僕の大きいほうの妹、阿良々木 火憐は、
いってきますと勢いよく出立を宣言し、僕の家で僕の隣に座っていた戦場ヶ原にゆっくりしていってねと笑顔でつげ、それから弾丸よろしく玄関から飛び出していったあと、家にもどってくることはなかった。
しかしそれだって初めてのことというわけではない。
火憐ちゃんが数日家を留守にするということは、それ自体は今回が初めてではなく、それは家出や友人に起きた小さい事件に首をつっこんでのことではあったけれど、ああまたか、あとで帰ってきたら文句を言ってやろうと思う程度のことだともいえた。
しかしいつもと違う点もあった、火憐ちゃんは家を長く留守にするような場合は、家出の場合は荷物も何からもっていくし、そうでなくてもしばらく家を留守にすると、置手紙、携帯電話を使うようになってからは少なくともメールくらいは残していっていた。
今回はそれがなかった。
火憐ちゃんは、火憐ちゃんがちょうどちょっとコンビニにいってくるくらいの勢いで家を飛び出し、その日も、そしてその四日後の今日も帰宅することはなかったのだ。
「どうしたのだ阿良々木先輩。どうにも浮かない表情をしているじゃないか」
「ああ神原か、お前は相変わらず元気そうだな。うらやましいよ」
「ああ、おかげさまでな。元気テカテカだ!阿良々木先輩と話ているだけで私はさらに元気になっていく心地だぞ!!」
「やめろよ。勝手に僕の元気を吸い取っていくんじゃない」
なるほど確かにこいつの表情は太陽のようだけれど、それをいうならサンサンといったほうが適当なのではないだろうか。
「加えて昨日、実によいBL本を読み終えたのでな。今日の私の活力は主にその二つによって支えられているのだ!」
「お前が昨日読んだBL本と僕を同じカテゴリでくくるんじゃない!!」
相変わらずのポジティブシンキングだった。まるでこいつが触れるすべてのできごとはその良しあしに関係なくこいつのエネルギーになってしまうかのような、ポジティブシンキングというよりむしろエコロジーシンキングだ。
僕に真似できるとは思えないし、真似したいとも思わないけどな。
それは学校の廊下を歩いているときのことだった。いつものように疾風のように現れた神原だったが、しかし僕が少々気のない挨拶をしたことで、いつもとの心境の違いを気取られてしまったらしい。
いろいろと詮索される前におとなしくことの次第を話しておくことにした。とはいえ火憐ちゃんが家を出たときに戦場ヶ原が居合わせていた事はいわなくてもいいだろう。
「ふむ、委細承知したぞ。しかし阿良々木先輩、彼女が家を長期間留守にするということはこれまでにも何度かあったことなのだろう?」
「ああ、確かにそれはそうなんだけど、それでも昨日くらいには帰ってくるものと思ってたし、これまではメールで連絡するくらいはしてたんだよ。今回はそれもなかったから、さすがに気になるんだよな」
ふーむ、神原はそういって先ほどの皮の下に全部元気をつめこんだような表情から一変して、信憑にうつむいて黙考した。
自分の妹のことで煩わせてしまうのは少々申し訳ない気がしてくる。
「もし仮に阿良々木先輩の妹さんの宿泊先で、かなり濃厚な百合が展開しているとすれば、外界とのかかわりを一切絶ってしまいたくなる心情は理解できるのだが…」
「僕の妹は百合じゃねーっ!!」
というか神原が百合だった。なんだその純情恋愛路線を一直線にひた走っているように見せといて実は目的地がエロ同人誌の即売会でしたみたいな歪んだ推論は。
僕の妹は女二人で世界のすべてを形成してしまうようなディープな同性愛者だったのか?
