彼女は突然現れた。何もない泥だらけの平地に、巨大な太刀を携えて現れた。
白髪で幽霊を伴い、切れ目の双眸をこちらへと向ける少女。その身に纏う空気は、世辞にも友好的なものとは言えない。下手に刺激すればどうなるか、少女が携えた抜き身の太刀が雄弁に語っていた。
当然というか何というか、事前に気配を察知できた私以外の三人――いや、三匹か?――は、突然現れた少女を目の前に呆然としていた。誰しも何の前触れもなく人間が現れたらこのような反応を返すだろう。
キリは鍬を振り上げたまま硬直し、ナユタは毛繕いをしている最中だったのか、招き猫のような格好で固まっていた。リリーに至っては現状が良く分かっていないのか、軽く首を傾げている。
昨日と打って変わっての晴天の下、凍り付いた現状を打ち破ったのは、他ならぬ白髪の少女だった。
「この春度の多さ……春告精が居るだけじゃないようね」
呟き、リリーを一瞥すると唯一人型となっているキリに視線を移した。少女はおもむろに太刀の切っ先を突きつけ、挑むように口を切る。
「丁度良い、貴方の持っているなけなしの春を全て頂くわ!」
啖呵を切ったのはいいが、私たちを無視して唖であるキリに言葉を投げかけるとは少しばかり抜けているとしか思えない。いきなり切っ先を突きつけるのもどうかしている。博麗の巫女の真似だろうか? あの巫女は妖怪が視界に入れば、それがどんなに強大な妖怪であろうとぶちのめすと聞いた。比喩ではなく、本当に再起不能にまで陥った妖怪もいるらしい。私自身、実際に巫女をこの目で見た事はないのだが、例え巫女が般若の能面を付けて帯刀していたとしても私は驚かないだろう。
閑話休題。白髪の少女の啖呵に対して言葉を返したのは、意外にもキリより早く我に返ったナユタだった。
「あー……すまない。意味が分からぬ」
「斬れば分かっ!!」
がんっと、何とも痛々しい音が響いた。少女の身体が宙を舞う。次いで投げつけられた鍬も宙を舞う……刃の部分が当たらなかったのは僥倖と言わざるを得ないだろう。
鍬を投擲した張本人に視線を向ければ、何時も通りの能面を貼り付けて威風堂々と佇んでいた。しかしその面の下に若干の怒りを感じ取る事が出来れば、例えナユタでなくともキリの言いたい事は理解出来るだろう。
『土壌を踏み荒らすな』
運の悪いことに、白髪の少女が降り立ったのは畑の中心部だった。
東方狂想曲
第十八話 ジャンプしても金なんか出ないッス
主は加減というものを知らないのだろうか。いや、後先考えずに鍬を投げたあたり、最近の鬱憤が堪っていたのかもしれない。それとも白髪少女の強奪発言がそこまで頭に来たのか……もしくは全てか。私はちらりと、気絶した少女を弥生の上に乗せている主を盗み見た。前後の行動に脈絡が全くないのは、何時ものことだ。
確か昨夜、母君から異常なまでの叱咤を受けたと聞いた。頭に巻かれた真新しい包帯が、その激しさを雄弁に物語っている。まぁ――こう言っては失礼だが――親馬鹿なあの母君をそこまで怒らせる主も主だ。しかし自業自得ではあるものの、精神疲労が溜まるのも事実である。それが白髪少女の発言で爆発したというのならば、全ての事に合点が行く。ふむ、筋が通った道理ほど気持ちの良いものはないな。
あと主、うつ伏せがいいか仰向けがいいかで悩むな。ぐるぐる回される少女の身にもなってみろ。顔色が凄い事になってるぞ。
「のう、キリ」
『ん?』
「妾は枕ではないのじゃが……」
『抱き枕じゃん。何か問題でも?』
いや、あるだろう。思わずそう口走ってしまいそうになったが、寸前の所で耐えた。どうせ弥生に主の声は聞こえていまい。それに冗談とも本気ともつかぬ主の言葉だ。伝えたら伝えたで、弥生はまたいらぬ考えを巡らせては空回りするに違いない。何とも面倒な奴だ。
