「おはよう。鬼いちゃん」
おののきちゃんの声が耳から僕の意識をつついた。
僕が目を覚ますと、僕はベッドに包まって、目の前で忍が寝息を立てているのがわかった。
昨日、悪夢のような事件から命からがら、一度は命を落としながらも、なんとか生還した僕たちは、主に僕が心的な傷によって眠れないことから、眠れるまじないをかけてもらうという名目でおののきちゃんと同じベッドに入り、それに異議を唱えて出てきた忍も、結局一緒に寝るということで話は落ち着いたのだった。
「ああ、おはよう。おののきちゃん」
おののきちゃんが開けたベッドルームの扉からは、薄くやわらかい光が差し込んでいる。
この子は、昨日の今日で、まるで何事もなかったかのように、平穏な一日がはじまったかのように、平然としていた。平然としすぎている。
それは僕の隣でベッドのシーツにくるまってスピスピ寝息を立てている忍だって同じことがいえるかもしれないけれど。
なんだか、この空間にいるとむしろ僕のほうが神経過敏なんじゃないかと思えてくるくらいだった。いや、絶対にそんなことはないんだけど。
おののきちゃんは、ベッドルームに少し入ったところで、そんな僕の自虐みたいなものを、知ってか知らずか、あっけらかんとした様子で言うのだった。
「鬼いちゃんは、昨日はよく眠れたかな? ちょうど今、朝ごはんを食卓に並べ終えたところさ。せっかくだから、腕によりをかけておいたよ。鬼のお兄ちゃんは、卵とか、牛乳とか、即時性も遅延型のアレルギーもないよね?」
僕は起きぬけのボーっとした頭で答えようとした。
朝食か、そうだ。朝起きれば朝食を食べる。そういうものである。
そういえば、昨日結局晩餐会に出席することができなかった、そんな場合じゃなかったということは確かにありはするけれど、サリバンたちには少し悪いことをしたと、罪悪感のような感情を否定しきれない。
あとで謝っておかなくちゃな。
「ああ、僕はアレルギーとか、そういうのは大体大丈夫だよ」
かすんだ目でおののきちゃんを見ながら続けた。
「ていうか、おののきちゃんは料理もできるんだな。変な意味じゃなくって、結構意外だよ」
「うん? そうかな?」
式神の憑喪神人形。この整った顔立ちの童女は、その戦闘能力においては非凡なものだということは、今までに十分すぎるほどに見てきている。
逆に一般的な、端的に言えば料理とか、そういうものができるというのは普段のことから考えると結構、青天の霹靂というか砂漠に咲いた一輪の花というか、このあまりに当たり前のような生活観にむしろ新鮮味を感じてしまうのだった。
「味のほうなら保証するよ。かわいい僕は戦闘のプロであるというだけでなく、料理だってそつなくこなすし、マルチリンガルだし、サバイバルもお手の物なんだよね。そういうわけだから、僕のことはオールラウンダーおののきちゃんと呼んでくれても、僕は一向にかまわないよ」
「逆に長いだろそれ。まぁ、うん。顔を洗ったらすぐいくよ」
「オッケー。それじゃぁ早く来てね。うれしいなぁ、鬼いちゃんと一緒に朝ごはんなんて、ルンルン」
おののきちゃんのその言葉は、やはりあまりに平坦だったので、文面ほどのうれしさは伝わってはこなかったのだけれど。
僕は、しかし、いそいそと身体を起こしながら、さくじつの悪夢から、朝食の、こんがり焼けた小麦やコンソメやたんぱく質のにおいに、なんとか強引にテンションを上げながら、おののきちゃんにもうひとつ質問をした。
「ねぇおののきちゃん」
おののきちゃんは、首をカクンとかしげて答えた。
「なんだい? 鬼いちゃん。かわいい僕に、まだ何か質問でも? 朝ごはんを食べながらでもいいんじゃない?」
「あ、いや。それでもいいんだけどさ。おののきちゃん、何で裸エプロンなんだい?」
「え」
そういって、おののきちゃんは何か意外とでもいったように自分の服装に目をやった。
おののきちゃんは、このベッドルームに入ってきたときから、僕には正面からしか見えなかったけれど、それでも明らかにエプロンだけつけて、それ以外は何も身に着けていないようだった。肩とかふとももとか、明らかに何も着てないとわかるような露出の仕方だ。
