騎士軍将パーシバルは、遠方にそびえるハイルダン砦を見上げていた。高台に築かれた山岳要塞である。篭られたら取り戻せない堅城なので、まさか奪われることはないだろうとパーシバルは安心していた。
それが、防衛に就いていたトリスティア侯爵はあっさり自害し、名将たちが同士討ちを始める始末。
パーシバルは部下たちを集めて、評定を行っていた。
「あの砦が落ちれば、我々は背後を気にしなければならず、進軍することができなくなりますね。さらに、押され続けていたファルス公爵が体勢を整えて反撃に出てくるでしょう」
「それはわかっている。だが、何故だ……!」
その砦が、今はひとりの守兵も置かれず、無人で放置されていた。
――つまり、私に砦を取れと言うわけか。
「……なるほどな。我々の編成は機動力を重視した騎兵に偏っている」
「攻城戦になれば、騎兵の攻撃力、機動力が死にますからね。敵将ナーシェンは野戦では被害甚大と見て、あの砦に我らを誘っていると言うわけですか」
「加えて、あの砦が見た目どおりに機能する証拠もない。城門が破壊されていたり、隠れた抜け道が用意されている場合もある。これはナーシェンの罠だ」
「では、どうなさるので?」
「奴の策には乗らん。我々は今まで通りファルス公爵を攻めるぞ」
パーシバルは馬蹄を翻した。配下の騎士たちも納得し、すぐさま軍勢を方向転換させる。
ハイルダン砦は後から到着する本隊に任せればいい。パーシバルたちは機動力を生かして、敵軍を霍乱するのが役目なのだ。
パーシバルは考える。今までの大規模な合戦ではベルン北部は500の兵力しか用意できなかったものだが、現在ナーシェンが統率している兵力は1000に達している。
これが噂に聞く北国の獅子か――とパーシバルは感心した。
敵として、これほど心が躍る相手は他にいない。
【第4章・第7話】
ファルス公爵は困惑していた。
「よし、全員配置に付いたかー!」
と言って叫ぶのはベルン北部の公爵ナーシェンである。昨日までハイルダン砦を攻めていたはずなのに、800の手勢を引き連れて援軍にやってきたナーシェンに、ファルスは両目を丸くして唖然としたものだ。
ハイルダン砦はベルアー伯爵と200の兵士で守っているらしい。パーシバルは絶対に砦を取らずに撤退する――とナーシェンは語っていた。トリスティア侯爵が落ちた今、エトルリアは本隊の到着まで作戦を展開できないと言うことらしい。
「あ、あのぅ……。パーシバル将軍がハイルダン砦からこちらに向かってきているのですけど……」
「ん、そうか? だが、神速の行軍ができるパーシバルといえど到着まで三日はかかるだろう」
ナーシェンは暢気に笑うと、馬に跨った。
背中のマントには大きく「1」という数字が描かれている。
「一番、放生月毛。ブラミモンド家がナーシェンの愛馬です。二番、松風。乗り手はブラミモンド家の騎士イアン。三番、帝釈栗毛。アルフレッド侯爵の愛馬。四番、三国黒。カザン伯爵の……………」
集まった群衆にジェミーが手元の資料を読み上げる。騎士たちが「主君の馬が最も強そうだ」などと自慢し合っている。中には掴み合いの喧嘩をする者もいたが、それを咎めようとする者はいない。
ナーシェン曰く「これは祭りですよ」と言うことだ。
「ブラミモンド家の名において、この勝負……負けられない……! いくぞ、放生月毛!」
とナーシェンが呟く。
「ふっ、我が愛馬、黒雲はベルン一の名馬です」
とグレン侯爵が。
「何れもベルン北部の名馬。久しぶりに血が踊りますな」
とカザン伯爵。
「帝釈栗毛ですか。ナーシェン殿にこのような名を頂き、我が愛馬も喜んでいることでしょうな。では、この名に劣らぬ活躍を見せなければなりませんか」
とアルフレッド侯爵が。
あの人たちは何をやっているんだ――とファルスは死んだ魚のような目をする。