ため息と共に、弥生の近くにある二刀の太刀に視線を移した。白髪少女が所持していた物だが、寝かせるのに邪魔になると、主の鍬と一緒に立てかけられている。
漆塗りの大小二刀の太刀――双方の長さに違いはあるものの、鞘に施された趣向はそういった物に疎い私から見ても一目で良質なものだと理解できる。しかし、どうにも腑に落ちない。小さい方はどうあれ、大きい方は軽く一丈はある。何故あの少女はこのような長物を使っていたのだろうか。いや、そもそも何故あのような少女が帯刀しているのだろうか。
「待てー♪」
身形からして物取りなどといった俗物的な身分でもあるまい。私は主の所為で一層顔色が悪くなった白髪少女を盗み見た。着ている服が傷んでいる様子もなく、その白髪もよく手入れされたものだ。それに頭に結ばれた黒いリボン……飾り気がない訳でもなさそうだ。少なくとも未だ女は捨てていまい。
『おっ、百合子何だそれ!?』
「待て待てー♪」
ここが迷いの竹林だという事を念頭に置けば、筍狩りか兎狩りに来たという選択肢も視野に入れなければならない。季節的に見て前者は少し早すぎる気がする。後者の場合にしても、果たしてこうも無防備に晒しておいて本当にいいのだろうかという疑問が芽生える。せめて縄の一本でもくれてやるべきではないのだろうか。
『とりゃっ!』
「あっ! 惜しい!」
『……ふっ、お前が泥だらけにして無事だったのは、俺が初めてだぜ』
「大丈夫ですかー?」
そういえば『なけなしの春を頂く』などと言っていたな。そう考えると、先程の考えは撤回すべきなのかもしれない。筍は夏、兎は冬……春か。春の気配が感じられる物といえば、昨日主達が集めたというガラクタの品々の事を指しているのかもしれない。一応全て持って来てはいるものの、本当に効果があるのかは甚だ疑問だ。
『ぅおらっ、サイコクラッシャー!!』
「おぉー……!!」
「んっ」
「っ!?」
少女の突然の身動ぎに対し、思わず臨戦態勢を取る……が、それ以上の動きはない。反射的に動いてしまった私が馬鹿みたいだ。ほうとため息を吐き居住まいを直すと、何やら嫌な視線を感じ取れた。白い鞠――何処で手に入れたのかは知らないが――を手に遊ぶ主と春告精を無視すれば、視線の持ち主は簡単に絞られる。
弥生だ。
弥生はさも可笑しいとでも言わんばかりに両目を細め、その顔に何とも嫌らしい笑みを張り付かせていた。狼という外見も相まって非常に恐ろしい。恐らく、人間の子供が見たら心に一生物の傷を負うことになるだろう……春告精がこちらを向いていなくて本当に良かった。
「……何が可笑しい」
「いや何、随分と過敏に反応するんじゃなあ。猫というものは」
「咄嗟に動けずして主を守れるか?」
「妾なら守れる」
「ほぅ……」
ピキリと、眉間に皺が刻まれるのが分かった。犬畜生風情が、中々にして面白い事を抜かす事もあったものだ。よくもまぁそんな妄言を豪語出来るな。相手の動きを見てから動く? 馬鹿も休み休み言え。そんな悠長な真似していられるか。
あえて言葉にはせず、視線でそう語る。似たような皮肉が無言の――私には雄弁に語りかけてくるが――圧力となって返ってくる。言葉として聞こえる分、こちらの方が不利かと思えるかもしれないが、感受性が異常に高い弥生の事だ。私の視線を受けて何も感じないという事はないだろう。
『なんつーか……雪見大福みたいだな、これ』
「わっ、冷や冷やしてますねー」
『……食えんのかな?』
どうやら重苦しい空気に感化されたのは、弥生だけではなかったようだ。弥生の上に寝かされた白髪少女もまた、少しずつ顔色が悪くなっている。しかしだからといって、この勝負を止める理由にはならない。
