殺される――その人物を目に納めた瞬間、私は冗談抜きで死を覚悟した。
妖夢殿――白髪で帯刀していた少女――の後を追っていた時も、妙だと首を傾げる場所は多々あった。ある場所を通り過ぎた辺りから、虫や鳥や獣をよく見かけるようになったというのに、その鳴き声が一切しなかった。もしや、いやまさかと、降って湧いた疑問を打ち消してはいたものの、その思いは桜が群生した広大な庭に着いて確信へと変わった……変わってしまった。
白玉楼。冥界に位置するその屋敷は、本来ならば死後でなければ見る事も叶わぬもの。私自身この場所の事について詳しい訳ではないが、少なくとも生き身のまま訪れる場所ではないだろう。
そしてこの目の前の人物だ。優雅な物腰、その身に纏う高貴な着物、そして……死臭。死体の腐敗臭とはまた違う、死の臭い。いや、臭いと言うより空気と表現したほうが適切か……何にせよ、嫌な空気である事に変わりはない。私と彼女の間にある竹の隔壁が、今の私にとって唯一の救いだった。
……もっとも、それが無ければ私がここまで来る事も無かったのだが……。
「貴方、名前は?」
「っ!」
びくりと身体が震える。のほほんと湯のみを傾けながらの問いかけ。その声には殺気も怒気も含まれていないが、それが逆に恐怖心を煽った。それは純粋な問いなのか、それとも何かしらの他意があるのか、今の彼女からは汲み取れなかった。
一呼吸置いて気を静める。敬語を使うべきかどうか一瞬だけ悩んだが、下手に口調を変えては襤褸が出る可能性があったため、結局は何時も通りの口調で口を切った。
「那由他だ。姓はまだない」
「ナユタ……漢字は命数のそれでいいのかしら?」
「ああ、恐らくそれで相違ない」
「那由他、那由他ねぇ……良い名前じゃない。仏様の寿命を測る物差しに使われた命数なんてね」
「そう……なのか?」
思わず聞き返した。普段から主や弥生に呼ばれているその名前が、まさかそこまで深い意味を持っているなんて知りもしなかった。主と出会って、まだ間もない頃にその事を聞いても、主は『馬鹿みたいにデカい数の単位だ』としか返してはくれなかった。もしかすると、主は願掛けとして私にその名前を授けたのだろうか。短命だと分かり切っている自身が、少しでも長生き出来るように、少しでも私が主の助けになるように――。
と、唐突に主の顔――私から見た主のイメージ――が脳裏に浮かんだ。机の上に訳の分からない構図を広げたまま弥生に凭れ掛かった主は、無表情の顔を私に向けて『馬鹿じゃねぇの?』と、声だけで私の意見を一笑した。まったく違和感を感じなかったのが少しだけ癪に障った。
失笑。弥生の名前も直感で付けた主の事だ、本当に数の単位としてしか見ていなかったんだろう。主らしいと言えば主らしい。
「少なくとも、私の名付け親にそういった思惑があったとは思えないがな」
「名付け親って誰かしら?」
「私の主でな、霧葉とい……」
私の失言を嘲笑うかのように、虹色の蝶が私の周りを揺蕩った。
東方狂想曲
第十九話 すっ、すまねぇな、ベジータ……
空を飛ぶという行為――私はあまり好きではなかった。大空という場所の中で独りぽつんと滞空する……真青な空が圧し掛かってきそうで、清浄な空気に押し潰されそうで、孤独感に苛まれそうで……胸糞が悪くなる。キリに頼まれでもしなければ、自ら空を飛ぼうとはしなかっただろう。
しかしそれも過去の事。一度飛んでみるとこれが中々に面白い。長い間地面の上を歩む生活をしていた所為か、重力という束縛から逃れた私はまるで水を得た魚のように空を飛び回った。宙返り飛行、錐揉み上昇、そして旋回下降。久しく忘れていたこの感覚――初めて空を飛んだ時の新鮮味――を思い出させてくれたキリには、本当に感謝しきれない。
私はにんまりと笑うと、腕の中で意識を飛ばしているキリに視線を向けた。数十分前まではナユタを助けに行こうと意気込んでいたというのに、空を飛んで行くと聞くと急に尻込みしだし、私がキリの手を取って空を飛べばこの有様だ。完璧超人と言っても過言ではないキリに、こんな弱点があったとは知らなかったが、これはこれで好意が持てる。
何せ起きない。持ち方を変えても飛び方を変えても、抱えられたキリは一向に起きる気配がなかった。キリの睡眠時間が極度に短いのは周知の事実。それ故私達がキリの寝顔を見た事は殆どないと言っていい。私の機嫌がいいのは、むしろこの寝顔のお陰なのかもしれない。
