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No.40336の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~ 【第三部】[月桂](2014/08/15 00:02)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(二)[月桂](2014/08/15 23:44)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(三)[月桂](2014/08/21 22:47)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(四)[月桂](2014/08/25 23:54)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(一)[月桂](2014/09/03 21:36)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(二)[月桂](2014/09/06 22:10)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(三)[月桂](2014/09/11 20:07)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(四)[月桂](2014/09/16 22:28)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(一)[月桂](2014/09/19 20:57)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(二)[月桂](2014/09/23 20:30)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(三)[月桂](2014/09/28 17:53)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(四)[月桂](2014/10/04 22:49)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2014/10/12 02:27)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(五) [月桂](2014/10/12 02:23)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(六)[月桂](2014/10/17 02:32)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(七)[月桂](2014/10/17 02:31)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(八)[月桂](2014/10/20 22:30)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2014/10/23 23:40)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(一)[月桂](2018/06/22 18:29)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(二)[月桂](2018/07/04 18:40)
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[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/09/03 21:36

 大和国 興福寺


 いわゆる南都北嶺とは、寺社勢力の雄である奈良興福寺(南都)と比叡山延暦寺(北嶺)の二つを指す言葉である。
 これら寺社勢力は僧兵という独自の武力を有し、幾年にも渡って幕府の支配すら退ける権勢を有していた。事実、室町幕府は興福寺が支配する大和国に守護職を置いていない。
 その興福寺において、覚慶――足利義秋が与えられている役割は一乗院の門主というものであった。


 一乗院とは興福寺に置かれた院(寺院本体とは異なる寺社内組織)のひとつであり、代々の門主は皇族、貴族がつとめている。くわえていうと、一乗院の門主は興福寺別当(寺務を統括する長)を兼ねるのが常であった。
 つまるところ、覚慶は興福寺においてそれなり以上の地位を有しており、その立場と自身の才覚をいかして寺社内の実権をほぼ完全に掌握するにいたっていた。


 むろん、はっきりとおもてに出るような権勢ではない。興福寺内においても、覚慶の地位は血統によって与えられたものだと考える者がほとんどであり、覚慶の才覚を知る者はごく一部の者のみに限られている。
 そして、覚慶にとってはそれだけで十分であった。
 なんとなれば、彼らすべてが、興福寺がくだす決定に関与できる高僧たちだからである。
 その高僧たちですら、覚慶の才覚を知ってはいても、彼女が胸奥に宿した闇の深さを知らぬ。
 ゆえに、興福寺の内において己を妨げる者は存在しない――覚慶はそう考えていた。
 その認識が油断を招いた、というわけでもないのだろうが……




 その日、陽が落ちた後、寺務を終えて部屋に戻った覚慶は襖をあけた。すでに部屋の中に明かりがともっていたのは、覚慶が戻ってくる時間にあわせて小坊主が火をつけておいたためである。
 いつものこととて、覚慶は特に気にすることもなく部屋に一歩足を踏み入れ――不意に、間近に他者の気配を感じてハッと目を見開いた。


 月のない夜を思わせる色合いの双眸が室内を一薙ぎする。 
 部屋の中を照らす燭台の小さな明かり。その明かりがとどかない隅に、黒々とした人影がわだかまっていた。
 覚慶の手が懐中の小刀に伸びなかったのは、室内でひざまずくその人影から害意を感じなかったからである。
 しかし、こうして目にする寸前まで自身に気配を感じさせなかった相手に対し、友好的に接するほど覚慶は和やかな性格をしていなかった。



「何者かえ?」
 低く、それでいて鋭く尖った詰問の声。声に形を与えたならば、この場には妖刀のごとき刃が具現したであろう。
 対して、戻ってきた返答は柔らかかった。まるで、突きつけられた刃を包みこむ鞘のように。



