ナバタの里は地下水源の真上に作られているため、人が暮らせるようになっている。いわゆる砂漠のオアシスなのである。その地下神殿には水が満たされ、浮き沈みする通路という罠が仕掛けられていた。
まだ青年と呼べるであろう若々しい男が、ずぶ濡れになりながら通路を進む。
その背中に老人がしがみ付いていた。
「やめなされ! パント殿!」
「ええい、離されよ! 長老!」
元魔道軍将パント。彼はアトスのただひとりの弟子である。
老人を突き飛ばし、パントが再び進み出そうとしたところで、前方の床が水に沈んだ。
「待たれよ、パント殿。アトス様の弟子といえども、この先にある物に手を出してはいかん!」
「長老、止めてくれるな。今、大陸は再びモルフという化物どもが跋扈しつつある。これはアトス様の過ち、ネルガルの爪痕なのだ。師がやり残したこと、最初にして最後の弟子であるこの私が尻拭いせずに何をしろと言うのだ」
パントはそのためには師匠の魔道書、神将器フォルブレイズが必要だと考えていた。
あらゆるものを焼き尽くす魔法『業火の理』。
「………パント殿。もしや、フォルブレイズを研究したいだけではないでしょうな?」
「……そんなー、まさかー。あとす様の一番弟子がふぉるぶれいずを研究するなんてー」
「………パント殿ぉ!?」
長老が目を血走らせる。瞬間、パントの目の前の床が浮き上がった。パントは反転すると、全速力で浮き沈みする床を越えていく。長老が追おうとして一歩進むと、床が再び沈み込んだ。ざぶん。長老はずぶ濡れになり、身動きが取れなくなる。
「大丈夫ですか、長老」
そこに、褐色の肌の美女が出現する。彼女はたわわな胸を揺らしながら族長まで走り寄った。
「おお、イグレーヌ! 助けてくれい!」
「大賢者様の秘法を持ち出そうとするなど、たとえパント様といえども許されることではありません。覚悟して下さい!」
イグレーヌは弓に矢を番えると、長老の頭を踏んで床を飛び越えた。
「ふぉ! た、たすけ……ぶくぶく……」
力を失った竜である長老が溺れているその向こうで「鏃が付いてるぅ!? こ、殺す気か君は! ひぃぇっ!」という悲鳴が響き渡っていたが、水中にいる長老には聞こえていなかった。
【第6章・第8話】
ナーシェサンドリアの城壁の上から、ジェミーは城下を見下ろしていた。各城門の守備隊長から配置完了という伝令を受け取り、その配置が正しく行われているのか、自らの目でたしかめているところである。
「モルフ、ですか……」
「ネルガルという男が作った、人ならざる者。黒い髪と金色の瞳を持つ、人形だよ」
「それが、敵に混じっていると?」
ニノは遠くを眺め、悲しそうに呟いた。
「モルフはね、作る時にかける手間暇によって出来が違うんだ。雑に作られたモルフは感情を持っていないけど、手間をかけて作られたモルフは感情を持っている。死んだ人に似せたモルフを作ることもできるから……」
「なるほど、サカの部族長に似せた意思を持つモルフが居るというわけですか」
ジェミーは舌を打つ。
サカのひとつの部族が持つ戦闘用の人員は百人前後だが、それを支える非戦闘員は二百人ほどいる。非戦闘員をサカに放置しての外征というわけだ。守ってくれる者を持たない女子どもがどのような目に遭っているのか。あまり考えたくなかった。
「私を育ててくれた母さんも、モルフだったんだ……って、ジェミーちゃん、どうして睨むの!?」
「……睨んでません。でも、それ、ナーシェン様の前では言わないで下さい。あの人なら同情しちゃいますから」
イラっとした。モルフの有り方に。それと、悲しそうにしているニノにも。
「今のナーシェン様に、人様の重荷を背負っている余裕はないんですよ。重荷を代わりに背負ってやれるような人でないと、ナーシェンの傍にいる資格はないんです。だから、ナーシェン様の優しさに付け込むような言葉は辞めて下さい」
