引切り無しに行き来する人足たちを、ナーシェンは馬上から見下ろしていた。起伏のある地面を慣らし、石や草を除去し、道の脇に形の整った小石を並べる。最後に水をかけて、大きな水溜りができていないか確認すると、次の場所に向かう。
流石にすべてを石畳にするのは手間がかかりすぎるので、ここら辺はナーシェンの独断と偏見によって行われている。幅が広くて道だとわかればそれでいいのである。
「しかし、道路建設まで待ってくれるとはな」
「私も、すぐに攻めてくると思っていましたが……」
ナーシェンの背後、別の馬に乗っているフレアーが同意する。
街道の整備は、交易を発展させるためだけのものではない。武田信玄が建造したとされる『棒道』や上杉謙信、織田信長の道路整備は有名であるが、それは彼らが戦略レベルの機動力が勝利の第一条件だと確信していたからだ。
道路とは、いわゆる戦略兵器である。
トラヒム卿は、どうやらその程度のことすら理解していないらしい。
「ふんっ。文系学生を舐めるなよ」
「…………?」
ナーシェンは馬をひるがえす。
この工事はナーシェンの領地からアウグスタ侯爵、ベルアー伯爵、カザン伯爵や、他のナーシェン派の下級貴族の領地まで、かなりの規模で行われている。ナーシェンは国庫から五万ゴールド、宝物庫から十万ゴールドを捻出しており、さらに他の貴族の分の十万ゴールドを合わせると、総額二十五万ゴールドを費やした大工事になる。
が、投資分の金額はすぐに戻って来ることだろう。
すでに工事のことを聞きつけた者たちが職を探して領内に流れ込んできている。今のナーシェンの領地には、仕事はいくらでもあるのである。製紙工場、製糸工場、茶の農園、活版印刷場など、ナーシェンは様々な施策を推し進めているが、いずれも人員不足で50%も稼動していない。
「しかし、これほどの光景を見ておりますと、ナーシェン様の仰っていることも、あながち実現不可能なものではなさそうに思えてきます」
「何のことだ?」
「最初は誰もが内心では、こんな辺鄙な場所に大都市なんて出来るわけがないと馬鹿にしておりました。交通の要所でもなく、特産物があるわけでもなく、ただただ不毛な大地が広がっているだけでした」
「フレアー、それは違う。交通の要所でないなら、自分の力で要所にすればいいのだ。特産物がないなら、新たに特産物を作ればいい」
今回のナーシェンは、無駄に格好よかった。
「ところで、特産物とは何ですか?」
「う、えっと……紙と糸とお茶?」
「それと、『学校日和』と『恋ノ空』、チェスやトランプですね」
「………………」
ナーシェンは口篭った。
他にもナーシェン自身が書き上げた官能小説と、絵師に書かせた艶本も追加だけどな――と内心で考えていたりする。
ここに現代人がいたら、こう突っ込んでいただろう。
お前、エロ文化のパトロンにでもなるつもりか、と。
【第2章・第10話】
工事現場から何時もの執務室に戻って来たナーシェンを出迎えたのは数人の書記官だった。相変わらず、仕事に忙殺されそうになっている。
ごめんな、内政ができるのが君たちしかいないんだよ。
ナーシェンは謝罪しながら、書類の束を押し付ける。
書記官たちは額に青筋を浮かべ「誠死ね」「誠死ね」と口々にわめきながら仕事に取り掛かった。
今はとにかく人材が不足していた。書記官たちに見込みがありそうな騎士たちに政治手法を仕込むように頼んでいるが、経験が物を言う政治の世界で活躍するには、まだまだ時間がかかりそうだった。
それまでに過労死しないでくれよー、と他人行儀なことを考えながら、ナーシェンは椅子に腰を下ろす。馬に乗っていたためか、腰がビキビキと痛んだ。すっかり身体がなまっている。執務室に篭りすぎたか。
また暇ができたらカレルに剣の手ほどきをして貰おう。
「ナーシェン様、ただ今戻りましたぞ」