「越後守護 上杉謙信と申します。前触れなき推参、非礼の極みなれども、時が時ゆえなにとぞご容赦たまわりたく」
 相手の名乗りを聞いた覚慶の眉がわずかにあがった。
 無言で室内に入った覚慶は襖を閉じ、暗闇をすかしみるように目を細める。
「……たしかに、その顔には見覚えがある。一別以来であるな、上杉の方。以前に逢うた時には、長尾……そう、長尾景虎と名乗っておったか?」
「御意にございます」
 深々と頭を垂れる謙信。
 その謙信に向けて覚慶は淡々と言葉を続けた。熱のない、かといって冷めているわけでもない、不思議な口調で。


「門番や僧兵どもが居眠りをしておったわけでもあるまいに、ようもこの院までたどり着くことができたものよ。そちの顔に覚えがなくば、越後守護の名乗りなど盗人の騙りであると判断しておったところじゃ」
 そう云った覚慶は、それが冗談であると示すように喉を震わせ、かすかに哂う。
 しかし、その表情はすぐに改められ、刺すような視線が謙信の後頭部に向けられた。
「さて……一国の守護ともあろう者が、単身で一乗院門主の部屋に忍び込むにいたった、その用向きを訊かせてくりゃれ?」


 すでに将軍討死の報は畿内の隅々にまで届いている時期である。
 むろん覚慶も謙信も承知していた。その上で謙信が単身であらわれた理由を問いかける覚慶の態度は、為人において、また君臣の親疎において、姉である義輝との差異を謙信に感じ取らせるには十分であった。
「御身のご無事を確かめに参りました」
 それでも謙信の返答にためらいはない。
 もとより手放しで歓迎されると思っていたわけではなかった。
 次期将軍候補の最右翼。おそらく、今の覚慶のもとには、畿内はもとより全国各地の諸勢力から様々な接触の手が伸びているはずだ。覚慶を利用しようとたくらむ者、あるいは排除しようと目論む者が山をなして群がり寄ってくる状況で、ただひとり、自分だけが無条件で信頼されると期待するほど謙信はうぬぼれてはいない。



 そんな謙信の内心を知ってか知らずか、覚慶の声が皮肉の色を帯びる。
「このとおり五体満足じゃ。で、それを知ったら、次はどうする?」
「御意に従う所存です。ただ、願わくば殿下を弑し奉った者どもの手が及ばぬ地に、難を避けていただきたく存じます」
「逃げよ、と申すか。幕府の支配すら寄せ付けぬ興福寺の威はそちも知っておろう。三好の奴輩はそちよりもなお知っておる。げんに彼奴らはこの寺を囲みはしても、弓矢を向けることはない。この身は安きの中におる。それでもそちは、この身に凶逆の刃が届くと思うのかえ?」
 この問いに対して、謙信が返答に要した時間はごくわずかだった。かすかな震えを帯びた声が室内に響く。
「相手は征夷大将軍を手にかけた者たちなれば、いかなる凶逆もなすでありましょう」



◆◆



 謙信が二条御所襲撃の報を耳にしたのは、越後へ戻る帰路のことであった。
 上泉秀綱を九国へ送り出した後、なおしばらく謙信と政景は京にとどまった。当初、謙信は秀綱を送り出した後、間を置かずに越後へ戻る予定だったのだが、出立支度を終えた越後の一行に思わぬ幸運が舞い込んだのである。
 義輝や三条西家の計らいにより、主上への拝謁がかなう運びとなったのだ。これにより、謙信たちの帰国はさらにずれこみ、結果、二条御所が襲撃された際、謙信たちはまだ北陸路にさえたどり着くことができていなかった。


 将軍討死の一報を聞いた謙信はすぐさま京にとってかえす。
 戦の第一報が誤報であることはめずらしいことではない。御所が落とされたのが事実だとしても、義輝は逃げ延びている可能性もある。そういった可能性に一縷の望みをかけてのことであったが、京周辺の警戒は厳重であり、謙信率いる数十の手勢では突破しようもなかった。