ずいっとキリの顔を近付ける。顔と顔が合わさる距離まで近付けるが、瞼は一向に動く気配がなかった。
しかしこうして見ると本当に雌雄の区別がつき難い。黒曜石を閉じ込めた瞼。特別高くも低くもない、形の良い鼻。細い輪郭でありながら柔らかな頬。卵のようにつるんとした額と、そこにかぶさる烏の濡れ羽……それなりに端正なその顔立ちは、力なく垂れ下がった四肢と相まって、本物の人形のようにも感じられる。
だが……。
「やっ、弥生さん! 速いです! まだ速いです!!」
「おお。遅かったのお、リリー」
思考を打ち切り、不意に掛けられた声に軽口を返す。何と無しに振り向けば、顔を真っ赤にしたリリーがいた。吐く息も荒く、私の速度に合わせようとしてかなり無理したのがよく分かる。
「そっ、そういう事は……はぁはぁ……っちゃんと本人の、許可……っはぁ」
「……分かった、リリー。分かったからひとまず息を整えよ。そのまま喋るのも辛かろう」
息を切らしながら真っ赤な顔で喋るリリーは、少しだけ鬼気迫るものがあった。普段笑顔な者ほど怒ると怖いとは良く聞くが、まさかリリーにも当てはまるとは思わなかった。
しかし『そういう事』と言われても今一ピンとこないのだが……と、今の体勢を客観的に見て考えてみると、直ぐに答えに行き当たった。思わず顔に笑みが浮かぶ。純情なリリーの事だ。大方意識のないキリに、私が『そういう事』をしようとしていたとでも思っているのだろう……まあ吝かではないがな。
「そう堅いことを言うでない。こういった機会はそうそうあるものではないぞ?」
「なっ!?」
リリーの息が整うのを見計らい、冗談交じりにそう言い放つ。腕の中のキリを近付けて熱く抱擁するのも忘れない。正直な話、意識のないキリを抱き締めた所で食欲がそそられるだけで楽しくも何ともないのだが、リリーの大げさな反応は大いに楽しめる。からかう対象として、リリーほどの逸材はそう居ないだろう。
予想通りと言うか何と言うか、リリーは目に見えて狼狽してくれた。先程までの勢いは何処へやら、その顔に焦りの表情を貼り付けて口を開く。リリーの文句が飛ぶ前に、私は先制を期した。
「でっ、でもっ」
「それにこうして私に身を任せてくれているんじゃ、キリ自身に"そういった思惑"が無いとも言えぬのではないか?」
「っ!?」
途端に顔を真赤に染めるリリー……実に初々しい。少し叩くだけでよく響いてくれる。私やナユタではこんな反応は返せないだろう。叩いても響くどころか、煙幕のごとく埃が舞い出るに違いない。純心無垢なリリーが少しだけ羨ましかった。
もういいだろうと思い、私は頬を緩めた。これ以上からかって変にへそを曲げられても困るのだ。何せ彼女はキリが捕獲した獲物。私の一時の楽しみで逃がしてしまったと知れれば、流石のキリも激怒するだろう。
「ふふっ、冗談じゃよ」
「っ~!! もうっ、弥生さん!?」
リリーは真赤に染まった両頬を膨らましながら、ポカポカと私の背中を叩く。全力でやっているのであろうが、全然痛くない。むしろ肩叩きされているようでもあり、非常に心地良いとさえ感じられた。そんな自分の感覚に、少しだけ驚く。半世紀以上の時を生きていたというのに、こんな感覚に陥ったのは初めてだった。
キリを落とさぬよう注意を払いながらリリーの手から逃れる。ハッとなって急いで追いかけてくる気配を背中で感じつつ、私は空を仰いだ。
牙を使わない生活も、案外悪くはない。
「霧葉、霧葉ねぇ……?」
幽々子はさも可笑しそうに扇子で口元を隠し、くすくすと笑みを零した。那由他との間は竹の壁で阻まれているが、その迫力は一片たりとも損なわれることは無かった。彼女にしてみれば自然体そのもののそれであるが、初めて彼女を前にした那由他には妙な迫力があるように感じられるのだ。そしてそれ以上に、那由他は自分の言葉をどう誤魔化すかで頭が一杯だった。
霧葉という明確な名前が、主という肩書きと共に露見してしまった今、自分の次の一言で全てが決まってしまう。眼前に佇むのは名も知らぬ女性ではあるが、その身に纏う衣からして、白玉楼の主である事は間違えようがない。そんな彼女に霧葉の事が伝わってしまったとなれば……彼がどうなってしまうか、想像には難くなかった。
