リーリンは放課後、孤児院へと顔を出していた。
庭で男の子たちがボール遊びをしているらしい。子供たちが楽しげに騒ぐ声が、門の所にいても聞こえてきた。
リーリンの口元が自然と緩んだ。門をくぐる。
「あら、リーリン、いらっしゃい」
リーリンの来院に気付いた女性が声をかけてきた。ロミナだ。血は繋がっていないが、リーリンにとっては姉に当たる人物だ。現在は、体が不自由なデルクに変わって孤児院の院長を務めている。
「学校もあるのに、いつも悪いわね」
「いいのよ、姉さん」リーリンはにこやかに応じた。「これから買い物なら、付き合うけど」
「そうね、それじゃあお願いしちゃおうかしら」
多数の孤児を養っているから、一回の買い物の量もそれなりになる。一人では持ち切れない。
「あっ、リーリン姉(ねえ)だ!」
子供特有の甲高い声がした。まだ幼い弟妹たちがリーリンに突撃してくる。それを、リーリンは優しく受け止めた。
「ただいま、みんな」
「おかりなさい!」
弟妹たちが元気よく挨拶を返してくる。リーリンは膝を折って彼らと視線の高さを合わせた。
「お久しぶりです、リーリンさん」
すると、孤児たちの後ろから一人の少女がリーリンに声をかけてきた。少年のような格好をした少女だった。歳はリーリンより一つ下の十四だと聞いている。
整った可愛らしい容姿をした少女であり、剣帯を下げた短ズボンから覗く足はすらりとして細く、肌は健康的に輝いている。長く癖のない髪を頭の右側で一つに縛っていた。綺麗な黒髪であるが、一部だけ白くなっている。染めたのではなく、生まれつきであるという。
「ええ、お久しぶりです、クララさん」
少女の名は、クラリーベル・ロンスマイアという。クララは愛称だ。以前、孤児院に遊びに来たシノーラが親戚の子を紹介するといって連れてきた少女だった。天剣授受者、ディグリス・ノイエライン・ロンスマイアの孫というから、れっきとした王家の人間である。
すると、シノーラも王家に連なる人間ということになるが、グレンダン王家には分家や傍系がいくつか存在しているので、閉鎖空間であるレギオスに住んでいる以上、日常生活の中で確率的にそういう人間と出会ってもおかしくはないだろう。
出会った当初こそ驚きはしたものの、今ではリーリンも慣れてしまった。クラリーベル本人から不必要に謙(へりくだ)ることを禁じられているので、必要以上に敬語や敬称は使わない。
「みんなの遊び相手になってくれてありがとうございます」
「いえ、私も楽しくてやっているんですから、別にいいですよ」
そう言ってクラリーベルは屈託のない笑みを浮かべる。
「皆さん、本当にいい子たちですね」彼女は庭でボール遊びをしている男の子たちに視線を向けた。「レイフォン様が守りたいと思った気持ちも判ります」
そう言って、クラリーベルもリーリンの周りに集まっている一人の子供の頭を撫でた。子供はどこか不思議そうな表情でクラリーベルを見上げた。
「クララ姉ちゃん?」
子供の呼び掛けに、クラリーベルはにっこりと笑みを浮かべて応じた。
「そういえば、レイフォン様はツェルニで元気にやっていらっしゃるんですか?」
クラリーベルが孤児院を訪ねてきた時、必ず話題になるのがレイフォンのことだ。
「元気なようですよ」しかし、そう言ったリーリンの表情がかすかに曇った。「でも、向こうでも汚染獣との戦闘があったらしくて……」
「心配なんですか、彼のことが?」
柔らかい口調で、クラリーベルは言った。
「レイフォンが強いってことは判っています」自分自身に噛んで含めるような調子でリーリンは続ける。
「ですから、心配というのはちょっと違う気がします。ただ、不安なんです」
「不安、ですか」
クラリーベルはリーリンの発言を吟味した。心配はしていないというのは、それだけレイフォンを信じているということだろう。しかし、それでも遥か遠くで命をかけて戦っている幼馴染のことを案じている。そんなところだろうか?
