早朝は剣を振るのが日課だった。
だが、この日は違った。
「………………」
朝日が昇る前から、ずっと頭を下げていたのだろう。いつからそこにいたのか、金髪の少年が地面に這いつくばり、みじめたらしく土下座していた。
「人を、斬りに行きます」
小声で、されど決意の篭った声でそう言った。
「百人になるか、二百人になるか、それはわかりません」
額が地面に擦り付けられる。血が滲むほど、擦り付けられる。
「もう、私に仕えろとは言いません。一度でいい」
少年が顔を上げる。
「一度だけでいいのです! 一度だけ、私に力を貸してくれませんか!?」
【第1章・第5話】
雨が降っていた。秋雨に打たれながら、ナーシェンは邸宅の裏口の前で待っていた。邸内からは断続的に悲鳴が響き渡っている。この日、あの人は剣魔に戻った。
ナーシェンは二十人ほどの決死隊を編成するつもりだったが、カレルはそれも断わった。
ただ、鉄の剣が十本あればいい。それで、足りなくなることはないだろう。
あの優しげだった顔を、氷のように変貌させながら、カレルはそう言った。
やがて、靴音を響かせながら、カレルが戻って来る。
その気になれば背後から急に現れることだってできるのだろう。あの男はその気になればナーシェンに気付かせず息の根を止めることができるのだ。だが、それが何だ。そもそも、剣とは人を斬るものだ。
なるほど、そう言うことか。
「あなたは、自分は剣でしかないと考えているのですか」
「当然だろう。この身はただの剣。人を傷つけるだけのものだ」
カレルは血に塗れた剣を鞘に戻した。
「件の子どもたちは地下牢に閉じ込められているようだ。道中の番兵は私が斬っておいた」
「恩に着ます」
ナーシェンは邸宅に踏み込んだ。
瞬間、ぶわっと血の臭いが風に乗って流れてくる。
「自分を卑下するの、やめておいた方がいいですよ。少なくとも、あの村で暮らしていたあなたはただの剣ではなかった。あの時のあなたは、鞘に納められていました」
「………………」
返事はなかった。
時々出くわす番兵も、そのすべてを出会い頭にカレルが両断した。
生き残った屋敷の者たちも、恐怖に身を隠しているのだろう。
「うおおおおおぉぉぉぉぉ!」
突然、壁が爆砕し、斧を構えた屈強な男が突撃してくる。
ナーシェンはカレルが身を硬直させたのを見て取った。そして、男の得物を見てすべてを納得した。
ソードキラー。対剣士用の斧である。
「………………」
だが、カレルはそれ以上だった。
空気のように気配を消し、風のように斧を躱すと、赤子の頭を撫でるかのように男の頭を切り落とした。
サカの者たちは空が父、大地が母と教えられるという。
己さえも自然の一部とする考え。それがあの剣なのだろう。
―――
ジードはベルンとエトルリアの国境にある寒村で生まれた。特に特産物のない寂れた村だ。父は酒癖が悪く、母はそんな父に暴力を奮われても耐え忍んでいるだけだった。ジードはいつも、あんな家からはさっさとオサラバしてやると考えていた。
そんな家が、戦争で蹂躪されたのはもう二年も前のことになる。
あんな家族でも、愛着があったらしい。
彼らが死んだ時は、それなりに涙を流した。それと同時に、どれだけ今までの自分が恵まれていたのか理解した。日々の食事に困らないいうことが、本当に幸せだったのだと気付かされた。
たった一人の妹と一緒に、手を取り合って生活していくのは困難を極めた。
だからだろう。あんな誘いに乗ってしまったのは。
『トラヒム侯爵は善良なお方である。侯爵の下で教育を受けた孤児は騎士として取り立てられている。女でも魔道士として活躍している』
こんな、うそ臭い噂話でも、頼る物がなくなると、簡単に信じ込んでしまうものである。
たしかに、日々の食事は出されたし、騎士としての教育を受けることはできた。ただ、毎日、同じ境遇の子どもと殺し合いをしながら戦う術を学ばされるというだけの違いがあったが。
