異臭を鼻先に感じ取り、目が覚めた。ツンとする刺激臭、次いで感じる柔らかいもので包まれている感触。自分が布団に寝かされているのだと気付くのに、更に数分の時を要した。
ゆっくりと上体を起こそうとし――腹部から走る激痛に思わず顔をしかめた。着慣れた服の感覚もない。代わりに着せられていたのは、やけに肌触りのよい着物。見慣れぬ畳敷が否応にも視界に入り――そこまで確認して、ようやく理解した。
ああ、私は負けたのだ……と。
獲物に負けて、獲物の情けで生き長らえているのだ……と。
自然と自嘲の笑みが浮かんだ。
『油断した』――だがそれは自分の失態。その所為で負けたのならどう取り繕う事も出来ない。
『~だとは思わなかった』――予測出来なかった自分が悪い。弱肉強食の世界に、例外というものは一切合切存在しない。あるのは勝つか負けるか、喰うか喰われるか、生きるか死ぬかの二者択一。判断を誤ったのは他ならぬ自分だ。今更言い訳などといった見苦しい真似はしない。獲物が何を望んだのかは分からないが、私はこうして生きている。
ふと、私の耳がかすかな衣擦れの音を拾った。そちらへと視線を向ければ、掛け布団を跳ね除けて寒そうに自身を抱いて寝る兎が居た。安らかな寝顔には真新しい包帯が巻かれ、左足には添え木までされている。外見の幼さと相まって、傍目から見れば痛々しいと思うかもしれない。
だが、私にはそうは見えなかった。気付けば目よりも先に『鼻』が働き、その小さな身体に内包されているものの正体を感じ取っていた。
肉を食わず、酒を飲まず、色を知らず……妖獣とは思えないほどの徳と妖気を備えた兎――その味は、きっと想像を絶するものだろう。異臭の中微かに漂う血の香を嗅ぎ取ると、私の腹は痛みと共に飢えを訴えた。
のっそりと布団から這い出す。腹痛で思うように力が入らず、獣だった頃のように四肢で歩みを進めた。一歩……また一歩と近付く度に、血の香が濃くなっていく。食欲が動力源となって、痛む私の身体は突き動かされた。
『昔』のように兎に覆い被さる。灰褐色の長髪が垂れて兎の肌へと落ちるが、一向に起きる気配はなかった。普段ならばそのまま噛み付いていたかもしれないが、今はそんな勿体無い事はしない。その白い首筋に触れるか触れないか位まで鼻を近付け、そっと『獲物』の匂いを嗅いだ。
ゆっくりと口で息を吐き、肺一杯に空気が溜まるまで鼻孔でその香りを吸い込むと、思わず身が震えた。
甘美な香りだ。様々な獲物を喰らってきたつもりだが、これほどまで上等なものは嗅いだ事すらなかった。
自然と舌が伸びていた。寝汗の所為だろうか、少しだけしょっぱい雪肌。くすぐったそうに身をよじる兎だったが、未だ起きる気配はない。
喰らい付けば、流石に起きるだろうか? ――邪な考えが頭を過ぎる。そうだ、悪いのは私ではない。こうして無防備に横たわる『獲物』が悪いのだ。私を生かし、空腹になった所で、まるで『食べて下さい』と言わんばかりにその身を晒すこの兎が悪い。私は本能に従ったまでだ。何も躊躇う事はない。
開口し、静かに柔肌の上へ犬歯を乗せる。後少しだけ顎に力を込めれば、咽喉元に牙を突き立てれば、此奴は死ぬ。私は生きて、この『獲物』を喰らう。恐らく幻想郷随一の『獲物』であろう、この兎妖怪を、私は――。
「……」
そろりと首筋から口を離した。首筋と口の間に銀色の線が引く……喰らいたいという欲求は未だ私の中で燻っている。しかし、それは私の自尊心が許さなかった。
私は負けたのだ。
敗者が勝者に手を掛ける事は、絶対に許されない。
そう、絶対に。
「……喰らわぬ……か」
「っ!?」
不意に低い声が響いた。顔を上げて『鼻』を利かせる。血の香と異臭の中に混じった獣臭――あの時逃げ出した化け猫だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
東方狂想曲
第十三話 おはよう、那由他
静々と雪が降る雪原の中、俺こと霧葉はボーっと突っ立っていた。周りを見れば一面の銀世界――交通の便が悪くなるな……などと呑気な事を考えてみる。
一人で見る雪はそんなに好きではない。寒いしウザいし辛気臭い。友人の一人でも居れば『雪合戦やろうぜ! 石アリな!』などと言って、喧嘩染みた下らない争いを嬉々としてやるんだが……いや、いい加減現実逃避はやめよう。俺は視線を上空から目の前の氷像に戻した。
まず言っておこう。これは何時もの夢だ。あの趣味の悪ーい悪夢だ。普通こんな雪原の中、着物一つで過ごせる訳がない。多分テンションハイになって幼女ぶっ倒した後、過労か何かでぶっ倒れたんだろう。毎日三時間睡眠とか、人間の限界に挑み続けてる生活も裏目に出たのかもしれない。今妖怪だけどな。
「おーい、大丈夫かー?」
しゃがんで氷像の前で軽く手を振る。何時も『殺される側の視点』で見ていたというのに、今回だけは勝手が違った。『死』に対する耐性はある程度ついてると思ったが、これはちょいキツイかもしれん。
「大丈夫な訳ねーよなぁ……」
軽くため息を吐く。氷像は相変わらず『物』としてあり続ける。
まだまだ若い……いや、若過ぎる少女の氷像だった。一糸纏わぬ裸体、膨らみかけた乳房、秘所を覆う程度に生えた陰毛……それだけだったならば、俺も両手を振って喜んだかもしれない。或いは、美術家の物真似をして『これはいい物ですね』とか、ニヤニヤしながらふざけた事を宣うたかもしれない。
これが、死体じゃなければ。
「はぁ……マジで趣味悪ぃ……」
四つん這いの姿勢、虚空に伸ばされた片手、恐怖一色で彩られた表情。そして傍らに投げ捨てられた衣服が、彼女が『生きていた』という証だった。
運がなかった。一言で済ませるのならば、それで事足りる。ただ生まれが悪くて、家庭が貧しくて、売られた先が趣味の悪い糞婆だった。ハイ、残念。人生終了、ゲームオーバー。タイガー道場へ一名様御案内……勝手な事言ってて何だが、正直凹む。ここまで来ると怒りを通り越して、ただ虚しい。
文字通り氷りついた少女の上に、白い雪が積もってゆく。冬の風物詩としては申し分ないかもしれないが、人道的にアウトだ。心臓の弱いお方なら、一目見ただけで嘔吐するかもしれない。子供が見るなんて持っての他、教育上よろしくない。……やべぇな、間違いなくテンパってら、俺。
氷像の前で両手を合わせた。気休め程度だが、それでも何もしないよりはマシだろう。寒さを感じない雪原で、俺は見知らぬ少女の冥福を祈ろうと目を瞑り……。
