「殺せ! あの小僧の首を上げた者は金貨五十枚を取らせるぞ!」
トラヒムの叫び声を聞いた兵士たちの士気は――あんまり上がっていなかった。悪政を布いてきたトラヒムに心の底から忠誠を誓っている者は、ここにはひとりたりとも存在していない。
それでも、彼らは銀製の武器を手に突撃する。
そして、本陣強襲。
雄叫びが上がり、やがて静まっていく。
「………………なんだ?」
敵兵の影がひとつもいない。辺りにあるのは藁人形だけである。
「―――ッ! 謀られたか!?」
トラヒムはすぐさま馬首を翻す。
瞬間、燃え盛る矢が藁人形に突き刺さった。喫茶店の屋根の上に弓兵が伏せていたのだ。
あらかじめ油を染みこませていたのか、藁人形は派手に燃え上がる。
「くっ――グレン! 裏切ったか!?」
トラヒムは偵察をグレン侯爵に任せていた。
たしか、奴は自分から「偵察は私にお任せ下さい」と言っていた。
そうか、そう言うことか。
たしかにトラヒムの言葉は正鵠を得ていた。
ただ、この時に言うべき言葉ではなかった。
「グレン侯爵が裏切った!」「まさか!?」「あのグレン侯爵が?」といった言葉が戦場を走り抜ける。
動揺は燃え上がる戦場との相乗効果であっと言う間に伝わった。
瞬間、無数の馬蹄の音が戦場を蹂躪する。
トラヒムは全速力で突進する百騎ほどの軍勢を見た。
「ふははははっ、愚かなり! 猪武者に後れを取るこのアウグスタではないわ!」
「おのれ、死に底ないのクソジジイめが! 下策に頼るとは武人の心を忘れたか!」
「笑わせる! その下策にかかっておるのはどこの誰だ!」
トラヒムはすぐさまアーマーナイト部隊を最前線に展開しようとする。だが、命令に従う兵士はどこにもいなかった。と言うより、全軍が混乱状態に陥っていて、応戦できる部隊がどこにもいなかったのである。
「くそっ! 何をしている! 迎え撃つのだ!」
その声は届かない。
アウグスタ侯爵の軍勢は600(グレン侯爵、撤退により)の敵兵に突撃し――突破。
トラヒム側の軍勢は多数の死者が出たが、アウグスタ側は数名の怪我人を出しただけだった。
【第2章・第12話】
グレン侯爵は燃え上がる本陣を見つめていた。
燃えているのは、ナーシェンの本陣ではない。トラヒム側の陣も、炎上していた。
「これでよかったのですかな?」
ナーシェン側の名凡将カザン伯爵が問いかける。
トラヒムがナーシェン軍の本陣に突撃すると、グレンは山中に伏せさせていた者に狼煙を上げさせる。すると、カザン伯爵の軍勢が手薄になったトラヒムの陣を逆襲し、持参した兵糧を焼き払う。
カザン伯爵の軍勢はおよそ百人。
そこに、グレンの軍勢およそ百人が加わる。
トラヒム側の本陣を守るのは二十人ほどの守兵である。
「さて、そろそろ頃合ですかな」
カザン伯爵が楽しそうに呟く。
これほど思い通りに事が運ぶのも珍しいことだろう。これを、十三歳の少年が手の平の上に描いたのである。
グレンは肝を冷やした。そして、さっさと船を乗り換えてよかったと安堵する。
しかし、これからのことを思うとグレンは憂鬱になった。
元々、グレンは侯爵家に使える重臣だったのである。だが、主君が度重なる増税を行い、領内が荒れていくのを見かね、とうとう主君を暗殺してしまったのである。
そして、その主君には子どもがいなかった。
家臣からの声もあり、ゼフィールはグレンを侯爵に昇進させたのである。そこには、不毛な大地であるベルン北部を王族領にしても面倒なだけだという考えがあったのだが、ともあれグレンは自らの意図に反して侯爵という位を手に入れてしまったのである。
そして、周囲の貴族はそのような輩と付き合えるかと、軽蔑の目を向けていた。グレンの領地は飛竜の産地で、多くの貴族が飛竜を買い付けに来ていたのだが、グレンが侯爵になると顧客がめっきりと減ったほどである。
「これからナーシェン殿の屋敷に篭城することになっておりますのでな。向こうには酒があるそうですぞ」
「酒ですか。それはいい」
普通は、戦闘中は酒を飲ませないものだが、今回はトラヒムが軍勢を立て直すまでに二、三日の時間がかかる。負傷兵を治療したり、燃えた本陣を立て直す必要があるのだ。
部下を酒で労える。そのことで、多少はグレンの顔色がよくなった。
そんなグレンを、カザンはジッと眺めていた。
「悩み事ですかな?」
「ええ、まぁ」
奸臣と囁かれている自分が、これまで他の貴族と上手く付き合えなかったのに、そこに裏切り者という汚名を上乗せされてしまう。
「一度裏切った者は二度裏切ると言われるような世の中ですからな。心配なされるのはよくわかります。ですが、ナーシェン殿は殺人を犯した山賊を登用するほど破天荒なお方ですぞ」
「――まさか、そのようなことが!」
「『お前の人生すべてを使って償え』でしたか。このカザン、不覚にも痺れ申した」
ですから心配する必要はないでしょう、とカザンは小さく微笑みながら言う。
「さて、時間が経てば敵の本隊が戻って来る。我らも撤退しますか」
「――はい!」
―――
無事に戻って来た二百の軍勢と、新たに加わった百の軍勢を見て、カレルはホッと安堵した。
戦場では殺人鬼になる彼だが、剣聖状態の時は人死には嫌いなのである。
ちなみに、カレルは屋敷で非戦闘員を守るよう命じられている。ナーシェンは最終的には篭城戦になることを見越し、いざと言う時のためにカレルを置いておいたのである。
「皆もご苦労だったね」
カレルは子どもたちに話しかける。
子どもたちは「マジ疲れたぜー」と溜息を吐いている。彼らはここ数週間、大量の『誠君人形』の製作を命じられていたのだ。ぶっちゃけただの案山子なのだが、ナーシェンも騎士たちも『これは誠君人形だ』と頑として譲らなかった。
「そう言えば、あの人形は何のために作られたのかな?」
練兵場で『誠式訓練法』を実戦するには数が多すぎるし、商品化するほど大した品でもない。繰り返すが、ただの案山子なのである。
と、ちょうどそこに酒ビンを手にした兵士が通りかかる。
カレルは案山子――もとい、『誠君人形』がどうなったのか尋ねた。
「あ、それ、全部燃えましたよ」
「………………………」
ここ数週間の成果が灰になっていた。
「みんな『誠死ねー』って言いながら火矢を射掛けてましたからね。自分も矢を放つ時、テンション上がりまくりでしたよー、あはは…………ヒッ!」
「む……い、いや、なんでもないよ」
カレルはなぜか恐怖している兵士に微笑みかけた。
今度、ナーシェンに稽古をつけてやらないといけないようだと思いながら、カレルは剣を研ぎ始めた。