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No.40336の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~ 【第三部】[月桂](2014/08/15 00:02)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(二)[月桂](2014/08/15 23:44)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(三)[月桂](2014/08/21 22:47)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(四)[月桂](2014/08/25 23:54)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(一)[月桂](2014/09/03 21:36)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(二)[月桂](2014/09/06 22:10)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(三)[月桂](2014/09/11 20:07)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(四)[月桂](2014/09/16 22:28)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(一)[月桂](2014/09/19 20:57)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(二)[月桂](2014/09/23 20:30)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(三)[月桂](2014/09/28 17:53)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(四)[月桂](2014/10/04 22:49)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2014/10/12 02:27)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(五) [月桂](2014/10/12 02:23)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(六)[月桂](2014/10/17 02:32)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(七)[月桂](2014/10/17 02:31)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(八)[月桂](2014/10/20 22:30)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2014/10/23 23:40)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(一)[月桂](2018/06/22 18:29)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(二)[月桂](2018/07/04 18:40)
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[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/10/04 22:49

 少し時をさかのぼる。


 一乗院覚慶との邂逅を終えた上杉謙信は、和田惟政の案内で南近江に入った。
 和田家はいわゆる甲賀五十三家――かつて六角家を助けて足利将軍を退けた甲賀の豪族たち――の一角であり、惟政の父である宗立は甲賀南部に所領を有している。
 惟政はまず父のもとに赴き、しかる後、六角家に対して上杉主従の保護を願い出るつもりであった。
 六角家は長年にわたって義輝を支えてきた家であり、三好家は宿敵といってよい。上杉家をないがしろにすることはよもあるまい、と考えたのである。


 だが、事態は惟政の予測を一顧だにしない早さと荒々しさで突き進んでいった。
 観音寺城への案内をつとめるはずの六角兵は惟政たちを三雲の廃寺へと押し込め、六角義治はもちろんのこと、領主である三雲成持さえ姿を見せない。これが警護のための行動だと思うほど惟政もおめでたくはなかった。
 理由は定かではないが、六角家は上杉主従を幽閉したのだ。そのことに思い至った惟政ははじめに憤然とし、次に蒼白になった。
 主君である義輝を守ることができず、傷心に沈んでいた惟政に対し、覚慶が与えてくれた贖罪の機会。それさえ失敗してしまったら、いったいどんな顔をして興福寺に戻ればいいのだろうか。腹を切ったところで義輝や細川姉妹に合わせる顔などありはしない。
 もっといえば、上杉主従から見れば、惟政は六角家の意を受けて彼らを罠にはめたようにしか見えないのではないか。そういった諸々に想到した惟政の顔は、もはや死人のそれに等しかった。




 そんな惟政の両の頬をむにゅっと掴んだ人物がいる。
「たく、なんて顔をしてるのよ、あんたは」
「ふあ!?」
 餅でもつまむように惟政の頬を左右に引っ張ったのは越後守護代 長尾政景であった。
 意気消沈していたとはいえ、仮にも忍びとして将軍に仕えていた惟政の不意をついた政景は、ずずいっと惟政の目をのぞきこんだ。
「ふ、ふほふぁいふぁふぁ(しゅ、守護代さま)?」
「地獄の亡者もかくやって顔よ。勝手に考え込んで、勝手に堕ちていくのはやめなさい」
 云い終えた政景は惟政の頬から手をはなす。惟政は反射的に両頬をおさえながら、かすれた声で云った。
「し、しかし、それがしのせいで、皆様が……」
「六角家に頼るという案を出したのはあんた。その案を容れたのはあたしたち。勝手にあたしたちの責任まで背負い込んで死にそうな顔してるんじゃないわよ」


 そう云うと、政景は人差し指で惟政の額をつんと突っついた。
 ぶっきらぼうな物言いではあったが、惟政を見る政景の目は優しげで、何故だか惟政は今は亡き主君を思い出した。顔立ちといい、雰囲気といい、決して似ているわけではなかったのだが。


 自然、惟政は頭を垂れていた。
「……申し訳、ございません」
 その言葉に込められた意味に気づいたのか、気づいていないのか、政景はやれやれといいたげに肩をすくめた。
「うん、許す。だから、謝るのはこれで最後にしときなさい」
 悔いて、泣いて、謝って。義輝はそんな生き方をさせるために惟政を逃がしたわけではないだろう。政景はそう思ったが、これは口にしなかった。惟政がそれをわかった上で、それでも悔やまざるをえないのだ、ということもわかっていたからである。
 そんな惟政を責めて、その小さな背にこれ以上の重荷を乗せるなどできるはずもなかった。






「政景どの」
 部屋に戻った政景を、神妙な顔をした謙信が出迎える。謙信の向かいにどっかと腰を下ろした政景は、頬をかきながら口を開いた。
「たぶん、もう大丈夫だと思うわ。正直、あんまり自信はないけど」
「政景どのが大丈夫だと思われたなら大丈夫でしょう。お手数をかけました」
 ぺこりと頭を下げる謙信。それに対し、政景はひらひらと手を振って応じた。
「別に手数ってほどのことはしてないわ。あたしもあの子のことは気になってたしね」


