まえがき
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人生の分岐点はどこなのだろう。朝のベッドの上で、微睡み、茫洋とした頭でふと思慮する。
大きな分岐路は束さんと出会ってしまったことやIS操縦者になってしまったことが挙げられるが、細かなところでは一夏と別室になってしまったことではないか。
つまり織斑先生がブラコン拗らせずに「教師と生徒が同室などありえん」と一夏との相部屋を拒否していれば、おれはまだ一夏と相部屋だった筈だ。
それならシャルロットはおれとルームメイトになることもなく、男装が発覚しておれが個室になることもないから会長と相部屋になることもなかった。
おれは一夏のオマケのままで、シャルロットとの仲で苦悩することも、会長が政略結婚を受諾することもなく、それなりの平穏を満喫できていただろうに。
……いや、それだと束さんの思惑通りなのか。束さんの誤算は人の心の変化を予測できなかったことにあると本人が言っていたし、一夏以外と関係を深めていないおれでは耐性がついていないから、束さんにコロッと堕とされていた可能性が高い。
そうだ。中学生だった頃のおれには、同じ部屋で女の子が寝ているのに落ち着いていられるなんて考えられなかった。
「……」
敷居を隔てた向こうには、会長がまだ眠っている。美人で年上でスタイルも良くて、加えて家柄も優れていてIS学園の生徒会長でISの国家代表で……と褒めれば枚挙にいとまがない。
IS学園に集まった才女の中でも特に傑出した人物だ。そんな人が無防備に横で熟睡してるのに平静に考え事に耽っていられるのも、ひとえにIS学園の環境に慣れたからだろう。
IS学園に来た当初は、全体に満ちる少女の甘い薫りに眩暈がした。けれど今は鼻が慣れて、よほど女の子に近寄らなければ薫らない。
シャルロットと相部屋になったときも、一夏との男臭い部屋に女の子が来ただけで匂いが一変した。それにさえ慣れて、会長という別の女性の匂いが染み付いたこの部屋にも耐性がついてしまっている。
まだ女の子と付き合った覚えもないのに倦怠期を迎えた気分だ。
一夏が例の三人に追い掛け回されていたときに、やたらおれに絡んできた理由が、少しだけ理解できた。
男同士の気兼ねない間柄は、たまらなく心地よいのだ。腹を割って話せる相手がいるというだけでストレスが軽減される。
異性が相手では、どうしてもそうならない。一夏とその幼馴染み二人を見ればわかるが、どうしても恋慕の情が隔たりを生む。
一夏は鈴さんが転入して無邪気に喜んでいたが、鈴さんは一夏との約束が果たされるかどうかで一喜一憂していたのだから。
その点、おれと一夏は、ゲームをしたり、レスリングの真似事をして鬱憤を発散させたり、IS学園の愚痴を零したりと、同性ならではの付き合いができていた。
一夏がおれに逃げていたのも、それが恋しかったからだろう。加えて、その頃はシャルロットとおれが相部屋で、男子で自分だけがハブられていたように感じていただろうから。
「――……」
胸につかえたものが抜けるような、長い息を吐く。要するに、異性では親友にはなれないのだ。
もちろん極稀にそういう関係になれる人もいるかもしれない。だが、男女間の好意が友情と愛情の分別が曖昧で、そこに肉欲も絡む以上、友人から親友に進展するプロセスで恋に変換されてしまう。
おれも会長を良い人だと思っていた。さりげなく困っているおれに助け舟を出してくれていたのも分かっていたし、それに感謝して甘えていた。
それが好意だなんて思いもしなかったし、会長の心に恋が芽吹いていたなんて気づく余裕もなかった。
幼少の時分に、奇妙な妄想に取り憑かれたことがある。この世界の主人公はおれで、他の人物は誰かが操っているNPCのようなものではないか、と。