 それでも、義輝の健在が確認できれば乾坤一擲の賭けに出ることもできただろう。
 謙信は今回の上洛に同行させていた軒猿の長や、その麾下の手練を京に送り込んで義輝生存の徴候を探らせたが、物慣れた忍たちでも謙信が望むものを見つけることはできなかった。
 彼らが掴むことができたのは、三好軍の一部が越後の一行に討手を差し向けたという事実のみであった。


 かくなる上は、急ぎ越後に戻って三好家追討の兵を挙げるべし。
 そう主張したのは長尾政景であり、他の者たちも政景の主張に同意した。実際、敵地に孤立した形の主従にとって、それがとりえる最善の手段であっただろう。
 しかし、謙信はかぶりを振ってその意見を却下した。
 義輝に心底からの忠誠を捧げていた謙信にとって、三好家は不倶戴天の敵となった。その彼らに対する復讐心で我を忘れたわけでは、もちろんない。
 三好が将軍を討った目的は幕政の掌握以外にありえない。思うように操れない義輝を退け、誰か別の人物――三好家にとって都合の良い人物を将軍の座に据えるつもりだろう。あるいは、足利幕府自体に見切りをつけ、三好家を中心とする別の政治組織を構築するつもりか。


 そのいずれにせよ、これから先、将軍家の血を引く者は三好家に狙われる。おそらくは傀儡として、悪くすれば邪魔者として。
 ことに危険なのが義輝の妹である覚慶である。そう考えた謙信は道を南にとり、大和へ向かうと告げた。覚慶の無事を確かめ、かなうならば越後に避難してもらうために、であった。




 この謙信の決断に対し、政景は必ずしも全面的な賛成を示したわけではなかったが、仕方ないといいたげに軽く肩をすくめて主君の決断を諒とした。謙信の懸念は理解できるし、反対したところで聞く耳もつまい、と判断したのである。
 むろん謙信とて危険は承知していたので、いざという時に備え、政景はそのまま越後に帰らせようとしたのだが、政景はこれを言下に拒絶した。
『この状況であんたを置いて先に帰ってみなさい。兼続が鬼になるわよ』
 とは、この時の政景の弁である。


 軽口の裏に秘められた、自身への気遣いに気づかない謙信ではない。
 謙信は形式上は部下である政景に深く頭を下げたが、政景は面倒そうにひらひらと手を振って相手の謝意をしりぞけた。
 ただ、ここで大和に向かうにしても、春日山に情勢を伝えておくことは必要である。また、今回の上洛目的には青苧の利権をめぐる京商人との渉外活動も含まれており、そのため御用商人である蔵田五郎左衛門のように戦闘には向かない同行者もいる。
 謙信は彼らを越後へ帰すことを決した。彼らに護衛を割けば、その分、謙信を守る兵の数は減ってしまうが、これから先の敵地での密行を考えれば、むしろ兵数が少ない方が敵の目をあざむけるだろう。
 さらに謙信は軒猿の一人を直江兼続の下へ走らせた。一足先に畿内の情勢と自分たちの動向を伝え、兵備を整えておいてもらうためである。


 ……諸々の手配を終えた政景は小さく嘆息した。
『結局、兼続を怒らせることにはかわりないわね』
『兼続ならば、怒りはしても理解してくれましょう』
 そんな会話をかわした後、越後の守護と守護代は動き出す。
 もともと果断速攻の用兵を旨とする越後勢、ひとたび方針を決すれば、その後の行動は迅速であった。
 謙信と政景の周囲をかためる兵は、両手の指でかぞえることのできる人数しかいなかったが、いずれも選びぬかれた精鋭たちである。これに軒猿の働きが加われば、その行動を捕捉するのは容易なことではない。
 かつての上洛で畿内の地理を把握していたことも役に立った。
 三好軍にしても、まさか越後の一行が京にとってかえしてきた挙句、道半ばで大和に向かうとは予測しておらず、討手は謙信の行方を完全に見失ってしまうのである。




