日はすでに西の森から街を赤く照らしていた。
再び僕は、ハーレンホールドから学園へと続く坂を登っていき、大きなキャンパスを一路、サリバンたちのロッジへと向かっていた。
街は昨日の騒動があったというのに、まるで遠い世界の出来事であったかのように、にぎやぎ、おどりうねっていた。
正直、うらやましかった。
僕だって、存在を奪われることなく、あのハーレンホールドの5年大祭をおののきちゃんたちと楽しめていればどんなによかっただろうか。
一方で、この街で起こっている事件のことを何も知らずにいたということについては、なんとも言いがたいところがある。それにサリバンたちにも会うことはなかったかもしれないし。もしかしたらまたぞろメアリーあたりはあいつの嗅覚のようなもので、やはり街のどこかで出会っていたかもしれないけれど。
難しいものである。
他方、おののきちゃんと街を調べ歩いてわかったことは、あまり多くはなかった。
その中での収穫はとりあえずそこそこのものをあげると二つだと言っていいんじゃないかと思う。
ひとつは、レオニード家の筆頭執事の怪死である。まぁレオニード家っていうか、完全にビルだったけど。
決め付けるのはよくないと思うけど、“血は時として雄弁である”と日記に残して死んだというレオニード家の筆頭執事を殺した犯人は、あの規格外のアナーキスト“樹魅”が“存在移し”の協力を受けて行った可能性があるということである。
しかし、仮に樹魅が犯人だったとして、なぜあいつがレオニードの筆頭執事を暗殺まがいのように殺す必要があったのかというのは、おののきちゃんと話しても結局見当がつかなかった。
結局それについてわかったのはそこまでで、”樹魅”が使っていると思われる”レオニードの鍵”がどこから出てきたのかということはまだわかっていない。
もし今、あの不死の祟り蛇が街に降りてきたらと思うと身の毛がよだつような思いだった。
もうひとつは、あの山犬部隊の第四席であるという”大佐”である。正確には今は大佐じゃないということだったけど。
彼が昨日の自警団本部ビルの崩壊事件について調査していたということは、おそらく存在移しの行方はまだつかめていないのだろう。
それは僕にとっては僥倖としかいいようがない。もし存在移しがつかまりそうになった瞬間に僕の”存在”をこっちに戻したりなんかしたら、今度は僕が国際的テロリストとして追われることになってしまうだろう。
つまり、自警団や山犬部隊より早く”存在移し”を見つけなければ、僕の余生は檻の中、下手すれば死刑になってしまうということだ。気が重くなってきた。
歩いていると、キャンパスから居住区へと続く道から、大きい湖の横道に差し掛かっていた。
わき目に湖をながめると、澄んだ水面に、遠めに向こう岸の針葉樹林が映りこんでいる。
歩きながら日本が懐かしかった。
帰巣本能、ホームシック、そういったものなんだろう。
今の僕のそばに戦場ヶ原がいたら、きっと僕に優しい言葉をかけてくれるに違いないのだ。
『気落ちしないで、私がいれば、ほかの人のあららぎ君に対する存在なんてどれほどのものかも疑わしいもの』
とか
『あら、どこにいるの? そもそもあららぎ君の存在が薄すぎて認識することができないわ』
とか
……
うーん。
いや、それでもこの際むしろ懐かしんでしまっているのだ。
僕はどんだけ戦場ヶ原に飼いならされてしまっているのだろう。
仕方がない。断じてマゾヒストだというわけではないのだ。
そういえば、キャンパスを歩いていると、ルビウムやアクアマリンの生徒が新聞っぽいものを読んで驚いたり笑い声を上げていたけど、おそらくサリバンが言っていた、5年大祭中の学内新聞が出回っているのだろう。
ロッジにもどったら、またぞろ話を聞かされそうだなぁ。
心外ながら、それもどこか楽しみに感じているのである。
地球の裏側で存在を失って、どうやら僕はめちゃくちゃ乾いてしまっているらしい。
やむにやまれぬ事情があるとはいえ、人とかかわると人間強度が下がるとか言っていたのがちょっと懐かしかった。
まぁ仕方がない。
北西の森に潜伏した樹魅が何をしようとしているのか、可能性のひとつとして、やつが”賢者の石”を作ろうとしている可能性もある。
今夜英雄の集団といわれる山犬部隊が総出で“山狩り”を行うということだったが、どこまで期待していいのだろう。
一流の結界師が数十人束になっても破れない、自警団本部の四方八位結界を単独でやぶり、ビル内部の300人以上の自警団員を皆殺しにし、山犬部隊3位の”天剣”も殺された怪異である。まして森の戦闘で”樹魅”がやれるのか?
