アウグスタ、カザン、グレンはすぐさま軍を引くと、ナーシェンの屋敷に篭城する。兵糧は事前に溜め込んでいるので万全。屋敷の中には井戸があり、半年は持ち堪えられる構えになっている。
トラヒムは屋敷を取り囲み、攻めあぐねていた。
ナーシェンの屋敷は簡単だが実践的な改造が施されており、門には土塁が築かれていた。その向こうには矢倉が組まれ、弓兵が配置されている。屋敷の屋根には二器のシューターが設置されていた。飛竜が近付けば、たちまち迎撃されることだろう。
守るのは防衛戦の天才アウグスタ。
そこに名凡将カザンが補佐に付く。
「………くっ。屋敷の中の井戸に毒を放り込めば終わるのだがな」
トラヒムは歯軋りする。
すでに何人か潜入させているのだが、ひとりも戻って来ていない。すべて殺されたと考えるべきだろう。
そうこうしている内に、一週間が経過する。
最初の訃報は、トラヒムでさえ頭痛を堪え切れなかったほどのものだった。
ムーア侯爵が勝手に陣を抜け出し、村に女を漁りに行って、何者かに斬殺されたという報が入ってきたのである。自業自得にもほどがある。
そして、その時に二つ目の訃報が入ってきた。
周辺の村から人が消え去っているのである。トラヒムに知る由はなかったが、彼らは整備された街道を通って、さっさとアウグスタ侯爵の領地に避難している。これでは兵士たちに褒美に女を抱かせることもできない。
さらに、本陣を強襲された時に兵糧が燃やされたため、兵士たちの食事の量が日に日に減少の一途を辿っている。兵士たちの不満はどんどん膨れ上がる。
そして、三つ目の訃報が入ってきた。
「な、なん、だ……と…? それは、本当なのか……?」
「信じられないですが、事実のようです。通りで敵の抵抗が弱いと思いました」
トラヒムは目の前が真暗になるような思いがした。
ナーシェン軍、トラヒム領を制圧。
騎士たちの家族を人質に取る。
「すでに少なからず脱走兵が出ております。昨晩でおよそ200の兵士が本陣から消えていますね」
「それのどこが少なからずだ!」
トラヒムは配下の騎士を殴り飛ばした。
騎士は頬の血を拭い、トラヒムに反抗的な目を向ける。
悪政を布いてきたトラヒムは、すでに家臣からの人望を失っている。
「い、いや、しかし……まだ戦いようがある。まだ我が軍の兵士は400。なんだ、敵と同数ではないか!」
「……ムーア侯爵の兵士も脱走しています」
これで、アウグスタ側が500、トラヒム側が300。ここに、情勢は完全に逆転した。
残るはフリッツ侯爵の150とトラヒムの150。
しかし、恐怖心からトラヒムに従っているフリッツが、果たして最後まで自分に付き従ってくれるものだろうか。
「脱走軍が背後に出現! 指揮官はバルドス男爵!」
「……トラヒム様。私たちの負けです。ここは撤退しましょう」
……何処に?
すでに領地はナーシェンに取られている。
今さら何処に逃げると言うのだ?
