叢雲はここ数日不機嫌だった。
それは彼女が未だにリハビリ中の身であり、艦娘として働くことが一切出来ていない為だった。
無論、聡明な彼女は自分の身の損傷具合については理解していたし、そう簡単に実戦復帰が出来るはずもない事は分かっていた。帰還してたかだかひと月の間に、艦娘として完全回復などできるはずがない事も分かっていた。
だがそれでも。彼女は回復したかった。実戦復帰は無理でも、一日でも早くリハビリの身から脱したいと思っていた。
何故か?
それは心配する阿呆がいるから。
自分の身を二の次にして心配する阿呆がいるから。
だから回復したかった。阿呆が目覚める前に、リハビリの身を脱したかった。
「ま、もうちょっとね」
既に叢雲は一人で歩けるくらいには回復していた。全体的に筋量は落ちたし、動きの一つ一つも鈍いが、それでも驚異的とも言える回復である。明後日には仲間たちに手伝ってもらって海上戦闘訓練を行う予定である。それは回復に時間が掛かるという大方の予想を覆す結果であった。
無論、プライドの高い彼女がこの程度の成果に満足するかと言えば否なのだが。
「入るわよ」
早朝。マルロクマルマル。東館3階。医務室。
ノックは3回。返事を待たずに扉を開ける。それは随分と横暴な行為である。が、叢雲からすれば返事の有無など分かり切っている事だ。希望的観測は持たない。それは希望を裏切り続けられた故の思考だった。
だが結論から言えば、それは過信である。
「……ッ!?」
扉を開いた矢先。
パクパクと。無様に口を開閉する。言葉にし難い衝撃が叢雲を襲っていた。
「叢雲……」
聞き覚えのある声だった。何度も聞いた声だった。そして待ち望んでいた声だった。
状況の把握がまだ出来ていないのか、当の本人は呆けた顔だった。今まで見たことのない年相応の、或いはどこか幼さを感じる表情だった。
「……目」
そして。
混乱の極みにありつつも。全てを理解した叢雲は、万感の思いを込めて口を開いた。
「目が覚めたんなら連絡しなさいよこの馬鹿ぁっ!!!」
■ 艦これ×Fate ■
「はっはっは、そいつは理不尽な目に合ったな、士郎」
「笑い事じゃないぞ……」
マルロクフタマル。医務室。
つい20分前の顛末を聞いた木曾は思わず笑った。何せ叢雲からの全体連絡で士郎が目覚めたと聞き駆け付けた木曾たちが見たのは、困った様子で視線を彷徨わせている士郎と、そんな士郎に背を向けて蹲っている叢雲の姿である。士郎の目覚めを喜ぶよりも現状の困惑の方が勝ってしまったのは無理のない事であった。
「……醜態を晒したわ。忘れなさい、今すぐ」
漸くココロが落ち着いたのか。苦虫を噛み潰したような顔で叢雲は口を開いた。中々に理不尽な要求を課す辺り、本人からすれば相当な醜態だったのだろう。よくよく見ればまだ顔に赤みが差しているのが分かる。
ニヨニヨと。その様子を目敏く見つけ、望月は隠しきれない笑みを浮かべながら口を開いた。
「いやー、叢雲も役得だねぇ。お兄さんのハジメテに居合わせるなんて」
「……どういう意味よ」
「どうもなにも、そのまんまの意味だよ」
揶揄う様に。でもそれは嘘偽りのない言葉。出来るなら自分でありたかったと言う本心。
望月の言葉の意味を理解し、叢雲は思わず顔を背けた。また顔が赤くなったのは傍から見ても良く分かった。
「でも本当に目覚めてよかったです。あれからひと月以上経過したんですよ」
緩んだ空気を締め直す様に三日月は言葉を発した。
あれからとは帰還したあの日から。
ひと月。
もしかしたら二度と目覚めないかもしれない。そんな絶望を抱くには充分すぎる時間。
「ごめん、迷惑をかけた」
「……馬鹿言うな。誰が迷惑なんて思うか」
士郎の言葉を木曾は一蹴した。謝罪など必要ない。される覚えもない。それは木曾だけでなく、全員が思っている事だった。
「それより体調の方はどうだ。外傷なら全部治療済みだが」
「ずっと眠っていたせいか身体が重いかな。腕は平気そう。足の方は、歩けるかどうかまだ試していない」
ポンポン、と。士郎は右手で左腕を軽く叩いた。ヌ級に確かに折られた筈の左腕だが、動かすのに支障は無かった。
「そうか。横須賀程じゃないが此処も医療設備は整っている。支障が少しでもあるような言ってくれ」