那由他は考える。話術には長けているつもりだった。少なくとも彼自身はそう思っていた。名を褒められてつい霧葉の名前を出してしまったのは、近頃急上昇している忠誠心故なのか……いや、原因はどうでもいい。今はどう誤魔化せるか考えるんだ。……そんな彼の甘い思考も、幽々子の表情を見れば断念せざるをえなかった。
したり顔――その顔は確信したと語っていた。那由他は舌打ちが漏れそうになるのを必死に堪える。従者は騙せても主人は騙せない、稚拙な自分の話術が忌々しく感じられた。
「妖夢」
「はい」
スッと、横の襖が開く。二人の為に持ってきたであろう二つの茶碗が乗った盆を傍らに置き、妖夢は軽く頭を下げた。幽々子が何を思って彼女を呼んだのか、あらゆるものと会話出来る程度の能力しか持ち得ない那由他には分からなかった。しかし大方の想像はつく。それも、最悪とも言い換えれる想像ではあるが……。
静寂の間――襖が開いてからほんの数十秒程度ではあったが、那由他にはそれが何時間にも感じられた――は、幽々子の扇子が閉じられる音と共に終わりを迎える。彼女の口から出たのは、那由他も予想し得なかったものだった。
「お腹空いたわ」
「……は?」
思わず間の抜けた声が那由他の口から零れ落ちた。答えとしては予想の斜め四十五度上を行く答えだった。呆ける那由他を他所に、二人の会話は続く。
「そういえばそろそろお昼でしたね」
「駄目よ、妖夢。不規則な食生活は身体を壊すわよ?」
「朝から出払っていたので準備には少し時間が掛かると思いますが……」
「なるべく早く頼むわ」
「分かりました。要望か何かはありませんか?」
「そうねぇ……」
言いよどむと、そこでようやく那由他に視線が向いた。幽々子の瞳に込められたものは那由他には分からなかったが、何故か悪寒が彼の背中を駆け抜けた。それは、かつて狼と対峙した時のものと酷く似ている気がした。
「鍋物がいいわ。そこの猫を使っての……ね」
「分かりました」
「っ!!?」
那由他は意味を理解した途端、瞬時に立ち上がって脱兎のごとく障子を破り、縁側へと足を運んだ。彼とて伊達に十年以上生きてはいない。逃げ足にはそれなりに自信があった。野生の獣に襲われそうになった事もあったし、飢饉の時は人間に執拗に追われた事もあった。彼が一人立ちして『逃走』というものの大切さを知ったのは、必然的なものだったのだろう。
このまま跳躍して撒けば、追跡は不可能。幸いな事に白玉楼の敷地は広大で、化猫の那由他が隠れる事が出来る場所は幾らでもあった。隙を見て逃げる事など簡単だろう。那由他の臭いを辿る事が出来る鼻でもあれば話は別だが、勿論妖夢にそんなものは備わっていない。
行けるっ――意気込んだ那由他が後ろ足に力を入れた瞬間、想像を絶する痛みが彼の身体を襲った。
「ぎにゃっ!?」
那由他らしからぬ悲鳴が彼の口から漏れた。猫としての地が出てしまっている辺り、その悲痛さが窺える。しかし彼の錆声にそんな言葉が似合うはずもなく、その場に居た二人は総毛立つのを感じた。特に彼の尻尾を逃がすまいと握った妖夢に至っては、顔色が傍らの半霊のごとく蒼白に染まってしまってる。相当なショックを受けているようだった。
『尻尾を掴む』という慣用句があるように、動物にとって尻尾は弱点の一つである。人間もそうだが、目、鼻、口等、何かと利点になる部位というのは、同時に急所にもなりえるのだ。尻尾を持つことによる利点はその動物によりけりだが、その大半が人間の急所と同じように尻尾を弱点としている。勿論那由他もその例に漏れず、不意の一撃は――普段から事あるごとに霧葉に弄られているとはいえ――流石の那由他も堪えきれるものではなかった。
部屋の中に何とも言えない微妙な空気が流れた。那由他は未だ妖夢の手の中でひくつき、意識の方も軽く飛んでいるのが見て取れる。
「ほんの冗談だったんだけどねぇ……」
暗に猫鍋が見たかっただけとは言えず、幽々子は一つため息を零した。
最悪な目覚めだった。夢の内容も最悪だった上に、弥生の起こし方も最悪だった。相乗効果の結果、精神面物理面の両面からの痛みにより、今現在の俺――ハイブリッド型兎妖怪が完成する事となった。ハイブリッドカーよりも低燃費で働く辺りが特徴だ。接近攻撃にだって応戦出来る。だけど射撃攻撃だけは勘弁な?