 謙信にとって、大和の国は天城颯馬と共に高野山に赴く際に通った地であった。
 さすがに松永久秀の手形を持っていた道中とは勝手が違ったが、それでもかつての経験は大和国内における越後勢の行動をおおいに助けてくれた。
 謙信の先導の下、一行はさしたる危険に遭うこともなく興福寺へとたどり着く。
 そこで謙信たちが目のしたのは、興福寺の壮麗な寺院ではなく、その寺院を取り囲むように布陣する大勢の軍兵の姿であった。



 この時、興福寺を取り囲んでいたのは猛将 十河一存率いる三好軍である。
 三好家随一の剛武を誇る一存は、興福寺に対するいかなる働きかけも許さぬ、とばかりに寺を取り囲む形で兵を展開させていた。
 この軍兵に加え、興福寺は僧兵という固有の武力を備えている。三好軍と興福寺僧兵、この両者を同時に相手取って覚慶のもとに向かうのは一筋縄ではいかないだろう。そのことは誰の目にも明らかであった。まして覚慶を興福寺から連れ出し、畿内を抜ける挙にいたっては、はっきり不可能と断じることができる。


 しかしこの時、事態は越後勢にとってより簡単であった。 
 三好軍は形としては興福寺を守っているように見えたが、実際は覚慶の身柄をめぐって興福寺側と激しく角突き合わせており、三好兵と僧兵の間でも諍いが多発していたのだ。三好兵の意識は、ともすれば包囲の外よりも内に向けられている、という状態であった。
 となれば、両者の間隙を突く手段などいくらでも存在する。
 政景の陽動によって三好軍の包囲をかいくぐった謙信は、軒猿の手引きをうけ、こうして覚慶の部屋までたどり着いたのである。



◆◆



 ――しばし、沈黙の淵に佇んでいた覚慶は、ふっと唇を綻ばせた。
「ずいぶんと苦労をかけたようじゃの。姉君を案じ、わらわを案じ……頼みもせぬのに、とは意地の悪い言い様であるかえ?」
 その言葉に、謙信ははっきりとかぶりを振った。
「御意を確かめることなく、自らの判断で動いたはこの謙信でございます。我が行いが御身にとって無用のことであったならば、伏して詫びるほかございません」
「ふふ……なんら実権を持たぬ、姉君の影法師に過ぎぬわらわのため、身命を賭して働いてくれた。それを無用なぞと誰に云えようか。ようやってくれたの、上杉の。そちの忠誠――いや、義侠であるか、嬉しく思うぞ」
「もったいなきお言葉でございます」


 謙信の額が畳に接する寸前まで下げられる。
 覚慶はさらに言葉を重ねた。
「じゃがの、この身を寺より連れ出す必要はない。わらわは戦場を駆けるそちとは違う。多少の剣の技を修めていようとも、この身は非力。数多の討手に追われながら、山野に紛れて越後を目指すなど到底かなわぬ業よ」
「それがし、我が身にかえても御身を守り抜く所存でございます。なにとぞ信頼をたまわりたく」
「そちが信ずるに足る武将であることは承知しておる。あの姉君が全幅の信頼を置いた者じゃもの。じゃがな、上杉の。そちが真に守るべきは、わらわの身ではなく、姉君の志であろう?」
「それは――」
 何かを口にしかけた謙信を遮るように、覚慶は更なる言葉をおしかぶせた。