もちろんそんなことはない。妹は百合ではないし僕だって決してぜんぜんそれはもう一切の疑いの余地なくBLではないのだ。
大体火憐ちゃんには彼氏がいるらしいしな。それだって僕は認めちゃいないのだけれど。
「もちろん冗談だよ阿良々木先輩。先輩の妹さんにかなりの素質があると思うのは本当だが、どうか肩の力を抜いてほしい」
「肩の力を抜けと言っておいてさらりと聞き流せないことをつけくわえるんじゃない」
「ああ、それに関してはマイケルジョーダンやロナウドクラスだといっておこう」
世界クラスだった。というか世界クラスの百合っていったいどんなものなんだろう。
少し気になるがこれ以上踏み込むといろいろおかしいことになりそうなのでひとまず置いておこう。
加えて火憐ちゃんが百合に進みそうになったら全力で阻止することを心に刻んでおく。
とはいえ今はその火憐ちゃんが不在なのだった。
「となれば妹さんが、そのときどこに向かっていたのかというのが重要なてがかりになるんじゃないだろうか」
と神原。
「ああ、確かにそれは一理あるな。それに関してはあいつが家を出る前に、携帯をいじってたからどこかから連絡が来て、それを見て出て行ったんだと思うんだけど、その携帯は本人が持って行ったし、その内容は僕にはさっぱり見当がつかないから、まずはそこからってことになるな。ひとまずもう一人の妹に何か知らないか聞いてみることにするよ」
「ふむ、流石は阿良々木先輩、私の考えることなどすでに検討しつくしたあとだと言うわけだ。重ね重ねおそれいる」
「そんな大したことじゃないよ」
というかこれは今朝戦場ヶ原が言っていたことだし。
「ところで阿良々木先輩。私もつい先日部活の試合を終えて、今は自主トレ期間で手があいているのだ。そこで是非私も力を貸させてはもらえないだろうか」
「いや、それはありがたいんだけどさ、これは僕の妹のことだしあまり迷惑をかけるのも気が進まないんだよ。でも、そうだな、とりあえず何か気がついたら教えてくれると助かる」
「ああ、承知した。もとより私は自主トレでランニングをかねてそこそこ走るからな。ほかならぬ阿良々木先輩のためだ、力の限り協力させてもらいたい。がんばる駿河ちゃん出動だ!」
「いっとくけどな神原、そのあだなはたぶんはやらないぞ」
「別によいのだ。実際のところこのあだなを披露しているのは高校に入ってからは阿良々木だけだしな」
そういって神原は行ってしまった。
僕はそんなに気のない顔をしていたのだろうか。
とりあえず戦場ヶ原にも同じことを言われないようにもう少し明るい表情を心がけよう。
その日は学校全体の清掃があった日だった。
僕は昼休みに戦場ヶ原と昼飯を食べて、不自然な笑顔は気持ちが悪いと戦場ヶ原になじられた後、午後の授業を終えて僕に振り分けられた清掃区画である体育館で作業をしていた。
今日は体育館で1年か2年か、あるいは学生とは関係のないイベントがあったらしく、体育館には簡易のイスが敷き詰められていた。
体育館の清掃班は、といっても100人近くいたのだけど、とりあえずはそのイスをえっさほいさと片付けて、そののちに体育館周辺の清掃計画を立て始めたのだ。
それがまたおっくうで、生徒の自主性を育てる方針なのかなんなのか、直接聞いたわけじゃないが、その清掃の分担は生徒たち自身で決めることになっていたから場はちょっとした騒ぎになっていた。
10人程度の班ならそれでもすんなり事は運ぶのだろうけど、なにぶん人数が多すぎた、
人だかりがコピーされた体育館の図面に向かって角砂糖に群がる蟻のようにごった返していた。
まぁなるべくやりたくないところにはいかないようにしたいのはわかるんだけどさ、
僕は僕でとりあえずあまったところに行けばいいやくらいの感覚でその人だかりの外のほうで早く決まらないものかと手持ち無沙汰に待ちぼうけだった。
体育館の二階の清掃とか、体育館倉庫の整理とか、体育館周辺の掃除とか、体育館横の庭の清掃まで含まれていて、あーだこーだと遅々としてしか進まないようでこのまま進むと清掃時間よりもむしろ作戦会議の時間のほうが長引きそうな感さえある。