そんなふざけた事を考えて痛みを紛らわそうとするものの、痛みは中々引いてくれなかった。弾幕ごっこの弾や虎挟みと比べれば微々たるものかもしれないが、どちらかと言うと鈍痛に近いので地味に辛い。
『ケツが……痛ぇ』
「大丈夫かのお?」
『……あぁ』
腰――と言うかむしろ臀部――に手を当てたまま挫折状態の俺を労わる弥生。コイツが痛みを作った元凶だというのは分かっているのだが、精神の方はちょっとだけ癒された気がした。これが飴と鞭ってヤツなんだろうか……ってか俺の方が偉いんじゃなかったっけ? くそぅ、コレが下克上ってヤツか。俺は若干涙目になりつつも弥生を睨むが、当の本人は何処吹く風だ。
仕方なしにその後ろへと焦点を合わせると否応なく目に留まるでかい扉。今蹲っている場所が階段というのも相まって、目覚めた時は俗に言う『お迎え』が来たのかと思ってしまったほどだ。まぁ、あんな夢――報道規制物――を見たら死にたくもなるわな。
ポケットから鉛筆とメモ帳を取り出し、蹲ったまま弥生に問う。
【現在地どこ? 川柳で】
「あー……『冥府前 門は開かず 立ち往生』……という感じかのお?」
【把握。七十三点】
百点満点計算で点数をつけた。即席にしては意外に良い出来な上、返す早さも加点した結果である。……我ながら川柳はどうかと思ったが、ちゃんと返してくれて若干嬉しかったのは秘密だ。
……って冥府?
【死因は? 事故? 他殺?】
「いや、皆まだ生きとるよ。ナユタの臭いも途切れとらん」
【でも冥府って】
「キリは何を言っておるんじゃ? 冥府なぞ空を飛べれば誰でも行けるぞ?」
やれやれこれだから最近のガキンチョは……とでも言いたげに、何やら大仰にため息を吐く弥生。古風なその喋り方も相まって、年齢とプライドだけがやけに高いツンデレ老人みたいだった。母さんですら三桁いってるのだから、実質弥生は四桁ぐらい余裕でいってるのかもしれない。
てかちょっと待ってくれ。空を飛べれば冥府に行けるとか、どんだけ緩い世界なんだよここ。日本冥府へはいかなる場所からでも飛行機で一律一時間で到着します……ってか? 航空会社はお盆の季節が書き入れ時だろうな。直接自分のご先祖様に会いに行けるなら、墓参りどころか墓石を立てたり葬式を挙げたりする事もなくなって、それに反比例して死体廃棄所みたいな所が増えていくんだろう。うわぁ……退廃的過ぎて、流石の俺も引くわぁ……。
痛む尻を押さえつつ立ち上がり、周りを見回した。巨大な扉と、一直線にそこへ伸びる階段以外は雲のようなもので覆われ、視野は御世辞にも良いとは言えない。しかし下が見えないのは正直助かった。何せここが高度何百メートルなのか、想像するだけで身震いがする。……この階段急に崩れたりしねぇよな?