クラリーベル自身も、レイフォンの武芸者としての能力に疑いは抱いていない。しかし同時に、レイフォン・アルセイフという人間が、ひどく危うい精神の持ち主であることも知っている。それは孤児院襲撃事件の際に、よくわかった。
クラリーベルとしては、レイフォンにはそうした危うさを克服してもらいたい。そうでなければ超えるべき目標としての面白味に欠ける。
「レイフォン兄(にい)が負けるはずがねぇよ」
どこか怒った調子の声が、クラリーベルの背後から聞こえた。孤児院の中では比較的年長なトビエだ。
「汚染獣だろうが人間だろうが、兄貴は絶対に負けねぇ」
その声には、何か頑ななものが混じっていた。
「だから心配してんじゃねぇよ、リーリン姉」
トビエの視線は、リーリンを睨むようなものだった。リーリンは何度か目を瞬かせた。そして、それがトビエなりの励まし方だと判って、口元に笑みを浮かべる。
「うん、そうだね、トビー」
トビエはどうしてか、不貞腐れたようにそっぽを向いてしまった。
「別に、俺はレイフォン兄のことなんか心配してねぇからな。兄貴は心配するだけ無駄なんだよ」
どこか素直になれていないのだな、と二人の遣り取りを聞いていたクラリーベルは思った。闇試合の件が発覚した直後、レイフォンは守ろうとした孤児たちから責められたという。そして、狂を発したガハルドから孤児たちを守ったのもレイフォンだ。
きっとこの子は、自分の感情を上手く処理出来ていないのだろう。
それでも、トビエがレイフォンを嫌っている訳ではないのは、部外者であるクラリーベルにも判った。
孤児院では、夕飯の買い出しに向かう組みと、洗濯物を取り込んで畳む組みとに分かれた。
リーリンが買い出し組で、ロミナが洗濯物組みをそれぞれ担当することになった。
クラリーベルはリーリンに付いていった。
商店街を弟妹たちと共に歩くリーリンの後ろ姿を見ながら、クラリーベルは複雑な表情をしていた。
思い出すのは、祖父である天剣授受者、ティグリス・ノイエライン・ロンスマイアに言われた言葉だ。
曰く、リーリン・マーフェスなる少女に少しでも異変―――どのような些細な兆候でも構わない、そのようなものを感じたならば即座に自分に伝えろ、と。
そう言った時の祖父が纏っていた雰囲気は、孫のクラリーベルですら薄ら寒いものを感じさせるほどのものだった。リーリンに対する、殺意のようなものさえ感じられた。
理由は判らない。
本当は、興味本位だったのだ。レイフォンが守りたかった存在がどんなものであるのか、この目で見ておきたかっただけだったのだ。彼は守りたいもののために、あそこまで強くなった。だから、その守ろうとした存在に興味を覚えた。それだけのはずだった。
従姉である女王アルシェイラがシノーラという偽名で学生をやっていることは、ある程度知っていた。あの女王のやりたいことはよく判らない。単純に、学生気分を味わいたいだけかもしれない。要は、市井に紛れて遊びたいのだろう。
そして、そのアルシェイラがレイフォンの孤児院の関係者と学友で、何度か孤児院にも顔を出していることを知った。だから、その伝手で孤児院を覗いてみようと思ったのだ。
だが、それが切っ掛けとなって祖父から監視役めいたことを頼まれる(ほとんど命じられたといっていい)とは思ってもみなかった。
そして、不思議な符合が気にかかってもいる。
アルシェイラお気に入りの少女と、祖父が監視を命じた少女が同一人物。
気にし過ぎかもしれない。
しかし、やはり気にはかかった。
「クララさん?」
不意に、リーリンに声をかけられた。考えごとをしていた所為で、少し遅れてしまっていたらしい。
「あっ、すみません」
内心の疑問などおくびにも出さず、いつも通りの明るい調子で応じ、リーリンたちに追い付いた。
ひとまず、疑念は胸の奥深くにしまっておくことに決めた。
◆ ◆ ◆
ここ最近、ニーナ・アントークは悶々とした日々を送っていた。
授業や小隊訓練にも思うように身が入らず、唯一の心の慰めといえば機関部清掃の際に会えるツェルニ程度だった。
一体、何が間違っていたのだろうと思う。
老生体戦では無様を晒し、小隊戦でも指揮の拙さを思い知らされるばかり。シャロンの独断行動がなければ隊は連敗に連敗を重ねていただろう。
ニーナは機関部の床にブラシをかけながら歯噛みした。奥歯がきしむ。
一体、自分とレイフォン、そしてシャロンとの差は何だろうと思う。
同じ学生武芸者でありながら、どうしてこうまで実力に差がついてしまう?
もし生まれついての才能が武芸者としての実力を左右するのなら、自分の努力などまったく無意味なことなのか?
いいや、そんなはずはないと自分に言い聞かせる。
ふと、落下防止柵の向こう側―――下の階層にレイフォンの姿が見えた。新年度開始当初に比べて、機関清掃のアルバイトをする生徒の数は減っている。これは機関清掃が重労働であるために、途中で辞めてしまう生徒が続出したからだ。そのため、体力面で一般人より遥かに優れている武芸者アルバイトに、いままで一般人が二、三人で掃除をしていた区画を任されるようになる。
こうした事情からレイフォンがニーナとは離れた区画を担当することになったため、以前のように仕事中に会話する機会も減っていた。
それでもニーナは休憩時間を見計らって彼との会話を試みたことがある。
老生体戦の件に関しては緘口令が敷かれているため、大きな声で話題には出来なかったが、それでもレイフォンはニーナの行動について非常に苛立っていたようだった。
渋い顔で苦言を呈されてしまった。
―――先輩は都市外での戦闘がどういうものであるのか、まるで理解していない。
―――わずかな失敗が命を落とすことに繋がるんですから、実力の伴わない者が戦場に出るべきではありません。味方の行動を阻害する足手纏いにしかなりません。
―――つまり先輩の行動が、結果として味方の命を奪うことになるんです。
―――現在のツェルニ武芸科の実力では、僕は到底、彼らを戦場において信頼出来る仲間だと思うことは出来ません。無能な味方は、汚染獣よりも脅威となる存在です。
そんな言葉が、脳裏で蘇る。
「無能は人を殺す、か……」
ニーナは呟いた。
レイフォンがいれば、ツェルニは安泰だろう。自分ではどうにも出来ない状況を、彼ならば決定的なものに変えてしまうに違いない。
ならば、第十七小隊の隊長であるニーナ・アントークの存在意義とは何なのか?