「ああ。ありがとう」
「おそらくだが今日は検査で一日潰れるだろう。支障は正直に言えよ」
「分かってるさ」
「どーだか。お兄さんの場合、結構な割合で我慢しそうだし」
「望月の言うとおりね」
くすくすと笑い声が生まれる。少しだけ重くなった空気がすぐに弛緩した。
「本当なら今日一日付きっ切りでいたいところだが、色々と仕事があってな。多分次に会えるのは夕方頃だな」
「その時には満潮と磯波も来れるわ。間宮印の甘味も持ってきてあげるから、楽しみにしてなさい」
「2人は出かけているのか?」
「警備の一員として沿岸部に出ている。確か夕方までの勤務だった筈だ」
「戦力は何処も足りないからね。私たちみたいな戦争帰りは重宝されている、ってわけ」
「そうか。もう活動しているんだな」
「本音を言えば休みたいけどねー」
「もっち」
呆れた様に戒める様に。三日月が言葉を吐く。
冗談冗談。態度を崩す事無く、ひらひらと手を振りながら望月は舌を出した。
「金剛さんたちは?」
何気なく。そう、何気なく。
士郎は疑問を発した。
意図するものは何も無く、姿が見えないから言葉にしただけの事。
だが。だがその一言で。
その一言で皆の雰囲気に陰りが生じたのを敏感に察知して。
誰もが言葉を発するよりも早く。
士郎は一つの事実を理解をした。
「……やっぱり、いない、のか」
「……ああ。まだ戦い続けている」
ヘタな嘘は意味を為さない。
隠す事無く木曾は告げた。彼女たちは戦い続けている。あの海域に留まっている、と。
「仇を取る。そう言っていた」
「……そうか」
「……言っておくけど、アンタが気にすることじゃないわ。誰が何と言おうと3人は留まるつもりだった。それだけよ」
誰にも譲れない一線がある。それこそ命を賭してでも譲れない一線が。
叢雲の言う通り、それだけの話なのだ。
「ああ、そうそう。その件なんだけど、お兄さんには悪いけど飛行場姫を沈めたのは金剛さんたちって事にしているから。それで話を合わせて。お願い」
「衛宮さんの不思議な能力で沈めたなんて言ったら、多分大騒ぎなります。申し訳ないんですが、もっちの言う通りに話を合わせて下さい」
望月にしては珍しく、慌てた様子で言葉を発した。同調するように三日月も懇願をする。
「あ、ああ。俺は別に構わないけど……」
「絶対、だよ。あと、無暗に他の人の前で使わないでね。実験体になりたくなかったら」
「実験体?」
「あの技術を解明する為に、ほぼ100%実験動物として監禁される、って事」
剣の生成、及び射出。何れも他の技術では解明不可能なものだ。
存在を知れば、誰もが究明に乗り出すだろう。
「あと衛宮さんは記憶喪失で話を通しています。それも忘れないで下さい」
「まぁそこは普通に対応すれば平気じゃないかな。実際どうやって渡航してきたかとかお兄さん覚えていないでしょ」
「ああ」
目覚めはあの孤島の砂浜。どうやって来たのか、何故来たのかは、今も尚思い出せない。
「余計な事は言わず、余計な事はせず。そしたら無事に帰れるだろうから」
「そう言う事だ。一気に色々と言ったが、一先ずは今の事を守ってくれ」
パンパン、と。木曾は自身の掌を打ち合わせた。話しを締める合図だ。
「そろそろ検査をしに担当医が来るだろうから席を外すぞ。また夕方頃に来る」
「ああ。すまない、ありがとう」
「だから謝る必要は無いっての」
パン、と。最後に。
互いの掌を打ち合わせる。木曾から順に、望月、三日月、叢雲と。
そのどれもが温かく力強かった。
■
検査と言っても、それほど仰々しいものでは無かった。
眠っている間に多くの測定は済まされていた。ならば簡単な五感の検査と問診。言わば一般的な健康診断で診る内容を行っただけで終わった。採血や心電図は翌日行うらしいが、それにしてもひと月も眠っていたわりには随分と簡素な検査である。
後は何故鉄底海峡に居たのかとか、どうやって向かったのかとか、出身地や家族構成と言った生活環境を問われたくらいである。そこらは望月の忠告を踏まえた上で、嘘偽りなく答えた。
とは言え。そんなわけで。
イチヨンマルマル。
衛宮士郎は何もやる事無く元の医務室に戻っていていた。
「リハビリは明後日からか……」