そう、これは勝負なのだ。直接的な勝負ではないにしろ、意地の張り合いという意味合いから見れば、れっきとした勝負なのだ。
弥生に白髪少女が乗っている所為で弾幕ごっこは出来そうにない。直接手を出すのは言語道断、主が黙って見ているわけがない。だからこその睨み合いだ。どちらが先に手を出すか、どちらが先に視線を逸らすか……勝敗の決し方として、これほどまで簡潔なものもそうないだろう。
『いただきまーす』
「あっ」
瞬間、世界が弾けた。
そりゃびっくりしたさ。何てったって本当に大きな音だったからね。ありゃ人間の出す声じゃないよ、マジで……等とどこぞの番組の締めみたく第三者視点で語れればどれだけ良かった事か。現在進行形で耳鳴りと戦う俺は、きっとこの絶叫を作った原因なんだろう。多分。恐らく。
ちらりと発生源に目を向ければ、親の敵でも見るような目で睨み付ける少女が一人。付近にいた那由他と弥生に至っては、白目剥いて痙攣している。まぁあれだけの大音量を至近距離で喰らえば、そりゃ失神もするわな。正直な話、結構な距離に居た俺もキツイ。耳が良過ぎるってのも考え物だ。
「あっ、歯形ついちゃいましたよ?」
『……百合子は復活早ぇなぁ……』
まぁ妖精だし、きっと聴力とかも人間並なんだろうなぁ。今だけはその平々凡々な五感が羨ましい。じたばたともがく手中の巨大雪見大福(仮)をがっしりと掴みつつそう思う。あ、確かに歯形ついてら。普通に食う勢いで噛んだからなぁ。
無名少女の方も少女の方で、何かと忙しそうだ。ばたばたとしながら服装の乱れのチェック、次いで周囲を見回して状況確認。自分の太刀を発見し、一足飛びで入手&装備。締めと言わんばかりに金属特有の甲高い音を響かせながらの抜刀……切っ先は勿論、俺らに向けられている。
「きっ、貴様っ!! 今すぐ『私』を放せ!」
「私?」
『Me?』
私? 私って何だ? 振り向かない事さ。宇宙刑事のテーマは無駄に熱いから困る。無名少女もその熱に当てられたのだろうか、鋭い視線を飛ばしてくる割にやけに顔が赤い。ツンデレ少女ってこういう表情良くするよなと、何とも間の抜けた考えが浮かんだ。閑話休題。
首を傾げる百合子を横目に眺め、無名少女に視線を戻す。表情に変わりなし――ハズレ。
手元の巨大雪見(略)に一度目を向けてから再び無名少女に視線を戻す。視線に込められる怒気が二割増しになった気がする――暫定。
少しばかり冷えるが、巨大(略)を胸に掻き抱いてみる。無名少女の顔色RGBの内、Rの値がグンと跳ね上がった――確定。
なるほどと、したり顔――上手く出来てるか知らんが――で一度だけ頷き、大人しく巨(略)を解放してやった。ジャージ一枚で雪と等温の物を、そう長時間抱いてもいられんしね。
妖怪の腕という名の束縛を脱したk(略)の行動は速かった。無名少女までまっしぐら……まるでドライブシュートだ。無名少女に当たらなかったのは、きっと(略)なりの優しさだろう。アレを素手で受け止めたら、手がどうなるか分かったもんじゃない。てか俺としては絶対死人が出てると思うんだ、あの漫画。
私(?)が戻って来て少しだけ機嫌が良くなったのか、無名少女の頬にも緩みが出た。あ、今気付いたけど、もしかしてアレ幽霊か。
『幽霊が目視出来るってのも、不思議なもんだなぁ』
自分の事を棚に上げて呟く。それを言うのなら、畑仕事に精を出す妖怪はどうなんだろうか。人間味が溢れているというか、実に俗物的と言うか、変人と言うか……とにかく変わってる。まぁ俺は元人間だから仕方ないんだけど……俺が来る前から耕作をしていたとなると、やっぱり変だ。