自分はツェルニを守る力になりたいのだ。だからこそ、第十七小隊を設立した。第十七小隊が強くなることが出来たならば、自分は確実にツェルニのために貢献出来るはずなのだ。
実際、個々人の能力を見る限りでは第十七小隊は実に恵まれている。だが、それを活かし切れていないのが現状だ。
やはり、指揮官である自分が皆を纏め上げられるくらいに強くなるしかないのか。
悩んでも悩んでも、結局は堂々巡りの繰り返しだ。
「ええい……!」
ニーナは頭(かぶり)を振って、小さく呻いた。
こういつまでもうじうじ悩んでいるのは、自分らしくない。
強くなると決めたのならば、一心不乱に目標に向かって邁進していけばいいだけの話だ。
レイフォン・アルセイフという、判りやすい目標が目の前にいる。そしてそのレイフォンは、武芸科で特別講義を受け持っている。これほど都合のよい話もない。
自分もいつか絶対に、あの高みに上り詰めて見せる。
ニーナはそう心に決めた。
◇◇◇
レイフォンの特別講義は、だいたい週一の割合で武芸科の授業に組み込まれている。
当初こそ反発の色が濃かったこの特別講義であるが、回を重ねるごとにそうした反発は陽を浴びた氷のように溶けていった。
グレンダンという都市で、この少年が何度となく汚染獣戦を経験していることが知れ渡るようになったからである。どこからこの情報が漏れたのかはレイフォン自身も判らなかったが、恐らく自分のことを知っている武芸科幹部の誰かがうっかり漏らしてしまったのだろうと思っている。
学生武芸者たちにはあまり実感がないようであるが、武芸者にとって経験とは何よりも重視されるものである。その中の最たるものが実戦経験であった。
レイフォンという少年は八歳の頃から戦場に出、十歳で天剣に勅任されたから、本来であれば彼のような年齢の武芸者が知るはずもない戦場の真実を知っていた。
ただ、反発は徐々に収まっていったとはいえ、問題は残った。それはレイフォンの修めたサイハーデン流そのものの問題といっていい。
サイハーデン流の極意とは生き残ること。戦いに勝つことよりも生き残ることに重きを置くのがこの流派の特徴であった。しかし、そうした思考は大抵の武芸者には受け入れられない。グレンダンでもそうであった。多くの武芸者は、戦って勝つことを最上の目的としている。そうした者たちは、戦いの中で命を落としたとしても、それは武芸者としての誉だと考えている。そうであるからこそ、サイハーデン流の思想に反発を覚えるのだ。
まだ基礎訓練の段階に留まっている内は、そうした問題があまり表面化しないだろうが、いずれはグレンダンと同じように、サイハーデン流の思想に共鳴出来ない生徒たちも現れてくるだろう。
その時、どうすべきなのか、レイフォンは明確な回答を出せずにいた。結局のところ、戦い方とは人それぞれに向き不向きというものがある。サイハーデン流がその武芸者にとって合わないものであるのならば、レイフォンとしては寂しくもあるが、それで結構であるとも思っている。実際、グレンダンではルッケンスのように、長い歴史と隆盛を誇る流派が存在している。他にも大小様々な流派がある。どの流派が自分に合うのかは、人それぞれだろう。
レイフォンは特別講義参加者各人の実力をおおよそ把握した後、硬球を利用しての基礎訓練を行うことにした。第二回目の講義から、この訓練法を取り入れている。
具体的には、道場の床に大量の硬球をばらまき、その上に立って均衡を取る訓練である。もちろん、ただ均衡を取るのではなく、錬金鋼に剄を流す要領で硬球に剄を流し、回転するのを防ぐのがこの訓練方法の骨子である。
これは活剄の基本能力を高める訓練であり、元々はサイハーデンの道場で行われていたものをそのままレイフォンがツェルニでの講義に導入したものだ。
しかし、硬球の上で上手く立てずに転倒する者が相次いだ。もちろん、初めから上手くいくはずはない。レイフォンもそれは判っている、判っているのだが。
しかし……
「……」
レイフォンは転倒した者たちの様子を見ながら、内心で渋面を作っていた。今日の講義で、この訓練方法を導入して三回目になる。
もしかしたら、自分にとっての基礎とツェルニにとっての基礎は違うのではないだろうか、という深刻な疑いを抱き始めていたのだ。
レイフォンにとってみれば、基礎とは剄の扱い方そのものを指す。だが、どうもツェルニの武芸者たちを見ていると、剄の扱い方そのものよりも、剄を利用した技の基本的な部分を基礎と考えているのではないだろうかと思う。
確かに、剄技にも基本として覚えるべき部分はある。しかしレイフォンは、剄技の基礎そのものよりもまず剄の扱い方そのものの方を重要視している。それがすべての剄技の土台となると考えているからだ。
その意味では、これまでのツェルニ武芸者は基礎の基礎たる部分を疎かにしてきた、そういえるのかもしれない。
ただ、正直な話、ツェルニに残された時間が少ないという決定的な問題がある。それまでに少しでも彼らの質を上げねばならない。