「勿体無い事するのね、人間って」
皮肉交じりの言葉を聞いた。
「覗き見とは趣味が悪いのお……化け猫よ」
気配を察知し、部屋の隅――光の届かないそこへと殺気を飛ばす。相手は倦怠な動きで闇からその姿を現した。闇と同色の黒い体毛。しかしそれも、明かりのある場所へと移るに従って色を変えていった。
変化の法。本来人間に化ける為に使われるそれを、身を隠す為だけに使うとは珍しいことだった。私は口元を歪ませた。
「つくづく隠れるのが上手い。それでいて、何事もなかったかのように裏切った主人の隣におる。全く、ぬしら猫どもは皆こうなのか?」
「黙れ、本能に忠実な獣め。貴様とて命の恩人を喰らおうとしていただろうが」
「まだ喰らっておらぬ。妾とて、後先考えずに喰らうほど愚かではないぞ?」
フンッと鼻でせせら笑う。確かに本能が勝りそうになったのは否めないが、それを話す必要はないだろう。隙あらば逃げ出し、何時の間にか元の立ち位置に戻るような狡猾な相手だ。自ら弱みを曝け出すほど、此奴との仲は深くない。
痛みを訴える身体に鞭打ち、そっと兎の上から離れる。餓えた本能は理性で何とか押し潰そうとしたが、それでも完璧とは言えず、どうしても芯が疼いた。伽のごとく兎の隣へ腰を降ろす事で、それも少しだけ鳴りを潜めてくれたようだ。あくまで表面上のことではあったが。
「……貴様が喰らえば、全ては丸く収まるというのに……」
忌々しげな顔で……さりとて小さな声でそう呟いたのを、私の耳は聞き逃さなかった。己の欲望に塗れた言葉なぞ、聞いて楽しむようなものではない。当然ながら呆れた。呆れたと同時に――何故か若干の怒りを覚えた。
「自らの主だというのに裏切る。救いようのない愚か者じゃな、ぬしは」
「私が望んだことではない。自ら進んで下の者に就くほど、私は物好きではない」
思わず吹き出しそうになった。猫の顔が一層不快に歪むが、そんなもの気にはならなかった。口元を隠し、どうにか笑いを堪える。気を抜けば哄笑を上げそうになる中、口を開く。
「これはこれは異な事を言う。ならば何故、ぬしは其処にいる?」
猫という生物は、総じて自分勝手なものだ。時折人間相手に忠義を尽くす者もいるそうだが、少なくとも目の前にいる猫はそれに当てはまらない。自分から義を立てておいて、これはないだろう。
しかしだからといって、何者かに命令されたとも考え難い。猫――否、猫に限らず生物というものは、己の自由を奪われることを極端に嫌う傾向にある。それが何かしらの利に繋がるものであれば話は別だが、利なくして枷を付けるとは思えない。
此奴はこの兎を狙っているのか? とも思ったが、そう考えると先程の言葉はおかしい。わざわざ喰らって欲しいと言うからには、やはり何かしらの理由があるのだろう。
猫は口を開きかけ、躊躇った。苦虫を噛み潰したような渋面。面白いとは思うが、今は娯楽を楽しむ時ではない。さっさと答えを口にして欲しいものだ。
「……神託だ。これ以上は言えぬ」
神のお告げ――此奴は確かにそう言った。清々しいまでに言い切ってくれた。
無理だった。限界だった。最初から到底堪え切れるものではなかったのだ。
「かっ……くっ……くははははははははははははははははははははははっ!!!」
私は呆然と此方を見る猫を前に、腹を抱えて笑い転げた。
振り返ると、とんでもない美人がそこに居た。
派手な服装に包まれた熟れた肢体。みょうちくりんな形をした傘を片手に持ち、金糸のような髪と聖母が浮かべるような笑みを携えた、絶世の美女が静かに佇んでいた……宙に浮いて。
「ああ、やっぱ夢だなコレ」
何と言うか、色々とぶち壊された気分だった。折角センチメンタルな気分に浸ってたっていうのに、これじゃ全部台無しだ。クリスマスに公園でキスしようとしたら『おい、あれ見ろよ!』『うわっ、あれ撮影していいんですか!?』『大丈夫大丈夫! これで視聴率バンバン上がるぜ!』って感じに空気の読めない芸人(絶賛生放送中)並に分かってない。いや、分かってないのは俺か。これ俺の夢だし。
自分が何処までも三枚目だという事に気付かされ、若干凹んだ。まぁ、同時にホッとしたってのも事実だが……。
「もっとマシなの思いつけよ、俺」
「……失礼な兎ね」
「いやいや、死体と美女の夢を見るとか……俺悩みでもあんのかな」
腕を組んで考える。肉喰いたい、酒飲みたい、那由他の猫耳触りたい等々……挙げ始めるとキリがない。
もしや俺の隠された性癖か? 確かに年上でナイスバディなお姉さんは好きだが、死体と一緒だと正直萎える。てか立つ訳ねぇ。あれ? そもそも兎妖怪に第二次性徴とかあんのか? いや、なかったら俺が生まれてこない。つー事はあんのか。まだ来てないだけか。来る前に死にたくねーなぁ……。
「大丈夫よ。私が貴方の夢を少し弄っただけ。本当なら貴方が『氷像』になってたのよ?」
半ばぶっ壊れた事を考え続ける俺に、クスクスと笑いながら懇切丁寧に現状を説明してくれる美女。非常に様になってはいるものの、言ってる事が怖い。魔性の女ってのは、多分こんなのを指すのだろう。
「夢を弄るって……アンタ獏か何か?」
「半分正解って所かしら?」
「と言う事は、赤点?」
「及第点ぐらいはあげるわ」
やったー、と無意味に喜んでみる俺。何に合格したかはよく分からん。
「けど、本当に勿体無いわねえ……貴方もそう思わない?」
「何が?」
「その娘よ。一時の戯れでこんな事するなんて、人間の気が知れないわ」
そう言うと、彼女はふわりと俺の隣へ移動した。重力を真っ向から無視した移動法ではあったが、どうせ夢の中の出来事だからという事で自分を納得させる。まぁ動物が空を飛ぶような世界だし、人間が飛べるのもおかしな話じゃないか……でも俺は飛べないんだよな、畜生。
腕まですっぽりと白い手袋で覆われた手が氷像へと伸ばされる。まるで慈しむかのような表情を浮かべ、恐怖に引き攣った少女の頭に触れようとして――止まった。本人の意思でない事は確かだ。何せ、その手を止めたのは他でもない俺だったからだ。
……いや、本当何言ってるか分かんねぇと思うけど、考えるよりも先に手が動いてた。何故か触れさせてはいけないと思った。
美女が怪訝そうに眉を顰めた。当然だ。俺は力一杯――それこそ掌に嫌な感覚があるぐらい――彼女の腕を握っているのだ。隣で呆けていた奴が突然腕を掴めば、誰だってそんな顔をするだろう。
