―――ズズッ……。
白い湯気が頬に当たる感覚を楽しみつつ、霧葉は湯呑みを傾けた。緑茶の渋みを確りと味わうつもりなのか、軽く目を閉じて意識を集中させる。しかしそれも数秒の事、やがてこくこくと小さく咽喉を鳴らして口の中にあった茶を飲み干した。
湯呑みの縁から唇を離すと同時にホッと一息、白い吐息が空へと昇る。愁いを帯びた瞳でその行き先を見守る霧葉。縁側のそこから見えるのは、寒さに負けず、青々とした葉を茂らせる竹林だった。
秋は既に過ぎ去った。気温は次第に低下していき、やがて雨の代わりに白い雪を降らせる事だろう。
しかし、雪が降らずとも冬に入った事は確かだった。ここ永遠亭でも何かと慌しい雰囲気が漂っているのを、霧葉は敏感に感じ取っていた。
顔に『必死』という表情を貼り付けて走り回る清掃班。
食料の割り当てで、何かと衝突する管理班と調理班。
何時もより三割り増しで弾幕ごっこに励む警備班。
そして『喰う』『寝る』『遊ぶ』と、いかにもニートらしい生活を送る霧葉。
幻想郷は本日も平和である。
東方狂想曲
第十四話 いいこと思いついた。お前以下略
怠惰っ……至福でありながら……怠惰っ……! 偸安っ……それは怠け者の証っ……!
人間の子供ですらっ……身体を動かすっ……冬っ。しかしっ……俺は動かないっ! 惰眠を貪りっ……那由他を撫でっ……手伝いもせずっ……親の脛に噛り付いてっ……茶を啜るっ!
何と言うっ……餓鬼っ! 子供という立場に甘えたっ……糞餓鬼っ! それに加えっ……先生の足までも引っ張ったっ……何と言うっ……恩知らずな俺っ! まさにっ……外道っ!
しかしっ……この茶はっ……美味いっ! 実にっ……美味いっ!
『那由他っ……波動拳コマンドっ……教えてくれっ!』
「……主、もう少し落ち着いて茶を飲むことは出来んのか?」
『出来んっ……だからっ……波動拳コマンドをっ……弾幕の撃ち方の口授をっ……頼むっ!』
「……まぁ色々と言いたい事があるが、とりあえずよく聞け主。この際はっきりと言わせて貰うがな、主が弾幕を撃つのは無理だ」
『使えぬっ……猫っ……! ちょちょちょちょちょちょっ! 待った待った待った! 調子ぶっこきました! サーセン! 謝るんでゲートオブバビロン状態な弾幕は止めて! マジで!』
「ふん……」
取り合えず体制とか気にせず謝罪してみた。絶賛ニート生活中の霧葉です。あまりに暇だったんで福本口調で飲茶実況してみたんだが、やはりというか那由他には不興だったようだ。特にラストの部分でぶち切れた辺りが実に那由他らしい。
いきなり低姿勢な俺に呆れて、那由他は弾幕を消してくれた。消してる最中「何で私はこんな主を……」とか「いや、だがこんな主だからこそ……」等といった声が聞こえた気がしたが、あえて触れない事にした。異種族間でしかも同性フラグとか、流石の俺もちょっと引くわ。
剣呑な空気を一掃する為にも取り合えず茶を啜り、ぷはぁと一服。縁側で飲んでる所為か、やけに茶の冷めが早い。これ飲んだらもっかい淹れなおすか。
『でさーマジな話、そろそろ波動拳が撃ててもおかしくないはずなんよ』
「一服してるだけで、どうやったらそんな結論に達する? 相変わらず何を考えてるか分からぬ奴だ……」
『茶だけにおちゃらけてみました』
「……座布団全て没収」
『仕方ナイネ……』
兄貴口調で残念がってみるテスト。那由他は汚物を見る眼でこちらを見ている。消毒されないだけマシだろう。