よって、レイフォンはこれまでツェルニで行われてきた剄技重視の教育方針を徹底的に無視することにした。もちろん、剄技の訓練そのものを否定している訳ではない。それもそれで重要だ。しかし、それはレイフォンがやらずとも他の授業を受け持っている上級生たちがやるだろう。だからこそレイフォンはまず、徹底的な基礎訓練を行うことにした。武芸大会までの時間的余裕があれば、レイフォン自身の実戦経験も交えたより実戦的な訓練も入れていくつもりである。
「……」
レイフォンは片足で硬球の上に乗りながら、道場内を見回した。相変わらず、硬球の上に立つことが出来ているのはごく一部の人間だけだ。
大抵の人間は、派手な音と共に転倒している。
見回して、一人、気になる人間を見つけた。禿頭痩身の男だ。確か、第十小隊隊長のディン・ディーという人物のはずだ。老生体戦前、ヴァンゼが編成した対策班の中で見かけた覚えがある。老生体戦後は、小隊訓練を優先するなどの理由で抜けていた。対策班にはもう一人、幼生体戦の時、野戦軍指揮官として抜群の能力を発揮したシン・カイハーン第十四小隊隊長も参加していたが、彼もやはり小隊の訓練などもあって、掛け持ちは難しいとの理由で抜けていた。ただ、何かあればいつでもまた力になる、との言葉をヴァンゼに残したという。
ディン・ディーは、老生体戦後にこの講義に参加していた。
レイフォンは床にばら撒かれた硬球の上を跳ねるようにして進み、彼に声をかけた。
「先輩?」
ディンは硬球の上で、必死に均衡を取ろうとしていた。
「何だ?」
硬球の上で体勢を維持することに集中しているらしく、追い払うような調子の声が返された。
「一旦、硬球の上から降りていただけませんか?」
ディンは怪訝そうな表情を見せたが、レイフォンの言う通りに硬球から降りた。
「何か拙い点でもあるのか?」
「剄脈です」
「剄脈?」
「はい、僕は他人の剄の流れが見えるんですが、どうも先輩の剄脈の流れに問題があるように思えるんです。あの、別に剄の使い方云々に問題がある訳ではないんです。何と言いますか、剄脈の流れに澱みのようなものがあるような気がするんです。健康上の問題かもしれませんから、一度、剄脈の専門医に診てもらったいいと思いますよ」
「人の剄の流れが見えるのか?」
「ええ、先輩も訓練すれば出来るようになりますよ」
レイフォンの言葉に、ディンは苦笑を滲ませた。そして、探るような視線でレイフォンの顔を見る。
「健康上の問題かもしれない、とお前は言ったな?」
「はい」
「何か、心当たりはあるのか?」
「いえ、僕は医者ではないのでそこまでは」
「そうか」
納得したのかそうでないのか、定かならぬ曖昧な調子でディンは頷いた。
「ところで、レイフォン・アルセイフ」
「何でしょうか?」
この特別講義の講師はレイフォンであるのだが、参加者全員が彼よりも学年が上ということで、講師と受講者の関係がややこしくなっている。講師であるレイフォンが敬語であるのも、そのためだ。
「お前には、命を賭して守りたいものがあるのか?」
「どうしても守りたい、そう思える存在ならあります」きっぱりと、レイフォンは答えた。「しかし、命に代えようとは思いません。陳腐な言い方かもしれませんが、僕が死んでしまえばもう守ることも出来なくなってしまうからです」
「もし、自分自身と引き換えに、その大切なものを永遠に守れるのだとしたら?」
「魅力的な仮定ですね」レイフォンは影のある苦笑を浮かべた。「でも、誰がそれを保障してくれるんです? そんな保障など、世界のどこにもありませんよ、きっと。それに、自分は守ったつもりでも、逆にそれが守りたいものを失わせる結果になることだってあるんです」
「……」
レイフォンの顔に浮かぶ影に、ディンは少しだけ目をすぼめた。そこに何か、レイフォン・アルセイフという少年の危うさ、あるいは一種の狂気のようなものを感じたからだ。
ディンは非常に頭の切れる人間であるから、今の会話だけでこの少年の過去を朧げに察することが出来た。つまり、彼はすでに一度失った人間なのだ。そして自分は、失うことを恐れている人間だ。つまり、まだ失ってはいない。自分が守りたいと思うツェルニは、まだ滅んではない。
その対比に、かすかな皮肉のようなものをディンは感じた。
それでも、守るべきものがあるという点では同じことだ。
そして、その思いが人を狂わせる、か……
ディンは内心で自嘲の笑みを浮かべた。狂気という点では、自分もこの少年と似たようなものなのかもしれないと思ったのだ。しかし、守るべきもののためならば、その狂気に染まるだけの覚悟はある。もし狂気に染まることで守ることが出来るのならば、自ら進んでその狂気に染まって見せよう。
ディンはもう一度、心の中だけで自嘲した。自分の愚かしさを自覚してなお、そうせざるを得ない自分自身を嗤ってのことだ。
「いや、済まない。俺の下らん感傷に付き合わせてしまったな」ディンは軽く手を振った。「俺だけでなく、他の受講者たちにも何か助言してやれよ」
「判りました。では、失礼します」
レイフォンは一礼すると、ディンの前から去っていった。
◇◇◇
その日の昼休み、レイフォンは生徒会長室に呼び出されていた。最近では、戦術研究会関連のことで生徒会棟に呼び出されることが多かったので、呼び出し自体は特に疑問に思わなかった。
「レイフォン・アルセイフ、出頭しました」
