“樹魅”がいると思われるレオニードのセントラルビル、その中腹からさらに上階へと、おののきちゃんを欠いたまま僕は一人、正確には僕の中に忍が潜んだまま、階段を全段飛ばしで駆け上がっていた。あとどのくらい時間が残されているのだろうか。樹魅がこの巨大な街全体に覆った巨木の津波でもってライフスティールを発動させれば、その時点でこの街はただの搾りかすか何かになってしまうというのがおののきちゃんの話だ。
他方でもうひとつの高層ビルへと抗争の場を移したおののきちゃんのことも気にかかってしかたなかったけれど、僕がそちらに向かうことは物理的に不可能だった。そっちはそっちでおののきちゃんにまかせるしかない。
僕が登っていた階段は、10階ほど進むと、また左右にわかれ、今度は窓に隣接して上階へと続いていた。僕はさきほどおののきちゃんと白犬と呼ばれていた山犬部隊の主席とが突っ込んでいった高層ビルが見える階段へと向かい、再び空気そのものを揺らす断続的な轟音が耳を刺すことになった。
「あいつら一体何やってるんだよ……」
そう思ったままの言葉をつぶやいて、気を取り直して上階へと向かう。さすがに他に伏兵がいるとは思えなかったが、それでも気を張らずにはいられなかった。
階段を飛びながら、こちらのセントラルビルから見えるその高層ビルは、こちらのビルほどの高さではないものの、それでもかなりの高さがあり、もうこの位置からは地表はかなりの小ささで地上の木々に飲まれた車も豆粒ほどにしか見えない。
しばらく階段を登っていると、ふいに、窓から見えるとなりの高層ビルの中腹から、轟音とともに円形の白い粒子が皿かなにかのように放射線状に放出され、次に、まるでその高層ビルが横から一刀両断されたかのように、ゆっくりと、しかし悲鳴のような破壊音を響かせながらその両断された上層部が地表へと落下しはじめた。
「おい、あれ大丈夫なのか?」
その場には僕しかいなかったが、思わず誰かにそう尋ねるような言葉がもれてしまう。いかに怪異側とはいえ、そこまでやるか? まるであれ自体別の災厄じゃないか。
そして、おののきちゃんは大丈夫なのか? あれをやったのがおののきちゃんなのか、白犬なのかといえば、おそらく後者だろう。おののきちゃんの技のレパートリーで、というか“アンリミテッド・ルールブック”でああいうことができるとは思えない。
さすがに僕も呆然とその場に足を止めて窓の向こうで見えるビルの崩落に目を奪われてしまっていた。
そしてほどなくして、先日おののきちゃんに渡されていた携帯電話から呼び出し音が鳴った。
「僕だ、阿良々木暦だ。おののきちゃんか?」
『そうだよ。鬼いちゃんのノーブラジャーおののきちゃんだよ。ピースピース』
携帯電話から聞こえてくるおののきちゃんの声は、いつものように、やはり平坦だった。
「いやもうそういうのいいよ。大丈夫なのか? 今こっちからそのビルえらいことになってるぞ」
『うーん。端的にいって、絶体絶命ってやつだね。鬼いちゃん。そもそものところさ、さすがにこいつはさすがのボクにも荷がおもいよね。後生ってことで、こうして最後に鬼いちゃんの声を聞いておこうと思った次第さ』
どうもおののきちゃんの口ぶりからすると、おののきちゃんの目の前には白犬がいるらしい。僕が言葉を発そうとすると、それを制すようにおののきちゃんが尋ねてくる。
『ボクが聞きたいのは、鬼のお兄ちゃんが、この街と何の関係もないお兄ちゃんがさ、なんでここまで入れ込んじゃってるのかってことだよ』
「またそれかよ…… いいんだよ。メアリーたちはもう僕の中で居場所をしめちゃってるしな、あいつらにはそういう資格みたいなもんも、まぁあると思うぜ」