もし仮に、この世界に主人公がいるとするならば、それは一国の大統領でもなければ戦争の英雄でもなく、世界で二人だけの男性IS操縦者な筈なのだ。
そしてそれはおれではなく、一夏だろう。子供の妄想から冷めたおれには、自分の領分を弁えて、自分の矮小さが嫌というほど理解できている。
世界最初のIS操縦者を姉に持ち、且つIS男性操縦者なんてスペックは妄想の主人公以外にありえない。
おれはそのオマケで、親友で、一夏とその女性陣の言動に惑わされるだけのポジションが適役だったと、今になって思う。
IS学園に来て、一番楽しかった時期は、一夏と馬鹿騒ぎしているときだった。何だかんだで、あの頃が無心にはしゃいでいられた。
中学の友人の変貌に人間不信気味だったおれには、同じ境遇に置かれた一夏は信用するに足る一生ものの友人だったんだ。
なぜか一句が浮かぶ。ああ一夏 ああワンサマー ああ一夏
一夏だ、一夏がいれば、おれも苦悩から解放される。一夏カムバック。別に会長が嫌いとか、そういうわけじゃない。
ただ、高校生の、引いては子供だから夢中になれる遊興に耽っていたいだけなのだ。
ピーターパン症候群と呼びたければ呼ぶが良い。男はいつだって子供心を忘れない生き物なのだ。
今だって無人島に住みたいし、街全部を使って警ドロをしたいし、学校で鬼ごっこやかくれんぼをしたい。あ、やっぱ最後の二つはダメ。一夏を巡ってISで死人が出る。
「榛名くん、起きてる?」
朝の空気に劣らない澄んだ声。肩が跳ねた。眠気を含まない明瞭な会長の声が敷居越しにかかる。
首だけを巡らせて、敷居の奥の会長を見た。
「起きてますよ」
渇いた声が捻り出た。寝起きだから、伏していて気道が塞がっていたから。色んな言い訳が頭に浮かんだが、それだけではない。
謂わば、気怠い平日の朝に相応しくない感情が鼓膜に響いて煩わしかったのだ。
「榛名くん、昨日は眠れた?」
「まあ、いつも通りは」
つまりは大して寝てないってことである。昨日は――会長がしばらくすると手を離して、普段通りの顔に戻った。
それからお互いにシャワーを浴びて、課題を片して、適当に就寝して。寝返りを打つ衣擦れの音にすら驚くものだから中々寝付けず、よくよく考えて見れば、おれはシャルロットや会長の使った後の浴室に入ってるんだと気づいて、目が醒めて。
おれが色々とやらかしたものだから会長も気を使って露出を控えて、肌が出ているなら出ているで開き直れたのにそこに恥じらいも加わって恋愛未経験のおれには対応できなくなって。
懊悩というか悶々としていたおれに衒いもなく会長が言った。
「そうなんだ。私は眠れなかったよ。榛名くんが横で寝てるんだもん。夜這いして来ないかな、夜這いしてみようかなって一晩中モヤモヤしてた」
「……変態ですね」
「そうでもないよ。他の子だってみんな多かれ少なかれ妄想してるって。榛名くんはしないの? 私やシャルロットちゃんと同居してて何も思わなかったの?」
「……」
もちろん、答えられる筈もなく沈黙する。どうも昨日から会長の様子が変だ。
広義的な意味で言えば元から変わり種ではあったが、会長らしくない。事あるごとにシャルロットの名前を出したり、比較したり……自意識過剰でなければ、独占欲が言動の節々から滲んでいるように見受けられる。
黙っていてもどうしようもないのだが、とりあえず気怠さに身を委ねていたおれに、再び質問が飛んだ。
「一夏くんと居たときは、どんなことしてた?」
「……? そりゃ、ゲームしたり、駄弁ったり、プロレスごっこしたり……」
怪訝に思いながらも、今は遠い懐かしい日々を掘り返していると、敷居が開いて、紺色のパジャマ姿の会長が仁王立ちしていた。
「よし、じゃあレスリングしよう」
「なぜに?」