僕が横目にどこでもいいから早く決まってくれないかと人だかりのほうを見ていると、その人だかりが体育館の入り口のほうから静まり返っていくのが察せられた。
それはまるで水面に落ちた水滴の波が伝播するかのように、体育館の入り口の人だかりから静寂が伝播して、ちょうど群集の反対側の僕のほうまで静かになった。
ついでその群集がまるで海がわれるかのように体育館の入り口のほうから一直線に割れていくのだ。
なんだ?と思って僕がそちらを向いた一足さきに、僕にも見えるところにひとだかりを割って現れたのは、あのイギリス社交界の星、エルザ・フォン・リビングフィールドだった。
……
彼女はモーセか何かなのだろうか。
エルザさんが人だかりを割って現れ、体育館の図案に目を落とした。
彼女は体育館の清掃班に入っていなかったように思うんだけど。それを僕が知っているのは単に彼女の名前はえらく目立つからだ。
彼女が言ったことは三言だった。
「みなさんごくろうさま。体育館の清掃のことだけどよかったら私にも手伝わせてもらっていいかしら?」
簡単に了承された。というか大歓迎といった雰囲気だった。
「それじゃぁ私は体育館倉庫の清掃を担当させてもらってもいいかしら?」
それは大変なほうの部類だと思ったけど特に誰も反対しない。
自ら大変な役割を引き受けるとは、どうも彼女は強い奉仕精神の持ち主らしい。
「そうね、あと一人誰か手伝ってほしいかなぁ…」
体育館の図面に目を落としていた彼女だったが、そういって不意にその顔を上げた。
顔を上げた彼女の目は僕に向けられていたものだから、反射的にのどをならしてしまった。
清い湖畔を思わせる、あの青い目に僕が映りこんでいる。
「それじゃぁそこにいる阿良々木くん、私とあなたが体育館倉庫の担当ということでいいかしら?」
僕にそれを拒否する理由はなく、そういうわけで少なくとも体育館倉庫の清掃は僕を除いて満場一致の様相で可及的速やかに決定してしまったのだった。
体育館倉庫はなかなかの広さだった。二人でやるには広すぎるんじゃないだろうか。
エルザさんに言われて、僕は床の掃除をして、彼女は備品の移動と整理を行っていた。
僕が床をサッサと掃きながら横目で彼女を見ると、
ちょうど高めの棚にバトンセットやメガホンやらが入った箱を直している最中だった。
軽く背伸びをする彼女もどこか絵になるように思った。ここが体育館倉庫であるにもかかわらずだ。
「どうしたのあららぎ君、手がとまってますわよ?」
その通りだった。何気なく彼女を見てほうけたようにそのままかたまってしまっていたのだ。
彼女が含み笑いをしたように僕と視線を合わせた。
それにしても手がとまってますわよとはお嬢様言葉だったが、彼女が言うとおさまりよく聞こえるから不思議だ。
「ご、ごめんごめん。ちょっとボーっとしててさ」
謝って再び箒を動かそうとすると彼女はフフフという声でコロコロ笑った。
「あはは、やっぱりますわよっておかしいわよね。あららぎ君、あなたは日本でのお嬢様言葉って、どうするべきだと思う?なになにですわ、とか、もしくはなになにですわよ、っていう言い回し」
「え、お嬢様言葉か…そうだなぁ。実際のところ本当のお嬢様学校なんていうところではそういうしゃべり方が主流なんだって話を聞いたことはあるけど、そういう場合をのぞいたら砕けたしゃべり口調のほうが普通だと思うかな」
「やっぱりそうよね」
エルザさんはそういって、別の用具に手を伸ばした。そもそもイギリス貴族である彼女にこのような雑用をやらせてしまっていいのだろうか。
「日本に来るときにじいやの一人が最初に教えてくれたのがお嬢様言葉だったのね。だから私も最初はやんごとないしゃべり口調だったんだけど、日本の映画やドラマを見てみたら、そんな口調いっさいでてこないじゃない?そのとき私がどれだけ驚いたかきっとわからないわよ」
「ああ、そりゃぁそうかもしれないね。それだったらお嬢様言葉だって一種の方言っていえるだろうし」
ん?じいやの一人?じいやの一人って、じいやオブじいやズ?