『でも、別に金がもらえるわけじゃないんだぜ、鬼いちゃん。ていうか傍目に見て、無意味に命を落とすだけだよ。えらく不合理というか、人間の生存機能から外れてると思わないかい? まぁ、式神人形のボクからこれを言われちゃ鬼いちゃんも人間の風上にもおけないってもんだけどね』
こんな話に、何の意味があるのだろうか。疑問に思いはしたが、答えざるをえなかった。
「わかってるよ。別に大それたことをしたいわけじゃないんだよ。別に金もいらないし、命も地位も名誉もほしいわけじゃないんだよ。僕があいつらのことが好きだから、運命っていうのかな、それを共にしてやりたいだけなんだよ。よくわかんないけどさ」
『と、いうわけらしいよ。白犬』
そこで突然おののきちゃんがそういった。そしてそれは僕に向けられた言葉ではなく、どうもおののきちゃんの目の前にいる白犬に向けられた言葉であるらしかった。
そして電話の向こうで、僕とは関係なしにおののきちゃんの言葉が続いた。
『甘すぎるだろ? 笑っちゃうよな。こんなやつ、ボクたちの業界じゃ1日で命を落とすぜ。でもまぁ、そういうことらしいよ。本人はそれでいいみたいだ。それでものは相談なんだけどさ。樹魅の心縛樹にとらわれたお前を解放してやる方法を、ボクはしっている。このボクのたったひとつのさえたやり方だよ。まったく苦しませないから、安心してくれていいよ。樹魅がお前を解放するって保証もどこにもないんだぜ?』
おののきちゃんの声が、電話越しにそこまで聞こえてきて、しばらく何のお音も聞こえてこなくなった。しかしすこし間をおいて。
『やれよ』
と、おののきちゃんとは別の声が聞こえてきた。
僕がその意図するところに気づいて、電話越しにおののきちゃんに呼びかけようとすると、その前に
『いい心がけだ。“アンリミテッド・ルールブック”』
と、電話越しにおののきちゃんの声が聞こえ、そしてそれとほぼ同時に、窓の向こうの、上層部が崩落した高層ビルから、一度だけ轟音が響いてきた。
虚脱感に襲われながら、
「お、おののきちゃん? 大丈夫か?」
一拍おいて、返事がかえってくる
『うん。こっちは終わったよ。でも、ボクはちょっと動けないな。もう指一本動かないかもしれないよ』
「そうか。悪いな、なんか」
『何いってるんだよ、鬼いちゃん。これはもともとボクの役目でもあるんだからさ、気にしないでよ。まぁ、山犬のほうを相手にするなんて思わなかったけどさ』
「ああ、じゃぁ僕もいくよ」
『あんまり気張るなよ。鬼いちゃん。それじゃぁ地獄で会おうぜ』
「ああ、それならちょっとは楽しいかもな」
その会話を最後に携帯電話を切ると、再び階段の踊り場から上階へと向かった。
#
高層ビルの階段を、ほとんど頂上まで登って行くと、最上階から程近い場所に、人とも異形ともつかない異様な圧を感じ取ることになった。吸血鬼の感覚だろうか。胃がグルグルとうねって全身が悲鳴を上げそうだった。
心渡を握ったまま、暗い木々の刺し貫いた廊下を進み、突き当たりにえらくでかく分厚そうな扉を見つけることになった。
「いくか……」
その分厚い扉から、何が飛び出してきても驚かないように、それが無理でもせめてそういう心積もりでその扉を開けると、その先からはかなり強い光が漏れ出てきていた。
そこはどうも、レオニードのビルの中でも特別重要な場所で、いわゆる宝物庫のようなものだった。金やら銀やらの貴金属類やそれを使った装飾品が、しかしぞんざいにそこら中にうずたかく積まれている。まるで大銀行の金庫の中のようで、それだけでいったいどのくらいの額になるのか想像もつかない、完全に1億や数億できくような量ではない、それがまるで獣が習性で貴金属を収集するかのようなぞんざいさで部屋のそこかしこに小さな山のように積まれているのである。