発想が飛躍し過ぎていて、心底意味がわからなかった。茫然と横になったままのおれに会長が襲いかかってきた。
「は? なんでっ!?」
「ほーら、パロスペシャルだぞー」
「何でッ!? ねえ何で!? イッタ! おれ立ってなくちゃいけないんですけどこれ! ねえ! ねえ!?」
「よーし、それじゃ逆エビ固めだー」
「……! ―――――ッ!!!!!」
呼吸が出来なくなって、痛みと呼吸困難のダブルパンチに悶えていると、会長が手を離す。
解放され、やっと人心地ついて、朝から冷や汗を掻いた。そういえば、人の眠りは明け方が一番深いらしい。
その頃を狙って泥棒も侵入するとか。おれのところにやってきたのは暴力ヒロインだったけど。
なあに、一夏がISで殴られてたのに比べれば何てことないよ。ハハッ。
「ううっ……会長に嫐られた……」
「人聞きの悪いこと言わないの。無抵抗の榛名くんがいけないのよ。もう少しくらい暴れてくれてもいいのに」
不満そうだ。一夏ならまだしも、女性相手に肉体的接触の多い格闘技は刺激が強いから無理だ。
朝だから頭と身体がろくに動かなかったのもある。無論、疑問もそうだ。
「どうしたんですか?」
「……」
問いただすと、今度は会長が口を噤んだ。ベッドの上に女の子座りで視線を巡らす会長を見つめる。
強引に聞き出すのも得策じゃないし、その方法もないので諦めようとしたら、ポツリと。
「榛名くんが好みのタイプを模索してた」
「……何でまた」
「言う必要ある?」
理由は分かりきっているから、わざわざ口にする理由がない。されると、おれが困る。
「年上のお姉さんが好みなんだっけ? 一夏くんと同じで」
「あいつは織斑先生が好きなだけじゃないですか」
「でも、榛名くんは篠ノ之博士みたいな人が好きなんでしょ?」
どうしてか、しつこい。何故そこまで固執するのか、得心がいかなかった。
どうしておれがムキになっているのかもわからない。会長は口惜しそうに唇を噛んだ。
「篠ノ之博士が榛名くんと接触してから、ちょっと大人ぶってみた。篠ノ之博士に指摘されてから、どうしようか悩んで……どうすればいいのかなぁ。
榛名くんはどうしてほしい?」
「どうって言われても……」
会長の態度の変遷を辿ると、会長がおれとどう接するか思い悩んでいたのか、少しだけわかった。
ただ、それとこれとは別で。会長との結婚が決まった以上はおれにはどうしようもないし、会長に下衆い欲望をぶつける気もない。
視線を泳がすおれの肩を押して、会長がおれに馬乗りになった。
「襲おうと思えば、簡単に襲えちゃうのにね。裸になるのだって、そりゃちょっとは勇気いるけど、抵抗なんてないんだよ。
キスするのだって……」
覆いかぶさる会長が、すっと身を屈めたのに身体が強張る。脳裡に昨晩のシャルロットとのキスが蘇り――ふと目を細めて、会長が離れた。
「ごめん。頭冷やしてくる」
足早に退室する会長を呆けながら見送って、静けさを取り戻した部屋で、大きく息を吐いた。
……別に性行為に抵抗なんてない。トラウマなんてないし、記憶もないから襲われても既成事実ができて逃げられなくなるだけだったのに。
「……織斑先生が悪いんだ」
一夏を返せ、このやろうばかやろう。
●
会長は、本当に生徒会長だったらしい。朝っぱらから開かれた全校集会で生徒会長として登壇していたから、長年の疑惑が晴れた。
生徒会長じゃなかったら何なのかって、おれの婚約者としか言い様がないのだが、もうどうしたらいいんだろう。
更識さん家の長女さんでいいか。その会長が『各部対抗織斑一夏争奪戦』なるものを提案したので、さあ大変。
部活動に精を出す女子がひとりの男を奪い合う血みどろの争いの様相を呈したのです。
姦しい喧騒のなかでおれはこう思いました。
――それっておれも参加できるの?
正解はできません。理由は、部活動に参加していないからです。ふざけんな!
