水平線の向こうに沈んだ陽の光。
暗い海の底に沈んだヌ級。
その光景を最後まで見届けて。
瞼を、下ろす。
「ご、ごめんなさいっ! 衛宮さん、大丈夫ですか!?」
……うん、大丈夫。俺は平気。
「衛宮……さん?」
ああ、大丈夫。俺は大丈夫だよ。それより……
「え、衛宮さん? き、聞こえていますか?」
うん、聞こえている。だから、それよりも、俺よりも……
「衛宮さんっ! しっかりしてくださいっ!」
だから大丈夫だって。それより、叢雲を……
「だ、ダメですっ! お願いします、反応してくださいっ! 」
俺より、叢雲の方を……
「衛宮さんっ! 眼を開けてくださいっ!」
――――ドゴンッ!!
「っ!?」
■ 艦これ×Fate ■
落ちていく。
暗闇の中を、落ちていく。
最初に感じたのは、身を焦がすような熱気。そして焼きつくような息苦しさ。耳障りな幾つもの音。
暗転していた視界に色が滲み、あっという間に明瞭化される。漆黒の闇から、燃え盛るような赤色へ。だがそれは、決して士郎が望んだものではなかった。
燃え盛る炎。熱気と黒煙。崩壊した家屋。そして転がる、黒ずんだナニカ。
許容量を大幅に超えた情報量が、一気に脳に流れ込んでくる。処理しきれない分が溢れ返り、思わず士郎は片膝をついた。
……ああ。またこの夢か。
荒い息を吐き出しながら、しかし当然の事のように、士郎はその光景を受け入れた。
見下ろした地面には死が転がっていた。満たしても満たしても足りぬほどに死が転がってた。
見上げた空は血をぶちまけたかの様に赤く濁っていた。血よりも生々しい色が広がっていた。
そしてその狭間では。真っ黒な太陽が笑っていた。抑えきれぬ歓喜を零しながら笑っていた。
――――その光景は、いつかの昔に見た現実。
震える両足を叱咤すると、士郎はゆっくりと立ち上がった。そうして疲れたように頭を振った。
そうとも。衛宮士郎にとってこの光景は見慣れたもの。今更驚く事では無い。
冬木の大災害。十年前に起きた未曾有の大災害。未だに原因不明とされている大災害。
唯一の生存者である士郎は、夢の中とは言え何度もこの光景を見てきたのだ。
ならば。いやでも慣れる。
感情を浮かべることなく、彼はゆっくりと辺りを見回した。そうして通り抜けられそうな道を見つけると、躊躇うことなくその方向へと足を動かした。彼はこの悪夢の覚まし方を知っていた。歩き続けていれば眼が覚める事を知っているのだ。
瓦礫を跨ぎ、死体を避けて。辛うじて残っている道を歩く。辛うじてではあるが、不思議と士郎の眼前には道が続いていた。
何時ものように、何時も通りに。その道筋に沿って歩いていく。
心を押し殺したまま、士郎は表情すら変えることなく、どこまでも機械的に進んでいく。
――――その筈だった
「……?」
振り返る。
どこまでも広がる死の世界。
「……?」
左右を見渡す。
どこまでも広がる死の世界。
「……」
歩みを止めて、もう一度士郎は振り返った。
これは夢、夢である。何度も見た夢である。
だが、しかし。どういうわけか、言葉にし難い違和感を彼は感じていた。夢の中とは思えぬ悪寒を彼は感じていた。
じっとりと。背を汗が伝う。
ひどく、慎重に。士郎は踵を返した。こんな事は初めてだった。こんな悪寒は初めてだった。
――――ヤメロ
ドクン、と。一歩進んだだけで心臓が早鐘を打ち始める。
ガクッ、と。一歩進んだだけで膝が恐れで砕けそうになる。
足が重たい、と思った。夢の中とは思えぬ重量感。一歩を進むことすら嫌がる。本能は感情に忠実だった。士郎を守ろうと全力で彼の歩みを邪魔していた。
――――ヤメロ
また一歩。強引に進める。
もう熱さは感じていない。焼きつくような痛みも無い。周囲の光景も気にならない。
ただ息苦しさが。息苦しさだけは纏わりついている。
普通の呼吸すら困難だった。
――――ヤメロ
もう少し。空気の塊を退けるように、また一歩を踏み越える。