不快感に包まれた那由他を誤魔化すために、そっと掌を小さな頭に乗せた。触れた瞬間、猫特有の柔らかな体毛が掌全体に行き渡る。なるべく優しく……高級な陶器を扱うかのごとく、ゆったりと頭を撫でれば、くすぐったそうに――しかし幸福そうに――那由他は目を細めた。
前世の頃から動物好きだっただけに、こんな表情をしてくれると非常に嬉しい。特に那由他はこの間の一件から撫でても文句を言わなくなったので、その幸せも一味である。デレ期突入ですね、分かります。
くぁ……っと、小さく欠伸が漏れた。思わず那由他を撫でる手を止め、そのままだらしなく開く口元を隠した。それと『彼女』の声が掛けられるのは、ほぼ同時だった。
「キリ、エイリンが呼んでおったぞ。そろそろ診察の時間ではないのか?」
『ぁ~……そ~いやそだったね。あんがと』
湯呑みを盆に置き、目を擦りながら『彼女』に礼を言う。ついでにポンッと、大きな頭に手を乗せた。
那由他と比べると、こちらはやや荒さが目立つ。しかしその毛並みと強靭な肉体は、手加減せずに撫でられるという事の立証である。つまるところ、俺が撫でるだけに留まらずに抱きついてその荒々しい毛並みに顔を埋め、獣臭に包まれて恍惚としたとしても、何ら問題はないのである。
「なっ!? あっ! ……きっぃ……やぁ……っ!」
『いやー相変わらずいい身体してんねー。もののけ姫のモロといい勝負だ』
「……主、ほどほどにしておけ。呼ばれているのだろう?」
さいでした。
渋々ながらも『彼女』――弥生から離れ、そのまま盆を持って立ち上がった。俺自身から見ても倦怠な動きだったが、まあしゃーないかと内心ため息を吐いた。
同時に未だ包帯の取れない左足に視線を向ける。傷を負って既に二週間……痛みなんてこれっぽっちもないんだが、どういう訳か上手く動かない。着々と良くはなっているみたいなのだが、死に体から一ヶ月で全快した速度に比べたら亀みたいなもんだった。
「大丈夫か?」
少しだけ消沈していたのを見かねたのか、心配そうに俺を見上げる那由他。そういやー負傷した日から、随分丸くなったなーと思いつつ口を開く。
『ん、心配無用。まだ完治しねーのかなーって思ってただけだ』
「……主、そんな短期間で治ったら誰も苦労せぬだろうが。化物でもあるまいし……」
『ちょいちょい、俺妖怪妖怪』
「主は『妖獣』だ。確かに妖怪に部類するが、若干の差異があるのだ。良いか? そもそも妖獣というのは……」
何か長ったらしい演説が始まりそうだったので、スタコラサッサと逃げ出しますた。
昔ながらの制法で作られた区分棚というのは、見ていて飽きさせない何かを感じる。しかもそれが作られて相当な年数を経た物であるとすれば、その年数分だけ味が深まるというものである。
この診察室に置かれているチェストなんて、それに筆頭すべき一品だろう。ニスを使わず、部分部分を黒金で補強され、乾いた木目は枯れ木のような印象を抱かせるというのに、この棚全体にどことなく根強い『力』を感じる。
職人の思い入れがそうするのか……はたまた使用者自身がそう扱っているのか……。そこには俺の思いもよらない人情的なドラマが展開されていたのだろう……。いや、過去だけでなく、恐らく、これからも……。
『……ツッコミはなしか』
軽くため息を吐く。下らない事を考えると幾らでも時間は潰せるが、やはりこういうボケにはツッコミ役がいた方が何かと楽しいのだ。具体的に言えば那由他とか那由他とか那由他とか。