おれはクラスの催し物を決めるSHR中に机で憤慨していた。激怒していた。今にも走り出しそうなほどだ。
クラス代表の一夏が困った顔でなんか言っている。
「なあ、榛名も何か言ってやってくれよ」
「何の話だよ」
「聞いとけよ! 俺たちでホストやれとか王様ゲームやれって企画が出てるんだよ。嫌だよな?」
前を見ると、『一夏と榛名のホストクラブ』とか『ハルナ姫』とか『織斑一夏と金剛榛名がツイスターゲーム』とか書かれていた。
おれと一夏がくんずほぐれつか……
「ありだな」
「ええッ!?」
「よし! 金剛くんの許可は出たわ!」
「あとは織斑くんだけよ!」
「観念した方がいいよ、織斑くん~?」
おれが乗り気と見るや一転して攻勢になる女子に、何か嫌な気分になる。違うよ、おれは純粋に一夏との友好を深めたいだけなんだ。
決して同性愛なんかじゃないんだよ。わかってよ。
「皆さん、冷静に考えましょう! よーく再考なさってください。一夏さんと榛名さんがツイスターゲームをして何が面白いと言うのですか」
セシリアさんが起立して訴えかける。シャルロットが便乗して追随した。
「そうだよ! お客様が全員そういうものが見たいわけじゃないんだよ?」
乗り気だった女子が腕組みして唸った。
「うーん……利益重視なら確かに趣味に走るのは……」
「でも、これを逃したら生のBLがいつ見られるかわからないし……」
「二人に何でも言うこと聞かせる権利を売り出したら幾らになるか……私なら十万出しても買うのに」
ちょっと思想がぶっ飛んでた。鷹月さんが頬を引き攣らせて言う。
「せ、せっかく男子を独占しているんだから、もっとそれを活かせる提案ないの? ホストクラブとかいい線いってると思うけど」
「純粋に人手不足だと思うが。どっちにしろ客寄せも接客も二人しかいないのだろう?」
箒さんが口を挟む。需要は圧倒的に一夏にあるだろうし、おれにはドンペリ一丁! なんて言える気概も盛り上げるテクもない。
そんな気分にもなれないし。
「ならアレでいいではないか。メイド喫茶で」
行き詰まり欠けていた話し合いの最中にラウラが発言した。……何でラウラがメイド喫茶なんて知ってるんだ。
お母さんはそんないかがわしい所を教えたことありませんよ。
「シシシシャ、シャルロット……な、ななな何でラウラがメイド喫茶なんて知ってるの」
「こ、声が震えすぎて怖いよ! えとね、この間ふたりで買い物してるときにバイト頼まれたんだ。その時にラウラがメイド服を着て接客したの」
「なん……だと……」
おれはショックのあまり、頭が真っ白になった。シャルロットが「可愛かったよ~」とか楽しそうに話す声が鼓膜を叩くが、頭に入ってこない。
なんてことだ……ちくしょう……! 見たかった……! おれもラウラのメイド姿見たかった……!
SHRはおれが悔恨に苛まれて机に打ち拉がれている間に終わった。催し物は、無事『一夏と榛名のご奉仕喫茶』に決まったらしい。
公序良俗違反してるようにしか聞こえないのはご愛嬌だ。
●
放課後のバトルフィールドと化すアリーナに向かう途中で、おれは電波を受信した。
電波はもちろん例えで、変な発想というか妄想が浮かんだのだ。おれは待機状態で指輪となっている『紫雲』を凝視した。
おもむろに呟く。
「お前ひょっとして喋れたりしない?」
案の定、何も返ってこない。端から見たら完全に痛い奴だ。でも、これは根拠がないわけでもないのだ。
例の自爆したときに、何か声のようなものを聴いた気がする。後になってISが自立駆動したという話を耳にして、ISに意思があるのではないかと疑うようになった。
もしかして話せるんじゃね? だって束さんが造ったものだし、そんな機能くらいありそうじゃん。
そんな発想に至るのも仕方ないだろう? だって専用機が自立思考を持って会話可能なら、無理して人と話す必要もないし、ISだから変なことにならない。
ひとりの寂しさも紛らわせるし、良い事づくめじゃないか。
試運転から名前が取られた不幸な過去を持つコイツには、妙な親近感が湧く。弱いし、紙耐久だし、まさにおれみたいじゃん。
話せるなら酒でも飲み交わそうぜ、五年後くらいに。
「や、榛名くん」
「……ども」
偶然、ばったりと会長に出くわしてしまった。見られてないだろうか。いや、それを不安がるよりも今朝の件で頭を悩ますべきだ。
いい加減、男らしく割り切るべきではないか。大人になって真剣に向き合うべきではないか。
アリーナに向かうおれの横に会長が並ぶ。どうやって切り出そうか、しばし迷う。タイミングを見計らっていたら、会長が話しだした。
「今朝はごめんねー。どうも最近、情緒不安定でね」