「時にキリ、力に自信はあったかのお?」
俺が安全確認の為にガシガシと足場を蹴りつけていると、弥生からそんな事を問われた。急に何を言っているんだと思い、弥生の方に目を遣ると、その視線が扉へと注がれているのに気付く。そして扉の紐を百合子が必死に引っ張っているのを見て、弥生の言わんとする事を理解した。
【押し戸?】
「押し戸じゃ」
【百合子は?】
「知らぬよ。しかし春告精としての感覚が叫ぶのか、キリが起きる前からずっとああしておる。妖精ごときに開けられる代物ではないんじゃがなあ……」
弥生は三日月のごとく曲げた口元を隠し、くくくっと咽喉を鳴らして笑った。何処と無く百合子を小馬鹿にしているように見えたのは錯覚ではないだろう。まぁ弱肉強食が当然の世界で育った弥生からしてみれば、無駄骨を折る百合子の行為は理解できないものなのかもしれない。しかし。
『ていっ』
「っ!? っ~~!!!」
ちょっとだけ本気になってのでこぴん。弥生は余裕綽々の表情を一変させ、額を押さえてその場に蹲った。声にならない声を上げるが、それぐらいの痛みは耐えて欲しい。
『無駄の何が悪い?』
聞こえないのをいい事に、ぼそりと呟く。弥生の言葉は事実であり、客観的に見ればその主張こそが正論なのだろうが……何と言うか、気に食わない。全ての物事から無駄を排除するのは当然の行為かもしれないが、無駄のない物事が本当に楽しいとは思えなかった。理解は出来るが、納得は出来ない――まぁ、そんな感じだ。我ながら随分と自分勝手な意見だと思う。
しかし、曲がりなりにも俺は那由他と弥生の上に立つ存在だ。普段から手綱を締めている訳ではないのだから、これくらいの我侭は許容して欲しい。それに頭ごなしに全否定している訳ではないのだ。少しだけ考えを変えてくれればそれで十分過ぎる。
吐息――思考回路を切り替える。扉の前でへばっている百合子を目に収め、次いで扉の全体を眺めた。押し戸で、巨大。一瞬だけ某暗殺一族の『試しの門』が頭に浮かんだが、あながち間違いではあるまい。しかもこっちは四の扉まで直結してる状態だ。キルア以上の筋力が無ければ開きそうにない。
『えーっと、確か一の扉が四トンだから……四、八、十六、三十二……三十二トンですよ、奥さん』
指折りしながら昔の知識を思い出す。今なら更に八トンの鉛もおまけして、ジャスト四十トンでお値段変わらず……ってか? 何処の通販番組だよ。まぁ鉄で出来てない分、幾らなんでも十トン以上って事は無いだろうが……一トンぐらいは覚悟しておこう。
ポキポキと指を鳴らしながら扉の前に立つ。人間の守衛さんが四トンの扉を開けられたんだ。妖怪の俺が出来なくてどうする? 自身を鼓舞し、扉に手を掛ける。力を入れる瞬間、この先が冥府だという事に気付いたが、次いで頭に浮かんできた那由他の姿を見て、それもどうでもよくなった。
『……まったく、猫一匹助けられなくて何が『主』だってんだよ』
冥府の門は、俺が思っていた以上に軽かった。
とっとっとっとっと、軽快なリズムと共に野菜が刻まれる。均等に切り分けられた野菜は包丁に掬い上げられると、全て隣の鍋の中へと消えていった。もわりとむせ返るような湯気が立ち上ると共に、醤油独特の甘い香りが漂う。食欲をそそる香りだったが、野菜を入れた人物はそれに後ろ髪引かれる事無く蓋をする。そしてその場でしゃがみ込み、竈から赤々と燃える薪を三本程度取ると、飯炊き用の隣の竈へと移した。
無駄の無いその姿を見て、妖夢はほうと感心したように吐息を吐いた。
「手馴れているな」
「……所詮は見様見真似だ」
煮物を作っていた少年――那由他は、疲れたように言葉を返した。黒い丹前という出で立ちと、白黒茶色の三色で彩られた猫の耳と尾がなければ、彼の主人である霧葉と見紛いかねない程見事な――変化だった。
一体自分は何をやっているんだろうか……使った包丁を束子で洗いながら那由他は思った。主人の代わりに成り済まそうとして失言し、命の危機が迫ったと思えば気を失い、目覚めてみれば何時の間にか食事の手伝いをさせられている。幸い卯月に入った辺りから人型には化けれるようになってはいたが、まさかこんな所で役に立つとは思わなかった。料理に関しても、休耕の頃毎日のように霧葉に連れて行かれた調理場での光景をなぞっていたに過ぎないのだ。