視線を少し横にずらせば、何枚目になるのか紙一面を文字で埋め尽くそうと試みる八意先生がいる。しかもその表情が……何と言うか、鬼気迫る感じなので少し怖い。診察してる最中は笑みを絶やさないんだが、こうしてカルテ(仮)に記入し始めるともう別人だ。何なんだろうね、このギャップは。
ちなみに那由他がここにいない理由は、診察室に体毛が舞うと面倒な事になる云々……と八意先生に言われたからである。確かに無菌室程ではないにしろ、診察室も清潔感を保たなければならないのも頷ける話である。
しかし、やはりというか何と言うか……那由他がいないと面白味に欠ける。診察だって、さっき八意先生に口腔内粘膜採取されてから、かれこれ十五分は経過してる。暇潰しと称して、外見相応の子供のように椅子の上で両足をパタパタと動かしていたが、せいぜい五分が限界だった。いや、マジで。
暇潰し暇潰し……と、苦肉の策として考え付いたのが冒頭の『鑑定家ごっこ』である。既に椅子、机、チェストと、芸術品として見れる物は大体鑑定――という名の暇潰し思考――し終えてしまった。次は八意先生が持ってる鉛筆でも鑑定しようか、と思った瞬間の事である。
俺に、電流走る。
『いいこと思いついた。お前以下略』
まあ要するに――いささか人道的に反してはいるものの――八意先生を鑑定してみましょうって事だ。思い立ったが吉日、早速やってみよう――つーかマジ暇なんです、ごめんなさい(本音)。
まず頭から始まり、髪、顔、首と、ゆっくり、しかし確実に視線を下げていく。カリカリと高速で紙の上を走り回る鉛筆の音をBGMに、ただひたすらじぃっと観察を続ける。
帽子――今思ったけどあの帽子って自前だろうか。今の時代、こんな派手な服装といい帽子といい、市場に出回っているようなものだとは到底思えない。となるとやはり自前か。赤と青なんていう、ある意味対極に位置する色をあえて使うというその発想はよく分からない。
髪――白髪……か? いや、女性の名誉のためにもここは空気を読んで銀髪としておこう。そうすれば評価ポイント(?)も下がらなくて済む。あ、微妙にはねた寝癖っぽいの発見。完璧超人に見えて、抜けてるところもあるのか。
……朝起きて寝癖を直してる八意先生想像したら、かなり親近感湧いたな。てか可愛い。そんな光景見たらスタンド使いになれる自信がある。良ぉお~~~~~しッ! よしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしって感じで。その後どうなるかは知ったこっちゃねーけど。
顔――容姿端麗眉目秀麗、後は特に筆頭すべきことはない。強いてあげるなら、現在進行形で切れ長の目をしているところだろうか。M属性の人ならば、こういう目が出来る人を相方に選ぶと楽しめるかもしれない。主に性的な意味で。
首――取り合えず白い。ついでに細そうだ。位置的に全体を見ることが出来ないので、何とも言えないもどかしさがある。あ、チラリと一瞬だけ見えたうなじは最高でした。
胸――……ついに来たメインディッシュ。これが一番難しいところであり、鑑定家の腕の見せ所でもある。腕が邪魔で邪魔で仕方ないが、それはそれでいいものがある。見ようと思えば俺の男としての特殊能力――別名『妄想』――が発動する事だろう。この特殊効果の前ではどんなに厚着をした美女も一糸纏わぬ赤子同然っ! メイドインジャパンの本気を見せてやろう!