「どうせなら襲ってみればいいじゃないですか。会長は変態だから欲求不満なんでしょう?」
「……こやつめ。年上の女性にセクハラするとは。教育がなってないわね」
扇子の先で頬を突付かれ、緊張が緩和して空気も弛緩する。やっと、らしくなった。
無理してスケベオヤジみたいなセリフを吐いた甲斐があった。行末の見えない将来の不安に苛まれるよりも、今の苦悩が一番つらい。
少しずつでもいいから善くしていけばいいんだ。解決できるかは別として。
とりあえずは、現状の改善はできたかな。と、安堵した瞬間だった。
「会長、覚悟ぉぉっ!」
「いィッ!?」
「――っ!?」
竹刀を振り上げて突進してきた女生徒が、会長に襲いかかろうとしたのを見て、反射的に抱き寄せて庇ってしまった。
たたらを踏む女生徒が、竹刀を正眼に構えて鬼女みたいな形相で睨んでくる。
「会長ズルい! 男子の独占はさせないわよ! 織斑先生の弟の織斑くんは、是非とも我が剣道部にィ!」
「いきなり何なんですか!」
背中越しに怒鳴ると、竹刀を構えたまま女生徒が言った。
「生徒会長はいつでも襲っていいのよ! そして倒せた者が次の生徒会長になれるの!」
「どんな無茶空茶なルールだよ! ここ民主主義の国だぞ!」
「決めたのは会長よ!」
どこの世紀末の世界の決まり事なのか、そんなとんでもない法律を作った当事者の会長を見下ろす。
抱き寄せたので当然だが、胸のなかに小さくなって、すっぽりと収まっていた。
「いったい何してるんですか、あなた」
「え、あ……うん……」
胸に顔を埋めて生返事をする会長に呆れる。一夏争奪戦といい、マジで適当に思いつきで行動してるだけなんじゃないか、この人。
「ちょっとぉ、金剛くーん! そこ退いてー! 会長倒せないー!」
「危ないからやめてください!」
隣の校舎の二階から袴姿の女生徒が文句をいってきたので怒鳴り返した。薄々感じていはいたが、この学校って馬鹿なんじゃないだろうか。
生徒会長って選挙で決まるものではなく、力で奪い取るものだったのか。時代が逆行してないか。
それとも、普通選挙は大多数の愚民が間違った選択を犯す民主主義最大の失敗とか言い出すのか、ここの生徒は。
……一応、エリートの集まりだからありそうだな。セシリアさんとか。
「あんまり騒ぐと織斑先生呼びますよ? あの怖い織斑先生呼びますよ? 織斑先生に嫌われると一夏からの好感度も下がりますよ?」
「えー? 金剛くん、それは卑怯だよ!」
「不意打ちしてくる人に卑怯もクソもあるか!」
正論を返すと、反論できなかった彼女たちは消沈して帰っていった。やっぱり織斑先生は怖いらしい。
これからは問題が起こるたびに織斑先生を呼ぼうかな。何かたいていの問題がそれだけで解決する気がする。
危険が去ったので、溜息をつくと、会長の背中に回していた腕を解いた。抱き寄せた肩は想像以上に華奢で、これでおれより強いのが不思議でならなかった。
咄嗟とはいえ、女性を抱きしめてしまった自分が恥ずかしくなり、離れようとしたが、手を離しても会長との密着は解けなかった。
「会長、もう大丈夫ですけど」
「……」
声をかけても会長の制服の胸部分を掴む手が、いっそう強く握りしめられるだけで、熱い吐息が服を這って首筋に届いた。
あれ……
「会長……?」
「弱いくせに、どうしてこんなことするのかな、きみは。あれくらい、私、何ともなかったよ?」
胸に顔を埋めたままで、会長が毒づく。つむじが真下にあって、会長が使っているシャンプーの薫りが強く香った。
それから逃れるように顔を逸らして言う。
「いや、あれは、咄嗟に身体が動いて……」
「うん。わかってる。きみは、そういうコなんだよね。一夏くんの時も、そうだったもんね。
私は、そんなところを好きになったんだから」
何か会長にスイッチが入ってしまったようで独白のような告白に固まってしまう。突き放すこともできない。
「胸板、意外と厚いんだね。私が守ってやるって息巻いてたのに、こうされると存外心地よくて、頭が真っ白になっちゃった。
……やっぱりダメだ。私、我慢できないよ、榛名くん」
顔を上げて、上目遣いの瞳に見つめられる。見つめ合うと素直になれなくなる病気なので、目を逸らそうとしたら、首に会長の腕が回された。
「ごめん、榛名くん。私、今からとてもきたないこと、するね」
制止の声をかける間もなく、背伸びした会長の顔が右の首筋に迫った。そこに会長の唇が触れたと思ったら、吸い付かれた。
「は!? ちょ、ちょっと」
「んっ……」
鼻息が肌を艶かしく這い、唇の触れる首が熱く、水音が耳の近くで鳴った。
あまり強く吸うので、痛痒に顔をしかめた。なにされてるの、おれ? なにされてるの、おれ!?