「ジェミー、スタートの合図を」
「はーい。いきますよー」
ジェミーが面倒臭そうに旗を振り上げ、勢いよく振り下ろした。
同時に、名門貴族たちが馬を飛ばす。アルフレッド侯爵の工兵隊が用意したコースを各馬が疾走する。
「うおぉぉぉー! ナーシェン様、いっけぇぇ――!」「アルフレッド様、お父上に劣らぬ凛々しいお姿を……」「グレン侯爵、意外と速い! あの人は謀将じゃなかったのか――っ!」「カザン伯爵は堅実だな。馬の体力を温存している……」
「速い、速い、帝釈栗毛! それを追う放生月毛! 内か外か! 放生月毛来た、放生月毛来た、おーっと、ここで松風、怒涛の追い上げ! 勝負はまだわからない!」
実況の騎士が声を張り上げる。その騎士の背中にジェミーが魔道書を押し付けているように見えるのは、ファルスの目の錯覚だろうか。
……本当に、あの人たちは何をやっているのだろう。
「松風! 華麗に抜き去る! 放生月毛、まさかの三着!」
これはファルス公爵は知らないことだったが、実況の騎士は名をジードと言った。
―――
ファルス公爵の困惑を余所に、ナーシェンは諸侯を集めて競馬に興じていた。
これは寄せ集めの諸侯の心をひとつにまとめるための施策とも言える。仕える者が違えば、自分の主君を贔屓しなければならない。集団の心はバラバラのままである。個人の力量が重視される、規模の小さい戦ならまだそれでも構わない。だが、千人規模の戦で、末端の意思統一ができていないと言うのは問題だ。
というのは建前で、実際はナーシェンはただ遊びたかっただけなのだが……。
「やはりパーシバル将軍はハイルダン砦から撤退しましたね」
ナーシェンは陣場の宿営地で机の上に蝋燭を立てて、周囲の地形図を睨み付けていた。
対面のジェミーが居心地悪そうにしていることにナーシェンは気付いていない。真夜中に主君の寝床に呼ばれ、身を捨てる覚悟でやって来たジェミーに、ナーシェンは今後の作戦展開について語り出したのである。本当に、救いようのない朴念仁である。
「ま、あの将軍なら砦を取るような愚策は行わないと思っていたがな。だが、流石の騎士軍将殿も、空っぽの砦という誘惑には迷わざるを得なかったらしい」
守兵を200でも置いておけば、パーシバルはさっさと諦めてファルス公爵を攻めていただろう。
それが、損害ゼロで堅城を取れるとなると、どんな名将でも心が揺らぐものである。パーシバルは己の気付かない間に貴重な時間を浪費してしまったと言うわけだ。
パーシバルが迷っている間に、ナーシェンはベルアー伯爵に200の兵士を任せ、自分はさっさとファルス公爵の援軍に向かってしまった。ベルアーにはパーシバルの撤退に合わせてハイルダン砦に入城するように、あらかじめ指示を出していた。
「しかし、騎兵中心の編成ですか。野戦では敵なしですね」
「……アウグスタ殿が防衛戦の天才だったなら、パーシバルは機動戦の天才だな」
だが、それで臆していたら話にならない。野戦が無理なら、野戦に持ち込まなければいいのだ。幸い、敵将パーシバルはこちらを強引に野戦に引きこむほどの策を弄する能力はない。奴は知将ではなく武将なのである。
「さて、そろそろ騎士将軍殿にはご退場願おうか」
そう言って微笑む十七歳の青年に、ジェミーはゾクゾクっと、全身に痺れが走った。これが謀略や戦争でも滅多に見せないナーシェンの素顔だ。ジェミーはこの顔が堪らなく好きだった。
………
放生月毛:上杉謙信の愛馬。川中島で武田信玄に斬りかかった時に乗っていた。
松風:言わずと知れた前田慶次の愛馬。
帝釈栗毛:加藤清正の愛馬。帝釈天から名づけられた。
三国黒:本多忠勝の愛馬。関ヶ原にて落命。
黒雲:武田信玄の愛馬。気性が荒く、他の誰も乗れなかったらしい。
………