とりあえず、それはそれで”山犬”の人たちに期待を寄せるとして、僕は僕で存在移しのほうを探さないと、おののきちゃんの言うように”樹魅”から逃げるとなっても、”あららぎこよみ”の存在なしにそれはできない。
このハーレンホールドのどこかにいると思われる”存在移し”。そいつはどこにいるんだ?
とりあえずダイアスのことについてもう少し聞いてみよう。
湖を横切る僕の歩く先にはトパンズの宿舎区画へと続く並木道が見えてきたところだった。
#
サリバンたちのロッジが見えてくると、前のようにロッジの前のテーブルでメアリーが頬杖をついているのが目に入った。
フワリとしたアッシュブロンドのショートカットが微妙にかしげてちょっと絵になる感じだった。
しかし、やはり裏庭ではなく玄関先にいるのはどうしたんだろう。
「メアリー。どうかしたのか?」
僕が声をかけると、メアリーはこちらを見上げて優しく笑った。
「ああ、おかえりコヨミ。今日の夜はコロセウムの広場でキャンプファイアーをやる予定なんだよ? コヨミも参加するかい?」
「キャンプファイアー? なんだかずいぶん牧歌的だな」
「そこは否定しないけどね。人間には原始的な欲求ってものがある、大きな炎が燃えてるのを見るとメラメラ闘志がわいてくるんだよね」
「いや、普通は闘志はわいてこないけどな」
「そうかい? そういえば、誰かに聞いたことはなかったな」
そういって、少し考えるような表情をするメアリーだった。
「いや、それはまぁ僕が保証するよ。誰かにいちいち突っ込ませるのもなんだかしのびないし」
「コヨミも参加するなら、一緒に踊るかい? 私はどうも男子が取り合ってくれなくてさ。相手がいないんだよね」
メアリーはそういって小さく笑い声を出した。
正直、メアリーは野生的な感じだけど美人だと思うのだけど、たぶんこの学園の男子は踊りながらまたぞろ決闘でも持ちかけられるほうを避けているのだろうと思われた。
キャンプファイアーか。
存在移しは現れるだろうか?
「それならお願いしようかな。サリバンやレミリアもいくのかい? みんなで行ったほうがいいだろ?」
「ああ、それなんだけどさ」
そうたずねたところで、メアリーが言葉をとぎらせた。
ん? なんだ?
メアリーは言葉を途切れさせたまま、目線を落としたままでつぶやくように口を開いた。
「サリバンは参加しないかもしれないな、たぶん」
#
「ああ、コヨミ。おかえり……」
僕がメアリーと一緒にロッジに入ると、ダイニングのテーブルでサリバンが僕を迎えた。
サリバンの隣にはレミリアが、その斜め向かいにマットが座っている。
サリバンの声には、どうもいつもの元気がないように思われた。
テーブルの上には、校内新聞と思われる紙面が広げられている。
「ただいま。晩はキャンプファイアーがあるって聞いたんだけど? みんなはいかないのかい?」
「ああ、僕かい? 悪いけど、そういう気分じゃないな」
サリバンが沈んだ声で答えると、その向かいでマットが肩をすくめて言った。
「なぁ、サリバン。気持ちはわからないでもないが、そう落ち込むなよ」
「そうだよ兄貴、気にすることないじゃない」
と隣のレミリアが言った。
どうしたんだ? 疑問顔の僕にサリバンが机の上を促した。
「見てくれよ。校内新聞の一面さ。僕はクズだったんだ。“トラッシュ”さ」
言われるままに、テーブルの上の紙面に目を走らせた。
校内新聞か。
『特集。ダイアスの英雄、ルシウス・ヴァンディミオンとトパンズのサリバン・ワゾウスキの決闘の真相』
そういえば、サリバンがそんな話をしていたことを思い出した。
昨日、この相手のルシウスという男子生徒にも会っている。
紙面の文字は本文へと続いている。
『昨年の対人試合、コロセウムの闘いは、学園生徒には記憶にあたらしいだろう。この決闘の一幕において、トパンズのサリバン・ワゾウスキが、ダイアスの主席、ルシウス・ヴァンディミオンから誰もなしえたことがなかったダウンを奪うという快挙を成し遂げた。これは今まで、トパンズはおろか、アクアマリンやルビウム、ダイアスですら誰もなしえなかったことである。この事件ともいってもいい出来事は、サリバン・ワゾウスキ本人はおろかトパンズの学生全員の誇りとも言っていいまさに偉業である』