無名少女の後ろで意識を回復しつつある那由他と弥生に目をやる。片方は糞野郎との約束で、片方は真剣勝負で負けたから、こうして兎の下で働いている――妖怪。変だ。
隣で無名少女を眺めていた百合子を横目で眺める。本来ならこんな畑に留まったりせずに、春を告げる為に幻想郷中を飛び回るはずの妖精。やっぱり変だ。
纏う空気にほんの少しだけ喜色を滲み出している無名少女を見据える。身の丈に合わない長刀と、その周りを漂う怖さの欠片もない幽霊。どう考えても変だ。
変な事、不思議な事が幻想郷での常識だとすれば、前世に学んできた物事は全て非常識だというのだろうか。いや、そうとも言い切れまい。ただ単に俺自身目にしていない、知らない物事が多過ぎる故にそう感じるだけなのかもしれない。
「どうかしましたか?」
『んにゃ、俺って割と無知だったんだなぁと……』
百合子に問われて咄嗟に返事を返す。口に出してから声の事に気付くのは何時もの事だ。言葉代わりにと、百合子の頭を軽く撫でてやる。しかし『軽く』とはいえ、自分と大差ない身長の相手を撫でるのだ。自然と上を見上げる形となってしまうのは致し方ない事だろう。どうやら俺は自分が思ってた以上にチビだったらしい。
『ふむ……意外な発見』
「っ、くすぐったいですよ~」
ついでだ。百合子の髪は、弥生の体毛より柔らかかった事をここに明記しよう。
何なんだろうか、この兎は。それが妖夢の率直な感想だった。
いきなり鍬を投げつけて人を昏倒させ、半霊の身体に噛み付き、それを盾にして脅すかと思いきやあっさりと解放し、何気なく傍らに佇んでいたリリーホワイトを撫でる……行動に一貫性がまるでない。敵意丸出しの妖夢も何処吹く風で、逆に肩透かしを食らってしまった。
何か魂胆があるのだろうかと訝しげな表情を浮かべるものの、一番付き合いの長い那由他でさえ理解できない思考回路だ。初対面の彼女が霧葉の思惑を理解できるはずもない。ただ一つだけ分かることと言えば――。
「……闘争の空気ではないな」
「そうだな」
「っ!?」
背後という思わぬ場所から返された返事に対し、妖夢は反射的に刀を振るった。虚空を斬る長刀――楼観剣。咄嗟の行動故の踏み込みの甘さ、猫という対象の大きさを考えれば、空振りという結果が出る理由としては十分過ぎる。咄嗟に姿勢を低くして正解だったと、那由他は思わず安堵のため息を吐いた。
一方霧葉とリリーホワイトの姿を目の当たりにした弥生は、泣いていた。
「まぁそういきり立つな。私を尻尾なしにする気か?」
「お望みとあらば」
「構えるな構えるな、闘争の空気ではないと言っただろう」
「……」
妖夢は音を立てずに太刀を仕舞うものの、その目に込められた敵意だけは隠そうともしなかった。思わずげんなりとした表情を浮かべる那由他。目は口ほどに物を言うのだ。
しかし一方的且つ理不尽な『言葉』の制裁をただ黙って聞いているほど、那由他は甘くない。彼女の『声』を止める為にも、那由他は口を切った。
一方弥生は鍬を持って霧葉達に特攻していた。
「こんな辺鄙な場所に何の用だ? 先に断っておくが、兎狩りなんてふざけた答えは却下だ」
「それは"ついで"の用事だ。要件はまた別にある」
「何だ?」
「……檻が降ってきた」
「……は?」
思わず間の抜けた言葉が那由他の口から零れ落ちた。一瞬の後、那由他の脳裏に浮かんだのは、霧葉が作製した巨大な檻だった。リリーホワイトを捕獲する為だけに作ったそれを、作成者本人が空高く投げ飛ばしたのはまだ記憶に新しい。
那由他は想像した。あの巨大な檻が自身に降ってくる瞬間を――一歩間違えば万鈞の重みで呆気なく押し潰されてしまう瞬間を想像してしまい、背筋が寒くなるのがよく分かった。あの時は落ちた時の事など気にも留めなかったが、成程、想像すればする程霧葉の仕出かした事の大きさが実感できた。さあっと音を立てて血の気が引く気がした。