そしてこの部屋には、同時に巨大な木々が天井から壁から、貫き、根をはり、集中していた。それこそ、まるでこのハーレンホールドの街に張り巡らされた樹海の木々が、ここにその先端を集中させているようだったし、実際そうに違いない。食虫植物なんて、そういうものを植物図鑑で発見してもぞっとした気分がするものだけれど、街ごと飲み込んでしまうような木々の終着点がここなのだと思うと、平衡感覚を失いそうな、恐怖や混乱がないまぜになった気分にならざるをえなかった。
本当なら、僕の目は泳ぎまくっているところだろうが、しかしこのとき僕の目線は一点を向いていた、なぜならそこに人影が、いや、人の形をした怪異、“樹魅”がいたからである。
「ハッ、ハッ……」
樹魅は、扉を開けた僕に、しかし何事もなかったように、その巨大な宝物庫のホールの天井を、何も言わずに見上げていた。そのひび割れたようなしわの顔やたたずまいはまるで一本の木がそこにあるかのようだった。それくらい、何の反応も示さなかった。
一方の僕は、今や心臓が跳ね返ってしまって、その勢いで息が強くもれ出てしまう。いや、それも仕方なのないことだった。この場で失禁して気絶してしまわないだけまだマシだ。
「あ、アアァ……」
次の瞬間にも殺されかねない僕が、何も言えずに“樹魅”の動きを見ていると、一拍おいて、気が向いたように樹魅が声を漏らした。
「アァァ…… お子か。よく来た……」
「……」
どう反応すればいいのだろう。やはり樹魅にも僕が僕と認識できるようで、それは“存在”が入れ替わる期間のうちのものなのか、おののきちゃんが言っていた存在を移されたものはそれらを認識しやすくなることがあるというところによるものなのかはわからなかったが、右手の心渡を握る力を強めていると、樹魅が言葉を続けた。
「本当に…… 私は“感心”している。アァァァ…… あのエクソシストどもが、サリバンとか、レミリアとかいったやつらが、そんなに大事だろうか?」
「なっ……?」
何で知ってるんだ? そう聞きたかったが。口が思うように動かない。まるで車に引かれる直前の人間のようだ。うろたえるようにおろおろ体を硬直させるしかない。
しかし、その理由は樹魅のほうが話はじめた。
「アァァ…… 私は、私の“木”が張り巡らされた場所を緑視することができる。つまり、このハーレンホールドで起こるすべてのことは、この眼のうちにある」
「だからか」
やっと口が動いた。
この樹魅はおそらく、先ほど地上でサリバンやレミリアが殺されかかっていたことや、僕やメアリーが参入したことを、すべてその周囲の巨木の群れを通して把握していたに違いない。
そしてそれだとすると、計算が狂う。僕が以前の僕と身体能力が異なることも、こいつは知っていることになる。
「アァ…… 大事か? あの兄妹が?」
「そうだよ。少なくとも僕にはそう思える。あいつらが命をかけるならせめて僕もそうしてやりたいくらいにはな」
「ならば」
樹魅がいう。
「ならば…… アァァ…… 私の“木”があるところで、お子たちを隠すべきではなかった…… アァァァ…… いかに、緋牢結界でも、私にはないもおなじことだ」
そういって、樹魅がその体に隠れていた右手を僕に見せるように持ち上げた。すると、樹魅の右手につかまれたものが僕の目に映った。
それは二つの人間の首だった。無造作に髪をつかまれて、そこから人間の切り取られた頭部へと続く、その二つの首は、サリバンとレミリアのものだった。
「あっ……」
僕がそうつぶやいた次の瞬間、その広い部屋に叫び声が響き渡った。それが無意識に僕自身の悲鳴だと自分で気がついたときには、右手の指が自分の手にめり込むほどに力を込めて心渡を握り、僕は樹魅に向かって全力で走っていた。
「あああぁぁぁぁぁああああぁぁぁあぁぁっ!!」
殺す!! 殺す!!