軽く振るうことによって、包丁に付いた水滴を飛ばす。主人と瓜二つな顔が磨かれた包丁に映った。それが自身のものだと気付き、舌打ちが漏れそうになるのを堪えて静かに開口した。
「私を食べぬのか?」
「……食べられたいのか?」
「いや、勿論御免被るが……」
何時になく歯切れが悪いのは、思考が纏まりきっていない所為だろう。那由他は言葉の代わりとでも言いたげに洗い終わった包丁を手渡した。妖夢は無言でそれを受け取ると、水に浸けておいた豆腐を手に乗せ、等間隔に刃を入れる。その間那由他は妖夢が担当していた味噌汁の味加減をみた。若干薄めではあったが、濃い口の煮物と合わせるのならばこのままの方がいいと結論付け、一つ妖夢に目を遣るとしたり顔で頷いた……頷いた後で、滞りなく続けていた作業に気付き、那由他はまた吐息を漏らした。
現状に当惑しつつも身体が動くのは霧葉の所為。手際がいいのも霧葉の所為。那由他が連れて来られたのも霧葉の所為。身内が全ての元凶であり、同時に大切な人物でもあるのだが……彼を危険に晒してしまったのかもしれないという想いが、那由他の心情を複雑なものへと変えていた。
あの時確かに那由他は生命の危機にあった。相手は冥界の管理人、機嫌を損ねれば自分がどうなっていたのかは想像に難くない。その上、非が自身にある事は傍目から見ても明らかだった。だから自身が全て被ろうと、肩肘を張って『主人』らしい空気を纏おうとしたのだが……それも全て徒労に終わってしまった。たった一回の揺さぶりに、那由他は躓いてしまったのである。
しかし……と、那由他は団扇を扇ぐのを止めた。目の前の七輪からは煙が立ち昇り、傍らに置いていた塩を切り身全体にまぶすと、ぱちぱちと火の弾ける音と共に香ばしい香りが那由他の鼻を刺激した。
「……何故、私は昼食の準備を?」
当然と言えば当然の疑問だった。少なくとも那由他が意識を飛ばす直前の記憶では、鍋の具材として煮込まれていてもおかしくない状況だったはずだ。その結果が眼前の鱒の塩焼きともなれば、那由他でなくとも困惑するだろう。
「幽々子様のご命令だ」
勝手口から両手を前掛けで拭きながら妖夢が出て来る。一通りの仕込みは終わったらしく、那由他の位置からでも膳とそれに乗せられた食器が目に入った。後は主菜が完成するのを待つのみなのだろう。
気紛れか、暇潰しか……どちらにせよ今の那由他には『話に付き合う』以外の選択肢はなかった。
「『化猫の手料理が食べてみたい』……との事だ」
「お前の主人が考えてる事が、私にはよく分からぬ」
「同感だ。まったく、本当に何を考えておられるのか……」
そう言うと、妖夢は憂いを帯びた表情で那由他の方を――群生した満開の桜を見遣った。釣られて那由他もそちらへと視線を移し、一つ頷く。
「見事な桜だな、顕界とは雲泥の差だ。死霊にも花を愛でるような精神があるとは、正直驚きだ」
「……皮肉か?」
「事実だ。もっとも、顕界から『春』を取り上げるのはどうかと思うがな」
侮辱とも取れる那由他の言葉に対し、妖夢は若干顔色を曇らせた。
従者とは言えども生物である。自らの主人が下した命とはいえ、それに対して迷いや躊躇いが生じるのは仕方のない事なのである。どれだけ自分を殺せるか、どれだけ主人を信じることが出来るのか……従者の価値とはその二つで決まる。未だ半人前という評価を脱しきれない妖夢にしても、今回の『春雪異変』を起こして本当に良かったのかという疑問があった。
疑問は迷いである。そして迷いのある心は……弱い。人間だろうが妖怪だろうが、心に迷いがあればその者の真価は消え失せてしまう。自分自身で迷いを断ち切る時、ようやく真価が発揮されるのだ。しかし……。
頭を振って、妖夢は疑問を打ち捨てた。従者の自分が口を挟めるような事ではないと思うことで、疑問を無理矢理押し込めた。それでも内心少しだけわだかまりが残ったのは否めなかった。
「ところで……だ」
「ん?」
何か言いたそうな口振りの那由他、妖夢は焦点を手前へと戻した。雑談しながらでも焼き続けていたのか、七輪には真新しい切り身が乗せられていた。
「これ、全部焼くのか?」
「? 当然だろう?」