 惟政の尋常ならざる様子に気がついていたのは政景だけではない。むしろ気づいたのは謙信の方が先であったろう。しかし、惟政は謙信と言葉を交わすとき、常以上に気を張ってしまって繊細な話題には触れづらかった。くわえて、戦のことならいざ知らず、目下の者との対話となると謙信は自分に自信が持てない。ヘタをすると余計に惟政を追い詰めることになりかねぬ。
 そう危惧した謙信は、自分より諸事に通じている政景に相談したのである。




「さて、惟政の方はひとまずこれで良いとして」
 それまでの優しげな雰囲気から一転、口元に好戦的な笑みを浮かべた政景はざっと周囲を見渡した。
「いいかげん、このお粗末きわまりない宿での逗留にも飽きてきたわ。そろそろ斬り破ってもいい頃合じゃないかしら?」
 上田長尾家の跡継ぎとして生まれた身ながら、基本的にどこでも寝られる政景は、廃寺での幽閉生活もそれなりに楽しんでいた。幽閉など滅多に経験できるものではなく、そう考えれば有意義ですらある、と(皮肉まじりに)思っていたわけだが、周囲を取り囲む六角兵の害意が日に日に強まっている以上、いつまでも泰然としてはいられない。


 特にここのところ、敵兵の動きが目に見えて不穏の気を増している、と政景は感じていた。
 そのことは謙信も気づいており、政景の言葉にうなずいた。
「軒猿によれば、先ごろ三雲城より包囲の兵たちに急使が来た由。おそらく、我らを討つ決意を固めたのでしょう」
 それを聞いた政景は大きくため息を吐いた。
「結局そうなるか。数が数、場所も場所、できれば六角家と事を構えたくはなかったけど、向こうがその気なら仕方ないわね。たく、義治とかいう当主、面倒なことを考えてくれるものだわ」
「先代の承禎どのは殿下の忠実な臣であったはずですが、代がわりして方針をかえた、ということなのでしょう。あるいは、我らを討たざるを得ぬなにがしかの理由があるのかもしれませんが、事ここにいたれば是非もなし、斬り破るしかありますまい」
 謙信と政景が刀の柄頭を握り、うなずきあう。もともと、いつ事が生じても不覚をとらないように準備はしてある。包囲の兵たちは、こちらが動くとすれば夜であろうと考えているようだが、謙信にしても政景にしても敵の不意をつくことの意味を良く知っていた。奇襲とは何も闇夜でなければ出来ないものではないのだ。



 ところが。
 二人が立ち上がろうとした、その寸前。今にも崩れ落ちそうな天井の隅から低い声が降り落ちて、二人の動きを縫いとめた。
「……その儀、しばしお待ちいただきたい」
 それは今回の上洛に同行している軒猿の長の声だった。長をはじめとした軒猿たちは、近江に入国するにあたって不測の事態に備えて別行動をとっている。謙信らが今日まで六角家の云うことに従っていたのは、出来れば六角家と事を構えたくないという思惑があったからだが、同時に、いざとなればいつでも幽閉の身から脱することができる、と考えていたからでもある。


 軒猿の長は加藤段蔵の祖父であり、今回の上洛でも陰で尽力してくれている。当然、謙信も政景も長のことはよく知っていた。
 謙信が囁くように問いを向ける。
「長、何かあったのか?」
「しかり。先ごろより付近の山中に怪しげな影が見え隠れしております。忍びと思われまするが、六角家の者とはおもえぬ節があり、正体を確かめるべく手の者を差し向けたところ。動くのは暫時お待ちいただきたい」


「六角ではない忍び、ねえ」
 政景の声はやや不満そうだった。別に長に意趣があるわけではなく、いざゆかん、という気組みをくじかれたためである。
「そう判断した理由は?」
 政景の問いに、長は言葉すくなに応じた。
「彼の者どもが六角兵を見張っていたゆえに」
「なるほど、そりゃ六角の忍びじゃないわ。まあ場所が場所だから忍びの里も一つや二つじゃないんでしょうけど」
 政景が妙な納得の仕方をする。忍びといえば伊賀、甲賀――などといえば軒猿の者たちが気を悪くするだろうが、忍びの中に伊賀者、甲賀者が多いのは事実である。優れた使い手を輩出する里が複数あれば、その中に六角家に属さない勢力が存在したとしても不思議ではない、と政景は考えた。


 そんな政景の横で、謙信は長に釘を刺す。
「長、六角の意に従わぬ者たちならば、我らにとっては味方となる者かもしれぬ。できうるかぎり手荒なまねはいたすな」
「諾」
 短い返答が届くや否や、ふっと天井の気配が消えた。
 政景は肩をすくめる。
「ひ孫ほしさに段蔵をせっついてた老人とは思えないわね。いや、怖い怖い」
「む、そうなのですか? 初耳ですが」
「いつだったか、段蔵が憂鬱そうにため息ついてたわよ」
「ふむ……段蔵が苦労しているようなら、私がしかるべき家柄の者との仲を取り持ってもいいのですが――」
 守護や守護代ともなれば、家と家との仲を取り持つのも仕事のひとつである。謙信は純然たる親切心で口にしたのだが、それを聞いた政景の返答は素早かった。