他の者に知られると都合が悪いため、寝床は地下牢である。
まるで罪人のような扱い。だが、そのことだけは不満には思わなかった。ジードはここでしか妹と会うことができなかったからである。
「ここか?」
「ああ」
短いやり取りの後、扉が蹴破られた。
ジードは咄嗟に妹の身体を抱きかかえる。妹は寝ぼけた顔でジードの顔を見上げ、また眠りに就こうとした。慌ててその頬を叩くが、まったく反応を返してこない。
日中、魔道士としての知識を叩き込まれているため、妹が睡眠を欲しているのはわかったが、この場合は致命的すぎる。
ジードには先ほどからの悲鳴が聞こえていた。
斥候としての役目も求められる竜騎士としての教育を受けてきた賜物である。ジードはわずかな物音であっても聞き逃さない聴力を獲得していた。
「人が生活する環境ではないな。酷いことをする」
「…………ああ」
一人は金髪の少年だった。ジードとほとんど歳のほどは変わらない。
もう一人は身も凍り付く殺気を放っている黒髪の男性だった。目を向けられただけで斬られたと錯覚するほどの殺気である。
「合計で二十三人。密偵の報告と数が合わない」
「別の場所にも地下牢があるのだろう」
「面倒なことをする」
「私は他の地下牢を探してくる。貴様はこの場を死守しろ」
「へいへい、っと」
少年が肩をすくめた瞬間、男の姿が風のように消え失せた。
瞬間、ジードの身体からドッと汗が噴き出してきた。
何だ、あの男は。自分が百人いても敵う気がしない。
「お兄様……」
その時、ジードは妹がいつの間にか目を覚ましていることに気付いた。
恐怖に歯を鳴らしている妹を、ジードは深く抱きしめる。
そんな二人の様子を、少年はジッと見つめていた。
「……あの剣魔、助ける側が怖がらせてどうするんだよ」
そして、深々と溜息をついた。
あの男を見た後では、この少年でさえ自分たちを助けに来た者だとは思えなかった。
―――
あれから、ナーシェンは三十八人の孤児を引き取ることになった。騎士としての教育を受けていた者はとりあえず従騎士として取り立てておいたが、他の教育を受けていた者たちの処遇はまだ決まっていない。
カレルは何処へと去って行った。カレルさえいればどんな死亡フラグでも叩き折ってくれるはずなのだが、本当に勿体ないことをした。ナーシェンはまた気が向いたら土下座しに行こうと考えている。
「ナーシェン様。始めますよー?」
ジェミーの声に、ナーシェンの意識は現実に引き戻される。
「はい、ナーシェン様。カエルの丸焼きですよー」
あ、なるほど。さっきの回想は現実逃避だったのか。
ナーシェンはテーブルの上に乗せられた物体を見て納得した。
八歳児の遊び――それも女子のものとなると『おままごと』が最初に来るのは自然と言える。
が、本物のカエルの丸焼きがでてくるとはどういうことだ。
「あ、それはですね、ファイアーの魔法でじゅーっと」
「なんて残酷な! 子どもだからか? 善悪の判断がつかないのか!?」
「ナーシェン様、落ち着いて落ち着いて」
「ほら、お兄様の分もありますよ」
「ナーシェン様ぁ! 俺はこれから剣の稽古がありますので!」
「――っておい! ちょっと待てぇい!」
ナーシェンは逃げ出そうとするジードの襟首を掴み、その口にカエルの丸焼きを押し付けた。号泣するジードの顔がキモかったのか、ジェミーはジードを指さして高笑いしていた。
結局、ナーシェンも反逆のジードによりカエルの丸焼きを喰わされるわけだが。
「ナーシェン様!」
見ると、顔を真っ赤にして走ってくる兵士の姿が。
「エリミーヌ教の司祭様が教会の建て直しのために寄付金を募っているそうですー!」
瞬間、ナーシェンの脳髄が沸騰した。
「あんの生臭坊主ども!」
ナーシェンは叫ぶ。カエルの骨を兵士に投げ付けながら。
第1章 完