じいやってあれだよな、いわゆる執事というやつだ。
じいやなんて普通いないけどいるとして高々一人だろう。なんだか本当に別世界と言う感じだ。
「じいやたちからしたら、ノイマン家の格というものが大事なのかもしれないけど、わざわざなじみのない言葉で話しても仕方ないじゃない?こっちでの住居だって私はもうちょっとこじんまりしててよかったんだけど、結局町外れの洋館を借り入れちゃって、気持ちはうれしいけどもうちょっと肩の力を抜いていいと思うわ」
この街外れに洋館なんてあったのか。
そういえばこの人、学校の近くまで黒塗りのリムジンで送ってもらっているらしい。
彼女の言うノイマン家の格については想像もつかなかったが、エルザさんのじいやとやらはもしかして日本の上流階級についてある種の偏見を抱いてるんじゃないか?
まぁ僕も詳しく知ってるわけじゃないけどさ。
「あとね、こんなこと表立って聞いてもいいのかわからないんだけど」
にわかに神妙な顔つきだった。
「あの、忍者ってどこにいるのかしら?やっぱり影のものだから、表には出ないものなの?」
「いや、僕も実際見たことはないんだけど、その、たぶんいないんじゃないかな」
エルザさんにもなかなかにたちの悪い偏見があるようだった。
やはり隠しているのかといぶかしむ彼女のそこらへんの誤解を解くのに苦労することになった。
「ほんとうに?でも日本の忍者が実在することは歴史書にもあることなのでしょう?」
それはそうなんだけどエルザさんのいう忍者はなんというかおかしな進化をとげてるそれであって、それは当時の忍者の方々に話せば、いや、それはないわと即否定されてしまうものなのだ。
後学のために彼女が日本文化を勉強したというはた迷惑な映画とドラマを教えてほしい。
体育館倉庫の外ではやっと清掃の分担が決まったらしく、ガヤガヤと別の賑わいが察せられた。
「阿良々木君、この脚立を押さえておいてくださらない?」
エルザさんが、体育マットのとなりに脚立を立てかけていった。
備品を高さのある棚にしまうためだろう。
「ああ、かまわないよ。代わりに僕がやろうか?」
「ありがとう、でもそれだと二度手間だから私がやるわ」
僕が脚立を支えると、エルザさんはカタカタと脚立を上っていく。
ここまで彼女に近いと、いつぞやの香りに鼻腔をくすぐられた。
どうも香水じゃないんだよなぁ、もしかしてイギリス人ってみんなこんなにいいにおいがするものなのだろうか?
それとなく勝手にノドが動いてしまう。
「あ、エルザさん気をつけてくれよ。高いところで体を伸ばすと不安定になるからさ」
思い出したように僕が見上げてエルザさんにそういったとき、すでに彼女は足をすべらせた状態で僕の頭上からふってきていた。
そこからは矢継ぎ早だった。
僕が驚いたまま動けずにいると、彼女は当然そのままふってきて、僕が頭からやわらかい感触に押しつぶされてバランスを崩すと、ちょうど体育館倉庫の地面に置かれた体育館マットの上に二人して倒れこんでしまった。
「あっつ…エルザさんは?」
彼女も怪我はないようだった。というかエルザさんは僕の上に覆いかぶさって、至近距離から僕の顔を覗き込んでいた。
あの青い目だ。今は青じゃなくてにわかに金色がかって輝いているように見える。
心臓がわしづかみにされているように収縮するのがわかった。
直接息がかかりそうな距離だ。僕の息はあらくなってないだろうか?