「痛いんだけど」
「お触り厳禁」
「あらそうだったの? ごめんなさいね、人間の氷像って珍しくて」
不意に手の中で腕の感覚が消える。何が起こったのか理解しようと努めたが、情報が少な過ぎた。俺が今分かる事と言えば『一瞬の内に彼女が霞のように消え、離れた場所に居た』という事だけだろう。そう、それこそ先程の状態と寸分変わらずに……。
正直に言おう。てかいい加減自分に素直になろう。
無理。
何て言うか一緒に居るだけで疲れる。SAN値がガリガリ削られる。外見が良いだけに、その破壊力もマジパネェ。よし、目の前の美女は『tanasinn』だ。そう思い込もう。Don't think. Feel and you'll be tanasinn. ……ってそれじゃ駄目じゃねーか。
「それとも冷凍保存かしら? 時間が経てば質も味も落ちるのに……」
「あー……なんと言うか、俺の夢に来たんなら用件をどうぞ。なかったら帰って。いやマジで」
彼女と出会うくらいなら死んだ方がマシな気がする。苦痛には慣れてる筈なんだが、コレは耐えられるようなもんじゃない。多分『生理的に受け付けない』とはこんな事を言うんだろう。つい遠慮のない物言いになってしまった。同時に不快感で顔を顰めるものの、当の本人は何処吹く風。相変わらず作り物めいた笑みを浮かべながら口を開いた。
「本当、失礼な兎だこと」
「それほどでもない」
「褒めてないわ」
笑顔で切り捨てられる俺のブロント魂……やっぱこういう輩は苦手だ。
「ねえ……その娘どう思う?」
ふと視線を外し、俺の背後を指差して言う。振り返る必要も無くそこに何があるかなんてのは愚問であり、この死体がどういった経路でこうなったのかまで確りと頭の片隅に置かれている。直接『見た』わけではないが、知っている。
そう何故か、知っていた。
上手い話に誘われてのほほんと緩い環境で働いて地獄を知ってビクビクしながら仕えて少しでも庇護を受けようと胡麻を擂って仕事仲間を蹴落として必死になって生きて生きて生きて生きて生きて生きて……結局四十路の糞婆の掌で踊らされていた事に気付いて絶望した哀れな少女を、俺は知っていた。
「質問が抽象的過ぎて、何言ったらいいのか分からん」
両手を広げ、訳が分からんと大げさに肩を竦める……心臓は痛いほどのビートを刻んでいた。目の前の美女に隠し事は不可能――そう思わせるほど、彼女の佇まいは落ち着いたものだった。それでも隠し通したいと思うのは、人間としてのサガか……。
「死んだ人間を目の当たりにした感想、聞かせてくれないかしら? ねえ――」
―――人間を助けた、親切な兎さん?
……趣味悪ぃ……。この時、俺は本気でそう思った。
「何が可笑しい!!?」
「くくくっ……いや待て、暫し待て。それと仮にも夜中なのだから、声は荒らげぬ方が良い。隣人の眠りの妨げになる。だが……神託……くくくくくくくっ……」
「っ! 貴様……!?」
私の忠告が気に触ったのか、それとも小馬鹿にした態度が気に入らなかったのか……何にせよ、猫は姿勢を低くして私に威嚇し始めた。途端身体が目に見えて膨張し、瞬く間に猫は虎へと進化を遂げる。いや、進化ではなく、この場合は変化か……まぁどちらも姿形が変わったという事実に変わりはない。先程の擬態といい、随分器用な奴だ。
落ち着くために深呼吸を試みる。息を吸う度に発せられる殺気は何とも心地よく――高揚した気分が削がれてゆく感覚は不快感極まりない。
しかし――と、そこで寝具に包まっている兎にちらりと一瞬目を向ける。見る者を魅する安らかな寝顔――此奴が『あの時』纏っていた妖気に比べれば、この程度の殺気は羽虫も同じ。全力で対処する必要もないだろう。
「ふぅ……いや、すまぬのお。ぬしが余りにも可笑しな事を抜かす故、どうしても笑いが堪えられなんだ」
「……何が可笑しいと言うのだ、貴様は」
姿勢を低く保ち、今にも飛び掛りそうな雰囲気を纏いつつも律儀に聞き返してくる。ただの下衆かと思いきや、未だそこまで堕ちている訳でもなさそうだ。下衆か下郎程度の、些細な違いではあるが。
「本音を建前で隠す――大いに結構。醜態を曝すというのは誰もが躊躇う自然の行為故、ぬしがそうしたのも頷ける。しかしな、猫よ。妾が問うたのは建前ではない、本音だ」
本質を感知する程度の能力――獲物を狩る時に限らず日常でも重宝する、私の能力。相手の言葉、顔色、空気……後はそれを上手く纏め、推察出来る頭があれば、読心の一歩手前の芸当ぐらいは可能だ。
虎――否、猫の瞳を確りと見詰めた。戸惑いの色、若干薄まった殺気、正鵠を射たのは確かだった。
「ぬしは何の為にそれを受けた? 誇り高いと自負している猫共が神の狂言に耳を傾けるなぞ、正気とは思えん。ましてやその内容が『兎と寝食を共にせよ』? 生殺しもいいところじゃな」
神の狂言――その言葉に、猫は小さく身を震わせた。どうやら神という存在を神聖視し過ぎていたようだ。愚かしいと思う反面、それも仕方ないと少しだけ同情の念が浮かんだ。声だけで相手の本質は図れぬもの……まして、私のような能力を持っている訳でもあるまい。神という肩書きを持ち、弱みに付け込めば、あっと言う間に生物は傀儡と化す……話し掛けた神も、随分と態の良い駒を拾ったものだ。
笑った。自分の失態は自分で慰めるべきである。だから私は……嘲笑ってやった。
「さあ、何がぬしを掻き立てた? 誇りを捨ててまで欲したものは何じゃ? 心配せずとも、他言などといった無粋な真似はせん。その醜態、隠さず曝け出してみよ」
口を開き、躊躇う動作。戸惑いの表情。自分を馬鹿にし、蹴落とた人物に縋るべきかどうか悩んでいる。視線が外された。薄く月光が差し込む障子に向けられる――逃避したいという意思表示。睨みつける視線に妖力を加えた。力の差を見せ付け、逃げる気力を削いでゆく。手負いの身とはいえ、子猫如きに後れを取るはずがなかった。
回復しかけた妖力の無駄使い――苦ではなかった。勿体無いと思いつつも、此奴の答えが聞きたくて仕方なかった。ふと頭に浮かんだ単語――愚行。だがそれを行うだけの価値はあると思った。
草食動物と肉食動物。本来ならば相容れぬ存在――神託ごときでどうにかなる関係ではない。何が此奴の本能を押さえつけているのか、非常に興味があった。