突拍子もない事を言われて呆然としているのだろうと勘違いしたのか、妖夢は一つため息を吐くと、付け足すように言葉を吐き出した。
一方霧葉はリリーホワイトと一緒に追い回されていた。
「檻だ。人間ならば大人数人は楽に入るような巨大な檻が、屋敷の屋根を突き破って落ちてきたのだ。幸いな事に幽々子様――私の主人だが――は怪我こそ負わなかったものの、その檻の所為で出歩く事が出来ずにいる」
「それは僥倖だな。一歩間違えたら死んでもおかしくなかった。お前の主は、まさに九死に一生を得た訳だ」
平静を装うための軽口……那由他は薄く笑ったが、妖夢は笑わなかった。ただ少しだけ眼光が鋭くなったのを、那由他は敏感に感じ取っていた。笑い飛ばせる話ではない――目がそう語っていた。
煙に巻く自体は可能、しかし逃げ切る事は出来ない。その素振りを見せれば、再び妖夢の白刃が青空の下に晒される事だろう。同じ従者だからこそ、那由他には妖夢の気持ちがよく分かった。鼈よろしく、一度噛み付いたら放しそうにないのも分かっていた。それでも煙幕は大きいに越した事はないのだ。
一方霧葉は鍬の白刃取りに成功していた。
「それで、ここには何をしに来た? 種蒔きすらしていない畑など、見てもつまらないだけだろうに」
「……檻は竹を編んで作られていた。幻想郷で竹の取れる場所はここしかない。となれば、犯人はここにいると考えるのが定石――」
後は言わなくても分かるだろう? ――目が語る。頑で生真面目なその性格……まるで彼女が持っている得物のようだと、那由他は思った。だからといって、自分の主人を傷付けていい訳ではない。
那由他はそっと目を伏せた。思い描くのは主の事――普段から本気なのか冗談なのか区別のつかない言動を繰り返しては自爆して、那由他達を心配させる兎妖怪の事だ。不思議を通り越して摩訶不思議ではあるものの、主である事に変わりはない。どうしてこんな奴が……確かに、そう思う時は今でもある。しかし。
吐息、渋面のまま顔を上げた。思い出したのは最悪の一夜、軽口しか叩かない口が吐き出した言葉。信じるならば応えてやらなければならない。それが従者としての義務であり誇りである。面倒臭い反面、嬉しいと思っている辺り、そろそろ毒され始めてきたなと那由他は自嘲した。
怪訝そうな表情を浮かべる妖夢。愚直な太刀筋を防げる程、那由他は自身を過信していない。だが防げないなら往なせばいい。霧葉に当たらぬ程度に往なせばいい。那由他の腹は決まった。
「檻を作るよう指示したのは、私だ」
「……何?」
一方霧葉は人生で初めての修羅場を体験していた。
『僧になりてぇ……』
何と無しに無茶な事を言ってみる。しかしながら悟りという境地なら既に達している気がしないでもない。禁欲、恪勤、菜食……生活態度だけを見るなら、俺も立派な修行僧だろう。少なくとも、生まれてこの方恋色沙汰とは無縁の道を歩んできたはずだ。俺自身はそう思っていた。
半ば呆れた目で眼前の幼女二人を見遣る。片や僧衣を身に纏い、努めて無表情でこちらを見詰める狼幼女。片や母さんの白ワンピを身に纏い、頬をほんのりと赤めながらこちらを見詰める春告精。双方共に、浮かべる表情に違いこそあるが、きっとその内心はイコールで結ばれる事だろう。
即ち、俺が一番好きなのは誰なのか。
……何で俺はこんなラブコメディータッチな空間に居るんだろうと、俺は痛み始めた頭を抱えた。ついでに腹も痛くなってきた。救いを求めて幼女二人の後方に待機していた那由他に視線を向けるものの、那由他は那由他で白髪少女とよろしくやっていて使い物になりそうになかった。