「はぁ……」
唇が離れると、生暖かい息が吹きつけられた。仕上げとばかりにチロリと吸われた場所を舌が舐める。
動揺が極まっていたおれに会長がいたずらっぽく微笑んだ。
「べー。つけちゃった」
「は? は? ……は?」
口付けされた箇所を手で押さえ、疑問符を語尾につけて、ぐるぐると覚束ない頭で必至に考えていると、会長はくるりと軽快に踵を返した。
「じゃーね。榛名くん」
「は? な……ええ!?」
取り残されたおれは、周囲を見渡して、誰もいないことを確認するとトイレに直行した。
首を傾げ、鏡に映る口付けられた箇所を見る。……くっきりと、紅い痕が残っていた。
……キスマークだ。
「マジかよ……」
愕然と、鏡を見つめたまま固まる。痕は判然と赤く染まっていて、注視しなくても浮かび上がっているのが見て取れる。
どうしよう……こんなん付けているのがバレたらどうなるかわからない。絆創膏を貼ろうと思ったが、そんなものを付けていたら余計に目立つ。
「……襟を立てればいいか」
いつぞやの偉い人もやっていた由緒ある着こなしを思い出し、元々立っている襟をさらに立ててみた。
すごい馬鹿っぽかった。ちなみにISの練習はサボタージュした。スーツを着たら、一発でバレるから。
●
おれは戦々恐々と食事を取っていた。場所は食堂。夕飯はきつねうどん。もううどんじゃないとおれでない気がしてくるくらいうどん。
視線を右往左往させながら、首を縮めてうどんを啜る。明らかにおれは挙動不審だった。
会長にキスマークを付けられたおれは、頭隠して尻隠さずというか、素振りが不審すぎて周囲に訝しげられていた。
なぜ特訓に来なかったのか問い詰めてくる一夏が、おれを見て顔をしかめるレベルの不審さというと、おれの擬態に甘さが如実にわかるだろう。
周りの女子がヒソヒソとおれを見ているのは、決して疑心暗鬼に陥っているからではない。
怪しがられているのだ。おれの身に何かあったのでは、と。
「おい、どうしたんだよ」
「何でもないって」
隣に座る一夏の疑問の声に笑顔で答えると、一夏の頬が引き攣った。そんなにヤバイのか、今のおれは。
亀か。亀に見えるのか? それともすっぽんか。もう伸ばせばいいのか。無理だ。
「怪我でもしたの?」
向かいに座るシャルロットが心配そうに言う。胸が痛い。ソーセージを頬張るラウラがぶっきら棒に言った。
「私は整体に覚えがある。見せてみろ、母。一瞬で楽にしてやる」
「まるで人を殺すときの一言みたいだよ、ラウラ」
物騒な日本語に背筋が冷える。神経とか大丈夫なのか。
「マッサージなら俺がしてやるよ」
「いいって」
反射的に断ってしまった。しまった、一夏と遊べるチャンスだったのに。
「ねえ、あたしは二組だから良くわからないけど、榛名くんどうしたの?」
「さあ……放課後からこの調子で……」
鈴さんとセシリアさんがこそこそと話しているのが耳に届く。マズイ……キスマークっていつになったら消えるんだっけ。
ネットで調べておくんだった。医療用語で吸引性皮下出血って言うんだっけ。
早く逃げ出そうと急いでうどんを啜るおれの背後で、人の気配がした。ぎょっとして、その瞬間には遅かった。
「あーーーっ! こんこんの首筋にキスマークついてる~!」
『ええええええええええええええええええええええ!?』
こっそりと忍び寄って首筋を覗きこんだのは、あろうことかのほほんさんだった。
おれは宗教裁判にかけられた憐れな女性の心境を想起させられた。おれを逃がさないよう、檻のように野次馬が取り囲む。
終わった……おれは脱力して、肩を下ろした。
「き、キキキキスマークぅ!?」
「え、うそ!?」
「うわ、本当だぁ!」
クラスメートの女子がおれの襟をずらし、痕を確認すると、犯人探しが始まった。
「相手は誰?」
「おい、榛名! しっかりしろ!」
「キスマークとはなんだ?」
「シャルロット?」
鈴さんがシャルロットを見るが、シャルロットは蒼白な顔で首を振った。
一夏にガクンガクンと肩を揺らされながら、喧騒の只中にいるおれはキスマークも知らないラウラかわいいな、と現実逃避していた。