「わらわを盛りたてて幕府を再興し、もって姉君の想いに報いる。そちが願っているであろうことはわかる。が、それを為すためには、何よりもそちが無事でなくてはならぬのじゃ。この戦国の世、誰もが己が野心に焦がされて生きておる。そちのように心底から将軍に忠誠を捧げ、滅私の働きを為す者が他にいるとは思われぬ。この身と引き換えにそちが果てたなら、わらわのごときは群狼に群がり寄られ、肉を食われ、骨をしゃぶられ、ついには野にうち捨てられる末路を辿ること、目に見えておるわえ」
 それでは意味がない、と覚慶は云う。
「ゆえに、今は去るがよい。三好がわらわをどう扱うつもりかはわからぬが、今すぐ命を奪うつもりはあるまい。そのつもりなら、鬼十河はとうに寺に火をかけているに相違ないからの。であれば、残るは傀儡か、幽閉か。いずれにせよ、姉君が味わった苦痛と無念に比すれば堪えるのは易きこと。その程度で弱音を吐いては、雲上の姉君に情けない妹だと叱られてしまおう」



 風が強くなってきたのだろう、襖の外から境内の枝葉がざわめく音が響いてきた。
 空を見上げれば、足の速い雲が月をかすめるように幾つも通り過ぎていく様を目にすることができたであろう。
 覚慶はぽつりと呟いた。
「今宵は荒れそうじゃの。上杉の、これも計算の内かえ?」
「御意。月の隠れた夜、風と雨が兵たちの目をくらませましょう。もはや越後までとは申しませぬ。ですが、御身を包囲の外、三好家の手の届かぬところへお連れすることはかなうと存じますが」
 謙信の最期の確認に対し、覚慶は迷う様子もなくかぶりを振った。
「よい。わらわはここで将軍家に生まれついた者の責務を果たす。そちは急ぎ領国へ戻り、やがて来る時に備えるが良い。この身がどのように処されるにせよ、此度のそちの芳志を忘れることはせぬ。また、これより先、そちの意がこの身にあることを疑いもせぬ。これが今、わらわがそちにあずけることのできる精一杯の信頼じゃ」


 それはおそらく、謙信にとってこの場で望みえる最大限の言葉であった。
 そうと悟った謙信は、何度目のことか、深々と頭を垂れる。
 ――が、この時、謙信は内心にかすかな違和感を抱えていた。
 望みえる最大の信頼を得られたはずなのに、いつか二条御所で義輝と語り合った時のように心浮き立つものがない。
 覚慶の言葉には光も熱もなく、謙信の心を打つ正直(せいちょく)に欠けていた。また、彼女の声音は何故か謙信の心に波紋を投げかけてくるのだ。そのことが謙信の心に一抹の不安を残し、それが違和感を生じさせていた。


 しかし、謙信は内心にわだかまるそれらの思いを押し隠し、ついにおもてに出すことはなかった。
 覚慶は義輝ではない。ゆえに受ける印象が義輝と異なるのは当然のこと。同じ将軍家の血筋であるからといって、勝手にこちらの理想を押し付けた挙句、理想と違うからと不満をあらわす者が、どうして忠実な臣下たりえようか。
 義輝の死に対する動揺が自分の心を乱しているのだろう、と謙信は結論づけた。それに覚慶とて姉の死に衝撃を受けていないはずがない。前触れなく現れた闖入者に対し、姉を失ったばかりの痛みを押し隠して対話するとき、声音に冷えが出たとて何の不思議があるだろう。


「数ならぬ身に過ぎたお言葉でございます。この謙信、時至らば必ずや精兵をひっさげて御前に馳せ参じまする」
「うむ、頼りにしておるぞ、上杉の」
 こくり、と満足げにうなずく覚慶。
 と、ここで覚慶は不意に何かに心づいたように謙信に問いを向けた。
「上杉の。そち、帰国の道筋は定めておるのかえ? おそらく江北(北近江)から越前にかけては三好の手の者に塞がれていよう」
「いえ、未だ。近江路が通れぬようであれば、伊賀を越え、伊勢より船で三河なり遠江なりに出ようかと思案しておりました」
「伊賀越え、か。それはまた、求めて苦難の道を行くものよ。じゃが、伊賀さえ越えれば、あとは船旅。三河、遠江はいずれもそちの盟邦ゆえ、信濃を通ってつつがなく越後へ帰ることができる、というわけかえ」
「ご推察のとおりにございます」