「おお、バルドス。ご苦労だったな。で、首尾はどうだ?」
バルドスはナーシェンから水差しを受け取りながら答える。
「薬箱の設置は問題なく完了しました」
「薬の転売は重罪だということは念を押しているよな?」
「勿論です。村人たちが薬の使用を躊躇われるほど厳重に注意しておきました」
「いや、それじゃ駄目だろ……」
ナーシェンは呆れ果てた。
それはともかく、薬箱の設置はナーシェンの新たな施策である。
百年前の日本、明治三十五年頃の平均寿命が大体四十四歳。西洋医学が流入してある程度の医療技術を持っていた当時でも、バタバタと人が死んでいるのである。
このことを知った時、ナーシェンは人間五十年ってレベルじゃねーぞ、と現代に生まれたことを心底感謝したものだった。
で、この世界の寿命はどんなものかなー、と思い立ち、調べさせてみたところ、やはりと言うべきか平均寿命は三十五歳。成人するまでに命を落とすケースが多いので、一概には言えないが、大体四十歳までに死ぬ者が多いと言うことになる。
ナーシェンは寿命の問題は割り切るしかないだろうと諦めるしかなかったが、福祉については改善する余地があると判断した。
どの村々で言えることだが、病気をしても薬を買う余裕がないのは問題だろう。他にも、風邪をひいたら五キロ離れた村に薬を買いに行かなければならない――という状況も有り得るのである。
そのため、ナーシェンは各家庭に薬箱を設置することにした。薬箱制度とは定期的に巡回する役人が薬箱の中を確認して、減っている薬の金額を請求するというシステムである。
さらに、これには薬代の七割を政府――ナーシェンが負担するという新制度を導入している。
そのため、薬を転売して利を上げようとする者に厳罰を下すということを、あらかじめ念を押しておかなければならなかった。
「ところで、これは薬箱を設置していた時に、主に女性から出ているものなのですが……」
「うん、どうした?」
「うちの男どもが『誠死ね!』と五月蝿いので何とかしてくれと苦情が出ています」
「………………」
どこまで広がっているのだろう。
夜な夜な練兵場に忍び込んでいたことがいけなかったのか。そうは言うが、あのストレス解消の遊びは激務に追われるナーシェンにとって、心の洗濯とも言うべきものだったのだ。
まぁ、人の噂も七十五日。そのうち飽きることだろう。
「それと……」
バルドスは憎たらしいほど冷静な表情をしていた。
「男どもにエッチなものを見せないでくれ、だそうです。子どもが色気づいて手が付けられないとか」
「涼しそうな顔をしてそのようなことを言える君を尊敬するよ、バルドス」
翌日、この話がジェミーに漏れて消し炭にされそうになるナーシェンであるが、この時はまだ反省の色は見られなかった。
―――
ナーシェンの父の死から二ヵ月後――。
トラヒム卿の領内にある砦に、およそ700人の軍勢が集結した。
密偵から報告を受けたナーシェンはすぐさま各諸侯に伝令を飛ばし、軍勢を集結させる。
ナーシェンは喫茶店の真横に本陣を築き、茶をしばきながら諸侯の到着を待った。
700対400。
分の悪い勝負なのに、ナーシェンは悠然と構えており、集まった諸侯たちを安心させた。
「各々ご安心めされよ。我に秘策あり」
ナーシェンは両目を閉じる。
「我あればこそ毘沙門も用いらるべけれ。我なくば毘沙門もありはせじ。我毘沙門を百度拝せば、毘沙門も我を五十度か、三十度拝せらるべし。我をば毘沙門と思いて、我前にて神文させよ」
「敵が、我が領内に進軍しています!」
真っ赤な鎧を着た伝令が悲鳴を上げても、ナーシェンはまったく動揺しなかった。
「我は毘沙門天の化身である。矢玉は向こうから避けていく、恐れることはない」
この戦のために用意された旗指物には毘沙門天の『毘』の字が躍る。
もちろん、読める者はひとりだけである。