しかし時折『下僕』とか『使える』とか『何……だと?』とか言う言葉が聞こえるんだが……大丈夫だよな? こっちみたいに剣呑な空気作ったりしてないよな? 俺は那由他を信じているぞ。
「して、誰なんじゃ?」
「誰なんですか?」
『……いや、ホント勘弁して下さい。ジャンプしても金なんか出ないッス』
ズイっといきなり迫られた所為か、反射的にそっぽを向いてしまった。悪手だと分かってたが、それでも彼女達の顔は直視出来なかった。何て言うか怖かった。普段はあんなにも大人しい二人が、どうしてこんな威圧感を醸し出せるのか甚だ疑問だった。
弥生が俺の傍にいるのは真剣勝負に負けたからだろうし、百合子も檻から出してくれたという恩義故だ。どちらも俺がマッチポンプしただけあって、恨みこそすれ好かれるとは思えなかった。
第一、百合子とはまだ出会って三日しか経っていない。確かに"昔"には、出会って開始十分でベッドインする腐れたシステムもあったが、生憎とそういうのはこちらにない。あっても困るが……閑話休題。ついでに、たった三日間でスピード攻略出来るほどの技量は俺にない。
「霧葉さん……昨日のアレは、冗談だったんですか……?」
「なっ!? キリ、一体何をしたんじゃ!?」
俺が知りてぇよ……口に出すのも億劫だった。何せ思い出そうとすると、頭の傷口が広がるような錯覚を覚えるのだ。純愛少女を具現化したかのような百合子を見て、昨夜何かがあったのは間違いないかもしれないが、その時の記憶がないだけに責任を取りたいとは思わない。てかどうせ責任を取るなら、オイシイ思いをしてから取りたいというのが本音だった。
これ以上の混乱の拡大を防ぐ為にも、俺が決定打となる一言を言わなきゃならないんだろう。しかし下手に答えを出すとそのままルート確定して、俺のこの先の人生が薔薇色の鎖で雁字搦めにされそうな気がしてならない。
ぎゃーぎゃー騒ぐ弥生ともじもじと答えを待っている百合子を無視し、俺は空を見上げた。昨日と打って変わって、雲一つない青空が広がっていた。俺の心はこの澄み渡る空のようにブルーだった。
ポケットに手を突っ込み、メモ帳を取り出し、鉛筆を握る。騒がしかった弥生の喧騒がピタリと止まった。
静寂――答えはどこかにある……自分自身に聞いてみた。一筆、見慣れた筆跡が白紙に刻まれる。現状を打破するに当たっては十分過ぎる答えであり、そして俺の本心でもあった。
【俺は那由他が好きだ】
二人は満面の笑みを浮かべた。仏様の笑みと言うより、仏像の笑みに近かった。鉛筆とメモ帳を放り投げ、回れ右をすると同時に逃げ出す……無理だった。地面を蹴る前に襟首を掴まれていた。ぐるりと反転する視界。あ、これはと、思わず背中に嫌な汗が流れた。
「リリー、キリの両足を持て」
「あ、はい。こうですか?」
「そうじゃ。いっせーので落とすぞ」
悪魔二人の会話が聞こえた。これからどうなるのか、想像するのも恐ろしかった。だが、それでも俺は正直に生きたかった……生きたかったんだよ!(遺言)
那由他の突然の告白に、妖夢は困惑した。よりにもよってこんな小さな猫が主犯だとは思わなかった。一番最初に彼らを目にした時は、唯一の人型の妖獣であった霧葉を問い詰めて犯人を見つけるつもりだった。
しかし当然の事ながら、那由他の言葉を鵜呑みに出来るほど妖夢は彼を信じてはいない。妖夢は表情を硬くし、那由他の挙動一つ一つまで見て取れるよう目を光らせた。
「何故そうも簡単に口を割る? 何を考えている」
「なに、まさか赤の他人に被害が出るとは思わなかったからな。こちらに非があれば謝るのが当然だろう?」
「それはそうだが……それなら何の為にあの檻を作った? あの大きさは、そう簡単に作れる物じゃなかったぞ」