 謙信の答えを聞いた覚慶は何事か考え込む様子を見せたが、やがて手近に置いてあった鈴を手に取り、それを二度、三度と高く鳴らした。
 間を置かず、この部屋へ近づいてくる人の気配を謙信は感じ取った。廊下を進んでいるというのに、足音ひとつ立てていない。この手の気配の主に関して、謙信はひとつ心当たりがあった。忍である。




 ほどなくして、何者かが襖の外で声を発した。
「……お呼びでございますか、覚慶さま」
「惟政(これまさ)、入ってきやれ」
「は、はい。では失礼しま――って、何者ッ!?」
 覚慶の声に応じて襖を開けた人物――外見上は髪をそりおとした坊主姿であったが、声からして少女だろう――は、室内に覚慶以外の人間がいることに気づき、驚愕の声をあげた。
 その驚愕は瞬く間に警戒へ、そして警戒から敵意へと変じていく。少女の手が腰の脇差に伸びた。
 それをとめたのは覚慶の一言である。


「控えよ。姉君が頼りになさっていた越後公ぞ」
 その言葉は、まるで魔法のように少女の動きを凍りつかせた。
「は、え、越後公と仰いますと、あの、上杉さま……? え、でもどうして上杉さまが覚慶さまのお部屋にいらっしゃるのです? け、警戒していたはずなのに」
 立て続けに並べられた真実に目を丸くする少女に対し、謙信は会釈をした。
「越後守護 上杉謙信だ。見知り置いてくれ」
「は、はい、あの、あたし、ではない、それがしは和田惟政と申します! 存ぜぬとは申せ、無礼の段、平にお許しくださいッ」
「私が無断で侵入した曲者であるのは事実。そなたが私を咎めだてするのは当然のことだ」


 謙信は惟政が向けた敵意をまったく気にしなかったが、惟政の方はそういうわけにはいかないようだった。動揺が拭いきれないのが見て取れる。
 よくよく見れば、惟政の頬はひどく扱けており、双眸にも生気が乏しい。まさか今しがたの一幕でこうなったわけではないだろう。この少女は謙信と顔をあわせる以前より、ひどく憔悴していたに違いない。


 どうしてこの少女を今この場に呼んだのか。
 謙信は問う眼差しを覚慶に向けた。
 心得た覚慶は、惟政を控えさせたまま、彼女を呼んだ理由を説明した。
「惟政は江南(南近江)は甲賀の産でな。江南はもちろん、隣国の伊賀の地理にも通じておる。惟政をそちの帰国の役に立ててほしいのじゃ」
 それを聞いて驚いたのは、謙信よりもむしろ惟政の方であった。
 何事か口にしようとした惟政に対し、覚慶は半ば命じるように云った。
「惟政。越後公は亡き姉君の股肱、おそらくこの日ノ本で唯一、姉君の志を継ぐことのできる人物じゃ。姉君より叩き込まれた武と、細川姉妹より授かった智を駆使し、越後公を無事に領国へお帰しもうしあげよ。そのために力を尽くせるのは、今この寺の中でひとり、そなただけなのじゃ」





 頬を紅潮させた惟政が、旅支度をととのえるために急ぎ足で部屋を去ってからしばし。
 覚慶は物問いたげな謙信に向けて口を開いた。
「あの者、姉君の近習のひとりでな。先の乱にてただひとり御所を落ち延び、わらわの下へ逃れてきたのよ。以来、髪をそり落とし、わらわを陰から守ってくれておる。この身を守ることが、亡き主君と朋輩に報いることができる唯一の道である、と申してな」
 その志はありがたく、貴いものだ、と覚慶は云う。
 しかし、先の乱でひとり生き延びてしまったことを悔やんでいる惟政は、乱以後、ほとんど食事も喉を通らぬ有様であった。このままでは覚慶を守るどころか、惟政の方が倒れてしまう。
 そう考えた覚慶は幾度も惟政を休ませようとしたそうだが……