「やめときなさい。それは色々な意味でまずいから」
「?」
 不思議そうに首をかしげる謙信。
 そんな謙信を見て、政景はこれみよがしに深いため息を吐いた。




◆◆




 しばし後。
 正体不明の忍びたちの主について報告を受けた政景は、腕組みしながら呟いた。
「蒲生家の鶴姫、ね」
 軒猿が捕らえた者の話では、上杉主従の幽閉を知った鶴姫が独自に動いて謙信たちを救い出そうとしていたのだという。
「えらくあっさり捕まって、えらくあっさり白状したものね?」
 その政景の疑問に長は淡々と応じた。
 なんでも、今回の件はかなりの部分が鶴姫の独断であり、動かせる手勢にはかぎりがあった、ということらしい。そのためか、大半の忍びは未熟の一語で片付けられる程度であり、今回の上洛に備えて精鋭をえりすぐってきた軒猿にしてみれば、相手にとって不足あり、というところであったそうな。


 ともあれ、この蒲生家の動きは上杉家にとって予期せぬ幸運のように思われた。和田惟政などはそう考えて愁眉を開いていたのだが、実際のところ、それほど単純な話ではなかった。
 政景は云う。
「鶴って子の才気については正直半信半疑だけど、ま、神童って言葉もあるし、時にはそういう子が出てくることもあるかもしれないわね。とはいえ、じゃあ蒲生家を頼りましょうってわけにはいかないわ」
「ど、どうしてでしょうか?」
 惟政が驚いて聞き返す。


 蒲生家の助力を知った時、惟政の脳裏には近江を抜けるための案が閃いていた。
 江南の名家である蒲生家が味方につけば、この地における危険はぐっと薄まる。その上で惟政は、まず上杉主従を今一度和田家に連れて行くつもりだった。甲賀の南部に位置する和田家の領土は伊勢との国境に近く、これを越えれば伊勢亀山城の関盛信のもとに行くことができる。
 和田家はことさら関盛信と懇意にしているわけではないのだが、盛信の妻は蒲生定秀の娘であり、蒲生家の口ぞえがあれば問題なく伊勢を通過できるだろう。伊勢さえ抜けてしまえば、船で三河なり遠江なりを目指せばよい。松平家も武田家も上杉の盟友であるから、越後はもうすぐそこ――と、惟政はそう考えたのだが、政景も、そして謙信の表情も明るいものではなかった。


 謙信がその理由を口にする。
「先に和田家を頼ったときとは違う。いまや我らを敵とする六角家の意志は明らかであり、私たちが両家の門を叩けば、彼らは否応なしに主家と対立することになる。近江の国を混乱させる火種になるのは本意ではないのだ」
 六角義治の為人を聞くかぎり、上杉主従に領内を通過させただけでも、それを粛清の理由にしかねない危うさが感じられる。いまだ接触のない蒲生家はともかく、和田家は今の時点でもかなり警戒されていることだろう。この上、惟政や惟政の父の宗立がはっきりと上杉家に助力しようものなら、義治は間違いなく謀反と判断して和田領に兵を差し向けるはずだ。
 そうなれば多くの民が戦火に晒されることになる。これは蒲生家を頼った場合も同様であろう。たとえ蒲生家や和田家の当主が、すべて覚悟の上で手を差し伸べてくれたのだとしても、その手にすがることは謙信にはできないことであった。


 それを聞いた政景がうんうんと頷き、さらに続ける。
「あたしらを六角家に対抗するための手札にされても困るしね。和田家や蒲生家にその気がなかったとしても、結果としてそうなってしまうことは十分考えられるのよ」
 謙信にしても政景にしても、将軍を弑した三好家や、その三好家にくみして約定を違えた六角家に容赦するつもりはない。いずれ必ず、との決意は揺らがないが、そのために他家の領地、領民を戦火の淵に叩き込むつもりは毛頭なかった。
 他家の思惑に絡め取られるのもごめんこうむる。
 彼らを討つならば自分たちの手で。それが出来ないのであれば、一刻も早く越後へ戻るべきであった。




 それを聞いた惟政は暗然とする。結局、自分では何の役にも立てないのか、と悄然とうつむきかけた惟政の耳に、政景のあっけらかんとした言葉が飛び込んできた。
「というわけで惟政、あんたにはたっぷりと働いてもらうわよ」
「……は、はい?」
 目をぱちくりとさせる惟政。
 対して政景は、どこか生き生きとした様子で言葉を紡いでいった。
「本来なら和田家のあんたはここで袂を分かった方が良いんだけど、どうせ承知しないでしょうからね。なら目一杯使い倒さないと。とりあえず人質役になってもらいましょうか。ここを斬り破るとき、あんたの命がおしければ道を開けろーって騒ぎ立てれば、あたしたちが六角家と和田家を同じに見ていることは伝わるでしょ。で、包囲を抜けたらあんたを解放するから、あんたはその足で六角の当主のところにいって、そうね、あたしたちが伊賀にでも逃げ込んだってことにしなさい。その間にあたしらは連中の喉笛を食い破れる場所に潜んでおく。ふふん、奴らの慌てふためく顔が目に浮かぶわ」