その内容は、サリバンの話していた内容と大体一致する。
『しかし、その真相は実にお粗末なものであった。サリバン・ワゾウスキが奪ったとされるルシウス・ヴァンディミオンのダウンは、実はスリップだったのだ。ルシウスは、それがダウンをとったと思われていたということすら、最近まで知らず、それでトパンズの生徒たちが意を強めていたことに、少々心外にすら思っていると、当新聞のインタヴューに答えている。ルシウス・ヴァンディミオンがスリップしたあと、試合はすぐにルシウスの勝利で終わった。トパンズはやはり“トラッシュ”でしかなかったのである。さらに噂によれば、彼の妹がルシウスに相談し、手心を加えるように依頼したという話まである。しかしわれわれがダイアスに関係のない“トラッシュ”のゴシップについてこれ以上追求する意義も価値もないだろう』
これか。
僕がそこまで読んで顔を上げると、サリバンは力なくハハハと笑った。
「そういうことさ。ごめんよコヨミ。君を案内してあげたいけど、笑いものと一緒に歩くのも本位じゃないだろう? あげく、妹にまで気を使われていたなんてさ」
「違うわよ! 兄さん、そんなんじゃ……」
「いや、いいんだよレミリア、口についちゃっただけさ。気にしないでくれ」
レミリアが言いかけたところで、サリバンがさえぎった。
どうもサリバンはずいぶんとこたえているらしく、明らかに落ち込んでいた。
レミリアやマットの様子を見ると、もしかしたらそこらへんのことを知っていたのかもしれない。
でも言えなかったというか、わざわざ言う必要がなかったというのが実際のところだろうか。
こんなに落ち込むのでは、それも仕方のないことかもしれない。
「善が強く、悪に対しても強いのが真に強い人であるというのは、メイナード・クインズの言葉だが、だから俺は新聞部のやつらの取材なんて受けるべきじゃないと言っていたんだ。あいつらがトパンズに好意的な記事なんて書いたことはなかったんだから。まぁ、今言っても仕方がないか」
そういってコーヒーを飲むマットに続いて僕もサリバンに言った。
「僕は気にしてないぜサリバン。案内してくれよ。僕もみんなで歩いたほうが楽しいしさ」
そういうと、サリバンは力なく笑って首をふった。
「いや、いいんだよ。実のところ、僕がその気がないだけなんだよ。宿舎でおとなしくしていることにするよ。こんな“トラッシュ”の僕なんてね」
サリバンはそれだけ言って、イスから立ちあがると、小さく手を振って2階へと続く階段を登っていった。
サリバンがいなくなると、マットはため息をついてコーヒーをあおり、レミリアは雑誌を広げた。
ちょっと空気が重い。
実際のところ、どうなんだろう。
勘違いなら勘違いで、それがえらくわるいということはないはずだが、サリバンの気の落ち込みようを見ると、そういう風に片付けることもできないらしい。
もしかしたらトパンズの生徒たちも同様なのだろうか。
「ねぇコヨミ……」
後ろから僕を呼ぶ声に振り向くと、メアリーが続けていった。
「もしよかったら、ちょっと付き合ってくれないかな?」
#
メアリーにそういわれたあと、僕とメアリーは二人で宿舎の裏庭に行き、二人で対面で格闘訓練をはじめていた。
あの単層結界というものを事前にかけてもらっていたので、打撃のダメージ自体はかなり減らせている。
あたりはだいぶ暗くなっていた。結局、キャンプファイアーには参加せず、裏庭の脇につけた焚き木があたりを煌々と薄赤く照らしている。
メアリーの肉感的な体躯から繰り出された突きを、頭を振って右に左へとかわすと、すぐそばでゴウッと風を切って拳打が通り過ぎ、はからずもなんだかいいにおいが鼻腔をくすぐった。
結界があるので、僕も気兼ねする必要がなく、打ち返した拳打をメアリーが手を添えてそらせると、そのまま回転して回し蹴りが放たれ、それを横脇ごしに両手で受け止めた僕の体が軽く宙に浮き、すぐ着地してトトッとたたらを踏んだ。
「精力的なことだな」