あとは……そう、そこの瓦礫の角を曲がる。曲がるだけで、違和感の正体は掴めるはず。
震える手、荒い呼吸、折れそうになる意思。
その全てをねじ伏せて、士郎は最後の一歩を踏破した。
――――ヤメロ
「……何も」
無い。
無い。
無い。
何も無い。
眼前に広がる光景は何も変わりはしない。瓦礫の山、黒ずんだナニカ、燃え盛る炎。何時もの悪夢の何時もの光景。
ほっとしたように士郎は膝をついた。何も変わっていない事に彼は安堵していた。何時も通りの地獄である事に感謝すらしていた。
滴る汗を拭い、呼吸を整える。眩み始めた眼を閉じて、平静になろうと努める。
あとはこの悪夢を覚ますだけ――――
「なぁ、士郎」
呻き声のようなノイズ混じりの怨嗟の声、どこか遠くから聞こえる泣き声、そしてそれらを飲み込む崩壊の音。そのどれもと異なる声が耳に届いた。
聞き覚えは、ある。
背後からの呼び掛けに、思わず士郎は振り返り、
「――――」
硬直する。身体が動かなくなる。
開ききった眼。呼吸を忘れた口。音を拾い忘れた耳。
心臓の音だけが、脳に響く。
「あ……あ、ああ……」
そこには死体があった。
穴のあいた腹部。
折れ曲がった腕や足。
千切れた肩。
削られた頭。
何も映していない瞳。
瓦礫に押し潰されるようにして。
炎に飲み込まれるようにして。
家屋にもたれ掛るようにして。
全身の欠損を隠すことなく。
叢雲が――――
磯波が――――
満潮が――――
望月が――――
そして木曾が――――っ!
――――ダカラ、ヤメロッテイッタノニ……
■
「……随分と酷い夢を見ていたようだな」
「……ああ」
薄暗い天井。薬品特有の匂い。そして動かない身体。
士郎は静かに息を吐き出した。煩いほどの心音を沈めるように、ゆっくりと。
そうして胸の中に溜まっていたものを無理やりに吐き切ってから、士郎は視線を向けた。
「……おはよう、木曾」
「ああ、おはよう、士郎」
何て事の無いように言葉を交わす。そうして、二カッ、と。木曾は笑った。最後に見た日のままに、変わる事無く。そしてその笑みに、士郎は言葉にできない安堵感を覚えた。
木曾に気づかれぬように、もう一度息を吐き出す。
「調子はどうだ?」
「……良くは無い、かな」
「だろうな。酷い顔色だ」
そう言って、木曾が何かを差し出す。手鏡。何となく叢雲との会話を思い返しながら、士郎は鏡に自分の顔を映した。
映ったのは、予想通りの顔色。蒼白を体現したような顔色。
「……酷い夢を見ていたようだな。長い間、ずっと呻いていたぞ」
「ああ……そうだな、酷い夢だった」
前々回は心臓を串刺しにされる夢。前回は巨人に襲われる夢。
そして。今回は思い返すことすら嫌な夢。
自分は寝たら悪夢でも見る体質になってしまったのか。頭の痛みが一層酷くなったような気さえしてきた。
右腕で額を拭う。べっとりと、汗が滲んだ。
「……士郎、気が付いていると思うが……その、左腕は……」
「分かっている。折れているんだろ」
言いにくそうに言葉を濁す木曾を助けるように、後の言葉は士郎から紡いだ。
「あと両足も多分砕けていると思うけど……」
「あ、ああ。いや、足のほうは右足だけだ。左足は腫れてはいるが折れてはいない」
膝から下は痛みのせいで感覚が分からず、寝転がった姿勢では見る事も出来ない。
そっか、と。士郎はあっさりと現状を受け入れた。自身が思っていたよりも軽傷な事に、彼は安堵感すら覚えていたのだ。
それは拍子抜けするほどに。木曾が危惧していた状況とは裏腹な展開。
「それより、叢雲と磯波は?」
「……ああ、二人とも無事だ」
「そっか、良かった」
良かった。安堵したかのように士郎は言った。二人が無事であるという事実に、残っていた胸の閊えが完全に取り払われた。
チクリ。何かが引っ掛かる。一瞬だけ思考を阻害するノイズ。思考に生じた空白。取り残される疑問。
何かを、見落としている?