ベッドに寝転がり言葉を零す。勝手にリハビリを行わない事、と士郎は注意を受けていた。何せ想像以上に身体の動きが鈍かったのだ。一番初めだけとは言え、一人で立って歩くことが儘ならなかった事を思えば、担当医の判断は当然のものであった。
ひと月もの間動かしていなければ、何であれ動きは落ちる。物だって、人だって、それは同じだ。しかし物はすぐにリカバリーが効くが、人体はそうはいかない。
「……細くなったな」
全体的に筋肉の量が落ちている。自らの左腕を見ながら、そう士郎は思った。記憶の腕よりも細くなったのが分かってしまっていた。
思えば日課の筋トレは全くと言っていいほど行っていない。そんな暇は一切無かった。そしてひと月の昏睡。
一般的に、一日筋トレを休むとリカバリーには三日必要とされている。ならば元通りの筋力を得るまでには、単純計算で三カ月以上の期間が必要という事になる。
だが士郎の場合は、筋肉を全く動かしていなかった。
ならば三カ月程度で完全回復するとは思えない。
「……?」
左腕をそのまま、掌を天井に向けて翳す様に上げる。手の甲が士郎の映る様に上げる。
何かが足りない。
直感的に士郎はそんな事を思った。指は親指から小指まで全てある、欠けているわけでは無い。歪な形状になっているわけでもない。何なら傷らしい傷も見当たらない。綺麗なくらいだ。
なのに。
何故かそんな事を思った。
――――コンコンコンコン
「はい」
思考を切り裂くようにノックの音が響く。返事をしながら士郎は思った。木曾たちが来たのだろうか。だが夕方と言う時間帯には早すぎる。では担当医だろうか。
しかし入ってきた人物は士郎の予想にかすりもしなかった。
「失礼します」
見たことない女性だった。
まず士郎はそう思った。一切記憶に無い人だった。
茶色のセミロング。クリーム色の制服。外見年齢は木曾と同じくらいだろうか。優し気に微笑む目元が印象的な女性だ。
「初めまして。大井と申します。球磨型の4番艦で艦種は重雷装巡洋艦になります」
女性は大井、と言うらしい。それも重雷装巡洋艦と言う、木曾たちとは違う全くの新しい艦種である。
「初めまして。衛宮士郎です」
「妹から話を伺っております。この度は妹が大変お世話になりました」
助けて頂きありがとうございます。そう言って彼女は開幕早々深々と頭を下げた。だが士郎からすれば全くされる覚えのない感謝だった。
慌てて言葉を重ねる。
「頭を上げて下さい、俺は別に何も……」
「楽しそうに妹は貴方の事を話していました。戦争と言う地獄に長期間晒されながら、それでも自我を保って帰還した。感謝してもしきれません」
そう言って大井は魅惑的にほほ笑んだ。淑女と言う言葉が似合うような微笑みだった。
「本日は急にお伺いし申し訳ございません。また日を改めてお礼をさせて下さい」
「は、はい……いや、待ってくれ。別に、俺は――――」
「私がしたいのです。……それでは」
最後に。優し気な言葉で、しかし有無を言わさぬような圧力で。無理矢理に会話を打ち切り、大井は部屋を後にした。ものの数十秒の、しかし過ぎ去った事とするにはあまりにも鮮烈な時間。
士郎は思った。
淑女って言葉が人間になったらあんな感じなんだろうな。
もう一つ思った。
彼女に逆らってはいけない。逆らったらきっと100倍返し。
何故だかわからないが、そう思った。
そして最後に疑問を一つ。
「……で、大井さんって誰の姉なんだ?」
■
「ああ、大井は木曾の姉だな。茶色のセミロングで、淑女っぽくて、クリーム色の制服だろう?」
ヒトロクマルマル。
士郎の話を聞いた泣き黒子と物憂げな雰囲気が特徴的な担当医――黛梢子――は合点が言ったように掌を打ち合わせた。昼下がりの訪問者についてだった。
「球磨型の4番艦、大井。早い話が球磨型の四女さ」
「四女? てことは木曾の上には他に3人もいるんですか?」
「ええ、その通り」
意外な事実である。聞いていないのだから知らないのは当たり前だが。
「球磨型は全部で5隻、とりわけ3番艦の北上と4番艦の大井は有名だよ。たった2隻しかいない重雷装巡洋艦だからね」
驚きが顔に出ていたのだろう。助け舟を出す様に説明をくれる。
が、士郎が驚いているのはそこではない。
