夜半、ふと目が覚めた。
その夜は久しぶりにぐっすりと眠ることができるはずだった。
久秀の話を聞いて以来――もっといえば、九国で義輝さま討死の報を聞いてからずっと胸にかかっていたモヤがやっと晴れてくれたからだ。
謙信さまが無事である。それがはっきりしただけで見える景色がたいぶ違う。
もちろん、まだ完全に無事だと決まったわけではないが、政景さまや段蔵の祖父君が一緒にいるのであれば、そうそう危地には陥るまい。
あの茶器娘(久秀)が出した条件である三好三人衆の排除も果たしたから、そちらから文句を言われる恐れもない。
人質扱いであった鶴姫が勝手に観音寺城を抜け出したことで、蒲生家と六角家の間はきな臭いことになっているようだが、織田浅井の連合軍を迎え撃っている六角義治が、いきなり青地城や日野城に攻めてくるとは考えにくい。
あとは別行動をとっている吉継、重秀らと合流してから謙信様を探し出すだけ。
何も問題はない、と自分に言い聞かせる。
だが、どうしてか気が高ぶる。
目をつむっても眠気が訪れない。羊を数えれば数えるほど、かえって目が冴えてしまう。
こんな空気には覚えがあった。敵軍が近づいている時だ。
今夜、この城を襲う勢力は存在しないはずだが――いや、待て。そういえば長恵たちが遭遇した杉谷善住坊(ぜんじゅぼう)が妙なことを言ってたらしいな。蒲生の姫が狙いとか何とか。
その善住坊が戦勝の宴にまぎれてこっそり城内に入り込んだ、なんてことはありえるだろうか。
長恵が知っていることだ。当然、蒲生家にも善住坊の件は伝わっているはずだし、警戒もしているはず。鶴姫には猿飛佐助あらため三雲賢春もついていると聞くし、三好政康との戦いで傷だらけになった俺が余計な心配をする必要はないはずである。
そのはずなのだが。
「だああ、くそ!」
黎明にはまだ遠い、草木も眠る丑三つ時。
俺は鉄扇のみを腰に差して部屋を出た。
◆◆
「……おや、師兄。厠(かわや)ですか?」
部屋を出た瞬間、いきなり声をかけられてびっくりした。
というか、驚きのあまり叫びそうになった。
見れば柱に背を預けた格好で丸目長恵が廊下に座っている。何してんだ、こんなところで。
「言うにやおよぶ。師兄の部屋の番をしていたのです」
「そこまでする必要はないんだが。いちおうは味方の城だぞ」
「昨日の敵は今日の友というではないですか。ならば、昨日の友が今日の敵になったところで何の不思議があるでしょう」
深いんだか浅いんだかよくわからない哲理を述べる長恵。
たしかに蒲生家はいちがいに味方とも言えない家であるから、警戒するに越したことはないかもしれない。そもそも俺自身、蒲生のお歴々を愚者呼ばわりしちゃったからなあ……
それに長恵は口にしなかったが、俺の容態が急変することを心配してくれたのだと思う。戦の傷から感染症にかかるなんて珍しくもないことだから。
「そうか。ありがとう、助かる」
「どういたしまして。ところで、傷の具合はいかがで? お望みとあらば厠で下の世話もいたしますが」
「丁重にお断りする。というか、そもそも厠じゃない。なんか妙に目が冴えてな。城の様子が気になったんだ」
「……ほう? 曲者が城中に入り込んでいる、と?」
「もしくは敵軍が近づいているか……気のせいというオチもなきにしもあらずだが」
むしろ、そちらの方が可能性が高いが、取り越し苦労なら取り越し苦労でかまわない。
とにかく今は、胸にわだかまる得体の知れない不安を消しておきたい。
「そういうことなら余計にお供いたしましょう。師兄が妙なことを言い出すときは、だいたい妙なことが起こるものです」
「微妙な信用をありがとう。まあ、あまりうろちょろして青地や蒲生の兵に怪しまれても面倒だ。それこそ厠に行くふりをして軽く様子を見てまわろう」
「承知いたしました――ふむ、夜の逢瀬と考えれば乙なものですね。姫(ひい)さまには怒られてしまいそうですけど」
「わけわからんこと言ってないで、ほら行くぞ」
長恵を促して歩き出す。