正気か?――呟きそうになる口を噤み、那由他は深くため息を吐いた。彼の傍らに置かれた調理済みの切り身と塩と……未だ焼き目の「や」の字も付いていない生の切り身の山。普段より菜食小食の霧葉を横から眺めていただけに、眼前のその量には流石の那由他も呆れを隠せなかった。全て焼くのにはもうしばらく時間がかかりそうだ。
「意外と大食漢なのだな……お前の主は」
「……健啖家と言ってくれ」
どちらも同じ意味だろうとは言わず、那由他は無言で切り身に塩をまぶした。
トンネルを潜ればそこは雪国だったように、冥府の門を開けてみればそこは桃源郷だったようである。桃の花ではなく桜の花という違いはあるが、どちらもバラ科の植物なので花の形に然して違いはない。
時折頬を撫でる風は温かく、風が吹く度に桃色の花びらが舞い落ちる。空に浮かんだ太陽からはぽかぽかとした暖かな光が注がれ、地面に横になっているだけで心地よさを与えてくれる。
百合子は嬉しさを堪えきれずに空を飛びまわり、あの弥生でさえこの情景に心を奪われている。そして俺は……。
『のおおおぉぉぉぉ……』
痛みに悶えていた。
……いやまぁ、ちょっと聞いて下さいよ奥さん。さっき冥府の門開けたじゃないですか。結構アッサリと開いたんで、閉めるのも楽勝だろうと思ったわけです。ほら、小学校とかでも『開けたら閉める』ってのは常識じゃないですか。弥生は『そんな面倒な事しなくてもいい』とかふざけた事抜かしやがったんですが、勿論そんな意見は無視って閉めた訳ですよ。そしたらですね――。
――左足が『ひぎぃ!』ってなった。
そーいやー後遺症があるかもとか言われたよねー等と、呑気な事を思い出しつつも何とか根性で門を閉めて、現在に至るという訳だ。
『すっ、すまねぇな、ベジータ……』
せっかくなので満身創痍状態のナッパ様の真似をしてみる。体勢的には栽培マンにやられたヤムチャみたいな感じなのだが、そこは個人の好みというものだ。俺も何時か『クンッ!』と指を上に突き出すだけで都市を壊したり出来るんだろうか。でも流石にカービィやアラレちゃんには負けるだろうな。てかアイツらは別格だ。戦闘能力で例えるなら530,000を優に超えてるだろう。フリーザ様もビックリだ。
「……キリ、大事ないか?」
桜の感動から帰って来たらしい弥生が、心配そうな顔で俺を見下ろした。普段狼の姿しか見ていないだけに、割とレアな表情ではある。しかし残念ながら俺は動物好きなので、どちらかと言えば狼状態で頬を舐めたりしてくれた方が嬉しかったりする。……変態みたいだな、俺。
地面に寝転んだままポケットから筆談セットを取り出し、返答内容を考える。実際左足の痛みは引きつつあったが、痺れたかのような感覚だけは未だ残っている。歩くのにはもうしばらく掛かるかもしれない。十数秒程思考し、ちょっとふざける事にした。
【俺の事はいい!! それよりも百合子をっ!!】
「っ!?」
メモ帳の文字を見て、驚愕に目を見開く弥生。荒々しく書かれた文字だけを見れば、切羽詰った感が漂ってくるかもしれないが、そもそも本当に切羽詰っているなら!なんて書いてる暇がない。よって、この返答内容はふざけ半分、本気半分なのである。
【ここは俺に任せろ!! 早く百合子の元へ!!】
「わっ、分かった!」
分かったらしい。書いといて何だが、俺でも首を傾げるような内容だったんだがなぁ……。
何を理解したのか――多分百合子のお守りを頼むって所ぐらいだろう――踵を返し、桜吹雪の中を行く弥生。桃色の花びらの中で飛び立つ瞬間、弥生の黒い僧衣と灰褐色の髪がやけに映えた気がした。普通なら目を奪わそうになるその光景に――一瞬だけ散華師の姿が被って見えた。
吐息。無視った。小春日和の気候が見せた幻影だろうと解釈する。もしくはニューロンの伝達誤差で、一瞬だけ幻覚症状が起きたかのどちらかだ。俺の脳味噌が原因だとすれば、早急に解決しなければならないだろう。
止めようぜ、幻覚とはいえ弥生を正体不明のハゲ野郎と見間違えるのは。どうせならナッパ様と見間違えてくれよ。この際クリリンでも我慢するからよ。
『……弥生って気円斬とか使えんのかな?』
一応弾幕ごっこも似たような感じだったし、使えるのかもしれない。今度出来ないって分かった上で言ってみるか。無理難題押し付けたらどんな顔すっかな? オラワクワクしてきたぞ!!