狐疑、遅疑、逡巡。目を伏せて身体を縮こまらせた。輪郭がぼやけ、元の姿へと戻る。小さな猫、垂れた頭と尾――最初の威勢は砂のように消え去っていた。『狂言』という言葉が、堅固な楼閣を砂上のものへと変えた。残るは砂山。吹き飛ばす為には――。
「吐け。妾は乞うているのではない」
強制の言葉――強迫――唯一の逃げ道。今の此奴には、それで十分だった。
ややあって、私は、『音』を聞いた。
綺麗な月夜だったので、何となく月見をしていた。酒のつまみが欲しくなり、境界を弄って獲物を探した。人間を助ける妖獣を見つけた。
偶然、偶々、まぐれ。二人が夢の中で出会うまでの経路を聞けば、誰もがそう答えるだろう。長寿で夜行性の彼女が、満月に興味を持つ確率は低い。自分でつまみを探す確率は更に低い。そして――彼女が開いた空間の裂け目の先に霧葉がいる確率はもっと低かった。
しかし彼女は――八雲紫は見つけた。自分の天敵とも言える狼から身を呈して人間を守り、あまつさえ撃退するという奇妙な妖獣を――霧葉を見つけた。珍しいと思いつつ酒の肴感覚で観察を続け……――彼女が接触を試みるのに、そう時間は掛からなかった。
そんな経路があったのも露知らず、霧葉は彼女との間に氷像を挟む形で仁王立ちし、彼女と対峙していた。腕を組み、若干顔を俯かせ……そして何時もの彼らしからぬ真面目腐った目で、ゆっくりと口を開く。
「仕方ナイネ」
小さな口から漏れた言葉は、何故かエセ外人風だった。同時に霧葉の口元がニヤリと歪む。人を食ったかのような態度――本人が知らないとは言え、高位の妖怪相手にするようなものではなかった。
少しだけ紫の表情が変わった。ごく僅かな変化――それこそ目尻が微かに動く程度のもの――だったが、霧葉は彼女の空気が変わったのを確かに感じ取った。
「素気ないわね……それとも、ふざけてるのかしら?」
「いやいや、割と真面目に答えたつもりなんだが……」
やれやれといった様子で肩を竦め、首を横に振る霧葉。内心では自分のボケにツッコミを入れてくれる事を強く期待していたのだが、こういう空気になってしまってはボケも何もかもが徒労に終わるだけだろう。
いかにも面倒臭そうなオーラを纏いつつ、霧葉は自分の耳に触れながら目を閉じた。
「なら質問を変えるわ。その娘が貴方の助けた人間だったら……」
「答えは一緒。『仕方ない』」
そう答え、霧葉は目を開く。何ら変わらない黒い瞳が紫を見詰め――表情が消えた。
「こっちから質問。誰かを助けることがそんなに気に入らない?」
「……当の本人がこんな夢を見てたら、何考えてるのか確かめたくもなるわ」
そっと霧葉との間にある氷像を指差す。苦悶の表情で息絶えた少女の氷像――生きた人間で作り上げた氷像。見方によっては歪な前衛芸術ともとれなくもないが、少なくとも人助けをした者が見るような夢ではない事は確かだった。
「仕方ないって。何か知らんけど、俺が見る夢は百パーこんな夢なんだから」
「夢は『抑圧された願望を開放するための手段』って呼ばれてるけど、そこのところどうなの?」
「『過去の記憶の整理』とも呼ばれてるぞ。多分、俺の夢の場合こっちの方が正しい」
「でも死んでるじゃない、彼女。それともこれが前世の記憶とでも言うのかしら?」
「いや俺の前世は男だったし……第一、電車に撥ねられて挽肉になった筈だから、こんなに綺麗な死に方じゃない」
霧葉は氷像の隣に腰を下ろし、肢体全体に目をやった。苦しげな表情を除けば、それは確かに――死に至るまで苦痛を伴うかどうかは別として――綺麗な『死体』だろう。
「けど、見た感じまだ十代……多分『俺の前の誰か』じゃねーかな」
「どういうこと?」
前世の記憶があるのかないのか、実にあやふやな答え方をする霧葉に対し、怪訝な表情を浮かべる紫。その問いに対し、霧葉は盛大なため息を吐いた。疲労感やら憂鬱やらストレス諸々が混じったそれは、外見十歳の子供が出すようなものでは到底なく、上司に無理な注文を叩きつけられた会社員のものに酷似していた。
言うべきか、言わざるべきか……額に掌を当てて考える。新たな話し相手と説明する手間。メリットデメリットの天秤は、割とあっさりと傾いた。
「あー……まーアンタに説明しても良いよな。うん、別に説明しちゃ駄目とか言ってなかったし……」
「だから何のことよ」
「こっちの話。とりあえず、俺の現状説明すっから、テキトーに聞き捨ててちょ」
霧葉――生後一年と六ヶ月。彼が目の前の人物の偉大さを知るのは、もうしばらく先になりそうだ。
薄暗い部屋、一対の男女、傍らに捨て置かれた布団……しかしそこに漂っているのは、鉛よりも重苦しい空気だった。
兎妖怪の傍らに座する幼子は、目を閉じ、静かに消毒薬の匂いを感じていた。自然の中では一度も嗅いだ事のない匂い――彼女の気を紛らわせるのには十分過ぎた。間違っても、目の前で腐っているものを進んで見たいとは思わなかった。
幼子の前に鎮座する三毛猫――那由他は、目に見えて落胆していた。原因は目の前の幼子……しかし根本的な原因は自分にある事を、この短時間の間に厭と言うほど理解させられた。
力が欲しかったと言った――笑われた。時間が力を与えてくれるというのに、何を急いでいるのだと問われた。
見せ付けたかったと嘯いた――見抜かれた。本当の事を言えと睨みつけられた。
愛の為だと口にした――馬鹿にされた。他者の力を借りて何が愛だと罵られた。
心の膿を吐き出す度に罵倒された。理不尽だと思いながらも言い返せない。霧葉が人間を助けた時、彼に対する思いに揺らぎがあったのは否めなかった。
『神に力を与えられた。神に使命を与えられた。全てが終われば自由の身となれる』――それだけが、心の支えだった。その思いがあったからこそ、どんな恥辱も甘んじて受けることが出来た。
――駄目兎と出会った時は、喰い殺そうかと思った。二人して落とし穴に嵌らなければ、きっとあんなにも饒舌にはならなかっただろう。
――駄目兎が落ち込んでいる時は、このまま見捨てようかと思った。しかし見捨てれば、あの両親二人が黙っていないだろうと、仕方なく慰めの言葉を掛けた。
――兎達を統括するのは爽快だったが、同時に苦痛も感じた。群れから少し離れた兎を見ては、喰らい付きたい衝動に駆られた。
――駄目兎の馬鹿さ加減に付き合うのは億劫だった。口を開く度に飛び出す、得体の知れない単語に辟易したのは一度ではない。