 惟政がぽかんとしている間にも政景の話は続いていく。
 ハッと我にかえった惟政は非礼をかえりみず、慌てて政景を止めた。
「ちょ、ちょっとお待ちください!?」
「ん? どしたの?」
「い、いえ、その、何を仰っているのかが今ひとつ判然とせず……一刻も早く越後へ戻るべき、というお話ですよね……?」
 それにしてはえらく物騒な単語が混じっていたような気がする惟政である。
 政景は人差し指を立てると、ちっちっと左右に振った。
「違うわよ。ちゃんと云ったでしょうが。『連中を自分たちの手で討てないのなら』一刻も早く越後へ戻るべきだって」
「??」
「つまり、連中を自分たちの手で討つなら何の問題もないということよ」



 いやその結論はおかしい。
 惟政は呆然としながらも、内心でそんなツッコミをいれていた。



 一方の政景は自分の言動に疑問を抱えていないようで、真面目な顔で続けた。
「そもそもよ。どうやって逃げるかばかりを考えるのは不健全だわ。というか、あたしの性に合わない」
「い、いえ、あの……」
 この状況で性に合う合わないはそれほど重要なことではない、と惟政は思った。やはり口には出せなかったが。
 そんな惟政を尻目に政景は滔々と語り続ける。
「その無備を攻め、その不意に出ずってのは孫子だったかしらね。ここを斬り破れば、六角やら三雲やらはあたしたちが逃げ出したと思って狩り立てに来るでしょう。まさか、それが連中をおびき出す誘いの一手だとは気づかずに、ね」
 野の獣だとて追い詰められれば死を覚悟して抗うもの。ましてこちらは越後武士。何が悲しゅうて、いつまでも六角ずれの好きにさせておかねばならないのか、と政景は気炎を吐いた。



 話についていけず、困じ果てた惟政は助けを求めるように謙信の方を見つめた、のだが。
 その視線の先で、謙信はうんうんとうなずいていた。
「そうですね、それがよろしいでしょう」
「ええええ!?」


 驚き慌てる惟政を見て、謙信が真面目な顔で説明した。
「近江の国人衆に頼ることはできぬ。かといって、野に伏し、山に寝て近江を抜けることは難しかろう」
 こちらには惟政がいるので道に迷う恐れはない。しかし、上杉一行に惟政がいることは六角家も把握しており、惟政の動きを予測して待ち伏せを仕掛けていることが考えられる。特に和田領へ通じる道はほぼ確実に塞がれているだろう、と謙信は考えていた。
「政景どのの言葉ではないが、狩りの獲物のように追い立てられ、追い詰められるのが関の山だ。であれば、うって出ることで活路を見出すのも一つの手だと思う」
「そうそう。さっきも云ったけど、まさかこの状況であたしたちが立ち向かってくるなんて夢にも思ってないでしょうからね。傍目には無謀に見えても、相手の意表をつくことができれば奇襲の効果としては十分よ」
 実は今日までの諸々でけっこうな鬱憤をためていたらしい政景は、そう云って愉しげに口元を歪める。
 あたかも獲物を前にした肉食獣のごとき政景の表情を見て、惟政はぞくりと背を震わせた。








 
 六角軍の包囲を斬り破ることはさして難しくなかった。惟政を人質にとった上で、越後の守護と守護代が真昼間に真正面から切り込んだのである。寺に派手に火をつけたりもしたが、これはしてもしなくても結果はかわらなかったであろう。
 その後、上杉家の主従が漂泊の民に扮したのは軒猿の長の手配りによる。
 理由は幾つもあった。忍びが諜報活動において漂泊の民を装うのは常套手段であり、準備や扮装に慣れていたこと。二十人近い人数が集まっていても不自然ではないこと。逃げ隠れしているはずの者たちが、鳴り物をならして人目を集めるとは誰も考えないであろうこと等々である。


 本来、謙信や政景のような身分の者が「七道の者」に身をやつすなどありえないことで、もし春日山城の直江兼続がこのことを知れば素で悶絶したかもしれない。あるいは怒髪天をついて雷を落とすか、いずれにせよ平静ではいられなかったことだろう。
 そのくらい常識はずれの行動なのだが、当の本人たちはけっこう乗り気であった。
 政景などは進んで舞い手役を引き受けて『京での修行の成果、今こそ見せてやるわ』と鼻息を荒くしたほどである。永禄の静御前(源義経の愛妾 白拍子)とはあたしのことよ――とはさすがに云わなかったが、偽名に「静」を選んだあたり、意識はしていたのかもしれない。
 謙信は謙信で、以前に虚無僧に扮して武田家に赴いたことを思い出して懐かしそうに目を細めており、もし惟政がその場にいれば、この人たちはもしかして目的を忘れていないだろうか、と不安に思ったことだろう。