横から声をかけてきているのは、ルビウムの生徒、ティリオン・ラニスターである。僕たちが裏庭に出たあたりで、ちょうどたずねてきたティリオンは、そのまま見学のような形で裏庭の箱に腰を下ろして一人で感想をもらしている。
どうもさきほど、僕を山犬部隊に引き合わせたことについて、少し後ろめたい気持ちがあったということで、改めてこの宿舎を訪ねてきたのだという。
「ねぇコヨミ。人間ってなんのために生きてると思う?」
突きや蹴りを繰り出しながら、メアリーが聞いてきた。
流す程度の動きで、僕もそれを受けたりかわしたりしながら、なんとか返答ができるくらいだった。
「なんだよ急に。マットの哲学が移ったのか?」
言ってまわしけりを放つと、メアリーはジャンプしてかわし、空中でくるりと回転すると、少し後ろに着地してまた向かってきた。
「子供っぽいって思われるかもしれないけど、本当に小さいころから私はそう思うんだよ。人間っていうのは、人生の奴隷みたいなものなんじゃない? 望んでないのに生まれてきて、死ぬ恐怖にしばられて、死ぬまで生きざるをえないんだ。だとしたらそこに自由なんてないんじゃない?」
「まぁ、そうかもしれないけどさ。あんまり気にしたことなかったな……」
「人は、人に、組織に、倫理に、神に、束縛されるしかないのかな? 私はそういうものから自由でいたい。子供っぽいといわれるかもしれないけどさ、できないことでもないだろう?」
「そういえば、世界を放浪するとか言ってたな。僕がどうこう言えることじゃないな。まぁ、メアリーがそう思うのなら」
「そうでしょう? 私は縛られたくないんだよ。でもサリバンやレミリアやマットはちょっと別だけどね。どこにいても、ちょいちょい帰ってきて、みんなとは会いたいものだよ。みんなといるときは、私の心は自由になれる」
「言っとくけど僕はついていかないからな」
「そう? あはは、残念だなぁ」
言って、非難がましい感じでメアリーが横なぎに3回ハイ、ロー、ハイの蹴りを放ってきたが、スウェーとジャンプでかわす。
「ハネカワ君。“大佐”との話は大事なかったかな?」
近くで座ってこちらを眺めていたティリオンが聞いてきた。
メアリーの攻撃を受けたりかわしたりしながら横目に見ると、薄く笑いながら頬杖をついてこちらを見ている。
「あ、ああ、もちろんだよ。そもそもなんで僕だったのか検討もつかないね」
「そうか、それならよかった。正直、あの“大佐”から話を持ちかけられたときは俺も何事かと探りを入れたくなったぐらいでね。取り越し苦労、まぁよくあることだ。それならなおのことすまなかったね。心から謝るよ」
「僕はかまわないよ。シュトレーデルとかってお菓子もご馳走になったしさ」
「君はその小さい体で、存外器が広いようだ。まぁ体のサイズに関しては、俺ほどじゃないがね」
言ってティリオンは自嘲気味にくっくと笑った。
勝手に笑うティリオンをよそに目の前で蹴りを繰り出しながらメアリーが
「ねぇ、コヨミってエッチしたことある?」
「はいっ? うぶっ!?」
あまりに唐突だったので、一緒に飛んできたメアリーの蹴りが浅いガード越しにわき腹に突き刺さった。
次に飛んできていた左足のハイキックをしゃがんでかわす。
「僕? え、それ僕? 僕に聞いてるの?」
「そうだよ。それしかないじゃないか?」
「一応俺もいるんだけどな」
僕とメアリーのわきでティリオンがこぼすように言った。
「そうだったよ。悪いねティリオン」
拳打を返しながら言う。
「またずいぶんと話が飛んだな」
というか、僕としてはちょっと意外でもあった。
このバトルジャンキー女だと思っていたメアリーが、割りと俗っぽいことを言うものだと、このときの僕はメアリーから見ればハトが豆鉄砲くらった顔というやつになっていたに違いない。
「ちょっと気になってたんだよね。クラスの女子はちらほらそういう話を聞くし、でもレミリアにはちょっと聞けないしさ。やっぱりそういうのってもうすませてるものなのかな?」
それは、なかなかにセンチメントな話だったけれど、それは拳打と蹴りの嵐とともに投げかけられる質問だった。
その手と脚をよけたり受けたりにあわてながら答えなければならなかった。
ていうか普通に聞けよ。照れ隠し? これって照れ隠しなのか?