当然といえば当然だが、俺たち以外に廊下を歩く人の姿はない。通り過ぎる部屋の中から高いびきが響き、中には押し殺した喘ぎ声が聞こえてくる部屋も。
さらに進むと、なにやらとっくりを抱えるようにして廊下に倒れている男性を見つける。その口は幸せそうにほころび、むにゃむにゃと寝言を呟いている。良い夢を見ているようだ。
いかにも宴の後といった風情である。
まさか城門の方もこの有様ではあるまいな、と遠目から様子をうかがってみたが、かがり火の明かりに照らし出された兵士たちは、皆ぴんと背筋を張って任務に従事しているようだった。
このあたり、勝った後とはいえぬかりはなさそうである。
そりゃそうか。城主の青地茂綱にしても、援軍の蒲生賢秀、定秀にしても百戦錬磨の戦国武将。戦勝の宴で眠りこけるはずもない。俺が気付く程度の穴はとうに塞いであるに違いない。
となると、俺の嫌な予感は――
「やっぱり気のせいだったか。無駄足を踏ませて申し訳ない」
そう言って詫びると、長恵は驚いたように目を瞠った。
「いえいえ、無駄足だなんてとんでもない。さきほども申し上げたように、逢瀬だと考えれば乙なものですし、それに――」
「それに?」
「しっかり曲者の侵入を見抜いているじゃないですか。さすがの慧眼というべきです」
「…………へ?」
俺が間抜けな声をもらすのと、長恵が刀を抜くのは同時だった。
直後、甲高い金属音が鳴り響き、俺のすぐ目の前で火花が散る。
何者かが庭の暗がりから投じた撃剣(投げナイフ)を長恵が叩き落したのだと悟るまで、少しだけ時間が必要だった。
「あは、気配は絶ったつもりだったんだけどなあ。よく気付いたね、お姉さん!」
「あれだけはっきりと剣気を向けられたら嫌でも気付きます。本当に気配を絶ったつもりだったのなら、修行不足と言わざるをえませんよ?」
「あちゃあ、やっぱり漏れちゃってたか。なんとか直前で押しとどめたつもりだったんだけど。でもまあ、結果としてお姉さんとやりあえるから、それでよし!」
そう言って夜のしじまを破って現れたのは、長大な剣を携えた一人の少女だった。
曲者、暗殺者にしては妙に明るく、服装もこざっぱりしている。
声を低めようという努力も見られない。
なによりこの少女はあっさりと自分の素性をばらしてきた。
「柳生石舟斎宗厳、推参つかまつった。お姉さんのお名前は?」
「丸目蔵人佐長恵」
長恵の名を聞いた瞬間、やたらと聞き覚えのある名前の少女は目を輝かせた。
「天下の重宝! うわあ、すごいすごい、こんなところで会えるとは思わなかった! こればっかりはあの狒々爺に感謝しないといけないかな。あ、狒々爺っていうのは善住坊ってやつのことで……えっと、もう知ってるよね?」
「ああ、好色でいけすかない上に変態な狒々爺のことですね。知ってますよ。あなた方は同じ一党でしたか。ということは、同じ主を戴いていると考えても?」
「うーん、さすがにそっちはほいほいと喋れないかなあ」
少女――柳生宗厳はぽりぽりと頬をかく。
長恵は追及しなかった。
「そうですか。それでは言伝だけ頼みます。仮にも日蓮御坊がふるっていた刀を、あの狒々爺に使わせるのはいかがなものか、と」
「あ、それはすっごい同感! あいつに使わせるくらいなら、物置で埃をかぶせておく方がよっぽど有意義だよね!」
そう言った後、宗厳はこてりと首を傾けた。
「でもいいの? あたしがか……じゃないや、ええと、主に言伝を伝えるってことは、ここでお姉さんが負けるってことなんだけど?」
「そうとも限りません。堂々と名乗る性根に免じて、こちらが勝っても命だけは助けてあげるつもりですからね。心置きなく尻尾をまいて逃げ帰り、主に言伝を伝えてくださいな」
「あははははは! お姉さん面白い! 善住坊のことといい、なんか気が合うね!」
満面の笑みを浮かべながら、宗厳は背中の大太刀を抜き放つ。
少女の身長よりも大きいのではないかと思われる長大な太刀。おそらく鞘に何らかの仕掛けが施してあるのだろう。
明らかに少女の身体とつりあっていないが、あれを振り回せるのだろうか?