木曾は言葉にし難い違和感を感じていた。今の会話の内に、見逃してはならないポイントがあるような感覚を彼女は覚えていた。何か大切なものを見落としている気がしていた。
だが、分からない。分かる余裕が無い。
「……細かいところまでの診断はできていないが、大凡の治療はしたつもりだ」
「ありがとう、助かった」
「礼には及ばん。寧ろ、感謝するのは俺たちの方だ」
一旦疑問を切り離す。今どうしても解明しなければならない疑問でも無い。
それが逃げであることを自覚しながら、木曾は言葉を重ねていた。疑問を遠ざけるように言葉を展開した。
「磯波から話は聞いている。俺たちが留守にしている間に、とんでもない目にあったみたいだな」
「まぁ、な……」
「ありがとう。士郎が戦ってくれたおかげで、二人は無事だったし、私たちが戻って来る事も出来た」
微笑む。嘘偽りの無い感謝の気持ち。
そうして。彼女は深々と頭を下げた。
「本当にありがとう。磯波と叢雲を助けてくれて。士郎がいなければ、二人は轟沈していたかもしれない」
木曾の行動に、思わず士郎はうろたえた。
「……俺は」
「何もしていない、なんて言うなよ」
士郎が言葉を紡ぐよりも早く。木曾は言葉を被せた。
「士郎が命を賭して戦ってくれたおかげで二人は無事だったんだ。感謝してもしきれない」
頭は上がらない。きっと士郎が言葉を受け入れるまでは上げるつもりは無いのだろう。
そしてそこまでされてしまえば、それに対して否定の意味を発するのは失礼というものだ。
気恥ずかしさに士郎は頬を掻いた。そうして言った。分かったから、頭を上げてくれ。
「……すまないな。私たちが不甲斐無いばかりに、こんな怪我までさせてしまって」
「それは木曾たちのせいじゃないだろ。木曾たちを探して外に出た俺らが悪かったんだし……てかさ、木曾たちはどこに行ってたんだ?」
「俺たちか? 行方不明者の捜索さ」
「行方不明者?」
「ああ。……と、そうか。士郎は他にも仲間がいるのを知らないのか」
そう言って木曾は名前を上げる。
三日月、雷、荒潮、黒潮。
所属も艦隊もバラバラだが、何れも駆逐艦の四人。
そう言えば初日に満潮が言っていた。他に仲間がいる、と。
「雷、荒潮、黒潮の三人には物資の調達に出かけてもらっていたらしい。俺たちが此処に来る、一日前にだ」
「あの日から一日前ってことは……」
「遡ること、約四日前だな。俺たちが捜索に出た時点では、約三日前だ」
激戦区内の海域で二日以上も帰ってこない。かと言って捜索に出るには怪我人ばかりで人出が足りない。
生存は絶望的。到底生きていられるとは思えない。
少なくとも、木曾はそう考えていた。
「それでもやっぱり皆諦められなくてな。大怪我を負っている叢雲と士郎以外で捜索に出たんだ」
「三人は見つかったのか?」
「雷と荒潮はな。……残念ながら黒潮はダメだった」
襲撃をかけられたのは、物資も調達し終わった帰路。上々の結果に三人とも油断しており、直前まで敵の存在に気がつかなかったらしい。
気がついた時には、はっきりと敵の艦種が分かる距離まで接近されていたと言う。
「余裕のあった黒潮が囮になったらしいが……敵が強大過ぎた」
殿は必要だ。特に余力の無いような現状では。
二人は全力で逃げた。振り返る事はしなかった。そんな余裕も無かった。
追ってくる艦載機達の攻撃を避けながら逃げつつ、どうにか振り切った時には東の空が白み始めていた。
「結局幾ら待っても黒潮は来なかった。探しても見つからなかった」
黒潮捜索から一昼夜が過ぎ、また西の空に陽が傾き始めたところで。二人は捜索を断念し、一縷の望みを以って隠れ家に戻る事に決めたらしい。木曾たちと合流したのはその帰路の途中だった。
心身ともに消耗の激しい二人を磯波と一緒に帰らさせ、後の捜索は木曾たちが継いで行った。
が、結果は捜索断念。
「そんでもって帰ってみればヌ級の襲撃があったという。……いやはや、昨日は色々と濃密だった」
胃の辺りを押さえ、大きく木曾は息を吐き出した。実際彼女からすれば気が気ではなかった。人の身で深海棲艦と戦おうなど無謀にも程がある。実は士郎が起きるまで、心配からかずっと彼女の胃は痛みを訴えていたのだ。
「……何れにせよ、数日は俺たちも動けない。ゆっくりと士郎は静養に努めてくれ」
まぁこんな場所じゃ難しいかもしれないがな。そう言って木曾は立ち上がった。