 その惟政はすでに観音寺城へと向かっている。これは政景が口にしたように、惟政や和田家が上杉主従と袂を分かったことを義治に印象づけるためである。同時に、上杉一行が伊賀に向かったという偽情報を流して謙信たちの行方をくらませるためでもあった。
 その後、惟政は観音寺城にあって義治や六角軍主力の動きを監視する、というのが政景の目論みである。惟政が義治に怪しまれる可能性もあったが、その時は惟政がつちかってきた忍びの技が役に立つだろう。
 惟政とわかれた上杉一行が野洲川をくだって琵琶湖を目指したのは、そちらの方がより六角家の動向を把握しやすいという判断であった。忍びが多い甲賀に長く留まると、それだけ正体が露見しやすくなる、という危惧もある。


 上杉謙信が奇妙な一行を見つけたのは、その最中のことであった。
 
 


 
◆◆◆





 南近江 野洲川近辺


「そこの娘」
 大谷吉継に向かってその声がかけられたのは、遊芸者たちの演目でにぎわう人込みから離れて一息ついた時であった。
 鈴木重秀の先導で村から少し離れた位置にある木立にやってきた吉継は、そこに布を敷いて意識のない長束利兵衛の身体を横たえた。
 そうして、さてこれからどうするべきかと重秀と相談しようとした矢先、いつの間に近づいていたのか、黒髪の女性が声をかけてきたのである。


 とっさに身構えかけた吉継が、ふと何かに気づいたように目を見開く。
「あなたは、さきほどの……」
 舞台の上で笛を奏していた女性だった。女性はこくりとうなずくと、吉継の目をじっと見つめる。
 自身の目の色を怪しまれているのか、と吉継は警戒したが、女性はその点には特に触れず、すぐに横たわる利兵衛に視線を移した。
 心配そうに眉を曇らせている女性から悪意は感じられなかったが、この女性は確かに先ほど舞台の上に立っていたはずだ。演目が終わった後、すぐに吉継たちを追ったのだとすればこの場にいることは不可能ではないが、縁もゆかりもない相手に対してそこまでする理由は何なのかと思案すれば、どうしても警戒を解くことはできない。


 そんな疑念を吉継の眼差しから感じ取ったのか、女性は吉継たちの不安を除くように口元に笑みを浮かべると、穏やかな声音で云った。
「私はあの一座で虎と呼ばれている。そなたたち、何かわけあっての道中のようだが、今日の宿のあてはあるのか? ないようならば、我らのところへ参らぬかと誘いにきたのだ」
 それはいささかならず唐突で、同時に怪しげな誘いであっただろう。うまい話に裏があるのは世の常であり、吉継はそのことをよくわきまえていた。
 わきまえていた、はずだったのだが。


 不思議なことに、このとき相手の笑みを見た吉継は、眼前の人物に抱いていた警戒心が陽だまりに置いた氷のように解けていくのを感じていた。
 強いて理由をあげれば、相手の立ち居振る舞いに邪念が感じられなかったためであろう。凛然とした言動は、悪人という言葉の対極に位置しているように映る。
 そして、実はこれがもっとも大きな理由だったのだが、吉継は虎と名乗った女性の面立ちに、自身が良く知る誰かの面影を見た気がしたのである。




 とはいえ、当然のように戸惑いは存在する。
 吉継たちの逡巡をどう受け取ったのか、虎は静かに続けた。
「他意はない。舞台の上から、そこな童が倒れるのが見えてな。そなたたちの様子を見れば、このあたりの者とも思えなかった。そこで、差し出がましいとは思ったが、こうして後を追ってきた次第だ。もしそなたらにあてがあるなら強いてとは云わぬが、いずれにせよ、その童は早めに医の心得がある者に見せたが良いと思うぞ。心気の衰えが甚だしい。よほどに無理を重ねていたのだろう」
「……それは」
 吉継と重秀は顔を見合わせる。
 虎の云うことはもっともで、その申し出もありがたいものだった。たしかに利兵衛は早めに医者に見せるべきであるし、少なくとも落ち着ける場所でゆっくり休ませるべきであった。このような野ざらしの場ではなく。


 吉継としては、一時のこととはいえ、海千山千の漂泊民と行動を共にすることに不安はあった。自分ひとりのことならどうとでもなるが、利兵衛たちの安全を考えると、危ない橋は極力渡りたくない。
 しかし、ここで相手の提案をはねつけた結果、利兵衛の具合が悪化したりしたら目もあてられない。利兵衛以外の子供たちも無理をしていることにかわりはなく、いつ体調を崩すかわからない、という懸念もあった。


 吉継が重秀の顔をうかがうと、重秀は小さくうなずきを返してきた。
 重秀にしても吉継と似た懸念を持っている。同時に、この虎という女性がもし悪心を持って自分たちに近づいてきたのだとしたら、ここで断ったところで逃げようがない、とも感じていた。
 相手の姿勢、眼差し、足運び。いずれを見てもタダ者ではない。なんで漂泊の民にこんな傑人がいるのか、と目を疑いたくなるほどである。
 もっとも、重秀はそれを理由に「何をしても無駄だ」と諦めたわけではない。相手の態度に嘘がない、と信じたからこそ吉継にうなずいてみせたのだが。