「いや、ちょっと元気のない鬼いちゃんが、これで元気になってくれればなーと思ってさ」
「おののきちゃん。僕が8歳の少女にごはんだよって朝起こされてしかもその童女が裸エプロンで余計に喜んじゃうなんて、それじゃぁ僕が人類史上稀に見る希代のロリコン。社会の敵。幼女の味方。変質的幼児性愛者みたいじゃないか」
「え、実際そのものなのでは……」
「うるせぇよ。まぁ、でも気持ちはうれしいけどさ、そんなところにまで気を回してくれなくてもいいんだぜ」
「そういうなって。世にもめずらしいオンリーエプロンおののきちゃんなんだしさ。ちなみに、もちろんブラジャーもつけていないよ、まぁこっちは、いつものことなんだけどね。いつもどおりの、ノーブラジャーおののきちゃんなんだけどね」
「ふ、ふーん。いや、別に僕は何も聞いてないけどね。おののきちゃんが一方的にしゃべってるんであって、僕がおののきちゃんの下着について、気になっちゃって根堀葉堀聞き出してるわけじゃないからね」
「おやおや、そんなこといって内心鼻の穴ふくらんじゃってるんじゃないの。やっぱり鬼いちゃんに、かわいい僕の裸エプロン、この判断は間違いではなかったようだね。ちなみに一応パンツははいてるんだよね。そこはオンパンティーおののきちゃんではあるんだよ」
「なんだって!? そんなの邪道じゃないか!」
「あ、でも今はボクはカゲヌイ・ヨツギだからなー。やっぱりここは統一して、ノーブラジャーカゲヌイちゃんって呼んでくれたほうがいいかな」
「やめろよ! 危険すぎるわ!」
そんなこんなで、ちょっと元気の出た僕であった。
「あ、一応後ろ姿も見ておくかい? かわいい僕の背な姿をさ」
そういって、おののきちゃんが軽く片足をけって、その場でクルンとまわった。
自然、それはもう生理的な反応だから仕方がなかったのだけれど、僕の目は見開かれてしまっていた。
おののきちゃんが四分の一ほど回転し、横向きになったところで、しかし、目の前が、僕の視界が真っ暗になってしまった。
「おいお前様よ。一体朝から何をしておるんじゃ?」
それは、先ほどから僕の隣で寝息をたてていた忍だった。
おののきちゃんが丁度横を向いたところで、金髪幼女、忍の両手が後ろから僕の目をおおったのだった。
「なんだ、起きちゃったのか。後期高齢者だけあって、朝起きるのだけは早いんだなぁ」
「早くないわ。ぜんぜん早くないじゃろうが。ていうかこの中でワシ、一番起きるの遅かったじゃろ。8歳児のスペックそのものじゃろうが」
「しっ忍!? その手を離せ!! 後生だから!!」
ジタバタする僕に、しかし忍は後ろで僕の背中にガッチリと羽交い絞めになって両目を押さえつけ続けた。
「カカカッ、誰が離すか。おいお前、ワシの主様に不健康なものを見せようとするのではない。青少年育成法にひっかかるじゃろうが」
「それはいまさらすぎるのでは」
おののきちゃんは、誰も反論できないグゥの音もでないことを言って、しかし
「まぁいいや。それじゃぁ鬼いちゃん。はやくリビングに来てよね。せっかくだしさ、冷める前に食べちゃってよ」
とおののきちゃんの声が聞こえ、次に真っ暗な視界の僕に、パタンというベッドルームのドアが閉まる音が聞こえたのだった。
#
ガチャリ
そうドアのノブを回して、ベッドルームからリビングルームへと出てきた僕は、しかしその視界は閉ざされたままだった。
リビングルームを歩く僕の背中に張り付いた忍が後ろから手を回して僕の目をふさいでいたからである。
僕がリビングに入ってしばらくしていると、リビングの様子を確かめた忍が、
「ふむ、まぁいいじゃろう」
といって、僕に肩車をされながら両手を外した。
ちょっとまぶしい光に目を細めると、そこには窓から朝日を入れるだだっぴろいリビングと、その片隅のテーブルにところ狭しといった様子に並べられた朝食に、おののきちゃんが正面にチョコンと裸エプロンのままで座っていたのだった。
「鬼いちゃん、こっちに座るがいい」
「どんなキャラだよ」
おののきちゃんは、よくわからないキャラで僕を促した。
