この日もナーシェンは生き残るために画策していた。
「胃がいてぇ……」
執務室で書類をめくりながら、ナーシェンは溜息をつく。
昨日、父が首都から戻ってきて、大規模なパーティーを開くと宣言しやがったのである。
その予算をどこから捻出しているのか、あの親父はわかっているのだろうか。
「どうするよ」
「はてさて、どうしましょうか」
バルドスと二人で溜息をつきながら、ない知恵しぼって考える。
「宝物庫にある武器でも売り払うか。宝石引っ付いた剣なんて、ぶっちゃけいらないだろ?」
「しかし、それをお父上が知られたらどう思うか」
「首斬りかなー。その時はバルドス、死んでくれよ」
「死んでも御免です。いや、死にませんが」
バルドスの冷たい眼差しにゾクゾクしながらナーシェンは新しい書面を差し出した。
「何です?」
「騎士隊から装備の申請が出ててさ。この中から鋼の槍を除外して計算し直してくれよ」
中堅の騎士が愛用する鋼の槍だが、性能は鉄の槍とあまり変わらない。
一部の騎士たちに我慢して貰って、その分の予算をパーティーに回してみようという考えである。
「鋼の槍ですか。まぁ、妥協案ですかな」
「騎士の連中に借りを作るのは厄介だけどなー」
肩を落とすナーシェンに「それは私が何とか言い聞かせておきましょう」とバルドスが請け負う。
ナーシェンが政務に加わってから一ヶ月、バルドスもようやくナーシェンのことを認めてくれたようだ。簿記検定三級の自分がどれだけ役に立っているのか我ながら疑問に思えるのだが。
そう言えば、憑依してそろそろ一ヶ月になるのか。
ナーシェンは腹をさすりながら溜息をついた。
死亡フラグの兆しはまだ見えない。今日も平和だうれしいな、っと。
【第1章・第2話】
ベルン国の侯爵家で開かれるパーティーである。招待客はベルンの王族(さすがにゼフィール王は出てこないが)からエトルリアの貴族(表面上は友好関係を築いているので)まで多岐に渡り、この日、邸宅の使用人は大忙しで働いていた。
「はい、申し訳ございません。お召し物の方はすぐに新しい物を用意いたしますので……」
この日、ナーシェンはなぜか頭を下げていた。
相手は同じベルン国の貴族、トラヒムである。ナーシェンの父と同格の侯爵家の当主であり、貴族としての位は最高位のものだ。ナーシェンの父とは違って武人としても有能らしく、その肉体は隆々としている。
「たしかロアーツ殿が話があると言っていたな。なるべく急いでくれたまえよ」
「はい、かしこまりました!」
なぜこうしてナーシェンが頭を下げているのか。
それは、侍女の一人が粗相をしてトラヒム卿の服を汚してしまったからである。
ナーシェンはトラヒムを別室に案内しながら、内心で溜息をつく。
このような時は、貴族としての名目を保つために、ナーシェン自身の手で粗相を起こした侍女を裁かなければならないのだが、使用人ひとりといえど、ナーシェンの家に仕えている大切な家臣である。それを切り捨てるのはナーシェンの信条に反していた。
使用人を許して貰うために、ナーシェン自身が周囲の貴族に恥を晒し、それで帳消しにする。
見たところ、それは上手く行ったようだった。トラヒム卿もほどよく自尊心が満たされたのか、それほど怒っている様子はない。心の中で安堵し、ナーシェンは念のため男の使用人にトラヒム卿の着替えを任せると、再度トラヒム卿に謝罪してから部屋を後にした。
「大変ですな」
振り返ると、そこには老人がひとり。
「何か問題でもありましたか?」
「いや、こうして見ていると風聞とは存外にアテにならぬものだと思いましてな」
ああ、そういうことか。
自分が憑依するまでは、ナーシェンは途方もないクソガキだったのだ。その時の噂話を耳にした者なども、招待客には混じっているはずだ。以前のナーシェンを知る者なら、目が飛び出るほど仰天していたかもしれない。
が、まだナーシェンは十二歳。心情の変化があったとでも言っておけばどうにでもなる。
「男子三日会わざれば活目して見よ、と言いますからな」