「もっとここに居たいところだが、少しばかり野暮用があってな。悪いが、ちょっと抜ける」
満潮に呼ばれててな、そろそろ無視するのもマズイ。
困ったように木曾は頬を掻いた。おそらくは怒られる想像でもしているのだろう。そしてそれだけで、士郎は木曾が自分を優先して此処に居てくれた事を悟った。
「……ありがとう、木曾」
「気にするな」
俺とお前の仲じゃないか。
そう言って、木曾は笑った。
■
一人になる。静かな室内。自分の呼吸音だけが耳に届く。
情報を反芻しながら、士郎は眼を瞑った。木曾といる時は全く感じていなかったが、身体はまだ疲れている。実際問題、起きてからまだ三十分も経っていないのに、煩いほどに身体は休息を欲していた。
少し寝よう。誰かが来たら申し訳ないが、眠くて仕方がない。何より自分が目覚めた事は、木曾が言ってくれるだろう。
意識が沈む。ゆっくりと、でも着実に。暗闇へ。
――――コンコン
「ん?」
意識が僅かに浮上する。ドアをノックする音が聞こえた。黙っていると、もう一度聞こえた。
木曾……は出て行ったばかりだ。満潮は木曾と話している筈。だとすれば望月か、磯波か、叢雲か。此処に来る可能性の人物たちの顔を思い浮かべる。
どうぞ、と士郎は声を上げた。眠気は押し殺す。誰であっても、ノックを無視するのは失礼だ。
応じるように、ガチャリと。ドアが開く。
だが入ってきた人物は誰とも違った。
「失礼しまーす……」
声を抑えて誰かが入ってくる。そうして、小走りで士郎の元まで駆けよってきた。
やや濃い目の栗色の髪の毛。長さは肩口まで。小柄な体躯。白色が基調のセーラー服。覗く八重歯。
一瞬望月かと思ったが、よくよく見れば別人である。
と言う事は、三日月か雷か荒潮?
「起きたのね、良かった!」
ニッコリと。少女は笑った。心の底から喜んでいるような、そんな笑顔だった。
「本当に良かった、起きないかと心配したわ」
「心配掛けてごめん……」
「あ、ううん、違うの。貴方が謝る必要は無いわ」
だって私が心配していただけだもん。そう言って少女は懐からタオルを取りだした。
「どこか汗で気持ち悪い所とかある? 拭ってあげるわよ」
「いや、大丈夫……」
「遠慮なんかしなくていいのよ?」
いや、大丈夫、本当に大丈夫だから。そう言って士郎は身を乗り出してきた少女を宥める。そうでもしなければ、有無も言わさずに押し切られそうだった。
そう……なの? やや不満そうに少女は引き下がる。だが手にはタオルを持ったまま。それに身体も前のめりのまま。
ニコニコと。少女は笑っている。
が、ひしひしと。言葉にできぬプレッシャーを士郎は感じていた。
「……」
ニコニコ。
「……」
ニコニコ。
「……」
ニコニコ。
「……あー……額の辺りだけ拭いてもらって良いかな?」
「! 勿論よ、任せて!」
嬉しそうに少女は声を上げた。跳びあがらんばかりの勢いだった。と言うか比喩表現でも何でもなく、本当に跳び上がる形で彼女は立ち上がった。
折角の申し出を断るのも失礼だし……。そうとも、プレッシャーに負けたわけではない。決して負けたわけではない。
それにこの嬉しそうな顔を見れば、彼女の行為を否定できる人間はきっといないだろうよ。うん。
以外にも丁寧な手つきで少女は額を拭いてくれた。額だけでなく顔全体を拭いてくれた。耳の辺りも拭いてくれた。さらに喉まで拭いてくれた。そうして次は胸元へと少女の視線は降りていく。
慌てて士郎は右手を少女の前に上げた。
「あ、あー、そっちは良いかな?」
「どうして? こっちも汗かいているわよ?」
「いや、大丈夫。そっちはいいんだ。うん、平気だから」
やや焦りながら士郎は言葉を続けた。ここらで止めておかないと、際限なく彼女は拭いてまわりそうだった。流石にそこまでしてもらうのは気が引ける。
大チャンスじゃねーか。拭いてもらえよ、ヘタレー。
頭の中で囁きかける青髪の友人は問答無用で蹴り飛ばす。
「え、でも、気持ち悪くないの?」
「大丈夫大丈夫。そ、それより名前聞いていいかな? 俺の名前は衛宮士郎」
苦しすぎる会話の方向転換。やや早口で自分の名前を告げ、少女に名前を教えてもらえるように促す。
「あ、ごめんなさい! そう言えばまだ自己紹介していなかったわねっ!」
だが意図は成功したらしい。尚も拭こうとしていた手を止め、彼女は胸を張って声を上げた。
「初めまして。私の名前は雷。暁型の三番艦、駆逐艦の雷よ!」