「はぁっ、はぁっ……」
コロセウムから外に出ると、そこからハーレンホールドの街が一望できた。
「まじかよ……」
ハーレンホールドの街は、今や樹木の津波に完全に飲み込まれていた。
5メートルから、何十メートルにもなるような樹木が、急速に伸びたそれがまるで津波のように街を襲い、ビルや家屋にその根を貫き、どこまでも伸び、ハーレンホールドの街すべてを飲み込んでいる。
こんなことができるのは“樹魅”しかいない。
あいつ。北西の森でこれを狙ってたのか?
いやそれより今はレミリアを。
「すいません、レミリア・ワゾウスキを知りませんか? レミリアを」
コロセウムから出る途中から、そう聞き続け、シェルターへと逃げる学生たちと逆方向に、目撃したという言葉をたよりに進んでいく。
「なんだ? レミリア? 彼女ならアイリー様とあっちのほうに」
そういって、名前も知らない生徒がシェルターのほうへと走っていった。
その生徒が指した方向は、コロセウムの裏庭だった。
#
「はぁっ……はぁっ……」
コロセウムの裏庭に向かうと、その曲がり角の手前に、アイリー・レオニードの護衛、“山犬部隊”の第七席、アルザス・クレイゲンが建物を背もたれに立っていた。
アルザス・クレイゲンは、僕を視界に捕らえるようにジロリとこちらを見た。
「ここは誰も通すなと、そう言われているんだがな」
アルザス・クレイゲンは、それだけ言って、つまらなそうに宙に視線を泳がせた。
この樹の津波にも、興味はなさそうである。こいつ、このことも知ってたのか?
僕は息を整えながらその山犬に言った。
「そりゃぁ、あんたはハーレンホールドに命令されて、いやいやでもあの女を護衛しなきゃいけないかもしれないけどさ。でも、あの女の命令まで聞く必要はもうないんじゃないのか? “豪胆”はもう死んだんだろ?」
そういうと、アルザス・クレイゲンはもう一度こちらをジロリと見て、少しいぶかしむようにすると
「それもそうだな」
そういって再び視線を宙に泳がせた。
「通るぞ?」
僕はおそるおそる、そう確認したが、“山犬”は、しかし何も応えなかった。僕はそれを暗黙の承認と見て、山犬の前を通り、コロセウムの裏庭へと回った。
そして、その角を回ったときに僕の目にはいったのは、車椅子から立ち上がって逃げようとするレミリアと、そのレミリアに、ナイフを持って襲いかかるアイリー・レオニードの姿だった。
「死ねえええぇぇぇぇ!!」
「きゃぁぁぁっ!?」
アイリー・レオニードが叫びながらレミリアにナイフを突き刺した。しかし、そのナイフはレミリアには届かなかった。
バァン!
そうはじけるような轟音とともに、レミリアがとっさに張ったサイコキネシスの障壁が、アイリーの持ったナイフを弾き飛ばし、弾かれたナイフは吹き飛ばされ、アイリーの右ほほを薄く掠めて茂みに飛んで言った。
「な、なんで、シェゾズナイフが……?」
アイリーが、呆然としたようにそうつぶやいた。
レミリアは、ナイフを弾き飛ばすと、火傷と裂傷でおおわれた手足で、力なくその場に倒れた。
「レミリア! レミリア!?」
僕がレミリアにかけより。おそるおそるレミリアの上体を抱きかかえる。
一方、アイリーはやっと自分の頬から流れる血に気がついたように、その切れた頬を手でなぞり、それを目の前に持っていって、彼女の目を見開いた。
「ち、血が、私の、レオニードの高貴な、血が……?」
呆然とその事実を飲み込めないようでいるアイリー。
そこに遅まきにサリバンやメアリーが走ってきた。
「レミリア! コヨミ!」
そういって来たのはメアリーだった。見ると、マットも一緒である。なんと、メアリーと試合をする直前だったルシウス・ヴァンディミオンも一緒だった。
サリバンは
「二人とも、無事でよかった」
と言ったあと、そこから見下ろせるハーレンホールドの街を見て
「なんだ、これは……?」
と、力なくつぶやいた。
マットが僕たち全員に向けて言った。
「おい、みんな早くシェルターに向かうぞ。街に“祟り蛇”が出てるらしい。学園生ははやくシェルターに向かうように命令が出てる」
「アイリー。君もシェルターへ」
ルシウスがアイリーに呼びかけた。
しかし、アイリーは
「血が、高貴な血が……」
と、その場に立ち尽くしたのみである。
動いたのは、サリバンだった。
サリバンは僕たちに
「みんなレミリアを頼む。僕は街に向かうよ。街のみんなを守らないと……」
そういって、サリバンは街に向かって走り出した。
マットがハーレンホールドへと向かおうとするサリバンに叫んだ。