ふむ……まず……。
「楽しい?」
『ふぇ?』
不意打ちに投げかけられた声に、思わず顔を上げた。
視線が絡み合う。黒い双眸、感情の読み取れない顔、疲れたようなため息……以上の要素を超スピードで解析し、後にとる行動を決せよ。
フェイズ1――思考回路の高速回転開始。視界全体から入る情報収集能力を最大限まで拡大。瞬きから大気の流れに至るまで、全ての情報源を見逃さず、聞き逃さず、嗅ぎ逃さず。今現在の『全て』を『掌握』する。
フェイズ2――思考回路最大速度到達。回転速度維持。取り込んだ『全て』の情報処理開始。医療器具、薬品、炭素繊維、肉体組織、全て異常なし。対象の体温、心拍数、血圧に異常なし。思考回路履歴ソート開始。
フェイズ3――思考回路最大回転速度維持。思考回路履歴ソート完了。世界的情報概念『世論』との照査開始。体外情報異常なし。対象の体温、心拍数、血圧上昇開始。長時間の回転維持は危険と判断。警告準備開始。
フェイズ4――思考回路最大回転速度維持。照査完了。体外情報異常なし。対象の体温、心拍数、血圧上昇中。思考回転速度低下開始。警告準備解除。高速解析状態終了。推進行動決定完了。所要時間二十三莫。高速解析速度第四位記録更新完了。
結論――あやまれ! せんせいにあやまれ!
『マジでごめんなさいでしたっ!』
―――ガゴンッ!!
床に額を擦り付ける――というか、床に額を叩き付ける勢いで平伏した。椅子から転げ落ちた所為かかなり痛かったが、そんな事はこの際どうでもいい。てーかアレだ、うん、今めっちゃ恥ずい。出来る事なら数分前の俺をぶん殴ってやりたいね、マジで。
例えるなら隠していた近親相姦系のエロ本を異性の家族に発見されて、けど何も言わずにそっと自室の机の上に置かれていたっていう心境がしっくりくる。無言で空気を読まれると、頭ごなしに怒鳴りつけられるより呆れられて愚痴を零されるよりも堪えるんだよなぁ……。
「いや、あの……ねぇ、取り合えず顔を上げてくれないかしら?」
『ははぁ! ありがたきお言葉であります!』
しかし八意先生の若干戸惑ったような声色が新鮮で、かつ何か可愛らしかったので、口先だけでも悪ノリしてみた。まあどうせ喋れないんだし、言うだけ問題はないだろう。
顔を上げればテキパキと消毒の準備をしている八意先生。足の診察は終わったはず……と思いきや、グイッと襟を掴まれ、そのまま猫のように椅子の上に座らせられた。俺から見ても華奢なのに、どこにそんな力があるんだろうか。また考察してみるのも面白いかもしれない。
下らない事を考えていると、頭に鋭い痛みが走った。少し身を捩ると、八意先生に顔をガッシリと掴まれる。そこでようやく疑問が解氷した。
あ、額割れてんじゃん。俺。
「はぁ……全く、また生傷増やして……」
『サーセン。医療費は何時か払いますんで、内臓だけは人並みに残しといて下さい』
ジャンピング土下座なんて、慣れない事するもんじゃないね。いやしかし、あのまま顔をつき合わせてた方が恥ずかしい。羞恥か痛みか……うは、何と言うエロゲ的選択肢。結果的に何かそれっぽいシチェーションにはなったけど……ゴメン、直視とか無理。相手が気付いてないだけに、本気で恥ずい。五月蝿い、そこ、ヘタレとか言うな。
『うーあー……っ!? ぶるあああぁぁぁぁぁ!!』
「あっ、こら! 急に動くから……」
『目がああああぁぁぁ!! 目があああぁぁぁ!!』
本日一番の無駄知識――消毒液が目に入るとマジで痛い――を、身をもって知った瞬間だった。
妖獣の特徴として、獣だった頃の名残が残る事が挙げられる。人間の『理性』を持ちながらにして、野生動物の『五感』を更に上回る存在――それが妖獣なのだ。
ここ永遠亭において、その存在は珍しいものではない。人型と成せる者は少ないとしても、人間並みの『理性』を持つ兎である。