強烈な怒りと殺意が、樹魅に対する恐怖を塗りつぶしている。
まるで目の前が真っ赤に染まったようだった。
「アァァァ…… アアァァァァ……」
樹魅の姿がグングンと近づいてくる間にも、樹魅はまるで音楽でも楽しむかのように、僕の悲鳴に聞き入り、そして右手につかんだサリバンとレミリアの首をぞんざいに後ろに放り投げた。
「樹魅いいいぃぃぃっぃいぁぁあああ!!」
しかし、同時に僕はさらに目を疑った。
樹魅が二つの首を放り投げると同時に、その二つの生首が崩れ始め、徐々に木々になりはじめ、ボロボロと崩れだした。
僕がそれに気づいたときには、すでに樹魅の左手が僕の顔に向かってゆっくりと伸びてきているところだった。
「アアァ…… アアァァァァ…… 実にたやすい」
やられた。サリバンとレミリアの生首のように見えた“アレ”は、樹魅が模造樹で作った精巧なただのレプリカだった。
樹魅にはほとんどお遊びのようなものだったのだろう。
まるで赤子の手をひねるように懐に飛び込まされた。
樹魅の枯れた左手からはすでにあの黒い木々の刃が飛び出していた。
あまりに不用意に樹魅に肉薄してしまった。しかし、その瞬間に僕が殺されることはなく、いきなり樹魅がその場を飛びのいた。
そしてその次の瞬間には、樹魅が先ほどまでいた空間に横から巨大な火柱が殺到し通り過ぎたのだった。それができるやつは、僕の知る限りでは一人だった。
「コヨミ! 無事かい?」
横向きの火柱が殺到したほうを見ると、右足をこちらに向けたメアリーがそう僕の名を呼んでいた。
見ると、メアリーの背後の壁面はドロドロに赤熱して溶解してしまっている。こいつ、どうやらビルの外から壁面を溶解させて入ってきたみたいだ。
こいつこのビルの外壁を登ってきたのか?
「よく僕がいる場所がわかったな」
「今の私は“目”が効くんだよ。あいつが?」
「ああ、樹魅だ。“祟り蛇”は?」
「うん、なんとかしとめたよ。1回しにかけたけどね」
まじかよ。ということは、やはりあの不死の祟り神はメアリーのレオニードの鍵といわれる霊紋を使っていたと見て間違いないのだろう。
脳裏にそういう考えがチラリと浮かんだとき、メアリーが僕を蹴り飛ばしメアリーが逆方向に飛んだ。
そしてその間を巨木がまるで蛇のように通り過ぎ。轟音を立てて後ろの壁に激突した。
その発生源は先ほどのメアリーの炎をかわした樹魅で、狙いはメアリーであるらしく、メアリーが交わした黒い木の横から、まるで枝が伸びるように黒い木々がさらに発生してメアリーに殺到した。
「メアリー! 樹魅に結界は効かない!」
急いで叫ぶ。するとメアリーは
「どうかな?」
といって、次にメアリーの周囲に殺到する黒い木々の前方に炎の壁が出現し、炎が燃える音とともにそれらの進行を防いだのだった。
「どうやら攻性結界なら、威力の勝負のようだね」
「アァァ…… レオニードの特殊結界だからだ。アァ、次は破れる」
蹴り飛ばされた僕とメアリーの向こうで、樹魅がいったのを僕の聴覚がとらえた。
それはメアリーにも聞こえたようで
「やってみろよ」
とメアリーが言うと、次にメアリーが樹魅に向かって左手を掲げると、その左手に炎状のナイフが3本出現し、その左手を前方の樹魅に向かって振ると、空中を火の刃が疾走した。
ガンガンガンと、その炎の刃が樹魅の右手から発生した黒い木でできた網状の壁に阻まれる。
山犬部隊の剣も、おののきちゃんの“アンリミテッド・ルールブック”もあのアマルファスだかといった黒い木々の壁は抜けなかった。
そしてその瞬間には、メアリーは次の動作をすでに起こしていた。
メアリーの右足を振りかぶり、彼女の異能によって右足を太ももまで炎化させていたのだった。
「おおおっ!!」
メアリが叫びながら右足を振りぬくと、炎化した右足が、まるで横向きの柱が巨大化するように伸びて樹魅に殺到した。
それを樹魅はかわそうとした、しかしあまりに巨大な炎の柱に、樹魅の右腕が飲み込まれ、そしてその右腕を黒い木の壁ごと消失させた。
樹魅は自分の右手が焼失したのに気づいて言った。
「アアァァ…… レオニードの力は、すばらしい。それもすぐ私のものになる」
そういうと、樹魅の右手の焼失部分から新たに木が生え、それがすぐさま腕の形を形成し、そして先ほどまでの樹魅の右手と遜色のない腕へと変貌した。こいつ、吸血鬼よりも不死身なんじゃないのか?
「私は、こんな力ほしくなかった」
「アァ…… そうだろう。だから存在移しの取引に乗ったのだから」
樹魅の言葉にメアリーが口元を引き締めた。