「惟政は大人しげに見えて、案外と強情でな。この一点に関しては、わらわの云うことなぞ聞く耳もたぬ」
 おそらく惟政は、主君を失った悲哀や、ひとり生き残ってしまった悔恨を、覚慶のために懸命に働くことでかろうじて耐えている状態なのだろう。無理やり静養させたりすれば、今よりも状態が悪化しかねない。それこそ、そのまま衰弱死しかねないほどに。


 それを聞いた謙信は覚慶の意図を悟ったように思えた。
「それで、越後へ、ということですか」
「うむ。先にも申したが、そちは姉君の股肱。そちを守ることは、すなわち姉君の志を守ることでもある。此度の乱に巻き込まれたそちを無事に越後へ帰す。その行いに一臂の力を尽くせたとき、はじめて惟政は許されよう。他の誰でもない、惟政自身が御所から逃げ出した自分を許すことができるのじゃ」


 むろん、それだけで惟政を苛む悔恨の念が綺麗さっぱり消えうせるわけではないだろう。
 それでも、このまま自分のもとに留まり、いつ終わるとも知れぬ三好の圧迫に心身をすりへらすよりはよほど良い、と覚慶は云った。
 謙信と同道し、越後への帰国という明確な目的を果たすことの方が、惟政に良い影響を与えるだろう、とも。


「そちも気づいたであろうが、惟政は忍の業を修めておる。体力衰えたりとは申せ、そちの足を引っ張ることはよもあるまい。そちの諒承を得ずに事を決してしまったが、許してくりゃれ」
「許すなどと。今の状況では地理に通じた者は請うても得られぬところ。御身の指図に感謝こそすれ、異存などございません」
 謙信は心からそう返答した。


 ただ、ひとつ不安があるとすれば惟政の体力である。覚慶の言葉を疑うわけではないが、今の惟政に伊賀越えを為すだけの体力が残っているとは考えにくかった。
 おそらく、惟政に訊ねれば大丈夫だというだろう。謙信が命じれば、どんな難路でも迷うことなく付き従ってくれるに違いない。
 しかし、万一惟政が途上で力尽きてしまっては覚慶の意にそわぬことになる。謙信としても惟政のような忠義に篤い人物を失う危険をおかしたくはない。亡き義輝も悲しもう。
 かといって、惟政の体調を気遣って事を決すれば、惟政は自分が迷惑をかけたと思い込むはずだ。そのことがますます惟政を追い詰める結果になるのは目に見えていた。


 やはり、ここは伊賀越えという選択肢そのものを捨てるべきだろう、と謙信は決断する。
 幸い、謙信が伊賀越えの話を口にしたとき、惟政はこの場にいなかった。はじめから近江路を抜けるつもりであったといえば、惟政は何の疑いもなく信じるに違いない。むしろ、そのためにこそ江南生まれの自分が選ばれたのだ、と張り切るかもしれぬ。
 心を読む術でもないかぎり、謙信が惟政の体調を気遣って伊賀越えをとりやめた、などとわかるはずもないのだから……




◆◆




 しばしの時が過ぎ去った。


 すでに室内に謙信の姿はなく、惟政の姿も寺の中から消えている。
 風は先刻よりも強くなっており、カタカタと揺れる襖の音が覚慶の耳朶を不快に揺すぶった。
 だが、覚慶の意識にその音は届いていない。正確にいえば、その音よりもはるかに不快な出来事に意識の大部分を占有されており、他のことを気にしている余裕がなかったのだ。


 覚慶はぽつりと、囁くようにつぶやいた。
「越後の聖将、か。まこと、お日様のような人物であったの。姉君が頼みにしておった理由がようわかる」
 覚慶の視線が先刻まで謙信が座していた空間に向けられる。
 暗がりに身を潜めながら鮮やかな存在感をかもし出していた容色と、その容色さえ霞むほどに真っ直ぐな為人。
 不快になる要素はどこにもない。にも関わらず、その姿を思い浮かべる都度、覚慶は言い知れぬ嫌悪感に全身をわしづかみにされるのを感じていた。
 なぜなのか、その答えをすでに覚慶は自覚している。