「そうか? 霧葉――お前に鍬を投げた私の下僕だが――に言えば、たったの三日で作ってくれる」
「使える下僕なのはよく分かったが、質問の答えにはなってないな」
「何の為だと?」
那由他――薄く笑った。その内心は出任せだけで何処まで行けるだろうかという不安で一杯だった。それでも上辺を取り繕い、騙し切らなければならない――霧葉に害が及ばぬよう、妄言を吐き続けなければならない。
「知れたこと。春を得る為に決まっているだろう」
「――っ!」
妖夢の顔に動揺の色が走る。曖昧に濁された答えだったが、彼女の精神に波紋を投ずるのには十分過ぎる答えだった。
何処まで知っている? 何故知っている? 知っていながらの行為なのか? 問い詰めたい衝動に駆られた。後に『春雪異変』と呼ばれる今回の異変……未だ巫女が動き始めていない今、誰一人として犯人像を特定するのは不可能なはずだった。では何故知っている? 堂々巡りの思考回路に、那由他は追い討ちをかけた。
「私が何も知らないと、本当に思っていたのか?」
「なっ!?」
思わせ振りな笑みを浮かべての言葉は、いとも簡単に妖夢から平常心を奪い去った。動揺が表面化し、思わず刀の柄に手を掛ける。那由他もこれ以上の挑発は不味いと思ったのか、そこで口を噤んだ。
那由他としては、どうしてそこまで露骨に動揺するのかが分からなかった。ただ妖夢の負い目らしきものに付け込み、霧葉から意識を逸らす事だけに専念した。正しい答えは一つ――それも"春を得る為"と曖昧に濁したが――しか口にしていない。それ以外は全てはったりだ。
静寂――果し合いにも似た空気を漂わせる二人。断ち切ったのは那由他だった。
「して、どうする? 謝罪を要求するなら平伏しよう。痛めつけたいと言うのなら享受しよう。しかし命を奪うのだけは止めて欲しい」
「……何?」
「こう見えて妻子持ちだからな。一家の大黒柱として、あいつ等に苦労はさせたくない」
よくもまあそんな大嘘を吐けるものだ。少しだけ空を仰いでいる辺り、青空に自分の妄想でも画いているのかもしれない。もしくは、自分が言っている事の痛さに耐えられなくなったか……若干の憂いを帯びた那由他の表情は、そのどちらとも取れるから厄介である。
真実を知っている者にとっては大根芝居。しかしこの場において、その真実を知る者は一人としていない。生真面目な性格の妖夢にとって、那由他の言葉は重かった。
「それじゃあ、春を得る為というのは……」
「無論、作物の為だ。このままでは不作になるのは火を見るより明らかだからな」
「うっ……」
妖夢劣勢。那由他の"妻子持ち"という妄言は、予想以上の効果があった。思わず那由他から視線を逸らす。先程と一変して、何とも微妙な空気が場を支配した。
妖夢とて、趣味で春度を集めている訳ではなかった。主人である幽々子からの命令に従い、ただ無心で春度を集めていたに過ぎない。春が遅れる事によって引き起こされる二次災害なんて、考えた事もなかった。恐らく檻が飛んでこなければ、こうして現地の声を聞く事もなかっただろう。
確かに今回の異変の元凶は幽々子だが、異変の一端を担う妖夢にも負い目はある。しかしだからといって、那由他の強攻を許す訳にもいかなかった。現に、最後に妖夢が見た幽々子は、怒り心頭のように思えた。『犯人は見つけました。でもあちらにもこれこれこういう事情があったので連れて来れませんでした』では、部下として示しがつかない。
吐息。結局の所、那由他を連れて行って直接謝らせるしかないだろう。何せ今の妖夢に裁判権はない。その上、彼女の『お使い』の内容は、あくまで"犯人を連れて来る事"なのだ。その後の事は……今は考えたくなかった。
那由他を見遣る。妻子持ちの化け猫――妖夢に出来ることと言えば、幽々子がその命を奪わない事を祈るぐらいだろう。