……振り回せるんだろうなあ、柳生石舟斎だし。
ただ、振り回せるとしても、城内に引き込んでしまえば取り回しに苦慮するのは間違いあるまい。いかに長大な業物でも柱や壁をずんばらりんとはいかないだろうし。
俺が気付くくらいだ。長恵も当然気付いているであろうが、その長恵はためらう様子も見せずに自ら庭先におりていく。
今や宗厳が浮かべる笑みは恍惚の域に達していた。
「さすがだねえ! あ、でも別に城の中に引き込んでも大丈夫だったんだよ? 永則の突きは南蛮胴だって貫くからね!」
「動かぬ胴具足なら子供とて貫けますよ。あ、師兄は蒲生の姫さまのところへ向かってください。お師様がいる上は滅多なことにはならないと思いますが、あの狒々爺は何をしてくるかわかりません。毒に人質、闇討ちに鉄砲にと何でもござれな奴です」
「あ、それは同感……ん? お師様? 丸目長恵の師っていえば上泉秀綱!? うそ、当代の剣聖までいるの、この城!? なに、ここは極楽か何か!?」
ブレない宗厳が感激のあまり目をハートマークにしている。
大丈夫か、この娘? 長恵と戦う前に興奮でぶっ倒れるんじゃないか?
そんなあらぬ心配をする俺に対し、柳生宗厳がいきなり声をかけてきた。
「そこのお兄さん!」
「うえ!? な、何だ?」
「善住坊の目的は蒲生の鶴姫! まず城に火を放って、その混乱をついてかどわかすつもりだよ! 城に侵入しているのは根来の僧兵十人と善住坊。鉄砲は五丁。あいつのことだから他にも何か汚いこと考えている可能性も大! あと、善住坊の近くには胤栄(いんえい)っていうのっぽの槍使いがいるから、そいつには要注意ね!」
「お、お、おう?」
「くれぐれも――いい? くれぐれも剣聖に怪我なんてさせちゃ駄目だからね!? わかった!? わかったら、ほらいったいった! もう時間ないよ!」
なんで俺は敵に丁寧に計画を説明された挙句、早く知らせにいけと急かされているのだろうか?
わけが分からなかったが、冗談を言っている様子はないし、俺がこの場にいても長恵の邪魔になるばかり。
それにどのみち柳生宗厳という侵入者の情報を知らせる必要はあるのだ。
首を傾げつつ長恵を見た俺は、その長恵がこくりとうなずくのを確認してから急ぎ足でその場を後にした。
◆◆
「よかったのですか、あのようなことを話してしまって?」
「いいよいいよ。ここに来たのは善住坊が敵わなかったって二人に興味があったからで、十歳の女の子をどうこうしようなんて企み、端からどうでもいいもん」
だからこそ、宗厳は城内に入るやさっさと善住坊と別行動をとったのである。
むしろ、善住坊の目論見が成功していたら、宗厳自身があの腐れ坊主を斬っていたかもしれない。
その場合、一乗院覚慶から善住坊の護衛を命令されている胤栄と殺し合いになるだろうが、それはそれで宗厳としては望むところである。
その胤栄とて善住坊の趣味には辟易としており、今回の襲撃にも一乗院との兼ね合いで渋々同行しているだけなので、たとえ宗厳が善住坊を斬っても殺し合いになるかは微妙なところであったが。
「ともあれ、死合おうか、お姉さんあらため丸目長恵! あなたを倒して、次は剣聖上泉! 柳生石舟斎の名を高めるに今宵以上の好機なし! いざいざ尋常に、勝負勝負ゥ!!」
大太刀をぶんぶんと振り回しながら楽しげに笑う宗厳をみて、長恵はかすかに眉をひそめた。
宗厳の言動を見ていると、ついついかつての己を思い出してしまうのだ。
剣聖に挑むために秀綱のもとに押しかけた己、天を目指すと公言して雲居筑前の陣に押し通った己を。
「……ふむ。もしやこのいわく言いがたい感情が、師兄いうところの『くろれきし』というやつでしょうか? いえ、天を目指すという意味では今も昔も変わってなどいないのですが」
言いつつ、長恵は八相に似た構えをとる。
最も戦い慣れた姿勢をとった長恵に対し、宗厳は脇構えで応じた。
右足を半歩引き、体を敵に対して右斜めになるよう構え、刀を右腰に寄せる。
この状態で剣先を身体の後ろに倒すと、敵から刀身の長さが視認できないようになるのだ。
愛刀永則の長大さを最大限に生かし得る、宗厳必勝必殺の構えである。
先刻までの親しげな素振りは影を潜め、剣士の闘気が宗厳の面貌を覆う。
長恵も同様だ。
つかの間の静寂。
次の瞬間、丸目長恵と柳生宗厳は同時に中庭の土を蹴りつけた。