――総隊長を罵倒した時は痛快だった。どこをどう取り違えたのか、喜色満面で再戦を申し込まれたときは思わず吹き出しそうになった。
――駄目兎が死に掛けた時は、溜飲が下がった。これで全て終わるのだという喜びも、駄目兎が起きる事でぬか喜びに変わった。
――駄目兎が身を呈して人間を助けた時……自分がやっている事が馬鹿馬鹿しく思えた。無知無自覚故の行為……それが何よりも腹立たしかった。
全て『神託の為』という建前があったから、ここまでやって来れた。力を得て、何時か『彼女』を迎えに行くという夢があったからこそ、那由他は霧葉に付き従っていたのだ。
しかしその決意も、たった一言で崩れてしまった。『狂言』という、今まで意識しないようにしていた言葉を真っ向から放たれ、崩れてしまった。散り散りばらばら。全部が全部、塵芥と化して、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わされて、罵倒と言う名の刺激を加えられた。もはや本心が何処にあるのか、那由他には分からなかった。
那由他は泣きたかった。だが目の前の幼子はそれを許さない。立場はとうの昔に逆転し、ただ重苦しい沈黙だけが不安定な那由他を攻め立てていた。
不意に幼子が薄らと目を開けた。視線には何の感情も籠められていない、『声』も聞こえない。揺らがない金色の瞳には、生きた年月の重みが秘められていた。
「して猫よ、これからどうするんじゃ?」
「どう……とは……?」
「戯けが。妾に毒突かれて頭までやられたか? ぬしは、これから、どうする? と聞いたのじゃ」
一句一句、区切るようにして問う幼子。その声色は、ゾッとするほど冷たいものだった。間違っても幼子が吐くようなものではない。数々の修羅場を潜り抜けた老練の狩人――それが今の彼女の正体だった。突然の質問に呆ける那由他を捨て置き、言葉を続ける。
「建前は壊滅、理由は死に絶え、本音は行方不明。妾という名の嵐が過ぎ去った後に残るのはぬしと此奴のみ……事情を知らぬ此奴相手に、どう接するというんじゃ?」
「……」
「己の中に渦巻く全てを捻じ伏せて、何時か自壊すると分かっているのに今まで通りの関係を続けるか? 此奴を見捨てて、辿り着けぬと分かっているのに愛しき者の元へと行くか?」
那由他は何も言わなかった。ただ幼子から紡ぎ出される言葉を、沈黙の海から一つ一つ拾い上げては頭の中に広げていた。だからだろう、幼子が立ち上がっても何の反応も返さなかった。
障子を開け、月光の照らす縁へと足を踏み出した。制止の声はない。本能、理性、感情……全てを整理するには、那由他はあまりに経験不足だった。なまじ力を持つ者故の、当然の結果だとも言えた。彼女はそんな那由他を一瞥し……静かに呟いた。
「選択肢は数多。選ぶのはぬし。しかし取れる行動は、たった一つ――」
―――さて、どうする?
欠け始めた満月を背にし、彼女はそっとほくそ笑んだ。思考の海に溺れた那由他には、それを見る事は叶わなかった。
「ふーん……中々どうして、厄介なものね」
「全くだよ。俺ぜってー呪われてるぞ」
「御祓でも受けたら?」
「金ない」
「ご愁傷様」
口元を扇子で隠しながら、紫は苦笑した。
雪原に降る牡丹雪は――明晰夢の所為か――二人を通り過ごして足元に降り積もっていた。少女の服は既に雪の中へ。もうしばらくすれば氷像も雪で覆われ、少女がそこにいたという痕跡は、春先まで見付かることはないだろう。
霧葉の中で、同情の念は湧いてこなかった。ただ静かに、正体不明の美女――紫を見詰めていた。
目の前の彼女は何を思っているのだろうか? 同情? 憐愛? 不憫? 否、この顔は――。
「で、そんなに面白い? 俺の話」
「ええ、それはそれは――」
―――滑稽な話。
声には出なかったが、霧葉にはそう聞こえた。同時に吐かれる吐息……新しい話し相手はどうにも、意地が悪い。実際はその外見、種族としての特性、生意気な態度――全てが彼女の嗜虐欲をそそらせているのだが、彼がそれに気付くことはないだろう。
「そうね……面白い話を聞かせてくれたお礼に、少しだけ長生き出来るコツを教えてあげるわ」
「おっ、亀の甲より年の劫ってヤツか……うおっ!」
急に悪寒が走り、身を抱いて震わせる霧葉。辺りを見回したが原因になりそうなものはない。目前では紫がニコニコと、先程より三割増しの笑顔を浮かべて浮遊しているだけである。それだけで、霧葉は今何が起こったのか理解した。
沈黙。
沈黙。
撃沈。霧葉は笑顔に屈した。
「ゴメンナサイ……」
「分かればよろしい」
どんな時でも、女性相手に年齢の話はタブーである。例えそれが意図したものでなくても、男性は謝らなければならない。男女関係に不慣れな霧葉は、少しだけ『女心』というものを理解した。
紫は満足げに頷くと、コホンと一つ咳払い――それが話を戻す合図だった。
「さて、話を戻すわ。一番長生き出来るのは、私の式になる事だけど……面倒だし却下」
「なら言うなよ……」
「二番目に長生き出来るのは式の式になる事だけど……んーこっちもお願いするのが面倒だし却下」
「なら言うなって……つーか頼むのも面倒なのかよ」
「三番目に長生き出来るのは式の式の式に……」
「却下。何乗だよソレ……ってか真面目にアドバイスする気ないっしょ? ねぇ?」
霧葉は訝しげな表情を浮かべつつ、紫を睨んだ。彼女の口から出るのは助言ではなく漫言ばかり……彼が非難の視線を向けるのも頷けた。
……だが、それがいけなかった。彼が少しでも彼女の冗談に乗っていれば、こうも急激な変化を見せ付けられることもなかったかもしれない。
気付けば彼女の顔からは一切の表情が消されていた。喜怒哀楽――生物としての表情全てを失った能面のような顔。見るものを魅了し、圧倒し、見下す顔。それはまさしく――八雲紫の、妖怪としての顔だった。あまりの変わりように呆然とする霧葉を前に、その形の良い唇は裂け――鋭い言葉が彼を射抜いた。
「なら、貴方が一番やり易い長生きの方法――貴方の猫と縁を切りなさい」
その言葉は、その時確かに、霧葉の心に痛みを与えた。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、何もかもが信じられなくなった。泣きたかった。泣けなかった。猫の身で泣ける訳がなかった。涙を流せる人の身が、初めて羨ましいと思った。
―――どうする?