生徒会長室の扉を叩き、入室する。そこには、ロス兄妹が揃っていた。カリアンは執務机の向こうにおり、フェリは応接用の長椅子にかけている。
フェリがいることを怪訝に思いはしたが、レイフォンは用件を尋ねることにした。
「それで、今日はどういう用件なのですか?」
「悪いが、全員が揃うまで待っていてもらえるかな?」
レイフォンは勧められるままに、長椅子に腰かけた。カリアンが呼び鈴で役員を呼ぶと、紅茶と昼食が運ばれてきた。
「わざわざ昼食時に呼び出してしまったからね、食べてくれたまえ」
目の前の机に置かれたのは、サンドイッチとキドニーパイだった。向かい側の長椅子では、フェリが紅茶を飲んでいる。
「では、お言葉に甘えて、いただきます」
レイフォンはサンドイッチに手を伸ばした。皿の上にはパストラミビーフやハムを挟んだものや、ポテトサラダなどの野菜系のサンドイッチが乗っている。
カリアンが言った“全員”が揃ったのは、ちょうどレイフォンが昼食を食べ終わった頃だった。
武芸長のヴァンゼ、第五小隊のゴルネオ、第十七小隊のニーナの三名がやってきた。フェリがレイフォン側の長椅子に移り、新たに来た三人が対面の長椅子に腰を下ろす。
一瞬、ゴルネオがレイフォンのことをちらりと見た。刺すような鋭い感情の籠った視線だった。レイフォンの片方の瞼が、かすかに痙攣した。
「さて、これで全員揃ったね」
カリアンがぱんと手を叩いて全員の注意を自分に向けた。
「それで、今度はいったい何だ?」
ヴァンゼが全員を代表して尋ねた。
「緊急の用件だ。ヴァンゼには悪いが、事後承諾になる」
「おい」ヴァンゼが咎めるように言う。「この間の件で、お前は懲りていないのか?」
「まったくです」フェリが同意した。「あなたの勝手な判断が、レイフォンを危険な状況に陥れたんですよ? 一歩間違えれば、彼は命を落としていました。常に物事があなたの計算通りに進むとは限らないということを、いい加減理解したらどうですか?」
「僕としても、あれは迷惑でした」
レイフォンも嘆息混じりに言った。
フェリに一瞥されたニーナが非常に居心地悪そうにしているが、彼女の暴走の被害を受けた一人でもあるフェリにしてみれば、同情の余地はない。
この場でただ一人、事情を知らないゴルネオは、わずかに怪訝そうな顔をしつつも口を挟まずに会話が終了するのを待っていた。
「いや、あれは私も軽率だったと反省しているよ」いつもの笑みに、少しだけ苦いものを混ぜでカリアンは言う。「あの後、そう言ったじゃないか」
「反省の言葉は聞いていますが、謝罪の言葉は聞いていませんよ」
フェリが冷たく切り捨てた。
「もういい、いい加減本題に入ろう」
ヴァンゼが兄妹の会話を遮った。カリアンが幾分、ほっとした表情を浮かべている。ヴァンゼはそんな銀髪の青年に釘を刺すように一睨みしておく。
「まずは君たち、これを見てくれ」
カリアンは抽斗から取り出した写真を皆に示した。ヴァンゼが手を伸ばしてそれをカリアンから受け取る。
「これは……探査機からのものか?」
「ああ、昼休み前に帰還した探査機からのデータを現像した」
「随分と忙しい話だな」
ヴァンゼはそう言って、写真に意識を集中させた。
写真には山が写っている。写真の左端から右端にかけてゆるやかな稜線を描いている。高さはそれほどでもなさそうだ。
問題としているものはすぐに判った。
写真の右端あたりに大きな影が写っている。
その特徴的な形は決して自然物ではあり得ない。テーブル状の中央部から上部に無数の塔のようなものが連なり、下部には半球が張り付くようにしてある。それを無数の足が支えていた。
「これは、都市か?」
「の、ようだね」
「っ! 戦か!」
「さて、どうだろうね?」
室内に満ちた緊張感を、カリアンは謎めいた笑みで流してさらにもう一枚の写真を机の上においた。
「こちらは、その都市を拡大したものだ」
「これは……」
写真を覗き込んだニーナが息を呑む。レイフォンも写真の中の惨状に顔をしかめた。
二枚目の写真に写っていたのは、無残な都市の姿だった。
「酷いな……」
ゴルネオが低く唸る。
都市全体を覆い第一層の金属プレートはあちこち剥がれ、あるいは抉られ、そして崩れ落ちていた。年の足の幾つかは半ばから、あるいは根元から折れて失われている。都市の上にある建物も無残に打ち壊されていた。
第二層にある有機プレートが自己修復を行って、都市の外部を苔と蔓系の植物で覆っている。その進行度を見る限り、都市を襲った悲劇からはそれなりの時間が経過しているようだ。
「エアフィルターは生きているようだが……」
「汚染獣に襲われたな」
「私もそう思う」
写真の中は夜だ。それなのに、都市のどこにも明かりは見えない。
「……この近くに汚染獣がいるのか?」
「周辺都市のデータを調べてみたが、その様子はない。もちろん、この後で再調査はするけどね。それよりも、私が気にしているのはこっちの方だ」
カリアンが一枚目の写真を指差す。
「この山だけどね、ヴァンゼ、見覚えがないかい?」
「……覚えもなにも、都市の外の様子なんて……」言いかけて、ヴァンゼが口をつぐんだ。「おい、ちょっと待て、これは……」