では兎の特徴と言えば何が挙げられるか。それは捕食者から逃げる為の驚異的なまでの跳躍力と、その存在を知るための異常な聴力……その二つの内の後者が、今は堪らなく憎かった。まぁそれが、八つ当たりである事は重々承知してはいるのだが……。
「また暴れてるようじゃの。はてさて、完治するのは何時になる事やら……」
「……それは嫌味のつもりか?」
苛立ちを隠さず問いかける。目下一番のストレス要因となってるこの生物は、素知らぬ振りをして薄らと微笑んだ。
「嫌味を言うた所で何にもならぬ。伴侶を卑下するのはどうにも苦手での……まあそういった趣向も嫌いではないが」
「黙れ変態狼」
全くもって、頭が痛む。破天荒な主にはある程度耐性がついたその矢先に、この変態だ。主は傍に置く事を許可したが、私は未だ此奴の言動に慣れないでいた。
幸いその外見はかつての幼子のものではない。何の考えがあったのかは分からぬが、主は『狼』としての此奴をいたく気に入っていた。触れ合う時も、時折『わっしゃわっしゃ最高!』だとか『うは、獣臭ぇ! だがそれがいい!』等といった『声』が聞こえる。その度に、思わず吐息が漏れた。
折角私の頭を撫でる事を許可したというのに……この敗北感は何なのだろうか。しかもこんな『得体の知れない変態狼』に負けたとなると、軽く死にたくなった……勿論戯言だが。
しかし……と、我が物顔で主の部屋に寝そべる此奴を横目で見やった。全長は子牛程――私のような猫ならば一飲みするくらい訳無いだろう。油断のない目付きも、静寂を律する足音も、その身に纏った気魄も……私が殺した狼とは明らかに一線を画していた。
単純な力だけで物を言うのならば、間違いなく私より上だろう。悔しい事ではあるが、この差はそう簡単に縮められるようなものではなかった。何せ此奴は……。
「妾が怖いか? ナユタ」
「……それほど血生臭いと、誰だって辟易する」
不意打ちに掛けられた言葉だったが、自分でも驚くほど冷静に対処する事が出来た。これも此奴がここに居付いた影響だろう。そしてこの部屋全体に微かに漂う血の香の原因も……恐らく……。
「半世紀以上もの間、肉で飢えを凌ぎ、血で渇きを潤してきた。今更取れるとは思っておらぬわ」
「人間は誤魔化せても、私達『妖獣』の鼻は誤魔化せんぞ」
「構わぬ。妾の臭いで、少しでもキリの居場所が誤魔化せればそれでよい」
キリの――主の……居場所? 意味深長な言い回しに、私は思わず首ごと視線を投げかける。
「……どういう事だ? 何を誤魔化すと言うのだ?」
私の問いに、彼女は驚いたかのように鎌首をもたげた。一対の金色が私を射抜く。二週間前の事があっただけに、未だ不快に感じるその瞳――しかしそんなものに圧される訳にはいかない。
これは『私の事』ではないのだ。他でもない『私の主の事』なのだ。私の感情一つで、引くことは絶対に許されない――否、私が許さない。
しばらくして、狼は静かに目を伏せた。答えを返さない上にその態度……私の苛立ちを増長させるのには十分過ぎた。
「……答えろ『弥生』」
弥生――主が此奴に与えた名前――それを口にしたのは、もしかすると初めてだったかもしれない。口に出すのも惜しい……というか、その名を口にすれば否応なしに此奴を認めてしまうかのようで、今まで躊躇っていたが……そんな体勢はこの際無しだ。
私が彼女の名前を呼ぶと、キョトンとした表情で顔を上げた。そのまま、まるで珍しいものでも見るかのような視線を送ってくる。ふざけるな、と口を開こうとして……奴は静かに苦笑した。
「やれやれ、思ったより情熱家なのじゃな、ナユタは……」
「っ!」
「まあそう恥じるでない。主人思いなのは関心じゃ」
