エレブ大陸の東側にあるエトルリアと大陸を二分する大国――ベルン王国。
その中にある、とある大貴族の邸宅で、後継者となる赤子が誕生した。
永らく子宝に恵まれていなかった一族にとって、その子は希望であった。国王デズモンドも大貴族の血が途絶えずに済んだことを喜んだのか、祝いの品はかつてないほど豪華なもので、大貴族の当主は返礼の品をどう工面するか頭を悩まされたのだそうだ。
その大貴族の嫡子に、とある大学生が憑依する。
ドカーンとトラックに轢かれて死亡し、神様だか天使様だかよくわからない存在に蘇えらされ、目が覚めたら別人になっていました、「なんだってぇぇぇぇぇええ!」という経緯を辿ったようだが、説明が面倒なので全部省略する。説明したら中二病乙と言われるに決まっている。わざわざ自分の恥ずかしい思い出を語ろうとする者はいないだろう。
ともかく、ある日突然、彼は大貴族の嫡子となった。
その名を、ナーシェンという。
「そもそも、憑依する意味があるのか? 何が起こったのか俺にもよくわからないが、気がついたらナーシェン様になっていた! な、なんだってーーーーっ!?」
今では……立ち直っていると思う。
【第1章・第1話】
小鳥のさえずりで目を覚まし、川に水を汲みに行き、軽く汗が出てくるまで剣を振ってから、朝食を取る。これがカレルの早朝の日課だった。
気が向けば近所の子どもたちに剣を教え、午後は村の者と一緒に畑を耕す。
もはや、剣魔と怖れられた姿はそこにはなかった。
そして、剣聖とうたわれた姿もそこにはなかった。
だが、それが何だ。見せ掛けの強さなど役には立たない。ここにいるのは剣を極めた者ではなく、強さのために親兄弟を斬ってきた愚か者だ。
カレルはベルンの辺境に身を沈めながら考える。
こんな自分が人の役に立てるとは思えない。それでも、真似事ならばできるのではないかと思ったのだ。かつて、この目で見定めてきた者たち……エリウッド、ヘクトル、リンのような生き方が。
その時。
大きな音を立てて、木製のドアが蹴破られた。
何者――ッ! と剣を抜くが、遅い。
戦いから離れたカレルの身体は鈍り切っており、刺客が行動する方が早かった。
「カレル殿ぉぉぉお!」
お命頂戴――ではなかった。
刺客は、出会い頭に土下座をしたのである。
ジャパニーズ・土下座。エレブ大陸には土下座の文化が広まっていないので、カレルはこの行動にどんな意味があるのかわからなかった。ただ、この行動が途轍もなく無様で、しかも、見ているだけで申し訳なくなってくることだけはわかった。
「ぜひ! ぜひぜひぜひ! 当家にお仕え願いたい!」
「い、いや……それは………」
カレルに頭を下げたのは、十歳前後の少年だった。豪華そうな衣服を着た、見ただけで貴族とわかる出で立ちである。マントをはためかせ、平民を見下していそうな顔をしているのに、この少年は何だか張り合いのない空気をまとっていた。
額を床にこすりつけた少年に、カレルはとりあえずこう言った。
「すまない……」
「やっぱ無理かよぉぉーーーー!」
少年は滝のような涙を流しながら嵐のように去っていった。
―――
ナーシェン、十二歳。
蝶よ花よと大切に育てられてきたので我が侭に育ち、人を人とは思わない言動が目立つ、そんなクソガキだ。自分のことをクソガキというのはどうだろう、とは思うが、昨日までの行動を思うと、クソガキといわれても仕方がないと思う。
そんなナーシェンに憑依してしまった大学生は、今日も生き残るため画策している。
ナーシェンの父は中央の政事で忙しいらしく、半年ほど領地を離れている。そろそろ五十歳になるというのに三竜将の位を欲しがっており、熱心に他の貴族へ根回しをしているようだ。その動きをゼフィールが鬱陶しく思っているだろうことは想像に難くない。
その間の領内の政治は名目上では嫡子のナーシェンに、その実情は補佐に付けられた老将バルドスに任せられていた。
バルドスはエトルリアに攻め込まれて領地を失った男爵である。今はナーシェンの父に仕えているが、領地奪還を虎視眈々と窺っている喰えない老人だ。とりあえずは有能なので使ってやっているが、ナーシェンが家督を継いだら適当な領地をやって追い出すつもりだ。
野心持ちの謀略家はどれだけ有能でも使いたくない。
「税率の引き下げ……ですか?」
「そうだ」
不思議そうなバルドスの言葉に、ナーシェンは書面を片手で叩きながら返答する。
「ここ数週間、他の領地で略奪が増えている。領内でも山賊が確認されている。今の税率では治安が悪化するだけだ。手遅れな感は否めないが、だからといって、このままの税率で放置しておくのは問題がある」
「ですが、お父上が定められた税率を勝手に引き下げるのは……」