「……ああ、そうか。衛宮君は一般人だから意外に思うだろうが、姉妹艦って多いんだよ。なんなら君と共に帰還した磯波と叢雲も姉妹艦だし、望月と三日月も姉妹艦だ」
「望月と三日月は何となくわかるけど、磯波と叢雲も?」
「ええ。まぁそこらへんは艦種の図鑑を見れば解決する内容だ。図書室にでも行ってみるといい」
もう驚かない。驚くことが多すぎて逆に士郎は冷静になった。
そりゃそうだ。士郎は思った。艦娘が過去の戦艦や駆逐艦をモチーフにしているのなら、姉妹が多い事は驚く事ではない。
「明日のリハビリ終わりにでも行ってみます。でも、図書室って入れるんですか?」
「多分大丈夫。場所はA棟の2階。すぐそばに資料室があるけど、そちらは立ち入り禁止だから間違える事のないように」
まぁ、多分そんな体力無いと思うけど、最後にチクリと言葉を投げつけられる。明日のリハビリの苛烈さを予想させる一言だった。
「検査の時にも言ったけど今日は安静にするように。食事は持ってくるから部屋から出ないようにね」
「はい」
「君が無理をするタイプなのは怪我の具合を見れば分かる。手術は成功しているけど、直積したダメージはそう簡単に消えるわけでは無いからね。そこのところを理解するように」
どんな力を加えれば内部から壊れるのか。独り言なのか疑念を口にしているのか分からない言葉を零し、梢子は立ち上がった。そして鞄からプラスチック製の容器を取り出す。
「尿瓶を置いておくよ。カテーテルは外してるから、我慢できなくなったらなるべく此方を使って」
「トイレに行くのは……」
「足が縺れて倒れたりでもしたら一大事だろう。一応おむつを付けてはいるが、量によっては吸収しきれないし、尿瓶を使ってほしい」
理詰めで諭される。
分かってはいる。分かってはいるのだ。
ただ分かってはいても受け入れ難いものと言うのはある訳で。
「……分かりました。ありがとうございます」
この場で意地を張る事に意味は無い。士郎は素直にお礼を言って話を打ち切った。排泄に関しては一旦保留とするしかなかった。
「では私は戻るが、何かあればこちらのボタンを押してコールするように。すぐに向かう」
「はい」
忙しい身なのだろう。必要事項だけを伝えると梢子は足早に部屋を出て行こうとする。
だがドアノブに手をかけようとしたところで、それより早くに扉が開いた。
「おや」
「……梢子?」
顔見知りなのだろう。士郎のいる位置からでは誰が来たのか見えないが、下の名前で呼ばれている。だが聞こえた声は木曾たちのものでは無かった。
「衛宮君に用か? 一応彼は絶対安静なのだが」
「確認事項があるの。何なら貴女も同席して」
「……不穏だね。成程、居た方が良さそうだ」
溜息もそこそこに梢子は一歩扉から引く。
入ってきたのはスーツ姿の女性。黒色のロングヘアーと涼やかな目元が特徴的だ。
彼女は真っすぐに士郎の元へと来ると、懐から名刺を取り出した。
「初めまして。紅林つづらと申します」
「衛宮士郎です」
受け取った名刺には、『佐世保鎮守府管理課 紅林つづら』、としか書いてなかった。不自然なまでに余計な情報を排した名刺だった。
「申し訳ないですが確認したい点があります。貴方の為でもあるので、嘘偽りなく正直に答えて下さい」
「構いませんが……鉄底海峡の事なら俺よりも――」
「いえ、そちらではなく貴方自身についてです」
コホン。咳払いをしてつづらはノートパソコンを取り出す。そしてその画面を士郎へと向けた。
デスクトップには士郎のプロフィールが表示されていた。
名前、住所、家族構成、職業、通っている高校名……etc.,etc。
その全ては検査後に問われて答えた内容である。嘘偽りのない正しい情報だ。
「このプロフィールに間違いはない、宜しいですか?」
「え、ええ」
そうですか。そう言って静かにつづらは息を吐き出した。そして考え込むように、自身の眉間を揉み込む。
一方で士郎は。言葉に出来ない不安を覚えていた。喉がへばりつき唾が上手く呑み込めない。心臓が早鐘を打っているのが分かった。何を切り出されるか皆目見当がつかない筈なのに、酷く嫌な予感しかしなかった。
「単刀直入に申し上げます」
「冬木市という街は存在しません」