よくわからない。
「こっちの土地のことはよくわからんけどさ。僕は一応彼女がいるけど、そういうことにはカケラほどもいたってねーよ」
「ふぅん」
言いながら、3連続でまわし蹴りが放たれる。
それをさばきながら、なんとか言葉を返した。
「そういうのって、人それぞれ個人差があるっていうか、変にまわりに合わせる必要もないんじゃないのか? 結婚するまでそういうことしないことにしてるってやつだっているって聞くし。まわりに縛られてりゃそれこそ自由じゃないだろ」
「そりゃぁそうだね。でもコヨミが経験ないってわかってちょっと元気づけられたよ」
「僕の猥談で元気づけられてんじゃねーよ」
意外と年相応な悩みも持ってたりするものである。まぁ僕の話で元気が出たならそれでいいだろう。やぶさかではない。
「コヨミって童貞っぽいもんね」
「ほっとけや! 童貞最高!」
アハハ、とメアリーがいたずらっぽく笑い、いきなり束縛がとかれたように、ギアの一段上がった右足の蹴りが僕の左脇をとらえ、なんとかガードしながら体を宙に持ち上げられると、次に返す刀で左後ろ回し蹴りが一段深く衝突し、そこで結界がショートしたらしく、またしても僕の意識は途切れたのであった。
#
僕が気絶から目を覚ましたあと、汗ばんだ体のままで、僕とメアリーと、そしてティリオンで宿舎区画のはずれにある温泉へと向かった。ティリオンによれば、ルビウムの宿舎区画はバスルームが広く、温泉など誰も使わないのでそもそもそういう施設がないらしく、メアリーはトパンズの宿舎区画の利点だと笑って言っていた。
温泉は、ちょうど5年大祭で人が出払っていることもあってか無人だった。ちなみに、当然だが男女は別で分けられていた。
「なりゆきでついてきたが、ルビウムの俺がこんなところにいるのが見つかったらちょっとした騒ぎになってしまうだろうな」
裸の付き合いである。腰にタオルを巻いたままで、湯船につかるティリオンの近くで僕も湯に身を沈めた。
温泉の熱が体に染み込んでくるようだった。
露天風呂になっているので、暗くなった夜空には星空が個々に輝いて見える。
「そういえばそういうのがあるんだったな。ティリオンたちも結構大変だよな」
「まぁ、ラニスター家の人間に正面切って文句が言える人間なぞ、そうはいないがね」
ティリオンは湯につかりながらこともなげに言った。
木の壁を隔てた向こうではメアリーが湯船に使っていることだろう。
「ハネカワ君。あの壁の向こう側がどうも気になるようだが、俺の勘違いかな?」
「は? そ、そんなことないよ」
「昼間の謝罪もかねて。今ならのぞいても俺は見なかったことにしておいてやるがね」
「え、マジ? いや、のぞかないけどな!」
あわてながらなんとかそう答えると、ティリオンが壁の向こうの女湯に向かって大声で言った。
「おおいメアリー! ハネカワ君がきみの裸体に興味がおありのようだぞ!」
「な、なにいってんだよティリオン!」
しばらくすると、女湯の向こうから。
「そういうのは二人っきりのときに言ってくれないと困るよ!」
とメアリーの声が返ってきた。ていうか二人っきりのときならいいのかよ。いやいや、そういう冗談なのだろうということはわかっているんだけど。
大声で僕がのぞき魔になる可能性がないことを告げて、しばらくしてからティリオンが続けた。
「しかしメアリーはいい女だ。あの性格さえなければ、あの野性味のある挑発的な整った顔立ちに、乳はでかくてくびれた腰のあの体つき、俺でも放ってはいないだろうよ」
「ん。まぁ僕も否定はしないけどね」
「ずいぶん距離を置いた物言いをするじゃないか? ハネカワ君。彼女に上に乗られて腰を振られるなんて、けっこうなことじゃないか?」
「そんな話乗れるかよ! 僕は彼女いるし! あくまで健全なお付き合いをしてるからね!」
「ははは、そいつはすまなかった」
ティリオンが冗談っぽく大声で笑うと、同時に上から冷水の雨が降ってきた。
それと一緒に壁の向こうからメアリーが
「聞こえてるぞティリオン!」
と叫んできた。
「これは失礼! ほめ言葉だとうけとってくれたまえよ!」
と返して、冷水を浴びた体をいっそう湯船に沈めた。
「まぁメアリーのやつの性分も、ハーレンホールドの風土のものといえなくもない。自由と博愛。そもそも3千年前にこの土地にどこかから現れたレオニード家の開祖が、大霊脈を平定して人が息づける土地にしたことが起源なのだから。存外アメリカのような俗っぽい起源を持っているわけだ」