 率直にいって、覚慶は度肝を抜かれていたのである。
 まさか謙信が単身で興福寺にやってくるなど想像すらしていなかったから。


 その事実がむしょうに腹立たしい。
 胸中を吹き荒れる苛立ちをしずめるために要した時間は決して短くなかった。
 そのことを相手に悟られたとは思わぬが、違和感の一つや二つは抱かせたかもしれぬ。覚慶にとってはかえすがえすも腹立たしい出来事であった。


「忌々しや、上杉め。先の九国のことといい、まさかわらわのことに気づいておるのかえ?」
 疑念を声に出した覚慶は、しかし、すぐに自身で否定した。
 謙信が覚慶の策動のすべてを承知しているのであれば、とるべき行動はもっと他にあったはず。
 ゆえに、上杉家は覚慶の真意に気づいていない。
 このことに疑いはなかったが、それをおいても近年の上杉家の行動は覚慶にとって目に余った。


 以前より、覚慶は謀略の一環として越後上杉家の排除を目論んでいた。ただし、それを他に優先させるつもりはなかった。そこまで上杉家を特別視してはいなかったのだ。くわえて相手が相手ゆえ、過ぎた策動は姉に気づかれる恐れもあった。
 しかし、その認識は改めるべきかもしれぬ。それも早急に。
 先の九国争乱でうまれた思案は、今回の謙信の行動で確信へと変じた。
 御所を源とした争乱の中、どこかの誰かに討たせよう、などという生温いものでは到底足りない。姉亡き今、その動向に注意を払う手間もない。
 まだ一乗院覚慶が――足利義秋が起つには時期尚早ゆえ、自身で手を下すことはできないが、竜の手足を縛る術などいくらでもある。
 たとえば、傷心の癒えぬ少女のように。



 覚慶は静かに哂う。
 謙信の前では決して見せなかった、ほのぐらい微笑であった。
「久秀の云うがごとく、南蛮の兵を追い返した者がそちの麾下なのだとすれば、この程度の意趣返しは可愛いものであろう、上杉の。なにしろあの一事は、手に届くはずだったわらわの願いをずいぶんと遠ざけてしまったからの――誰ぞある!」
 覚慶の呼びかけに応じて近くにいた小坊主が駆けつけてきた。
「何事ですか、覚慶さま」
「急ぎ藤長と義政、尚誠をこれへ。ただちに使いに発ってもらわねばならぬ」
「は、かしこまりました」
 覚慶が口にしたのは、覚慶子飼いの家臣たちである。
 覚慶は彼らを三つの場所に走らせるつもりだった。


 ひとりは近江との国境付近に布陣している三好三人衆のもとへ。
 ひとりは六角家の本城 観音寺城にいる六角義治のもとへ。
 そして、ひとりは稲葉山城――先ごろ岐阜城と改名した城塞で京を睨む織田信長のもとへ。



 いつの間にか降り出していた雨は、瞬く間に雨脚を強め、境内で雨粒の跳ねる音がうるさいくらいに響いてくる。とこか遠くで轟く音は、山鳴りか、遠雷か。
 口角を吊り上げた覚慶は、愉しげに、歌うようにひとりごちた。
「ふふ、踊れ、踊れ、我が手の上で。きやれ、きやれ、濃尾のうつけ。上杉の、この狂乱の嵐を抜け、ついに越後へたどり着くことができるかの? もしそれを為しえたのなら、認めてやろうぞ、そなたのことを。呼んでやろうぞ、そなたの名を。この日ノ本に光はいらぬ。落とす日輪の数がもう一つ増えるのも、わらわにとっては一興よ」

 


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