 虎に案内されるまま、吉継たちは漂泊の民が宿としている民家に向かう。
 そこで吉継たちを出迎えたのは、見るからに怒ってますといった様子の白拍子の姿であった。すでに自身の演目を終えて家に戻っていたらしい。
「とぉぉぉらぁぁぁ!! 勝手にひとりで出歩くなって何度云えばわかるのよ、行くならあたしも連れてけ――って、なんであんた子供を背負ってんの? それに後ろの子たちはなによ??」
 牙でも生えてるんじゃないかと思うほど大口をあけていた白拍子が、虎の背で苦しげに息を吐き出している利兵衛に気づいて目を瞬かせる。


 次いで、視線を向けられた吉継は思わず息をのんだ。先刻の活き活きとした舞いから想像はしていたものの、間近で見る白拍子の瞳は驚くほど力感に満ちており、挙措には清爽の気が漂っている。この白拍子が、実は名のある武将、もしくは大名だと云われても、吉継はまったく不思議に思わなかっただろう。
 白拍子の疑問を受けた虎は、お叱りは後で、と云って利兵衛を背負いなおすと、吉継たちを促して家の中へと入っていった。この時点で吉継は半ば予測していたが、そこにはいかにも非凡な風貌の男たちが忙しげに動き回っており、彼らは一様に虎と白拍子に敬意を、吉継たちには不審の目を向けてきた。中でも一座の長とおぼしき老人の眼光は、吉継の背を冷や汗で濡らしたほどである。
 虎はそういった者たちをなだめ、利兵衛と子供たちを一室で休ませると、医術の心得があるという長に後を託し、吉継と重秀をうながして別室に移った。
 そこで白拍子に対し、かくかくしかじかと事情を説明したのである。




 事情を聞き終えた白拍子――静と名乗った――は乱暴に頭をかきながら、きこえよがしに嘆息した。
「いや、まあね。あんたに見てみぬふりができるとは思わないし、しろと云うつもりもないけども。よくまあこんな、いかにもわけありの子たちを見つけられたもんだわ。あっちで寝てる子たちはともかく、この二人はどう見たって普通の村娘じゃないでしょ」
 まがりなりにも扮装している重秀をあっさり女の子だと看破した静は、警戒する吉継たちに軽く手を振って見せた。
「ああ、別にあんたたちの素性を探るつもりはないから安心なさい。怪しさでいったらこっちも相当なもんでしょうし。あたしはただ、事あるごとにふらふら出歩くこいつに嫌味を云ってるだけなのよ」


 そう云って静はあごで虎を指し示す。いかにも伝法な振る舞いであったが、静がやると不思議に粗野とは感じられない。
 一方、指し示された虎はすすいっと自然に視線をそらし、吉継たちに向き直った。
「静どの。その件についてはまた後刻。今はこの者たちと話をしなければ」
「ふん。ま、客人を待たせて言い争いってのもひどい話だわね。わかったわ。そのかわり、あとできっちり話をつけるわよ」
 虎に対して太く丈夫な釘を打ち込んでから、静も吉継たちに向き直る。


 そうして、改めてこの二人と対峙した吉継と重秀は、期せずして同じことを考えていた。吉継にとっては先刻うけた感覚を繰り返し感じたことにもなる。
 この人たちは似ている。顔かたちではなく、もっと別の何かが、吉継たちの良く知る人物を想起させた。





◆◆◆




 
 南近江 青地城


 大谷吉継らが漂泊の民と邂逅する数日前。
 三好政康による苛烈な攻撃に晒される青地城において、城主である青地茂綱のもとに一枚の紙片が届けられていた。
 すでに茂綱の目にも防戦の限界があらわになってきている。これからの行動について考えていた茂綱は、配下の兵から渡された「それ」を一瞥して眉間に深いしわを刻んだ。
 何事か思案した末、茂綱は南門で防戦の指揮を執る蒲生定秀のもとに使いを出す。しばし後、老いた相貌に疲労と、疲労を上回る戦意を湛えて姿を見せた定秀は、茂綱の用向きを聞いて太い眉をはねあげた。


「矢文、じゃと?」
「はい。先ほど兵のひとりが持ってまいりました」
 そう云って茂綱が差し出した紙片を見た定秀は、ひげをしごきながら呟いた。
「『敵増援近し 勝ちを望むなら出撃せよ 今宵、子の刻(深夜0時頃)に動きあり 左内』……ふむ、末尾は矢文の主の名か。茂綱、心当たりは?」
「ございます」
 茂綱はここで岡左内定俊の名を定秀に伝えた。