トラヒムは剣を抜いた。
「ふっ。この私が商人風情に敗れ去るとはな」
トラヒムの銀の剣の切っ先が、いつの間にかそこにいた幽鬼のような剣士に向けられる。
「……剣魔カレル。まさか、貴様があの小僧に従っていたとは」
トラヒムも、カレルの噂を聞きつけて登用しようとしたことがある。
最後に伝説とも言われる剣士と戦わせてくれるとは、あの小僧、粋なことをしてくれるじゃないか。
【第2章・第13話】
「いや、しかし何とか間に合ったな」
ナーシェンは汗を拭いながら溜息を吐く。ナーシェンの領地は整備されていたので、行軍は楽だった。改札機をICカードで通り抜けるほど楽だった。だが、トラヒムの領地はしんどかった。切符を買うどころではなかった。
馬が潰れそうになる度に行軍を止め、迫り来る死亡フラグに恐々としながら馬と兵士の疲労が取れるのを待ち、疲労が取れると再び行軍する。その繰り返しである。
何度胃薬の世話になったことか。
ナーシェンはトラヒムの屋敷で大量の文書を作成していた。
戦争よりも大変なのが戦後処理。
勝った側は積極的に敵に調略をかけて揺さぶり、付き合いのある貴族、商人、教会に書状を出さなければならない。普通は敗北した敵も様々なプロパガンダを行うものだから、戦闘の終了は宣伝活動の開始でもある。
今回はトラヒムがすでに亡くなっており、宣伝活動で後れを取ることはないので、ナーシェンはこの手の雑務を配下に押し付けた。行政官を育てるいい機会である……とは建前で、実際は自分がサボりたかっただけなのだが。
「しかし、敵側が銀製の武器持ちとはな。会戦に持ち込まないでよかった」
ナーシェンは机の上にぐでんと倒れる。
オルト司教がトラヒムを大々的に支援することは、完全にナーシェンの想定に入っていなかった。仮にも司教まで上り詰めた者である。まさか、そこまで情勢が見えていないとは完全に予想外である。
今回のことで教会はオルト司教を降格処分することを考えているらしい。
降格とはまだまだ甘いなー、と思わないでもないが、どうせオルト司教が保身のために賄賂を送りまくったのだろう。エリミーヌ教会のパトロンは汚職万歳エトルリアだ。大勢の政治家が守ってくれるはずだ。
ついでに、フリッツ侯爵はエトルリアの宰相ロアーツのもとに亡命してしまった。十人ほどの手勢を連れて、いつの間にか本陣を抜け出していたという。そう言えば、ロアーツは何かとベルンの貴族と接触しているが、あれはお互いの亡命先の約束でもしているのかもしれない。
「いや、まさかここまで上手くいくとは思っておりませんでした」
「いやぁ、ただの偶然ですよ」
ベルアーのしきりに関心した声に、ナーシェンはひたすら恐縮した。
が、内心でこう思う。偶然で勝てれば世話はない。
ナーシェンは中入りをせずに、400の兵でトラヒムの軍勢を霍乱してもそこそこ戦えると考えていた。アウグスタ侯爵、カザン伯爵の200の軍勢であれだけ戦えたのである。
だが、ナーシェンは勝てるという確信が欲しかった。
前にも言ったが、“かもしれない”では駄目なのだ。
「戦後処理が終わったら、ぜひ私の領地へ遊びに来て頂きたい」
「ええ、そりゃ構いませんが……」
ナーシェンは突然の申し出に首を傾げる。
ベルアーはその返事に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「約束ですよ。娘ともども、首を長くして待っております」
「……………え?」
「いやぁ、式が楽しみですなぁ。娘は器量がよく、妻に似て美しく育ちました。お会いになられればきっと気に入られることでしょう。まだ十一歳ですが、お互い歳も近く、かえって気も会うはずです」
ナーシェンは必死の思いでベルアーのもとから逃げ出した。
つくづく甲斐性のない男である。
―――
二日後、王宮から使者が訪れ、トラヒム派の領土割譲を言い渡す。
ナーシェンは儀礼的に一度は固辞したが、二度目で了承し、トラヒム卿の領地半分を新たに領地に編入した。アウグスタ侯爵はムーア領を、ベルアー伯爵、カザン伯爵はフリッツ領を半分ずつ領有することになった。
トラヒム卿の領地、残り半分はグレン侯爵(何度も固辞したが押し付けた)やナーシェン派についた貴族に与えた。こうして、ベルン北部は完全にナーシェン派によって平定されることになる。
一ヵ月後、ナーシェンはベルン北部同盟の発足を宣言する。
すでに政治的な根回しは済んでおり、さらにゼフィールが同盟を認めたことにより、ベルン内部での反発の声はほとんどなかった。
同時期、エリミーヌ教会のナーシェンへの破門が撤回される。
こうして北国の獅子ナーシェンが頭角を現すことになった。
時代の移り変わりを意識せずにはいられない動乱であった。
第2章 完