場の空気を和ませるかのように、少しだけ茶化す弥生。しかしそれも長くは続かなかった。彼女が再び笑みを消したのだ。そうして紡ぎ出されたのは、一つの問いだった。
「時にナユタ。キリを『食料』として見たことはないかの?」
食料。そう言われた瞬間、少しだけ胸が痛んだ。少なからず思うところはあったからだ。そんな様子の私を、彼女は目ざとく見抜いたらしい。答えも待たずに言葉を続ける。
「……それも無理からぬことよ。相手は極上の獲物じゃ。長年狩りをし続けていた妾が保障する。アレは仙人に並ぶ珍味じゃろうなあ」
「仙人と並ぶ? だが主は仙術を使う以前に空を飛ぶことすら――」
「そうじゃな。じゃが『何故使えぬか?』という事は、今は関係ない。妾が言いたいのは『そんな馳走が手付かずのまま残されていたらどうする?』という事じゃ」
そう言われ、反射的に脳裏に浮かんだのは、熟れ過ぎた果実に蟲が群がる光景だった。
「幸い妾がいた山で、キリの匂いに気付く者はおらんかった。いや、そもそも味というものは喰らってみなければ分からんのじゃが……」
そこで言葉を切る弥生。次の言葉を言うべきか、言わざるべきか、心の葛藤が見て取れた。だがそれも結局は――逡巡に過ぎなった。
「妾のような者がいないとも限らなんだ」
「……成程」
小さく、まるで誰にも聞かれぬよう紡がれた言葉だった。いや、もしかすれば本当は口から出てすらいないのかもしれない。ただ私の『耳』が、勝手に『声』を拾ったに過ぎないのかもしれない。だがそれは……彼女の本心で間違いないだろう。
思えば、此奴はここに住み着いてから一口たりとも『肉』を口にしていない。幾ら妖獣が人間並みの理性を持つとはいえ、その飢餓に打ち勝つのは難しい。しかもすぐ隣に馳走が転がっているとなれば、それはもう――拷問に等しい。
しかし飢餓を我慢し、本能を押し込め、あまつさえ食料の身を案じる。
そうまでして、此奴は――。
「弥生」
「む?」
「あの言葉、本気か?」
再び眠る姿勢に入った弥生に問いかける。あの言葉――それをみなまで語るほど、私は野暮ではない。
私の予想を裏切らな弥生は、鼻で一笑すると自信に満ち溢れた声でこう言った。
「無論じゃ。一匹狼に二言はないぞ」
……少し間違ってないか? とは、流石に言えなかった。
彼女――鈴仙・優曇華院・イナバは悩んでいた。自分の目の前にいるのは、かつて『月の頭脳』とまで謳われた天才――八意永琳。同時に彼女の師匠でもあるのだが……どうも近頃教鞭を揮う回数が減っていた。その事実に対し、彼女が疑問を抱かなかった訳ではないが、どうせまた新しい研究でも始めたのだろうと勝手に自己完結してしまっていた。
弟子の彼女とて仕事が無い訳ではないのだ。ちゃんとした講義を受ける回数は確かに減ったものの、薬品の調達やら整理やら調合やらの指示は以前と変わらず。若干暇が出来たと思えば、地上の兎――因幡てゐの悪戯の餌食にされる始末。
可もなく不可もない日常が続いていた。永琳に呼び出された時も、久々の講義だと諸手を挙げて喜んだのだ。だというのに……。
「あのー……師匠。このカルテの束をどうしろと言うんでしょうか?」
部屋に入るなり無言無表情かつ無造作に渡された紙の束、それ自体は割と見慣れたものだった。幸いにして書かれている人物にも見覚えがある。というか、彼の事を知らない人物は永遠亭に一人としていないだろう。
否、そんな事はどうでもいいとでも言いたげに、彼女は軽く頭を振った。それよりも、今、何故、彼のカルテを渡されたのかを考えなければならない。……考えれば考える程、嫌な予感しかしないが……出来れば外れてくれと、彼女はいるかどうかも分からない神様に願った。
「あ、もしかして焼却処分ですか? それなら期限切れの薬品と一緒に――」
「違うわ」