狗の言葉が頭の中で響き渡る。怒りに身を任せる事は簡単だったが、力の差を見せ付けられた。どうやっても勝てない。襲い掛かって喚いて足掻いて……そして藁のように殺される自分が一瞬で頭に浮かんだ。種族の壁――糞狼を殺した時に乗り越えられたと思ったのは、儚い幻想だった。
狗――ヒトガタの妖獣。金色の瞳に籠められていたものは、私よりも遥かに大きく、遥かに深い闇だった。誇示せずとも私より高みに居ることを理解させられた。錬成された精神――羨ましいと感じた。
頭を振った。無い物ねだりをした所で、事態は進展しない。だがこの先の事を考えるのは躊躇われた。普段は無駄な時間を過ごすのが何よりも嫌いだというのに、今は先に進みたいとは思わなかった。愚かしい事だ。
あの日絶対に止まらぬと誓い、自分の主義に反する全ての事柄に目を瞑って来た。これからもそうやって生きていくと思っていた。そうして何時か駄目兎が死んで、ようやく自分の夢が叶うのだと思っていた。愚かしいと思いつつもそれが絶対だと思っていた。
それが崩された。誓いは粉砕された。跡形もなくなった。誓いがなければ生きていけない。目標があったはずなのに、それは目標ではありえなくなって、終点が見えなくて、自分が何処にいるのか、分からなく、なって、それが、どうしようもなく、惨めに、思えて……。
……怖いのだ。
……とても。
「なぁお……」
鳴いた。かつて自分がそうであったように――死を覚悟したあの時のように、ただ鳴いた。
思えば、あの時は私もただの猫であった。『彼女』に餌を乞い、『彼女』に撫でられ、『彼女』と共に幸せな日々を過ごしていた。人間がどんなに残虐なのか、妖怪がいかに危険か、教わった。懇切丁寧に教える『彼女』に、私はただ『にゃあ』とだけ鳴いていた気がする。こんな日常が、ずっと続けばいい……それが私の、小さな願いだった。
しかし、ある日私は衰えを感じた。『彼女』の遊びについていけなくなった。『彼女』の食事が食べられなくなった。『彼女』は私を心配してくれたが、私は弱っていく自分が恥ずかしくてたまらなかった。
だから……逃げ出した。色々な場所に身を隠し、徐々に会う時間を削ってゆき……逃げたのだ。『彼女』と過ごせなくなるというのならば、死んだ方がましだった。
そうして私は生きている。神の『狂言』のお陰で、『彼女』の居ない日常を送っている。ありとあらゆる恩寵を受けながらも、どこか満たされない日々を……。
『んー……まぁ……――』
不意に『声』が響いた。間の抜けた……しかし聞き覚えのある『声』。駄目兎のものだということは簡単に予想がついた。
視線を向ければ、安らかに眠る寝顔があった。幼い顔、華奢な手足、『兎』の耳……しかしあの狗を倒したのは、この駄目兎だった。私よりも先に種族の壁を越えたのは、此奴の方だった。
腹が立った。理不尽な怒りだというのは分かっていた。それが逃避によるものだというのも分かっていた。分かっていながらも、燃え始めた怒りの炎は、一向に鎮火する気配を見せなかった。
溢れ出るほどの知識が羨ましかった。挫けない精神が羨ましかった。愛してくれる家族が……羨ましかった。
羨望を、歯を噛み締めて耐える事は出来た。『神託』という建前があったからこそ……耐える事が出来たのだが……。
「……」
もう、何もない。
『神託』は信用出来ない。けれども『神託』は神約と同意……破ることは許されない。一度得た力、手放すのは惜しかった。これを手放せば、本当に全て消えてしまう。それだけは避けたかった。
舌打ち、貪欲な自分に気付かされたという苛立ち、全ては火力を強める為の可燃物にしかならなかった。
身体を変える。強靭な肉体へと、己を変える。身体はしなやかな筋肉で覆われ、三毛は黄褐色と黒の縦縞へと変わり、足と口には鋭い爪牙が生え揃った。虚栄心――そんな単語が頭に浮かんだ。ぐちゃぐちゃになった思考全てを押し退けて本能を優先させた。
布団の上から身体を押さえつけた。息苦しいのか、少しだけ呼吸が荒い――構いやしなかった。現実逃避だと誰かが叫んだ。噛み殺す思考、誰かは死んだ。
口を開いた。牙を首筋に添えた。数十分前に、狗がそうしたように、私もそれに倣った。奴は喰らわなかった。私は喰らう。それが私達の違いだと思った。そして私は、顎に力を込めようとして――。
『――……信じる……那由他……』
その時、私は初めて自分を殺したいと思った。
「貴方も薄々感付いてるはずよ。貴方は――いえ『草食動物は肉食動物を従えられない』」
「んー……まぁ…………そりゃ……ね」
何時になく歯切れの悪い霧葉。紫から視線を外し、虚空を見詰め、片手はばつが悪そうに耳を擦っていた。彼の無自覚な癖――余り詮索しないで欲しいという意思表示。普段然程使われていなかったにも関わらず、彼女にはそれが意味する事を確りと理解していた。
理解して尚、彼女は言葉は止めない――止める理由にしてそれは、軽過ぎる。
「妖獣とは、言わば動物の上位に位置する妖怪。貴方みたいに生まれた時から妖獣だったものもいれば、貴方の猫みたいに動物から妖獣へと昇華したものもいる。前者と後者の違いは『経験』に過ぎないけど、主従関係を結ぶに当たって、これほど厄介な壁はないわ」
そう、それはいわば『常識』の壁。生まれた時から力を持つ幼子と、弱肉強食の世界に身を置いて力を手に入れた老輩。前者に後者が従う事は――万に一つもありえない事だった。力の差だけではない、どうしても厄介なものが二つを仲違いさせてしまう。それは――。
「ましてや相手は猫。不遜で、居丈高で、傲慢。目的の為なら手段を選ばず、知恵も回り、化け猫となれば力もあるわ。そんなものを、温室育ちの貴方が従える? ――無理よ、断言してあげる」
自尊心。
喰った年数と比例して増えてゆく、どうしようもないステータス。少なければ人の上に立つ事は出来ず、多過ぎればただの頑固者でしかない、本当に複雑な感情。こんなものの所為で人類が戦争を起こした回数も、決して少ないとは言えないのだ。
「今まで付き従ってたのは……彼なりのポーズかしら? 何はともあれ、何時か裏切る前に手を切」
「嫌」
瞬間、彼女の目が細まった。鋭さを増した眼光は、確りと霧葉を見据え――彼は真っ向からそれを受け止めていた。両手を握り締め、負けじと睨み返すその姿は、外見相応の子供にしか見えない。否、子供だからこそ持ち得る『強さ』が、そこにあった。
紫は、笑った。霧葉の愚かさに、自然と笑みが浮かんだ。こわいえがおだった。
「『嫌』じゃないでしょう? 折角の私の忠告、無にする気?」
