした少年が皮肉に口元を歪めて、ブラミモンド家の騎士に問いかけた。ルゥとルセアが目を丸くする。
「おいっ、てめ、院長先生を見捨てるって言うのかよ!」
陰から見守っていた孤児のひとり、チャドが怒りに身を任せて少年に飛びかかった。
「暴虐の闇よ、我が意に従い、彼の者をねじ伏せろ」
闇魔法がチャドを壁に叩き付ける。
「ぐっ……くそっ、レイ! 何をする!」
少年――レイは嫌みったらしく持って回った言い方をする。
「見捨てるとは心外だな、チャド。俺が出て行った方が、院長先生の負担が減ると思ったまでだ。それに、両親との再会を望む子どもを非難するのは、人として間違っているんじゃないか?」
「だが、ルゥは残ると言った! お前は兄弟を見捨てるというのか!?」
「ルゥは己の意志で残ると言っている。俺はその意志を尊重しているだけだぜ。強引に押し切って連れて行こうとしない思いやりを評価して欲しいのだがな」
「誰がそのような戯れ言を信じるか! この嘘つきめ!」
「………………おい、そこの騎士。俺をナーシェンのところに連れて行け」
レイは額に青筋を浮かべるが、まともに取り合わずに、チャドから視線を離して、ブラミモンド家の騎士を見上げて高飛車に言い放った。
―――
こうして後に歴史に大きな謎を残すことになる、クシャナ族のベルン北部侵攻は幕を下ろす。
表向きには得られる物がほとんどなかった戦いであったが、この戦でブラミモンド家の人材層がほぼ倍増していることに、他国の貴族が気付くことはなかった。他国の貴族たちはナーシェンが苦戦している様を見て満足しているだけであったので、無理もないことであった。
天才魔道士ニノ、死神ジャファル、ナバタの巫女ソフィーヤ、剣聖の後継者フィル、将来の『草原の女狐』サラがブラミモンド家に取り込まれることになった。三年後、エレブ大陸を縦横無尽に駆け巡る最強の家臣団の礎が築かれた瞬間であった。
第6章 完