「あの、エルザさん…」
彼女が覆いかぶさって身動きがとれなかった。
彼女は至近距離から僕の瞳を覗き込むと、その整った顔のきれいな唇をゆっくり開いた。
「阿良々木、この前のこと、考えておいてくれた?」
ひときわ強く心臓がはねた。
「な、何のことを…」
「ほら、阿良々木が私の奴隷になるって話だよ」
彼女の金色がかった碧眼が僕をのぞきこんでくる。
まぶしい光を当てられたかのように僕の目は細まり、頭にモヤがかかったようにぼうっとしてくる。
「ぼ、僕は…」
「僕は?」
おぼれるように空気を飲み込んだ。
花のような香りが鼻腔に充満する。
心臓ははやがねのように、飛び出しそうなほどにのたうちまわっていた。
「僕は…」
「いーけないんだ。何をしているの阿良々木君?」
聞きなれた声にはっとした。
はねるように首を横にして体育館倉庫の入り口を見ると、そこには戦場ヶ原ひたぎが、底冷えするような目線で僕を見下ろしていた。
見下ろしていたというか、見下していた。
非難めいた意思をありありと察することができる。
僕はまな板の上の鯉のようにじたばたもがき、僕の上に覆いかぶさったエルザさんがぱっとのくと僕はすぐに立ち上がった。
「戦場ヶ原、これは違うんだよ。もしかしたらさっきの状況を見ると一見なにかやましい不健全なことが行われようとしていたかのように見えるかもしれないけれど、これは単にエルザさんが脚立にのぼって僕がそれを支えていたら、偶然バランスが崩れてこうなったというだけの極めて健全な事故にすぎないんだ」
「へぇー」
戦場ヶ原はそれだけいうとまた黙ってしまった。
さっきとは違う意味で心臓がバクバク言っていた。
まるで凍った手で心臓をサンドバックのように殴られているかのようだ。
戦場ヶ原はしばらく僕を見ると、口をひらいた。
「本当にそうなの?エルザさん?」
戦場ヶ原に尋ねられたエルザさんは、あどけない笑顔でいった。
「そうね。そういうことにしておきましょう」
え?なに?なんで真相は違うけどとりあえず話をあわせておこうかな的なニュアンスがありありと現れているんですか?
「ちょっとした吸った揉んだがあっただけよね」
ちょっと待ってくれ。
仮にエルザさんが日本語に不慣れなイギリス育ちで特に他意のない発言だったとしても、今その言い回しは危険すぎる!!
僕の疑問をよそに、エルザさんは戦場ヶ原の脇を通って体育館倉庫を出た。
そのでしなに、彼女は振り返って蠱惑的な笑みを僕に向けた。
「そうだ阿良々木君。今度私の家に遊びにこない?無駄に広くて一人じゃちょっと寂しいのよね」
「あ、うん、そそそそうだね。かか考えさせてもらおうかな」
キョドりまくりだった。
僕が言うと彼女は手をふって挨拶をして行ってしまった。
体育館倉庫には僕と入り口に寄りかかって僕を見る戦場ヶ原だけがいた。ガハラさんの視線が怖い。
バタン。
扉が閉められる。
扉の前には戦場ヶ原。
「あららぎくん。ほかになにかいいたいことはある?」
「いや、戦場ヶ原、ほんとうに何もなかったぜ?」
少なくとも戦場ヶ原が想像しているかもしれないようなすったもんだなど誓って皆無だ。
「わかりました。一応は信用しておくわね」
戦場ヶ原は僕を一瞥すると、何かを持った右手を僕のほうに向けていった。
「あららぎくん。これなーんだ?」
「それは、コンパスだけ…」
言いかけたところで、口の中に強烈な違和感を感じた。
気がつくと戦場ヶ原が僕の目のすぐ前で僕の瞳を覗き込んでいた。
まるで僕の瞳の奥に何か探すかのようにまっすぐ見つめられる。
そして戦場ヶ原の右手のコンパスは、僕の開いた口の中に突っ込まれていた。
「あららぎ君、これは仮定の話なのだけれど」
戦場ヶ原が僕の口にねじこんだコンパスの針で、僕の口腔の裏をなぞっていく。僕は戦場ヶ原の視線と口の中に金属の針をねじこまれているという事実に微動だにできずにいた。
「もし、もしあららぎ君が、私の存在を忘れて、ほかの女とくんずほぐれつ二人大プロレス大会でも始めようということだったのなら」
戦場ヶ原が僕の耳元に唇を近づけて、ささやくように優しい口調でつげた。
「絶対に許さないんだからね」
ゴクリ、とのどを鳴らしてしまう。
「あ、ふぁふぁっへふよへんひょうはひゃら」
わかってるよ戦場ヶ原。
わざわざ僕の口にコンパスなんて突っ込まなくても、僕と戦場ヶ原はお付き合いをしてる関係なんだぜ。
お前はおもい、というかかなり、っていうかめちゃくちゃ重いやつだけど、最近はその重さもちょっと好ましく思ってさえいるんだよ。
それはそれである意味恐ろしいことのようにも思えるけどさ。