 ――左内の為人を聞いた定秀は不審そうに眉をひそめる。
「草津の者、のう。商いに携わる者は利に聡い。今の我らに助力しようとするとは思われぬぞ。話を聞くかぎり、その左内とやら、そなたと格別に懇意であったわけでもないのだろう?」
「は、確かにそうなのですが。以前に我が家に誘った際も謝絶されましたし」
「強いて考えれば、ここでそなたが討たれれば、そなたに貸し付けた金子が無駄になる。それを惜しんだとも思えるが、だからというて一介の商人が三好の大軍に挑むはずもあるまいて」
 むしろ、その左内とやらは三好と手を組み、城内の兵を外に引きずり出す策の一端を担っているのではないか。定秀には、そちらの方が可能性が高いように思われた。


 ここで茂綱が死ねば貸し付けた金は戻ってこないが、茂綱との繋がりを利用して三人衆の好意を得ることができれば、多少なりとも投資を活かしたことになる。
 定秀は商人を嫌っているわけではなく、むしろ転んでもタダでは起きない彼らの生き方を好んでいるが、彼らとの間に友誼や親愛を期待するつもりはなかった。武士と商人の間に「利」以外の繋がりを求めれば双方に危難が降りかかる。これは定秀の人生訓の一つである。



 茂綱は反駁しなかった。
 左内は普通の商人というわけではないのだが、それはここで云っても仕方ない。というか、左内の独特の為人を言葉であらわす術を茂綱は持っていなかった。無理にそれをすれば、ますます定秀の誤解が加速するような気もする。
 ゆえに茂綱は、別の見方でこの矢文を捉えることにした。


「しかし――これを捨て置いたとしても挽回が成るわけではござらんでしょう」
「む……それは確かにのう」
「遠からず、城の守りは破られます。観音寺の殿はもちろん、兄上(蒲生賢秀)の増援も間に合わぬ様子。この戦況を覆すためには、いずれどこかで賭けに出る必要があろうと存ずる」
 連日の政康の猛攻により、城の防備も将兵も限界が近い。もってあと二日、というのが茂綱の見立てであり、それは同時に定秀の見立てでもあった。


 ただ定秀としては、真偽の定かならぬ矢文に一城の命運を託すよりは、限界まで粘りぬいて日野からの増援を待つべきだと思えるのである。
 実のところ、茂綱にしても内心は定秀とさほど変わらないのだが、落城を間近に控えた茂綱の心には別の思案が宿りつつあった。
 もはや青地城の陥落も、青地家の衰運も避け難い。であれば、これに蒲生家を巻き込んでしまうことは避けなければならない。それが茂綱の頼みに応じ、無理を押して援軍に来てくれた父と、今も必死にこちらに向かっているであろう兄に対するせめてもの返礼であろう。
 兄の援軍がどこまで来ているのかはわからないが、落城が早まれば、その分、蒲生軍と三好軍は距離を置くことになり、賢秀は危険なく日野城に退くことができる。子の刻に茂綱みずから南門から出撃し、その間に東門から定秀を逃がすことができれば云うことはない。
 もちろん左内からの報せが本物であれば、それはそれで願ってもないことなわけだ。



 とはいえ、すべてを正直に云えば、幼い日のように定秀に拳骨をもらうのがオチであろう。わしの半分も生きておらぬ小僧っこが生意気なことを申すな、と。
 悪くすると「ならばわしが南門から出撃しよう。おぬしは東門から逃げよ」とか云い出しかねない。むしろこちらの方が可能性としては高いかもしれぬ。
 ゆえに茂綱は、父に内心を悟られないよう注意しながら、あくまでも勝利を得るための方策として矢文の案に乗ってみせねばならなかった。


 考えをまとめた茂綱は、父を説き伏せるべくゆっくりと口を開く。
 すでに日は落ちている。子の刻まであまり時間は残っていなかった。





 同日 子の刻


 青地城を包囲する三好軍の一角で不穏な動きをする兵たちがいた。
 降り続く雨に全身を濡らした彼らは、青地城を取り囲む三好軍のうち、比較的最近になって政康の麾下に加わった兵たちの背後へと移動していた。
 最近になって加わった兵というのは、先の瀬田川の戦いで敗れて降伏した六角兵や、敗戦後に三好家に恭順を誓った近隣の国人衆などを指す。彼らの多くは城攻めの最前線に配置されていた。


 新参者が危険な最前線に投入されるのはめずらしいことではない。今回の合戦にかぎっていえば、政康が陣頭指揮をとることで新参者たちの士気も保たれていたが、彼らが危険な最前線に投入されている事実にかわりはなく、強い抵抗を示す城兵によって激しい消耗を強いられていた。
 その彼らの陣に、夜半、喚き声が響き渡る。


「三好政康さまの命令である! 降伏した六角兵および近江に領地を有する者どもは、ことごとくこれを斬り捨てよ!」


 その集団は口々にそう叫びたてながら、その場にいた三好兵を手当たり次第に斬り倒していった。
 青地城の上空を覆う雨雲からは今なお大粒の雨滴が滝のように降り注いでおり、叫喚も絶鳴も水の幕に遮られて遠くまで伝わることはなかったが、それでも同じ陣にいる将兵がこの血泥の騒ぎに気づかないはずがない。陣営はたちまち騒乱の淵に叩き込まれた。