ちょっと間をおいてティリオンが続けていった。
「俺はねハネカワ君。実は俺は猥談や人様の醜聞も、たしなむ程度には好ましく思ってるんだよ」
「なんとなくそういう印象はあるよ」
「君は人を見る目もあるようだ」
「いい性格してるよな」
「しかしながら、学内新聞のやつらのやり方はあまり好ましくないと俺は思う。そうじゃないか?」
「ああ、まぁそうだな」
校内新聞のことはティリオンもどうやら聞き及んでいたらしい。
5年大祭のこの時期にやることでもないのではないかというのが率直な僕の感想である。
いや、普段ならいいということでもないのだけど。
「まぁサリバンのことはあいつが勘違いしてたところもあるから、自業自得といえる部分もなくはないのだろうがね」
ティリオンが、しかし平坦な様子でそういった。
その言い分もわからなくはない。
しかし落ち込んだサリバンの様子やレミリアやマットの様子は、やはり新聞部連中の悪意といってもいいような感情が起因しているのである。単に自業自得と片付けられることでもない。
僕が温泉の揺れる水面を見つめながら考えていると、ティリオンが続けていった。
「しかし、サリバンは明日のコロセウムはどうするのだろうなぁ。ルビウムの連中からはまたやつがずいぶん張り切っていたと聞いたが」
「そういえばティリオン。そのコロセウムってなんなんだ?」
「ああ、そういえば君は短期留学なのだったな。あれは言わば馬上試合のようなもので、学園の生徒が1対1で魔術無差別戦でトーナメントを行うというものだ。優勝者は1年間“花の騎士”という称号を与えられるわけだよ。昨年はルシウス・ヴァンディミオンのものだった。レメンタリー・クアッズ最強の称号というわけだよ」
「へぇ。ちょっと興味があるな」
「サリバンなら出ないよ」
僕たちが湯船に使っている温泉と女湯を隔てる木の壁のすぐ向こうでそういうメアリーの声が聞こえてくる。
たぶん木の板のすぐそばで湯船につかりながらそういったに違いない。
「サリバンは出ないって言ってたってマットが言ってたよ」
木の板の向こうからメアリーの声がそう続けた。
それを聞いてティリオンが低くうなった。
「ふぅむ。まぁそれならそれで、仕方あるまいよ。ここで出て行っても、笑いものになるのが落ちかもしれないしな」
「いや、出るつもりだよ」
再び木の板の向こうでメアリーの声。
僕がメアリーの声にそちらに振り向くと、その声が続けて言った。
「コロセウムには、サリバンのかわりに私が出るよ」
#
その後、壁越しにメアリーに温泉から出る旨を告げて、出口で待ち合わせて僕とメアリーとティリオンで宿舎へと向かった。
「ああ、そういえばさ、メアリー。レミリアのことなんだけど……」
宿舎への暗くなった夜道を歩きながら、メアリーにレミリアのことについて話をした。
レミリアにはとめられていたけど、あいつがアイリー・レオニードにちょいちょい絡まれているということである。
メアリーはそれを聞くとにわかに驚いた様子だった。
「本当? ぜんぜん気づかなかったな…… なんで私に言わなかったんだろう」
その横でティリオンが言った。
「レオニードの人間は霊脈の励起に干渉されやすいという話は聞いたことがあるが、その様子だと霊脈の励起は関係ないようだな」
「霊脈のことはわかんないけどさ。一応気にかけといてやってくれよ」
「もちろんだよ。帰ったら話を聞いてあげないと……」
三人が宿舎につくと、僕とティリオンを残してメアリーが先にロッジに入っていった。
「今日は付き合わせてわるかったなティリオン」
「うん? そもそも俺が望んで来たんだから、そういう物言いをするものではないぞハネカワ君。まぁ何かあったら俺を頼ってくれていいぞ。短期留学の短い間だけになるだろうがね」
「本当かい? そういってもらえるとありがたいな」
僕とティリオンが話していると、玄関からメアリーが再び現れていった。
「コヨミ。レミリアがいない。一人でどこかへ行ったみたいだ。私に何も言わずに」
メアリーの声には、にわかにあせりの色を帯びている。
レミリアがメアリーに無断でいなくなるということはかなり珍しいらしい。
メアリーがそういうのを聞いて、次にティリオンを見ると、ティリオンが片眉を上げた。
「ハネカワ君。俺は何かあったら頼ってくれていいと言ったが、すぐにもそういうことになりそうだな」