未だに不服そうな顔をしているバルドスに、ナーシェンは叩き付けるように言う。
「だが、山賊を退治するために出陣すれば、配下に報酬を与えなければならない。それでは多額の税金をむしり取っても意味がないだろう。それとも、バルドスは配下への心配りなど最低限で構わないとでも考えているのか?」
ぬぅ、と唸り声を上げるバルドスを執務室から追い出し、ナーシェンは溜息を吐いた。
これはエレブ大陸全般でいえることだが、どの貴族も民からの搾取に頼りすぎている。
税率が低い都市といえばオスティアぐらいしか浮かんでこないほどだが、そのオスティアの減税も金のかかる軍事力、騎兵を削減しているためにできることだ。
難攻不落の城塞と練度の高いアーマーナイトの二つが揃っているオスティアならではのやり方だ。
だが、戦場の主役が飛竜のベルンでは下手に軍事力を削減すれば後々高いツケを払わされることになりかねない。飛竜だけでは都市の占領・防衛はできないのである。
竜騎士、騎兵、槍兵。
この三つのバランスがベルンの強力な軍事力なのである。
ナーシェンは執務室の机に頭を乗せ「むむむ」と呻いた。
頭を抱えながらも、書類をめくる手は止まらない。
めくればめくるほど汚職の影がチラつくのがベルン王国のクオリティ。
エトルリアはもっとひどいのかなー、と思いながらキリキリと痛む腹をおさえていると、執務室のドアが音を立てて開け放たれた。
「カレル殿の居場所がわかりましたー!」
「な、なんだってー!」
ナーシェンは報告しに来た兵士の胸倉を掴み、危うく絞め殺しそうになった。
―――
小鳥のさえずりで目を覚まし、川に水を汲みに行き、軽く汗が出てくるまで剣を振ってから、朝食を取る。今日もそれは変わらない。続けるからこそ日課になるのだから。
カレルは昨日の記憶に意図的に蓋をして、朝食の仕度をしていた。
昨日の少年の意味不明な行動は、カレルの頭を半日も悩ませた。悩ませるだけ悩ませて解答を与えないという結果に、カレルの眼差しを剣魔の頃のものに引き戻して村人を畏怖させたほどだ。カレルは羞恥心のため残りの半日を山の中で剣を振ることで浪費した。
そして、記憶は永遠に封印される。
そのはずだった。
だが、扉は再び開け放たれる。
「カレル殿ぉー!」
「また君か!?」
らしくもなく激昂するカレルに、少年は再び土下座する。
「今日こそ当家にお仕え頂きたい!」
反射的に剣を抜きそうになったその時、耳にした言葉に動きを止める。
要するに、仕官を願っているわけか。カレルがこの村に居を構えた時も、何人か耳ざとい貴族が自分に声をかけにきたものだが、どれも仕えるに値しないものばかりだった。どいつもこいつも私腹を肥やしている貴族ばかりで、中には愛妾の邸宅の警備のためにカレルの剣を求めていた者もいるほどだ。
だが、たとえ仕える価値のある者――たとえば、エリウッドのような者であっても、カレルが仕官することはなかっただろう。
この身、この剣には、もうどのような価値もないのだから。
「すまないが、私はもう誰にも仕える気はないんだ」
「そうですか……」
少年は肩を落とす。
ようやく諦めたか、とカレルは安堵する。このような子どもが仕官を要請してきたのは始めてだが、在野の士からカレルを見出した眼力や、聡明そうな目を見ればわかる。この少年はカレルが手を貸さずとも、己の責務を全うすることだろう。
「私は、民の生活を守ることこそが貴族の務めと考えています。国は民があってこそのもの。そのためには、民をまず最初に考える必要があります」
「………?」
突然、訥々と話し始めた少年に、カレルは眉をひそめる。
「だが、この大陸で、民のための政治がどれだけ行われているでしょうか。二つの大国で不正、汚職が横行しているのです。大陸の経済が混乱し、物価が高騰すれば周囲の小国にも問題が波及します。庶民の生活全体が苦しくなり、やがて戦が起こるでしょう」
戦、という言葉にカレルの身体が反応する。
「小規模な戦はやがて大陸全土を巻き込みます。そうして犠牲になるのは民の生活です」
「……それが、どうかしたのかな?」
「大陸すべてが戦に巻き込まれた時、あなたはその剣で何を成しますか?」
何をする。そのようなことなど、考えたことがなかった。
己の剣はただ人を斬るためのものだ。それ以上でも以下でもない。そう考えていた。
「身近な人を守る。それでもいいでしょう。ですが、あなたの剣は収める鞘さえ間違えなければ、もっと大勢の人を救えるはずです。抜き身の剣は人を斬ることしかできない。ならば、鞘に収めればいいではありませんか」
少年は踵を返す。
「私が言いたいのはそれだけです」
そうして、少年はカレルの前から去って行った。
遠くから「畜生! 失敗したー!」という叫び声がしたが、おそらく気のせいだろう。