リリーナの輿入れに、こんなエピソードが残されている。
ヘクトルはリリーナの輿入れの前日に、懐剣を渡して「いざという時は、これでナーシェンを刺せ」と言ったそうだ。九歳児に渡すものではないし、嫁入り道具としてもあんまりだったが、それだけヘクトルがナーシェンを憎悪していたのだろう。
だが、リリーナは平然と「この刃は、お父様を刺す刃になるかもしれません」と答えたそうだ。九歳児の答えではないし、父親への言葉としてもあんまりだったが、それだけナーシェンを憎む父親が煩わしかったのだろう。
他にも、悲壮な顔をして「金髪の儒子め、姫さまに無礼を働いたらくびり殺してやる!」と豪語する者に、リリーナは「ブラミモンド公爵夫人の前で、そのようなことを言ってもいいの?」と叱り付けたそうだ。とても九歳の少女とは思えない迫力だったという。
そんなこんなで、輿入れの馬車がぞろぞろと進んでいる。荷物だけでも、二十荷になった。護衛の従者は200人に昇る。そのすべてが正規兵であることは説明するまでもないだろう。
お転婆な姫さまは道中、滅多に見られない外の光景に目を輝かせていた。
途中で荷駄を狙った山賊たちが徒党を組んで襲い掛かってきたが、訓練した兵士に敵うものではなかった。そして、やはりというべきか、捕えられて首切りを待つ賊たちを見て、リリーナが周りの兵士に「解放しなさい」と命令するのである。
感激した賊たちは「一生忠誠を誓いますぜ、姫さま!」と、輿入れの行列に加わった。
【第5章・第3話】
ナーシェサンドリアの街中を、金髪の青年が散策していた。庶民の着るような古着姿で、木の鞘に収められたボロい剣を佩いていた。傭兵のような格好といえるのだが、そこまで腕っ節が強そうには思えない。旅人が妥当であろう。
そんな装いの青年が、肉屋の前で立ち止まる。
生きた豚が「ブヒィ」と鳴いている。青年は豚の頭に手を置いた。
「あっ、お客さん。商品に触らないでくださいよー」
「よし、お前はこれからブー太郎と名乗れ」
「は?」
青年は懐から筆を取り出すと、豚の額に『ブー太郎』と落書きした。その後に、『命名、ナーシェン』と追記しておく。そこでようやく青年の正体に気付いた店主が肝を冷やした。
「な、な、な……」
「じゃ、元気でなー」
ナーシェンはブー太郎に手を振ると、肩で風を切って他の店を冷やかしに行く。
「おい、店主。これはいい豚だな。ここと……この辺りを切ってくれよ」
「あっ、は、はい。かしこまりました。20ゴールドです」
書店に突撃して在庫状況を尋ねていたナーシェンは、恐るおそる振り返る。
鉈が、振り下ろされていた。
「ぶ、ブー太郎ぉぉぉぉぉぉ!」
ナーシェンが悲鳴を上げる。道行く人たちが何事かと振り返り、叫んでいる青年がナーシェンだと気付いた者は含み笑いをこぼしながら通りすぎていく。
そんなナーシェンの様子を、ゲイルが何とも言えない顔をしながら見守っていた。ゼフィールからの祝儀を預かってきたのだが、挨拶もそこそこにナーシェンに「昼飯まだか? よし、じゃあどっか食いに行こうぜ!」と引っ張られてきたのだった。
道中、寄り道ばかりしているナーシェンに最初こそ微笑ましく見守っていたのだが、あまりの道化っぷりに「これがエトルリア軍を粉砕した謀将の姿なのか?」と首をひねっている。
「ま、待たせたな……ゲイル殿。よし、じゃあ飯にしよう」
ブー太郎と別れの挨拶を交わしたナーシェンが、ゲイルの肩に手を回し、路地の裏に入っていった。
後日、肉屋があった場所に『ブー太郎』という料理屋ができていたのは余談である。店の前には額に『ブー太郎』と書かれたブタの頭部の剥製が掛けられており、入店する者の食欲を煽った……とは思えない。豚の悲鳴が聞こえるばかりである。
そして、ナーシェンとゲイルは路地裏の奇妙な店に入店する。
「「「お帰りなさいませ、ご主人様!」」」
「………えっと、な、ナーシェン殿。これは……」
「おう、ただいまー」
メイド喫茶。
喫茶店の営業に行き詰ったナーシェンの、起死回生の一手である。
と言っても、喫茶店の売り上げが落ちたわけではない。新たな顧客の開拓のために、サービスを売る店を新たに立ち上げたのであった。
ナーシェンは思考停止しているゲイルに悪戯っぽく笑いかけると、入口に並んでいるメイド服を着た女性にこう言い放った。
「こいつは妹コースで頼む」
「かしこまりました。お兄ちゃん、席に案内するね?」
「な、ナーシェン殿ぉぉぉぉ――!?」
メイドさんに引きずられていくゲイルに、ナーシェンはさわやかに手を振った。
ちなみに、ナーシェンは無難に伯爵コースで楽しんだ。
ゲイルは、謀将ナーシェン恐るべしと肝に銘じることになる。
―――
「と言うわけで、そろそろ輿入れの行列が到着するわけだが、お兄ちゃんはどうするんだ?」
「私は祝宴までは別室で待たせて頂こうかと……って、誰がお兄ちゃんだ!?」
ゲイルは肩を怒らせながら去って行った。最近いい感じになってきている女竜騎士のミレディが見れば、きっと幻滅していたことだろう。あるいは、お兄ちゃんと呼んで積極的にアタックをかけていくかもしれなかったが。
ナーシェンは領主館のロビーで待っていた。
家臣たちが左右にずらっと並んでいる。フレアーは相変わらずの厳格そうな顔。ジードは眠たそうに欠伸している。イアンは恋人らしき侍女と駄弁っていた。竜騎士Sは『リア充氏ね!』と書かれた旗を振り回している。
そんな彼らに、エトルリアから呼ばれたヨーデル司祭が、微笑ましそうに見守っていた。
「ナーシェン様。行列がナーシェサンドリアの表門に到着したそうです」
ことさら表情を消したジェミーが、低い声でナーシェンに囁いた。
思わずフレアーは居住まいを正した。ジードは直立し、イアンは侍女の背後に隠れようとする。そして、竜騎士Sたちが振り回していた旗が炎上し始めた。スレーターは空気と同化した。
ナーシェンの背筋にだらりと汗が流れる。
「そ、そうか……。そろそろだな……」
ごくりと生唾を飲み込むナーシェンの背中に、ジェミーがそっと抱きついた。背中に押し当てられたのは、きっとファイアーの魔道書だ。そうだ、そうに違いない。
「信じてますから」
ボソリと、そう呟いてジェミーが離れる。
「い、いや、その、ジェミーさん?」
「オスティア公女ご到着!」
弁解する暇も与えられない。ナーシェンは首をぶんぶんと振ると、正面玄関の前に乗り付けられた馬車に目を向けた。
現れたのはヴェールで顔を隠している、ドレスを着た少女だった。
「ナーシェン! 久しぶりね!」
「うおっ! り、リリーナ……」
とてとてと走り寄り、正面からがばりとナーシェンに抱きついた少女に、ジェミーの周囲が物理的に燃え上がる。「し、信じてますから……」とグスリと泣き出すジェミーを慰めようとして近付いた兄は、その場で丸焼きになった。