「おい、待てよサリバン! “祟り蛇”だぞ!? 死にたいのか!?」
「あぁ! 僕は街を守りたくてこの学園に入ったんだ。僕のじいちゃんもそうして死んだ! この剣にかけて、それで死ねるなら僕は本望だ!」
そういって、サリバンは走って行ってしまったのだった。
そして後に残った僕たちで、次に口を開いたのは、アイリー・レオニードだった。
「殺せ……」
小さい声で、つぶやくようにそう言った彼女は、次に叫んだ。
「レミリアを殺せ! アルザス・クレイゲン!」
その瞬間。アイリーの前にアルザス・クレイゲンが空中から跳躍して表れ、そしてレミリアをにらみながら、腰の長剣を抜こうとした。
「いやっ……!!」
レミリアが、逃げるように立ち上がり、アルザス・クレイゲンのほうに両手をかざすと、アルザス・クレイゲンは後方に跳躍した。おそらく、レミリアの未知のサイコキネシスを警戒してのことだ。それにかまわず、アイリー・レオニードが叫んだ。
「何をしている! やつを殺せ! 見ろ! やつは私を傷つけた! レオニード家に対する反逆者だ! やつも、やつの兄も殺せ! お前たちは終わりだ! アハ、アハハハ!」
やらせるかよ。僕はそう思ってレミリアの前に立ったが、次に後ろを見ると、レミリアの姿はそこにはなかった。
レミリアは、そのサイコキネシスで空中に浮かび上がっていた。
「もう、終わりだわ。私たちは……」
いいながら、レミリアが反転してハーレンホールドのほうを向いた。
レミリアの包帯をしていない左目からはポロポロと涙がこぼれているのが僕にも見えた。
こいつ、街に行く気だ。それを察して、空中に浮かぶレミリアに叫んだ。
「レミリア! だめだ行くな!」
「兄さん。サリバン兄さん!」
レミリアは、しかし僕の声は耳に届かないように、そのまま宙を加速して、巨大な樹の津波に飲み込まれたハーレンホールドへと飛んで行った。
「ど、どういうことだ?」
そう言ったのは、マットだった。
メアリーも目を丸くしていた。
なぜレミリアが、あんなことができるのか、想像を絶する驚きだったに違いない。僕だって、妹たちが急に空に浮いたらきっとこうなるだろう。
「殺せ! レミリアを! サリバンを!」
そう叫んだのはアイリーだった。それも片手に携帯電話を持ちながらである。おそらく、ハーレンホールドの自警団に伝わったに違いなかった。
アイリーの隣で彼女をなだめるようにしていたルシウスが言った。
「アイリー。落ち着け、とりあえずシェルターに行こう。僕も向かうから」
そして、なおも激高さめやらず叫ぶアイリーに寄り添いながら、僕たちのほうを、正確には、僕たちの後ろを見て、出し抜けに、心臓が飛び出しそうな単語を発した。
「あぁ、あららぎ君。君も早くシェルターに向かったほうがいい。ここも危ない」
ルシウスが言ったとき、僕の目は、瞳孔は、これ以上ないくらいに引き絞られていた。
はねるように、後ろを振り返ると、そこには確かに、一人の人間が立っていた。
ちょうどおののきちゃんほどの背丈である。
顔は祭りの化粧のようなものをしているようで、目には大きく星の模様が書き込まれている。
“あららぎこよみ”その名前で呼ばれる人物。それは僕の存在を移した人間に他ならなかった。
僕は、自分の意思と関係ないように、その人間に向かって全力で走っていた。
その小さい子供のような人物の両肩に手をかけ、膝立ちになって言った。
「頼む! お願いします! 僕の、“あららぎこよみ”の存在を返してください! お願いします!」
懇願だった。そうするしか、頼み込む以外に、もうそうするしかないように思われた。
おそらく、こいつが“存在移し”だ。その気になれば、こいつがこの場から消えることなど造作もないことだろう。もしそうしろといわれたら、僕は地面に頭もこすりつけるし、靴だってなめるに違いなかった。
「あア、かまワないよ」
「え?」
そう言われて、顔を上げた僕の肩に、“あららぎこよみ”は、ポンと手を乗せて言った。
「はい。こレで戻ったよ。“存在”がなじむまで、12時間くらいかかるだろうね。それまでに身辺整理を済ませて、この街を離れルといいヨ」
「え、は?」
困惑する僕に、“存在移し”が続けて言った。
「もう、その“存在”ハ必要ないものだかラね。もうアイリー・レオニードを監視スる必要もなくなった。“おののきよつぎ”の存在も、今頃は元に戻っていルだろう。もっとも、あっちは無実を証明するたメにちょっともめルかもしれないけどネ」
戻った? 戻ったのか?