僕も僕で、正直テーブルの朝食はおいしそうだったし、よく考えたら昨日の晩御飯は何も食べていない、というか食べられなかったので、空腹感も手伝ってそそくさとおののきちゃんの正面に座った。
おののきちゃんは、エプロンだけでガッツリ露出した右手を伸ばして促した。
「どうぞ召し上がってよ」
「あ、じゃぁ。いただきます」
と、僕。
「よかろう。どれどれ」
と、忍。
「別にあなたには言ってなかったんだけどね。まぁ、別にいいけどさ」
おののきちゃんの料理は本当に上手だった。
出しの効いたスープとポタージュ。こんがりやけたクロワッサンやトーストやミューズリーブレッド。サラダなんて皿に九つくらいに分けられて、それぞれのソースに、丁度あった野菜が和えられてある。ちょっと手がこみすぎというくらい、豪勢で、多彩で、豊かだった。昨日の惨状も一瞬忘れるようである。
「これ、すごくおいしいよおののきちゃん。料理の才能があるんじゃないか」
「まぁそこまで手放しに賞賛されてもなんだかこそばゆいけどね。オールラウンダーおののきちゃんの名前はダテじゃないんだよ鬼いちゃん」
「ガブガブガブッ!」
僕の隣で忍も、まるで流し込むようにおののきちゃんが作ってくれた盛大な朝食を食いまくっていた。
「それで鬼いちゃん、昨日のことを受けてなんだけどさ」
僕がグレープジュースを飲んでいるところで、おののきちゃんがそう切り出した。
昨日のこと、おそらく”樹魅”か”祟り蛇”のことだろう。
「祟り蛇は、山犬部隊の主席と次席と五席でひとまず森の中へ退散させたんだけど、いかんせん”不死”だからたちが悪いよ。それに、呪詛返しされたってことは、ほぼ間違いなく”樹魅”は”レオニードの鍵”を持ってるってことになる。それでハーレンホールドの自警団から何から大混乱だよ」
「”レオニードの鍵”って、えーと、あのレオニード家が持ってるってやつだったっけ?」
僕がそう聞くと、おののきちゃんはコクリと首を縦に振った。
「そうだよ。でもおかしいのは、間違いなくレオニード家から”レオニードの鍵”は流出してないってことなんだよ。なのにレオニードの鍵がなければ絶対にできない呪詛返しが行えたんだよね。”樹魅”は”存在移し”と手を組んでるってことを僕たちだけが知っているけど、それでも正直はかりかねるね」
「おののきちゃん、ちょっと根本的なことを聞いてもいいかな。その”レオニードの鍵”っていうのは、一体どんなものなんだい?」
「モグモグモグ、うん?」
パンをほおばっていたおののきちゃんが、それにこたえて続けた。
「なるほど、まぁもっともな質問かもしれないな。”レオニードの鍵”っていうのは、霊脈と同期するための霊紋、キーの役割を果たすようなものなんだよ。そしてそれはレオニード一族が、あの一族にだけ代々発現するものなんだ」
「なるほど、それで”レオニードの鍵”か」
「まぁ正確には、ログインのナンバーの、かなり高次なものだととらえてくれたほうがいいかもしれないよ。そしてそれはレオニード家の人間によって、指紋みたいに少しずつ違うんだけれど、問題なのは、呪詛返しで使われたレオニードの鍵が、絶対に現存の28人のレオニードの鍵とは違うってことなんだよ」
「例えばだよ」
思いつきの推論を話してみる。
「”樹魅”がレオニード家の人間ってことはないのかな? ずっと過去の分家の人間とか」
「残念だけど、それもないね。レオニードの人間の家系っていうのは、ものすごく厳重に管理されてるから、漏れもないだろうよ」
「んん。じゃぁ違うか」
「それともうひとつ、今日の夜、ハーレンホールドの上層部はすべての主席から9席まで”山犬部隊”をかり出して”樹魅”が潜伏してると考えられてる北西の森で”山狩り”を行うようだよ」
「”樹魅”を捕まえられるかな?」
僕のその問いにおののきちゃんはリンゴをパクリと食べた後にこたえた。
「どうかな。さすがに4席以下じゃすぐ殺される可能性のほうが大きいと思うよ。ただ実際に”白犬”や”豪胆”があの桁外れの怪異を相手にどこまでやれるかなんて、実際やってみないとわからないかな。もちろんボクとしても、一応”おののきよつぎ”の存在が移されてるだけに、無事に捕まってほしいって気持ちはあるけどさ」