「……御同行、願えるか?」
「承知した」
先に妖夢が飛び、それに那由他が続く。別れ際に声でも掛けようかと、上空からちらりと畑の方を見た那由他は、そこに建っていた奇怪なオブジェに思わずげんなりとした表情を浮かべた。
「どうかしたか?」
「いや……何でもない」
ハイジャックパイルドライバーはどうかと思うぞ、二人共――那由他は誰にも聞こえない程小さな声で、そう呟いた。
空を見上げる。雲一つない真青な空と、その中で異色を放つ二つの影……構図的に寒々しいと思うのは、私の気のせいではないだろう。
「行っちゃいましたねぇ……」
「そうじゃな……」
リリーの言葉に生返事を返しつつ、私は背後の物体に目を向けた。私とリリーの初共同作品は、何とも奇抜な物体となってそこに突き刺さっている。傍目から見れば、皆口を揃えてこう言うだろう。
畑から身体が生えている。
……正直これはやりすぎたかと思ったが、キリが私達の乙女心を踏み躙ったのも事実……これ位の罰は許容して欲しいものだ。私自身、使用注意と言われた残虐技を、教えて貰った本人に使う事になるとは思ってもみなかったがな。
手持ち無沙汰に霧葉の足をくすぐる。意識があるのかないのかは微妙な所だが、時折ぴくぴくと動いてるところを見ると死んではなさそうだ。そう簡単にくたばるとも思っていない。弾幕ごっこという弱点を除けば、キリは異常なほどタフだ。タフで奇抜で真面目で……馬鹿だ。
私はくすりと、小さく微笑んだ。くすぐる手も止めずに、そのままキリの裸足に語りかける。
「どうするんじゃ? キリ。ぬしの姫君は連れ去られてしまったぞい」
「どっちかと言うと、自分からついて行った感じがしましたよ?」
「ほほう、率先してか。キリも終に愛想を尽かされたのではないか?」
本人が気絶してるのを良い事に、二人揃って好き勝手抜かす。リリーの口から棘のある言葉が出てきたのは意外だったが、キリの行動を顧みればそれも致し方ない事だろう。嘘でないだけに、余計に性質が悪いというものだ。
そう、本心だ。
あの時キリは、一片の迷いもなくナユタの名を挙げた。私達二人の内どちらかでもなく、永遠亭に住まう誰でもない。キリが選んだのは、一番付き合いが長くて気が置けない化け猫……あの二匹の間に恋愛感情があるとは思いたくないが、それを抜きにしたって少しだけ嫉妬してしまう。しかし。
所詮は"現状"だ。これからなら幾らでも追い越すことが出来る。抱き枕程度には認知されているのならば、少なくとも嫌われている訳ではないだろう。ならば十分追いつける。ならば十分追い越せる。根拠のない自信、それでも最初から諦めているよりかは数段ましだ。
空を見上げる――二つの影はもう見えない。後に残ったのはキリと私とリリー、そして身を刺すような冷風だけ。一陣の風が通り過ぎ、リリーは此方を振り返るとぽつりと言葉を零した。
「これからどうしますか?」
「さてな、とりあえずキリの判断に任せるとしよう。まあ、どうせ答えなど決まり切っているがの」
再びキリの足をくすぐると、今度はびくんと大きく跳ねた。それがキリなりの答え方のようにも感じてしまい、私は堰を切ったように笑い出した。
霧葉 状態:犬神家
どんな物事にも真面目に取り組むが、真面目に考える事はしない主人公。非常にタフ。
那由他 状態:身代わり
減少しつつあったカリスマ分を少しだけ取り戻した準主人公。弾幕ごっこと話術に長ける。
弥生 状態:魅惑
段々と恋する乙女に変わりつつある準主人公。無駄の無いステータスを誇る。
百合子 状態:天然
癒し系キャラクターのはずだったが、補助にも回れる事が発覚。上手くやれば連携技に持ち込める。