と老人は目を細めてそう言った。
「失礼ですが、あなたの名は?」
「おっと失礼。まだ名乗っておりませんでしたか。私はフェレ候エリウッドの名代として参上しました。マーカスと申します」
「ああ、リキアのお方でしたか」
ナーシェンの頬を汗が伝う。
意図しない原作キャラとの遭遇である。しかもこの老人は敵ではないか。
ナーシェンは死亡フラグを立てる前に、慌ててその場から離れた。
だが、その時にはもうすべてが終わっていた。
「ほほぅ。あのような若者がベルンにいたとはな。敵に回したくはないものだ……」
―――
「本当に申し訳ありませんでした!」
「ああ、いいよいいよ。適当に休憩したら仕事に戻りなさい」
ナーシェンは頭を下げてくるメイドにぞんざいな返事をすると、招待客の名簿をあらためて見直した。すると原作キャラの名前がちらほらと。
エトルリアからはリグレ公爵家のパント・ルイーズ夫妻が、リキアからはラウス侯爵家から当主のエリックが、オスティア侯爵家からは名代としてレイガンスがやって来ている。後半の二人は敵キャラじゃねーか、とナーシェンは頭痛のする頭をおさえながら書類を引き出しに戻した。
自分を呼ぶ声がするのだ。「ナーシェン様、ナーシェン様!」と何度呼ばれたことだろう。そのすべてが厄介事だったのは言うまでもない。
今度は何だ、と半ばキレながら向かうと、そこには困り顔の衛兵と小さな女の子がひとり。
「何だ、何事だ」
「はぁ……。それが、この娘、迷子のようなんですよ」
ナーシェンはその娘に視線を落とす。五歳に満たない女の子だった。
着ている物を見れば、どこぞの貴族が連れてきた子どもだということはわかる。庶民はこんな高そうな服は着ていない。
「じゃ、任せましたよー」
「……っておい! 違うだろ! そこは違うだろ!」
ナーシェンは去り行く衛兵の背中に罵声を浴びせかけるが、彼は戻って来なかった。
貴族の嫡子って何なんだよ、と悪態を吐きながら小娘の顔を眺める。
将来は美人になることは間違いないだろう。だが、今はまだ煩いだけのガキである。
「で、君のご両親はどうしたんだ?」
「ごりょうしん? おとうさまのことー?」
「ああ、そうだ。君の父だ」
「………? わかんない」
首を傾げられても困る。
仕方なくナーシェンは少女の手を引いてパーティ会場を歩き回った。
だが、一周しても見付からない。
行き違ったのかもしれない。そう思い、もう一周してみようかと思ったが、その時には少女は疲れと親と会えないことが重なってベソをかき始めていた。
ナーシェンは溜息を吐き、少女の手を引きながら邸宅を出た。
向かった先は兵舎に併設された馬厩である。
だが、この馬厩は他国とは異なり、飛竜が繋がれている。
囲われた平原を調教師に引きつれられた飛竜が歩き回っていた。
「うわぁ」
少女の目が見る見るうちに輝き始めた。
「飛竜を見るのは初めてか?」
「うん。あんなのお家じゃみたことないよ!」
「そうか。それはよかった」
ここまで来れば、大体の子どもは同じことを言い出すものだ。ナーシェンは大体予想していた。
「わたしもあれに乗りたい!」
「そう言うと思ったよ……」
だが、それはできない。
ナーシェンでさえ、年に数度しか乗せて貰えないらしいのだ。憑依してからは一度も乗っていない。
まずは馬に乗れるようになってから。すべてはそれからだ。
「君にはまだ早い。もう少し、大きくなったら乗せてあげるから」
その頃には、ナーシェンも飛竜に乗れるようになっているだろう。その時は、一緒に乗ってやってもいい。少女の子どもらしい無邪気な笑みを見ていると、不思議と心が温かくなって、ナーシェンはそう思えた。
「じゃあ、いつになったら乗せてくれるの?」
「そうだな……」
どのように答えたものか、ちょっとだけ悩む。
「おや、クラリーネ。こんなところにいたのか」
「あっ、おとうさま!」
その時、二人の前に現れた銀髪の貴公子を見て、ナーシェンは即答した。
「一人前のレディになったら、かな?」