「強制されたら命令じゃねーか。とにかく、俺はアイツを信じる。アイツは――那由他は裏切らない」
信じてる。だから大丈夫、相手も自分を信じてくれる。……まるで子供の論議だった。それを聞けば誰もが馬鹿馬鹿しいと呆れ返る。世の中はそんなに甘ったるいものではないと知っているから、馬鹿にする。理想で飯は食えないと一笑する。
霧葉自身、そんな事は百も承知だった。自分の言葉がどれだけ莫迦らしいことか理解していた。だから何だと思っていた。目の前の美女が言う事は的を得ている。そういえば何度か裏切ったりしそうな素振りは見せたなーと思いを馳せる。霧葉は人一倍――臆病だった。
裏切られるのが怖い。目の前の女性が怖い。死ぬのが怖い。強がって見せても、飄々とした態度をとっても、ふざけても……怖いものはどうしようもなく怖いのだ。恐怖心はやがて全てを凍らせ、鈍らせ、ゆっくりと命を貪り始める。その過程さえも恐怖心を煽る。悪循環――最悪の永久機関。想像するだけで泣きそうになった。
しかし……霧葉は泣き出す一歩手前で踏み止まる。ふざけんなと、己を追い詰める全ての逆境を頭ごなしに怒鳴りつける。恐怖には屈しないと言わんばかりに、全力で抵抗する。それは彼の――彼の魂の誇れであった。
何度痛みに嘆いただろうか、何度恐怖で頬を濡らしただろうか、何度殺されただろうか。血が出れば痛いと泣き叫び、殺されそうになれば哀願し、それも叶わず死に絶えた。裏切られて死んだ。裏切って死んだ。どれもこれも、その最期は確りと魂に刻まれていた。
ならば――どうせ死ぬと言うのならば――彼は信じる事を選んだ。ただひたすら、仲間を信じる。例え裏切られても構わない。後ろから刺されても構わない。誠心誠意、馬鹿の一つ覚えみたいに信じきる。信じて信じて信じて……それでも死んだら、信心が足りなかったのだと、納得することが出来た。
それは、いわば最後の逃げ道。幾多の死を体験した彼が自然と考え付いた逃避行動。今回は仕方なかった、だから次も頑張ろう。そうやって、彼は転生する度に早く頭を切り替ていたのかもしれない。
そんな彼を――八雲紫は確りと熟視した。並の妖怪ならば失神するほどの気迫を籠めて対峙した。彼の額には既に玉のような汗が張り付き、顔色は血の気が感じられないほど青白く染まり、真一文字に閉ざされた唇と小さな手足は微かに震え、目には今にも零れ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。
だが、まだ倒れていない。後少しだけ押せば倒れるだろうか? 否。どうやっても倒すことは出来ないだろう。その『後一歩』が、限りなく遠い。
「もし、裏切られたら?」
「知るか。そん時はそん時だ」
裏切られても信じてやる――涙で輝くその目は、そう語っているかのようだった。
……。
…………。
………………。
紫の口からため息が漏れると同時に、剣呑な空気があっと言う間に四散された。安堵すると同時にその場にへたり込む霧葉。格好悪いと思いつつも、手足は小刻みに震え、一度砕けた腰は中々上がってくれなかった。
それも無理もないこと……何だかんだ言っても、その身体は生まれたばかりの子供のものなのだ。感受性は大人のそれを遥かに上回り、相反して恐怖に対する耐性が非常に薄い。泣き出さなかっただけでも、十分花丸を上げられるだろう。
他者に指図されるのを嫌い、その癖過度に他者を信じ、馬鹿らしいまでに愚直な――子供。それが彼女の、彼に対する印象だった。
面白いと思う。人間の――子供の心を持った妖怪。そんな中途半端な生物が、どこまで我を通せるのか、どこまで傷付くのか、どこまで生きられるのか……見物だった。『暇潰しの玩具』として、これほどまで良いものはそうないだろう。
自然と彼女は笑みを浮かべていた。先程とは違う、見るもの全てを魅了する、それは品の良い笑みを……。
「キショ……」
「ん?」
「ちょっ! 待っ! OK、時に落ち着け! うん、今のは確かに空気読まなかった! 俺が悪かったッス!! だからマジその顔止めぇ!!」
やっぱり私の思い違いかしら――頭の片隅でそんな事を考えつつも、泣きそうな顔で狼狽する霧葉の姿が思ったよりも面白かった為、彼女はしばらく弱いもの虐めを続けた。
「何故だ……何故だ駄目兎。私は……お前を……」
上手く言葉が出なかった。どうしようもなく悲しかった。どうしようもなく嬉しかった。私は惨めな奴なのだと思い知らされた。私は愛されているのだと思い知らされた。
泣きたかった。泣けなかった。猫に『泣く』という選択肢は存在しなかった。悲しかった。嬉しかった。相反する感情がごちゃ混ぜになって、私の心を揺さぶった。
馬鹿な言動に付き合うのは億劫だったが、楽しかった。
無表情な口から出された戯言が、面白いと感じていた。
知らない知識を学ぶのは、密かな喜びだった。
たまに浮かべる笑みに見惚れていた。
羨ましかった。羨望した。憧れた。
『彼女』の優しさには劣るかもしれない。『彼女』の美しさには劣るかもしれない。『彼女』の強さには劣るかもしれない。
構いやしなかった。どうでも良かった。裏切ろうとした私を、未だ必要としてくれている――それだけが私の心を満たしてくれた。
「……駄目だな、お前は。だからお前は……駄目兎なのだ」
いいや違う。私は心の中で訂正した。
―――私も駄目猫だ。
「あー、マジ死ぬかと思った。加減ってモンを知れよ、このドS美女」
「照れるわ」
「褒めてねーよ」
そう言うや否や、霧葉はボスンッと雪の中に倒れこんだ。冷たくも固くも柔らかくもない雪だったが、疲労がピークに達している彼にとって、寝心地なんてものは些細な問題でしかなかった。
とにかく疲れた、やっぱり真面目な話は性に合わない……そんな事を思っていると、視界が桃色に染まった。それが傘の色だと認識するのに、少しだけ時間が掛かった。
「ピンクの傘ね……これで影までピンクだったら、どっかの勇者さんなんだがな」
「残念だけど影は普通よ。それにどちらかと言えば、私は討伐される方ね」
「されろされろ。その歪んだ性格をとことん修正して貰……」
「無理よ」
「無理だな」
両者共に否定する。片方は己の力を自負して微笑み、もう片方は倒される姿がどうしても想像出来なくて、自分の想像力のなさに軽く嘆いた。
先程と打って変わって二人の間に漂う穏やかな空気――そんな中、霧葉は疲労感たっぷりの吐息を一つ吐き、目を閉じた。
「疲れた、寝る。邪魔したらキン肉バスターな」
「……」
返答も待たずに両手を投げ出し、大の字に寝る霧葉。それを上から眺め、紫はクスリと小さく微笑んだ。それはあたかも子供を見守る母親のようでもあり――同時に何かよからぬ事を思いついた、少女の笑みでもあった。