弟子の慣れないボケを躊躇い無く切り捨てる永琳。鈴仙は今直ぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。というか、少しだけ涙目だった。
「まぁ私も少し疲れてるから手短に言うわ。ウドンゲ、しばらくその子『監視』してくれないかしら?」
「え? あ、はい…………はいィ?」
思わず肯定の返事を返してしまったが、別に乗り気だった訳ではない。いわゆる条件反射のようなものだった。その証拠に、一秒も経たない内に素っ頓狂な声を上げてしまった。同時に鈴仙の頭の中で『監視』という単語がぐるぐると渦をまく。
「監視……と言うと……えっと、四六時中相手の行動を眺め続けて、素肌を晒す瞬間にニヘラって笑うアレですか?」
「別にそこまでする必要はないんだけど……まぁこの子の行動を、しばらくの間記録してくれればそれでいいわ」
「いえいえいえいえいえ!! 『それでいいわ』じゃないですよ、師匠!」
呆気らかんと言ってのける永琳とは対照的に、鈴仙の顔色は若干青褪めている。それも無理からぬ事だろう。鈴仙が持つカルテには、達筆な字で『霧葉』と書かれていた。
霧葉――捕食者である『狼』を連れ込んだ危険人物。永遠亭で一番幼く、喋れないという障害を抱えている所為か支配欲が強く、密かに永遠亭の乗っ取りを企てている兎妖怪。配下の三毛猫の統括力を使い、着々と忠実な部下を育成中。永琳から承った極秘任務の帰りに、暇潰しに『狼』の群れをを素手で壊滅状態にまで追い込み、その群れの中でも一番の強者を拉致して帰還。左足の怪我はカモフラージュであり、実際は無傷。無邪気なようで腹黒く、その血は漆器のようにどす黒い。
……ここまで来ると既に別人だ。本人が聞けば笑い転げる事間違いないような与太話ではあるものの、当の兎達にとっては一笑に出来るような事ではなかった。霧葉自身がどういう人物かは横に置いとくとして、彼が『狼』を傍に置いているというのは本当の事なのだから。
確かに、彼女――鈴仙は強い。その気になれば高々半世紀しか生きていない妖獣なんて、あっと言う間に伸す事だって可能だろう。だが、問題はそう簡単なものではないのだ。
幾ら月から来た兎とはいえども、その『兎』という種の血に刻まれたものに変わりはない。かつては地上にいたとされる『月の兎』……当然ながら種として刻まれた『恐怖』も、数多の年月で変わることはなかった。それは勿論、鈴仙とて例外ではなくて……。
「大丈夫よ」
がっくりと項垂れる彼女の肩を軽く叩き、永琳は微笑みながら労わりの言葉を掛けた。
「あの子には『兎達に何かあったら永遠亭から追放する』って伝えてあるわ」
「師匠……」
「だから狼の方は無視して、あの子の監視お願いね?」
菩薩のように優しく輝くその笑みを見て、鈴仙は……。
「それって私の安全が全然確保されてませんよね?」
「……」
沈黙。
吐息。
達観、そしてウィンク。
「ウドンゲ、頑張りなさい」
「師匠ーーー!!」
やはり神様はいないのだと思い知った、立冬の頃であった。
斯くして、気付かぬところで物語は進んで行く。しかしそれでも――。
『っくし! あー……誰かが俺の肉体美について語っている希ガス……。あ、母さん、お茶ぷりーず』
「あ、霧葉……って! どうしたの!? 目が真赤だよ!?」
『レイセンさんの真似~♪ って、ちょちょちょちょちょ! 包丁持って何処行く気なの!? てか今のジェスチャーで何が伝わったの!? ねぇ?! ちょっ! ちょーい!!』
――知らぬは亭主ばかりなり。
霧葉 :兎
主人公。最近生傷が絶えない。おっぱいとか好き。でも一番好きなのは臀部だったりする。
那由他 :猫
準主人公。何か色々と苦労人のツンデレ体質のツッコミ役。ダンディボイスが売り。
弥生 :狼
準主人公。元山暮らしの元幼女。甘噛みはマーキングのつもりらしい。