「あ……うん……」
ニノはジェミーの発言に唖然として……小さく笑った。
「何だかいいな、そんな関係。すっごい絆だと思う」
「……と、ととと、当然です! 何を今さら!」
焦っているジェミーを微笑ましく眺めながら、ニノはあの言葉を思い出した。
「『後ろを見るな、過去を見るな、前を見ろ、未来を見ろ。そして、進め』か。強引だけど、いい言葉だね。ロイド兄ちゃの遺言みたい」
その言葉が誰のものなのか、ジェミーは何となく理解した。
「報告します! クシャナ族の軍勢はナーシェサンドリアより五キロのところで迂回、リキア国境側に方向転換しました!」
「――ッ、敵の目標は!?」
「おそらくは―――――ナーシェン様かと」
―――
ニノは失念していた。心身ともに鍛えられた、英雄と呼ばれる者から得られるエーギルが、常人の数百倍になるということを。
「族長! 目標がナーシェサンドリアではないとは、どういうことですか!?」
最初の目標がアルフレッド侯爵、次の目標がナーシェサンドリア。三番目の目標がブラミモンド公爵ナーシェンだった。
族長の娘がアルフレッド侯爵に見初められ、拉致されたということを聞いた一族は、ベルン憎しで固まっていた。その娘がナーシェサンドリアに貢物として贈られたと聞いた時は、疑問に思いつつも、まだ納得できた。これがサカ一族を侮るなという、ただの示威行為であったなら、どれだけよかっただろう。
「ナーシェンがサラ様を連れて山賊退治に出陣した? 到底信じられません!」
部族の若者は族長に詰め寄った。すでに一族の者が何人も討ち取られている。ナーシェサンドリアを横切った時に、機転を利かせて門から飛び出した敵兵に、さらに20人の味方が殺されていた。
敵の追撃を振り切って、天幕を張って休憩しているところであったが、すでに皆が皆、疲れ切っていた。これからナーシェンの本隊と戦うと言われても、素直に頷けるわけがない。
族長の娘はたしかに重要だが、クシャナ族が滅びかねない今となっては、そこまでして救出しなければならないのかと疑問に思えてくる。
族長は虚ろな双眸を若者に向けた。
「族長……?」
「………ナーシェン。目標は……ナーシェン……」
「――ッ、お前は誰だ! 族長ではないな!?」
若者が族長に詰め寄る。その手が腰の剣にかかっていた。
「エーギルを回収する前に殺されては堪らない」
その声と同時。小振りな剣が若者の首を刎ねた。
ずるり、と若者が崩れ落ちる。
「……部隊すべてを、モルフに作り変えるか」
黒衣を羽織った中性的な容姿のモルフ、リムステラは若者をモルフとして作り直した。若者の魂の輝きは意外に大きく、常人の八人分のエーギルを回収できた。そして、リムステラは要領を得ない言葉しか話さなくなった族長に右手を向ける。
「……所詮は出来損ないか。この身と同じ」
エーギルを回収されて、砂になった族長を見つめ、よくわからない胸のもやもやを感じたが、リムステラはそれが悲しみなのか、別の感情なのか、よくわからなかった。
ただ、彼ないし彼女は、亡きあるじのためにエーギルを集め続ける。
―――
リムステラ。
ネルガルに最高傑作と言わしめたモルフであり、感情を有さないためどんな残虐な命令にも忠実に従うモルフ。ネルガルに寿命を削る代わりに、強大な力を得るという古代魔法を使用され、エリウッドたちに立ち向かうが敗北した。
古代魔法の影響か、感情のようなものを有していたおそれがあるが、真偽は定かではない。リムステラはネルガルの忠実なしもべであり、ネルガルの最も意に沿った行動を取るモルフである。たとえ主人が死んでいても、ネルガルのために行動し続ける。
ネルガルの命令――主君のためにエーギルを回収する。