「僕もそう思うよ。ただあいつらの戦闘に介入できる気がしないんだよな……」
「ちなみにハーレンホールドの南東で起こってた爆破テロは、一応収束したらしいね。犯人は不明だってさ。よかったよ」
「よかったって、何がなんだい? もしかしたらそれが”存在移し”だったかもしれないじゃないか」
「いや、存在移しならなおのことつかまらないよ。でも逆に、それで捕まった犯人が”アララギコヨミ”の存在なんか移されててご覧よ、鬼いちゃんは凶悪テロリストとして国際指名手配だよ」
「うお、結構やばかったんだな……」
爆破テロで国際指名手配。懲役10年やそこらですむわけがなかった。
そこでホッと胸をなでおろす心地だった。犯人が捕まらなくて本当によかった。
「まぁそういう意味では”アララギコヨミ”が”アララギコヨミ”として何かやらかす前にその”存在”を取り返さなくちゃならないわけだよ。なかなか難易度が高い」
「そうだね」
なんだか気が重くなってきたというか、緊張感が増してきた。
ミニキャベツとトマトのオニオンソース和えを口に運んでいると、おののきちゃんが続けていった。
「鬼のお兄ちゃんには、すまないことをしたと思うよ。申し訳なかった。完全に巻き込んじゃったよ。ボクにできることなら、どんな償いでもさせてもらうつもりだよ」
「……」
おののきちゃんはそういって、しかし無表情に、テーブルの朝食に目を落とした。
その表情から、やはり僕はどのような感情も読み取ることはできない。
僕は口の中のトマトとミニキャベツを急いで飲み込んで言った。
「おいおい、みずくさいこと言わないでくれよ。たしかに異常事態ではあるけど、僕はこれでよかったと思ってるんだぜ。こんな遠いところで一人で”存在”を失うなんて、孤独すぎるもんな。おののきちゃんが一人でそんなことにならなくてよかったよ」
一度怪異に触れたものは、怪異にひかれやすくなる。
それが元とはいえ、忍のような、旧キスショット=アセロラオリオン=ハートアンダーブレードなんて怪異なら、なおのことだろう。
しかし、それでも、僕はこの目の前の童女のせめて朝食の相手にでもなれることについては怪我の光明くらいには思っていることをなし崩し的ではあったけれど表明することになった。
おののきちゃんは、やはり無表情だったが、小さくため息をついた。
「はぁ。ほんとうに正義漢なんだなぁ、鬼のお兄ちゃんは。だがそれは同時に理想論でもあるとボクは思うよ。でも、まぁそういってもらえると、ボクもうれしい気持ちはちょっとあるかな」
「そうかい? そりゃ重畳だよ」
僕とおののきちゃんの隣では、相変わらず忍がテーブルの朝食群に手を伸ばしまくっていた。
確かに怖いし、孤独感も半端なかったが、おののきちゃんのそれを幾分かこちらに持ってこれていることについては、ほとんどそれだけが唯一よかった点だといえる。
とまぁ、とりあえずそういう感じで僕とおののきちゃんは手を取り合うことを確認しあったわけである。
そういって、鮭のあぶりソテーをつっついていた僕の前で、おののきちゃんがすっと立ち上がった。
「鬼いちゃんのその気持ちに何かお返ししてあげたいんだけど、残念なことに、今はこれがかわいいボクの精一杯さ」
といって、おののきちゃんは立ちあがり、僕が見ている目の前でエプロンの紐をシュルっとといた。
瞬間、僕の目が見開かれてしまう。
おののきちゃんの、両肩のエプロンのひもがほどけ、おののきちゃんのエプロンが重力にしたがって、自由落下運動をはじめようと、ちょうどゆっくりと落下しはじめた。
その落下運動の初動を見守っていた僕の視界だったが、しかし、おののきちゃんのエプロンが動き始めた瞬間にその視界は真っ暗になってしまった。
すばやく僕の頭に飛びついて、後ろから僕の両目を押さえた忍の小さな両手が、僕の眼球を眼底にまで押し込む勢いでギリギリと押さえつけられ、そのだだっぴろいリビングルームに僕のか細い悲鳴が響き渡ったのだった。
その後、話し合いで決まったことでは、おののきちゃんはハーレンホールドを自警団を中心に情報収集をし、僕はレメンタリー・クアッズで存在移しの痕跡を追うということである。