「撮影されたのが夜だから判りにくいかもしれないけどね、山のあちこちに見覚えがあるものが設置されているように見えるんだけどね」
「もしかして……セルニウム鉱山ですか?」
ニーナがはっと顔を上げ、カリアンが頷くのを見た。
「ああ、ツェルニが唯一保有している鉱山だ。どうやらツェルニは補給を求めているらしいね」
「では、あの都市も……?」
「しかし、どうしてここに?」
「推測だが、汚染獣から逃げようとしえ本来の自分の領域を出てしまったんじゃないかな? そのために自分の鉱山に向かうのでは間に合わなくなってしまった」
「飢えは、都市さえも狂わせるか」
「悲しい現実だ」
ヴァンゼが沈鬱な息をついた。カリアンが言葉通りに思っているかどうか、その表情からは推し量れない。
「さて、ゴルネオ・ルッケンス、ニーナ・アントーク。ヴァンゼだけでなく君たち二人に来てもらったのには訳がある」
「あの都市の偵察か?」
ヴァンゼの言葉に首肯して、カリアンは続ける。
「探査機からの画像データを見る限り、鉱山と都市の周辺に汚染獣の姿はない。だが、あの都市が汚染獣に襲われたのは目に見えて明らかだ。汚染獣の生態を我々が完全に理解していない以上、あの都市に汚染獣が次なる得物を求めて罠を仕掛けていないという確証は、今の段階では得られない。君たち二小隊であの都市を先行偵察してもらい、その確証を手に入れてきて欲しい。なお、レイフォン・アルセイフ君には調査隊の特務顧問官として同行してもらう。万が一の場合、君以上に戦(いくさ)慣れした者はツェルニにはいないからね」
「偵察そのものには異議はない」ヴァンゼが言った。「だが、一応聞かせてもらうか。レイフォンに関しては疑問がないとしても、わざわざこの二小隊を選んだ理由は? 今後のことを考えれば、戦術研究会からも何名か出向させた方がよかったんじゃないか?」
「小隊を選んだのは、調査員同士の連携というものを重視したからだ。そして、改良した都市外戦装備の量産がまだ軌道に乗っていない。現状では、防護服の数から派遣する部隊を逆算しなければならなかった。もちろん、対抗戦での成績も考慮に入れている」
「しかし、第十七小隊にはシャロンが」
「その点も考慮した。だから、二人の隊長とレイフォン君には許可を出す。流石に殺害までは許可出来ないが、もし彼が少しでも妙な動きをするようであれば即座に彼を戦闘不能にしたまえ」
「……」
「……」
ゴルネオとニーナが、一様に緊張した面持ちを見せる。
「さて、任務の内容に関しては了解してもらえただろうか?」
「任務、了解しました」
「……了解です」
ゴルネオとニーナがそれぞれ答えた。
「うん、よろしく頼むよ。出発は明朝0500。それまでに隊員に任務内容を伝達し、装備を整えておくように」
「はっ!」
カリアンの言葉に、ゴルネオとニーナが立ち上がって敬礼した。
「まったく、何だって私たちばかりがこんな面倒な目に遭わないといけないのでしょう?」
生徒会棟を出て道を歩きながら、レイフォンはフェリの愚痴を聞いていた。
「あの男は、他人を顎で使うことしか考えていないんでしょうか? あの椅子を温めてばかりいないで、少しは現場の苦労も知るべきだとは思いませんか?」
念威操者であることを忌避しているフェリが“現場”という言葉を使ったことに皮肉を感じて、レイフォンは苦笑を浮かべてしまった。即座に、フェリから睨まれたが。
「……ともかくです」
咳払いをして、フェリは続けた。流石に、自分の発言が持つ矛盾に気付いたらしい。
「今回も兄は何かよからぬことを企んでいるに違いありません」
断定口調だった。そして、足を止めてレイフォンの前に回り込む。フェリは少年の目をまっすぐに見つめた。
「ゴルネオ・ルッケンスの視線、気付いていますか?」
「ええ」
流石にレイフォンとしても、硬い声音にならざるをえなかった。
「あれは敵意なんていう生易しいものではありません」フェリは言う。「明らかに、殺意が混じっていました」
「……」
レイフォンは答えない。
「きっと、兄も気付いていたでしょう。あるいは、私が気付く以前から何か知っていたのかもしれません。気付いていてなお、兄はあなたとゴルネオを調査隊に組み込んだのでしょう」
第十七小隊が調査隊に選ばれたのは、これは完全に自分とレイフォンとの連携を兄があてにしているからだ。だが、第五小隊を選ぶ必然性には欠ける。むしろ、かつてニーナが所属していた第十四小隊を選んだ方が、小隊同士の連携という点では望ましい。第十四小隊も対抗試合での戦績上位の強豪小隊である。何も問題点はない。
だが、兄はあえて第五小隊を選んだ。
いや、そもそもあてにしているのが自分とレイフォンだけであるならば、ヴァンゼの言う通り、戦術研究会を中心として任務部隊(序列などに影響されない特別編成の部隊のこと)を編成してしまえばいい。
兄はそれをせずに、ゴルネオ、ニーナ、シャロンという明らかに問題のある人間たちを調査に向かわせようとしている。不確定要素が多過ぎる。それとも、あの男はそれすら考慮の内なのだろうか?
しかし、だとしても兄の意図が理解出来ない。あれだけ悪辣で、すべてに対して用意周到な兄らしくない。
何故、重要な調査行にこれだけの不確定要素を織り込もうとする?