“存在”が? あららぎこよみの存在が戻ったのか?
僕が後ろを向いて、メアリーやマットを見ると、二人は僕を見て不思議そうにしていた。事情を知らないのだから当然だ。
“存在”がなじむまで12時間、“存在移し”はそう言っていた。それまでに、僕は完全に“あららぎこよみ”になり、“ハネカワコヨミ”ではなくなるということだろうか。
「それジャぁ。早く逃げルことだネ。その“存在”と、命がアる内に」
そう声がした、“存在移し”のほうへ向き直ると、そこにはもう誰の姿もなかった。
#
「じゃぁ、俺はシェルターへ向かうぞ」
コロセウムの裏側でマットが言ったところである。
そして、次には空から何かが降ってきた。
それは、“おののきよつぎ”の存在を取り戻したおののきちゃんだった。
今度は何かと身構える一同にかまわず、おののきちゃんは僕に言った。
「やっほー。鬼いちゃん。どうやら“樹魅”がやってくれたようだね。さすがにこれは手に負えないよ」
「おののきちゃん。いいニュースがあるぜ。僕とおののきちゃんの“存在”が戻ったよ」
「やだなぁ鬼いちゃん。わかってるさ」
実感はないが、とりあえず、もう必要ないと、半分破棄される形で僕たちの“存在”はもどった。
これで街にもどれる。また戦場ヶ原と話せる。
「無事に“存在”が戻ってよかったよ。それじゃぁ鬼いちゃん。早くこの場を離れよう。人命優先だよ。うん? 鬼いちゃん?」
しかしこのときの僕はおののきちゃんには応えず、黙ってしまっていた。
マットが僕たちに向かって言った。
「おい。ここは危ないって言われただろ。早くシェルターに行こう」
マットは僕とメアリーにそう言ったが、二人とも何も言わなかった。
耐えかねるようにしてマットが続けて言った。
「偉大なことを欲する者は、心を集中しなければならない。制限の中に初めて名人が現れる。というのはゲーテの言葉だ。今は身を守ることを考えるべきだ」
マットはそう言ったが、それに対して特段の感想は抱けてこない。
「君子危うきに近寄らず、撤退も兵法のうちと言うだろう?」
マットの言葉は、しかし、僕にまったくといっていいほど刺さってこなかった。おそらく、それはメアリーにとっても同じだったに違いない。
マットはしばらくして説得をあきらめると、
「すまない。じゃぁ俺は行く」
と行って、シェルターへと向かい。
ルシウスは激高するアイリーを押さえながらシェルターへと向かった。
振り向くと、ここから、ハーレンホールドの街が見下ろせた。
巨大な樹木の根が張った街はなんとも異様に見えた。そしてどこかに不死の“祟り蛇”まで放たれているという。あれが自警団にあれがどうにかできるのだろうか。
僕の隣ではメアリーが連れて行かれるアイリー・レオニードを見ながら、ポツリと言った。
「あの女、あの母親とそっくりだなぁ……」
あの母親、メアリーの母親のことだろうか。
ぼんやりメアリーのほうを見ると、メアリーの銀髪がかすかに風に揺れて見えた。
そこで、はっと気がつくことになった。
「お前か、メアリー。いや、違う……」
「ん? どうしたんだいコヨミ?」
メアリーが不思議そうにこちらを振り向いた。
どうやら、僕の“存在”はまだ切り替わっている途中であるらしく、まだ僕をハネカワコヨミとして認識できるようだ。
僕は、頭の思いつきに、呆然としながら、しかし、目の前の女を見ながら言葉の続きを発した。
「メアリー。いや、違う。お前は、メアリー・ロゼットハートじゃない」
#
「え? 何? 何か言った?」
コロセウムの裏庭で、僕とメアリーと、そしておののきちゃんが取り残されていた。
その中のメアリーが、僕にそう聞き返した。彼女の褐色の目が、獲物を狙うように僕の目を見つめている。
僕はその問いに応えて自分の考えを言った。
「レオニードのビルで。僕とおののきちゃんが見た肖像画。あれもそうだったし。レオニードの筆頭執事の“血は時に雄弁である”と残した怪死。それもそうだった。あの肖像画のレオニード家の党首たちは、全員が白髪、そして銀髪だった。お前みたいな」
「え? どうしたのコヨミ?」
メアリーは、心配そうにそう言ったが、僕はかまわず続けた。