霧葉の傍らに腰をおろし、頭を軽く持ち上げて膝の上に乗せた。俗に言う『膝枕』という奴だ。多くの男性がそれに憧れ――霧葉もその例に漏れる事はないらしく、少しだけ頬に赤みが差したのを、彼女は見逃さなかった。
「嬉しい?」
「……正直喜ぶべきなのか、恐れるべきなのか思い悩んでる。目ぇ開けてアンタの顔があったら、一発で気絶出来る自信がある」
「素直じゃないわね」
「十分本音なんだが……」
まぁいいか……と、霧葉はそこで会話を打ち切った。変に意識しなければ、気持ちいいのは確かである。何を思って彼女がこのような行動に出たのかは分からないが、厚意は――自分の不利益にならないというのなら――素直に受け取るべきであろう。そう結論付け、彼は意識を飛ばそうと試みた。
周囲の光景にノイズが走る。雪に埋もれかけた氷像は消え、遠くにあった地平線はピンボケしたかのように、次第にその形を失っていった。夢という名の箱庭の主人が目覚めようとしている合図……長く居続けるのは危険だった。夢に呑み込まれてしまえば、例え幻想郷屈指の実力を持つ彼女でも無事では済まないだろう。
しかし、紫は動かなかった。ただ自分の膝の上で目を瞑る子供の顔を眺め、一つだけ、静かに問うた。
「ねぇ……貴方は何?」
「『何』かよ……那由他でさえ『何者』だったってのによー……全く」
吐かれた悪態とは裏腹に、楽しげな声色――口元には薄らと笑みすら浮かんでいた。
やはり自分は変わっているのかもしれない。構いやしなかった。自分は自分なのだ。種族だとか、年齢だとか、性別だとか……自分にとってそれほどまで意味の無いものは存在しない。だから霧葉は、那由他に返したものと全く同じ答えを、口にした。
「俺は霧葉――『駄目兎』の霧葉だよ。それ以上でもそれ以下でもない」
そう答えた彼の顔は、とても穏やかなものだった。
燦々として降り注ぐ陽光が、霧葉の瞼を刺激した。開かれた障子の隙間から、まるで起きろと言わんばかりに、日の光が差し込んでいた。ややあって、むくりと小さな影が起き上がる。この季節としては遅い起床――霧葉本人にとっては遅過ぎる起床だった。
小さく欠伸を漏らす。彼にしては珍しく、未だ眠気が残っていた。半眼の瞳はとろんと蕩け、真直ぐだった耳も少しだけ曲がっている。着崩れた寝巻きと布団……そして、包帯の巻かれた左足。ご丁寧な事に添え木まで付けられていた。
不意に、霧葉は自分の傍らで小さく丸まっている物体に気付いた。未だ頭は上手く働かない。だが少し触れると、それはビクリと震えた。寝起きでいい感じに知能が低下していた彼は、それを『面白いもの』として認識した。
触る。さらりとした素晴らしい毛並みを感じた。
撫でる。振動が少しだけ激しくなった。温かかったので構わず撫で続けた。
揉む。むにゅっとした柔らかい感触。同時にその丸い物体は、その正体を現した。
面白いもの――那由他は不機嫌そうな顔をしていたが、それも霧葉の顔を見た途端、消し飛んだ。代わりに浮かんだのは不安げな表情……普段だったらまず見られない顔付きだった。
しかし霧葉は気にも留めなかった。思考回路が上手く回らないこともあったが、那由他の頭を撫でる感覚が何よりも心地良かったからである。しばらくしてから、彼は口を開いた。
『おはよう、那由他』
ハッとして顔を上げる那由他。戸惑い、驚愕、そして喜び。瞬く間に変わった表情だったが、生憎今の霧葉に、それらを感知出来るほどの頭などなかった。だからだろう――。
「おはよう、主」
――那由他の態度が少しだけ柔らかくなったのに、彼は最後まで気付かなかった。
おまけ
「ふむ、随分とまあ早い起床よのお、兎よ」
然して広くもない部屋に、幼子の声が響いた。鈴を転がすような、幼子の美しい……聞き覚えのあるその声に、撫でられていた那由他は反射的にその場から飛び退いた。
気配は近くから……殺気はない。しかしそれでも油断ならない相手。勝てる見込みがなくても、那由他は構えを解かなかった。部屋一面に視線を飛ばす。未だ寝惚けている霧葉の手だけが、虚しく空を撫でていた。
「どこを見ておる。こっちじゃこっち」
不意に白い腕が、布団からぬっと生え出した。よっこいせと年寄り染みた言葉を吐きつつ、彼女も上体を起こした。その姿を目にした瞬間、那由他はあんぐりと口を開けた。
寝癖で乱れた灰褐色の髪――まだ良かった。幼い外見と相まって、似合わないものではなかった。
軽く欠伸を噛み殺している幼い美貌――それもまだ良い。誰だって寝起きの時は欠伸の一つでもするだろう。
しかし、彼女が一糸纏わぬ姿であったなら? ――……誰だって戸惑いを隠せないだろう。
「なっ……何をしている!? 貴様!?」
「見れば分かろう。添い寝じゃ」
「そうではない! 何故貴様がここにいると聞いているのだ!?」
「簡単なことじゃて。惚れた雄に寄り添うのは雌の特権じゃ」
「ほっ、ほれっ……掘れっ…………惚れぇ!?」
彼らしからぬ素っ頓狂な声が部屋中に響き渡った。その余りの声量に、彼女は思わず顔をしかめる。
「余り騒ぐな。昨夜は同族と別れる為に色々と大変だったんじゃ。夜が明ける頃になって、ようやく彼奴等も納得してくれたわ」
それを聞いて、それこそ那由他は絶句してしまった。あの時途中で部屋を出て行ったと思えば、どうやら仲間を一晩中説得し続けていたらしい。いくら惚れたが故の行為とはいえ、その行動力は目を見張るものがあった。
しかしそれはそれ、これはこれ。折角素直に受け入れようとしていた立ち位置を、気付けば横から掻っ攫おうとする狗がいる。これには流石の那由他も我慢ならなかった。
「なっ、駄目だ! 主の下に就くのは私一匹で十分だ! 獣臭い狗など、御免被る!」
「下か……いや、それも倒錯的で良いかもしれぬが……妾が就きたいのは隣じゃ。別にぬしの場所なぞ奪いやせぬ」
「もっと駄目だ! 寝言は寝て言え狗畜生が!」
「……いい加減黙らぬか! 此方が下手に出れば付け上がりおって! 子猫風情が妾に勝てるとでも思うたか!?」
暫し睨み合う二匹。心なしか視線の間に火花が散っている気がする。しかし今この場にて、それを見るものは皆無だった。
『…………ふぁ……』
唯一の観客――霧葉は小さく欠伸を漏らす。何故か何時もより格段と眠かった。既にその視界からは二人の闘争風景はなく、欠伸の涙で輪郭がおぼろげとなった光景だけが、優しく彼を包み込んでいた。
『昔』の至高の贅沢――二度寝。幸福感に包まれている彼に、更なる喧騒が襲い掛かるまで、後一時間……。