何だか、兄の主催する人形劇で踊っているような気分になる。非常に不快だ。まったく気に入らない。
フェリは窺うように、レイフォンの青い瞳を覗き込んだ。
「ゴルネオ・ルッケンスの性格が評判通りであるならば、武芸科個人大会で負けたことによる怨恨、という可能性はまずありえません。何かもっと別な要因が存在するはずです」
自分は今、この人を傷つけようとしている。そう思うと、何故だかフェリの胸が痛んだ。それでも、訊かずにはいられなかった。
「すみません。これ以上、あなたに無理に訊くべきではないのかもしれません。でも、このまま何もせずにいたら、何か良くないことが起こってしまう、そんな気がしてならないんです。ですから、もし何か理由に心当たりがあるのなら、あなたの口から聞いておきたいのです」
自分の言い方が卑怯であることを、フェリは自覚していた。自分はただ、ゴルネオの殺意を口実にレイフォンの過去を知りたいだけなのだ。
レイフォンの過去はきっと、聞いて楽しいものではないだろう。それでも、フェリはどうしてもこの少年のことが知りたかった。そうでなければ、彼に手を伸ばすことが不可能であるように思えたからだ。
そして、このままレイフォンとゴルネオが衝突するようなことになれば、本当に何かが起こってしまう、そう思えて仕方ないというのも本音だ。ゴルネオの視線には、それだけ不吉な未来を予感させるものがあった。
きっとそのことは、当のレイフォンが一番自覚していることだろう。
青い瞳が、ふいとフェリから逸らされた。
「すみません、何だか、巻き込んでしまったようで」
「……」
「もしかしたらこれ以上、先輩は僕に関わらないほうがいいのかもしれません」
“先輩”、その言葉が、フェリが縮めたと思った彼との距離を、再び広げてしまったように感じた。
やっぱり、自分の手は彼に届かないのだろうか?
フェリは、今この場所にリーリンという少女がいて欲しいと、切に願っていた。きっと自分では、この少年の支えになれない。
彼は独りでも立っていられる。でも、過去が彼の足を掴んで引き倒そうとしたとき、傍で支えてあげられる人がレイフォンには必要なのだ。
きっと、ずっと独りで立ち続けていては、転んでしまったときに立ち上がることが出来なくなってしまう。彼の抱える過去は、暗がりからいつでも襲えるよう、牙を研いでいるに違いない。
校舎に辿り着くまで、フェリはレイフォンが何か過去について語ってくれるのを期待していたが、結局、彼は何も語らなかった。フェリを拒絶しているというよりは、単純にレイフォンが話したくないだけのように感じた。フェリはレイフォンの過去を断片的にしか知らないが、それでも彼が口を閉ざしたいと思う気持ちが十分に理解出来るものだった。きっと、無理に聞き出そうとした自分の方が悪いのだろう。
「では、また明日」
無理に作った笑みを見せて、レイフォンは一学年の教室へと向かった。
フェリはその背中を、不安そうな面持ちで見つめていた。
放課後、レイフォンはメイシェンらヨルテム三人衆に連れられて街に来ていた。
最近は戦術研究会のこともあり、彼女たちと関わる機会も少なくなっていた。そしてレイフォン自身は、未だ自分と彼女たちの間にある壁を認識せずにはいられなかった。
どうして彼女たちはここまで未来に対して希望を持てるのだろうか?
きっと彼女たちは色彩ある人間で、僕は灰色の人間なんだろう。そんなことを思ってしまった。
ミィフィから、最近付き合いが悪いと言われてしまった。そうかもしれない、と思いレイフォンは謝罪の言葉を口にした。
なんだか、どんどん彼女たちとの距離が開いていくように感じる。
やっぱり、無意識のうちに孤独を求めているのかもしれない。リーリンのいない寂しさを、他の誰かで補おうとしても不可能だからだ。誰かは、別の誰かになることは決して出来ない。
みんなと一緒にいることの出来ない痛みが、レイフォンの胸を突き刺す。
「それで、レイとん、明日から生徒会の任務で公欠なんだって?」
ミィフィが言った。廃都市への調査隊派遣の件は、別に機密事項ではない。大々的に公表されていないが、非公式な案件という訳ではない。情報通のミィフィならば、その程度は知っているだろう。
「うん、廃都市に危険がないかどうか、調査するのが今回の任務だって」
「汚染獣に滅ぼされた都市、か」
ナルキが唸るように言った。メイシェンも心なしか青ざめている。
「他人事とは思えんな」
「危ない任務じゃ、ないんですよね?」
そうであって欲しいと願うような、縋るような口調でメイシェンが言う。
「探査機からの索敵結果だと、近くに汚染獣はいないらしいよ」
ただし、任務に危険そのものがないかといえば、レイフォンとしては断言することは出来ない。だが、流石にそれを正直に言っては相手を心配させてしまうだけだろうというのは判っていたので、あえて言わないでおいた。
「そう、ですか。なら、よかったです」
そうは言いつつも、メイシェンはやはり不安そうだった。
「気を付けて、任務、頑張って下さいね」
「ありがとう」
やはり、胸が痛んだ。
それは、自分と、彼女たちが住む世界が相容れずに立てる軋轢の音が心に響いているからだった。
◇◇◇
翌早朝、調査隊の面々が都市下部の外部ゲート格納庫に集まっていた。
最後にやってきたシャーニッドが、寝癖の残る頭をかきまわしながらぶつぶつと文句を言っている。
「ったく、こんな任務さえなけりゃあ、昼まで寝られたはずなのによぉ……」
「お前……今日は休日じゃないぞ? 何をしていたんだ?」
ニーナがじっとりとした視線をシャーニッドに注ぐ。