「そうなんだろ? サリバンは言ってた。6歳のころまで、お前たちとアイリー・レオニードは仲がよかったと。お前、そのときにすでに合ってたんじゃないのか? あの“存在移し”と」
「……」
「だとしたら、“レオニードの鍵”も、見つからないはずだ。どこを調べてもでてこないはずだよ。だってあの女はもともと持ってないんだから。6歳のとき、お前たちがレオニード家の女と離れる前に、お前は“存在移し”と取引して、マリー・ロアートと“存在”を取り替えたんだ。そのときに“存在移し”は“レオニードの鍵”を奪ったんだ」
「言うな……」
「お前が本物のアイリー・レオニードだ」
#
僕がそう言って、しばらく、彼女は何も応えなかった。
だから、僕が言葉を続けた。
「知ってるか? 今ハーレンホールドを襲ってる“祟り蛇”は、“樹魅”って怪異が、お前の“レオニードの鍵”を使って、不死性を与えられてるんだよ」
「そんな……」
彼女は、そう言って言葉をとぎらせた。
「だとしても、じゃぁ6歳のアイリー・レオニードはどうしたらよかったんだい? 私は自由が欲しかった。あいつらと離れたくなかった。そうしたかっただけなんだよ」
「今のアイリー・レオニードは、それでよかったかもな。きっと6歳のころの記憶だから、もうすっかり忘れて自分がレオニードの人間だって思い込んでるんだろうな。たぶん、そのときから、“樹魅”と“存在移し”の計画は始まってたんだ」
おののきちゃんがそれを補足して言った。
「“祟り蛇”だけじゃないね。“樹魅”が賢者の石を作ろうとしてるなら、今ハーレンホールドを覆っている樹海も、おそらくは“レオニードの鍵”で、ハーレンホールドの大霊脈とリンクしているはずだよ。そしてたぶん、それだけじゃなくてハーレンホールドの住民の命をすべて吸って、賢者の石に作り変えるつもりなんだろうよ」
「そんな…… 私のせいなのか? ねぇコヨミ? 私のせいなの?」
それは、どう思って発せられた問いなのか、僕にははかりかねた。
慰めがほしいのか、事実が知りたいのか、なんなのか。でも、それは正直に答えるべきだろうと思われた。
「ああ、そうだ。全部じゃないかもしれないけど、部分的には、お前がやったことだよ」
「私のせいで、レミリアやサリバンが危険な目に合ってるの? じゃ、じゃぁ私は…… 私はどうすればいいんだよ?」
彼女はそう言って僕を見た。
その表情は、笑ったような、泣いたような、感情が混乱した表情だった。
「それを僕に聞くなよ。僕にわかるわけないじゃないか……」
「そうか、そうだね……」
そういって、彼女は次に目を閉じて、そして出した。
ゴウ、と、炎が吹き上がった、それは彼女の両足からである。
彼女の両足が、真っ赤に赤熱して、まるで両足が炎と化したかのようだ。
そしてその霊力からか、彼女のきれいな銀髪は、輝くような緋色が走っている。
その様子に、僕はおそるおそる尋ねた。
「お、おい。大丈夫なのか?」
「“緋斑狐”っていうんだ。私の両足に憑依して同化させてるんだよ。人に見せるのは初めてだ」
そういって、少しかがんで
「私はメアリーだ。メアリー・ロゼットハートだ。私がケリをつけないと……」
そういって、あたりに炎が巻き上がり、再び彼女を僕の目が捉えたときには、メアリーはすでに燃える両足で強力に跳躍し、高速で疾走しながらハーレンホールドの街へと向かっていた。サリバンとメアリーを守るためだろう。
「鬼のお兄ちゃん。それじゃぁ。僕たちもここを離れよう。僕は鬼いちゃんを日本に無事に連れて帰らなきゃならない」
「帰る? 日本にかい?」
「ああ、そうだよ。それでいつもの生活に戻れるよ。はーあ。ボクもほっと一安心さ」
さぁ。そう言うおののきちゃんをよそに、僕はハーレンホールドの街を見下ろしていた。
火の手があがり、樹海の張り巡らされた街を。
「おののきちゃん。帰国はやめだ」
「やめ? 鬼いちゃん。あんなに“存在”を取り返したがってたじゃないか。やっとそれが叶ったんだよ」
おののきちゃんにそういわれながら、僕は応えていった。
「いいんだ。あいつらは僕なんだ。僕が行ってやらなきゃどうするんだよ」
そして、自分の影の中の忍へと呼びかけた。
「忍。“心渡”を出してくれ」