「何事だ? いったい何が起きている!?」
「謀反か、敵襲かッ!? ええい、誰でもよい、はよう確かめてこぬか!!」
 青地城からの夜襲については想定もし、対処もしていた三好軍だったが、まさか味方が布陣している後方から襲撃を受けるとは予想だにしていなかった。
 想定外の事態に直面した将は驚き慌て、狼狽はたちまち配下の兵に伝播していく。夜襲だ、いや謀反だ、と根拠のない憶測が混乱に拍車をかけ、部隊は驚くほどの早さで統率を失っていった。


 混乱したのは旧六角兵ばかりではない。彼らの後方に布陣していた三人衆直属の将兵も困惑を禁じえなかった。
 そんな彼らの耳に煽り立てるような大声が飛び込んでくる。
「繰り返す! 城中の兵と通じた裏切り者どもを掃討せよ! 旧主に尻尾を振った畜生ども、情けも容赦も不要なり! 連中が近江に持つ土地、財貨、これらすべてを討ち取った者に与えると下野守さまは仰せであるッ!」
 その声を聞いた将兵は顔を見合わせた。あまりにも急なことで、咄嗟にどう判断して良いかわからない。
 誰とも知らない者の叫びに即応して味方に襲い掛かるほど三好兵は愚かではなかったが、ただの流言だと切り捨てることもできない。雨に遮られてろくに状況が掴めないとはいえ、城外で戦闘が行われていることは確かなのである。
 もし裏切りが事実であれば、すぐにも敵兵が襲い掛かってくるかもしれぬ。状況が落ち着くのを漫然と待っているわけにはいかなかった。


「すぐに政康さまへ伝令を出せ! 事の次第を報告し、真偽を確かめるのだ! それと、念のために敵兵への備えも怠るな。武器を持って陣に分け入ろうとする者は誰であれ取り押さえよ。手に余れば殺してもかまわん!」
 ひたすら陣地を固め、情報をかき集める。それは混乱を乗り切るために有効な手であっただろう。
 が、見方をかえれば、混乱する前線を見捨てて自陣の安全を優先した、ともとれる。少なくとも、前線の混乱を静めることに何一つ寄与しない決断であったことだけは間違いなかった。





「ふん、動かないか」
 三好軍の武具を身につけた北相馬は、眼前の兵の首筋を断ち切って地面に這わせた後、後方を見やって酷薄な笑みを浮かべた。
「案外、冷静だな。ま、動かなければ動かないで、こちらは邪魔されずに済むわけだが」
「動けば動いたで利用しつくす気なのじゃろ? こわやこわや」
 こちらも眼前の敵兵を斬り倒した岡左内が、戦闘の高揚で口角をつりあげながら不敵に言い放つ。


 先に鹵獲した三好軍の兵装をまとった左内たちは、本来であれば、鶏冠山、竜王山に攻め寄せる三好軍の後詰部隊に紛れ込むはずだった。
 それがどうして青地城を囲む兵の中に入り込み、派手に敵兵と斬りあうような事態になっているのかといえば――
「増援になど見向きもせず、狙いは三好政康ただひとり。欺かれたことを娘御が知ったら、激昂するか、消沈するか。いずれにせよ、良い気分はせぬであろうな」
「欺いたとは人聞きの悪い。きちんと云っておいただろう」


『俺の狙いはあくまで三好三人衆の首級であり、そのために六角軍を利用しようとしているだけ』
『もし敵(後詰部隊)にその隙がなければどうするか。その時はこっそり紛れ込んだ時と同様、こっそり逃げてしまおう』


 後詰部隊から逃げた後、何をするかには言及していない。ゆえに、こうして青地城にやってきて策動したとしても、誰かを欺いたことにはなるまい。
 それを聞いた左内は、呆れたようにほぅっと息を吐いた。
「そも後詰にまぎれこむ素振りさえなかったように思うがの。あっさり身共の同行を許したのも矢文のためか。くわえて茂綱どのの為人さえ策の内とはまったく、虎の尾は踏むべからず、竜の逆鱗には触れるべからずじゃな」
「苦情があるなら後ほど承ろう」
「殊勝なこと。娘御も、あとできちんとねぎろうておけよ」
「云われるまでもない」
「ん、ならば良い――」


 云いざま、左内は横合いから斬りかかってきた兵の一刀を綺麗に受け流し、体勢が崩れた相手の首筋に致命的な斬撃を叩き込んだ。
 飛び散った敵兵の血が左内の防具を赤く濡らし、その返り血はたちまち雨で洗い流されていく。
 左内は額にかかった前髪を払うと、城壁を振り仰いだ。
「そろそろ城内も異変に気づいた頃じゃろう。退き時であるな」
 これ以上この場に留まっていれば、出撃してきた城兵とぶつかりあうことになりかねない。ここで城内の兵に斬り殺されたりしたら「策士、策におぼれる」どころの話ではなかった。


 この左内の言葉を契機として、二人は混戦の場から離脱する。別の場所で暴れていた左内の私兵たちも同様に。夜の闇と降り続く雨が彼らの退却を援護した。
 今日まで頑強に閉ざされてきた青地城の城門が開かれたのは、そのすぐ後のことである。



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