「イケてる男の夜の生活を想像するもんじゃないぜ」
「何でもいいからもう少しまともな生活をしろ」
怒るのも疲れたという風にニーナは溜息をつき、戦闘仕様の汚染物質遮断スーツの着心地を確かめた。
「ふむ、確かに軽いな」
普段の戦闘衣の下に着られる上に、着た後もすぐ慣れる程度の違和感しかない。せいぜい、一枚余分に来ている程度の感覚だ。
そんなニーナを、シャーニッドは少しばかり驚きの視線で見た。何だか、えらく溌剌としているようにも見える。生徒会長直々に特別任務を言い渡されたことで、自分の隊が認められたと思っているのだろう。あまり張りきられて暴走されても迷惑であるが、欝屈としたものを抱えたままでいるよりは遥かにいい。逆に、ニーナらしくて安心すら覚える。
「何だ?」
気付くと、ニーナが怪訝そうな顔でシャーニッドのことを睨んでいた。シャーニッドはそんなニーナをわざとらしく眺め、次いで自動二輪の側車に退屈そうに腰を下ろしているフェリを眺めた。
「ふむ」
そして、非常に真面目な調子で頷いて見せる。
「だから、何だ?」
「……エロイな」
「さっさと着替えてこい、馬鹿者が」
ニーナはそう言ってシャーニッド用に用意されたスーツを投げつけた。シャーニッドはだらだらとした足取りで更衣室に割り当てられた部屋に入っていった。
すでに他の面々は都市外戦装備を着込み終っていた。
レイフォンだけは都市外戦用戦闘衣の上に、全身をすっぽりと覆えるグレンダン製のフード付き防塵外套を羽織っていた。
シャロンは、今回は例の軍服を着ていなかった。髪も下ろしていない。
格納庫内では、半ばレイフォンの専属技師となった感のあるキリクと、第十七小隊の専属技師であるハーレイが錬金鋼の調整をしている。どのような危険があるか判らないため、全員の錬金鋼から安全装置が外されることになっていた。
レイフォンはキリクから調整の終わった天剣と鋼鉄錬金鋼、青石錬金鋼を受け取った。そのまま素っ気なく車椅子を進めて昇降機に乗り、戻ってしまったのはいかにも彼らしい。
レイフォンは三振りの錬金鋼を剣帯に差し、自動二輪の停めてある場所に向かった。
「……」
ふと、背中を刺すような視線を感じた。振り返ってみると、第五小隊が準備しているのが見えた。隊長ゴルネオの下、そろそろ準備が完了しようとしている。
だが、レイフォンが視線の主だとおもったゴルネオはこちらに背を向けている。ならば誰が、と見回してみれば、自動二輪の上で胡坐をかいている少女がこちらを睨みつけていた。
副隊長のシャンテ・ライテだった。
流石にゴルネオと違って、彼女に敵意を向けられる覚えはない。レイフォンは彼女の視線の意味を怪訝に思った。
「どうしましたか?」
ふと、フェリが声をかけてきた。彼女はレイフォンの視線の先を追った。二人に向かって、シャンテが歯を剥いて威嚇する。
「……小生意気ですね」
フェリが不快そうに呟いた。
「どうしたの?」
錬金鋼の調整を終えたらしいハーレイが近づいてきた。彼も、シャンテの視線に気付いたようだ。
「うちの小隊はともかく、レイフォン君まで敵視する理由はないと思うんだけどなぁ」
ハーレイも不思議そうだった。試合に負けた第十七小隊はともかく、レイフォンは試合とは無関係のはずだ。
「いえ、案外、僕の特別講義の件かもしれませんよ」
「ああ、なるほどね。そこまで下級生なのが気に喰わないのかな?」
流石にハーレイとしてもいい顔はしなかった。彼はレイフォンがツェルニのために戦っていたことを知る数少ない人間の一人だ。
「あの人、どういう人なんですか?」レイフォンが訊く。
「僕も詳しいことは知らないけど、故郷の都市で獣に育てられたってことで結構有名だよ」
「そうなんですか」
道理で、獣じみた威嚇のし方をする訳だ。
「おい、準備は完了したか?」
ニーナが声をかけてきた。
「ええ、いつでも出発出来ます」
全員が自動二輪に乗り込んだ。レイフォンとシャーニッド、シャロンが運転し、レイフォンの側車にフェリが、シャーニッドの側車にニーナが乗る。
側車には、他に水と食料やその他必要と思われる荷物が搭載されていた。
ヘルメットを被ると、フェリが念威端子をフェイススコープに接続した。普段の視界よりも遥かに鮮明な世界が目の前に広がる。
「第十七小隊、出撃します!」
ニーナが凛とした声で号令をかけた。発動機の回転数が上がり、外部ゲートが開かれる。
レイフォンたちは荒野に解き放たれた。
あとがき
孤児院の描写はもっとしたかったのですが、いささか流れとして無理そうだったので諦めました。
例えば、リーリンに付いて孤児院に遊びに来たアルシェイラを男の子たちが「おばっちょ」と呼んで怒らせて鬼ごっこをするとか(ネタが判る人はいるんですかね?)、襲撃事件繋がりで天剣授受者たちもたまに孤児院を訪問して、サヴァリスがその銀髪の所為で「おじいちゃん」と呼ばれて笑みを引き攣らせるとか、リンテンスが「顔の怖いおじちゃん」と言われて少し落ち込むとか、そんな感じです。
それと、思ったのですが孤児院襲撃の黒幕にティグリスとかいたら嫌ですよね。自分の配下を利用して、挫折感に苛まれるガハルドに薬物などを投与して発狂させ、リーリンを殺害させるために孤児院に送り込んだとか……
いや、流石にもうその設定を使うために全面改訂する気力もないですが。
あと、この話ではガハルドが死んでいますので、憑依型汚染獣の話はすっ飛ばさせていただきます。
ヨルテム三人衆は、本当にそろそろ出番がなくなりそうなので、取りあえず出ていただきました。
しかし、レイフォンが少し彼女たちに対して酷いですかね?
それにしても、中々廃都市に辿り着けませんね。