居ても立っても居られずに右足で地面を蹴り、四点倒立の姿勢――両手両耳を支持点にして行う倒立――を取る。久々に見る逆さまの世界に若干の感動を覚えながら、俺は両手を離した。
粛々と舞い落ちる桜の花びらを眺めながら、幽々子は静かに湯呑みを傾けた。視界一杯に映る緑色の縞模様が桜本来の美しさを傷付けてはいたが、幸いな事に幽々子の心を占めているものは桜ではなかった。
霧葉――那由他から聞き出したその名前には聞き覚えがあった。確か……と思い返してみれば、冬眠前の挨拶に来た幽々子の友人――八雲紫――がその名を口にしていた気がする。見ていて飽きが来ない人物だと称して、くすくすと何時もの笑みを浮かべていたはずだ。あの時、自分はどんな反応を返しただろうか。
思い出せた会話の内容は、本当に取り止めのない話だった。やれ狼を倒した、やれ猫を従えた……その時は然したる興味も湧く事はなかった。むしろ恋人の惚気話を聞かされている気分だった為、ほとんど聞き流していた気がする。ただ最後に――本当に別れ際になって、一つ忠告を受けたのは覚えていた。
「『駄目兎には気をつけて』……ねぇ?」
幽々子は誰に言うわけでもなく呟き、ため息を吐いた。駄目兎というのが霧葉を指しているという事は紫の話で何となく分かっていたが、最後の言葉の意味までは分からなかった。そのツケが、今正に檻となって幽々子を閉じ込めている。しかし所詮はその程度だろう――幽々子はそう結論付けた。
霧葉がどれだけ恐ろしい妖怪かは知らないが、生物としての『生』がある以上『死』からは逃れられない。幽々子の能力――死を操る程度の能力――を行使すれば、どうとでもなるだろう。
紫の話からして、従者が連れ去られたのを知って見捨てるとは思えない。此処を訪れるのも時間の問題だ。仮にも檻を落とした元凶なのだから、処理することも訳ないだろう。その後の事は……気分で決めよう。
暗澹とした思考を頭の中で思い描きつつも、幽々子の表情には一片の変化も見られない。それも当然の事だった。屋根を壊され、檻に閉じ込められたという怒りならば、その日の内に冷めてしまっている。異変を起こしたのは彼女なのだ。仕返し如きにそう長々と尾を引かせる訳にもいかない。しかし今回の相手は博麗の巫女ではなく、素性も知れない一端の妖怪だ。責任の一つや二つ、負わせた所で何の問題もないだろう。
思考を切り替え、幽々子は外の桜へと意識を移した。満開の桜の中、一つだけ花を咲かせていない巨木――西行妖――へと視線を向ける。幽々子が春雪異変を起こす原因となったそれを目に収めようとして――。
へんなものを見つけた。
真赤な洋服を着ているのはまだいい、当人の趣味だ。その外見が愛らしい子供の姿をしている事も、擬態の一種だと思えば頷ける。己を誇示せんと一直線に伸びた一対の兎の耳も、それが兎の妖怪なのだとすれば何の問題もない。
ただ一つ問題があるとすれば――それが上下反転して、耳で直立している事だろう。
「……」
「……」
未確認生物――それが幽々子の霧葉に対する第一印象だった。
霧葉:ジャージ(赤)
幽々子にUMA認定された兎妖怪。料理は出来るが大抵毒物が生成される。第十話で負った怪我は本人が思っている以上に重症。空を飛ぶのは大嫌い。
那由他:丹前(黒)
人型に化ける事に成功した化猫。霧葉に化けた所を見ると、何だかんだ言って実力を認めている様子。料理の腕は普通。
弥生:僧衣(黒)
百合子(リリーホワイト)の世話を命じられた狼。自分の想像していた冥界と実際のものに大きな差があり、戸惑いを隠せなかった。料理? なにそれ?
百合子:ワンピース(白)
水を得た魚状態の春告精。第十七話で霧葉に(ヒャッハー!!)されかけたにも関わらず、今回はやけに空気だった。