ざわつく周囲は、剣呑とした空気になった。
「シャルロットじゃないって……」
「じゃあ……」
特定が進む。一夏たちは多分、束さんだと思っているのかもしれないが、他の人は相部屋の会長だと思っているだろう。
それは正解で、お前ら誰かひとりくらいキスマークじゃないんじゃないか、って疑問に思えよと心の中で悪態をついていると、
「これは何の騒ぎ?」
おれの顔の筋肉が固まった。声の主が容易に想像できた。人混みを掻き分けて会長がおれたちの座るテーブルにやってくる。
自然な感じで会長は近くの女生徒に尋ねた。
「どうしたの、みんな?」
「えっと……それが……金剛くんが首にキスマークを……」
「あ、それ、私」
あっさりとバラして、扇子を広げて口元を隠した。なにしてんだよ、この人。
瞬間、割れるような悲鳴と怒号が飛び交った。
「せ、生徒会長と金剛くんが!?」
「え……本当に?」
「付き合ってるの!?」
戦犯になった気分だった。何も悪いことしてないのに、何でこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。
騒がしい周囲を静める合図のように扇子を鳴らすと、会長は悠然と言った。
「はい、静かに。付き合うってのは、少し違うわね。私と榛名くんは、婚約者なの。私たち、結婚するの」
『はああああッ!?』
おれは耳を塞いだ。ここで言うのか。発表しちゃうのか。……いや、初めからこのつもりで、これをつけたのか。
「え、ええ……! は、榛名! ホントか!?」
驚愕しっぱなしの一夏が、真偽を尋ねてくる。おれは黙殺したが、それで察したようだ。
箒さんとかセシリアさんとか鈴さんとかの目が痛い。ラウラの純粋な目も見られなくて、シャルロットなんて絶対に顔も向けられなかった。
「榛名……嘘だよね……?」
縋るようなシャルロットの声が聞こえたが、何も言えなかった。
「嘘じゃないよ。ね、榛名くん」
同意を求める会長の声にも答えなかったが、息を飲む雰囲気がして、遅れて席を立つ音が響いた。
「シャ、シャルロット!?」
「待ってください!」
鈴さんとセシリアさんが後を追って、どよめきが強くなる。罪悪感とか色んなものが込み上げて、胸中を揺蕩った。
それでも会長を責める気持ちにはなれず、自責の念と後悔ばかりが募る中、谷本さんが声を荒らげた。
「それはあんまりなんじゃないですか、会長!」
「あなたは……谷本癒子ちゃんだったかな」
「私のことなんてどうでもいいじゃないですか! それより、何でこんなことしたんです。みんなに見せつけるためですか!」
「ちょ、ちょっと癒子」
「黙ってて!」
一瞥する会長に谷本さんが怒鳴った。どうも激昂しているようで制止する鷹月さんも振り払った。
会長は、視線を斜め下に向け、語気を弱めて言う。
「何で、か。改めて問われると、ちょっと答えづらいかな」
「やっぱり後ろ暗いことがあるんですね」
難詰するかの如く睥睨する谷本さんを会長が睨み返した。
「勘違いしないで欲しいわね。私は自分への怒りはあるけど、榛名くんに対する感情に後ろ暗いことなんて何もないわ」
「金剛くんの気持ちを無視して結婚の話を持ち込んでおいて、なに言ってるんですか!」
周りが視界に入っていないみたいだ。まだ婚約の話が唐突すぎて状況を把握できていない他の生徒と違って、谷本さんは事前に話を知っていたから、こんなに怒っている。
会長が眉根を寄せ、唇を噛んだ。谷本さんが続ける。
「好きなら金剛くんの気持ちも大事にして、堂々と勝負すればいいじゃないですか! なのに影でコソコソして、挙句の果てにみんなの前で見せつけるような真似して……卑怯ですよ!」
「……なら、あなたたちは榛名くんに何かしてあげたの?」
静かに、会長が反論した。谷本さんが意表を突かれたように瞬いて、気を削がれた声音で言った。
「何か、って」
「癒子ちゃんは榛名くんの事情を知ってたんでしょう。どこで知ったのか知らないけど、榛名くんの身の上話を聞いて、どうしたの?
力になってあげようとした? 大方、大変だなとか他人事みたいに思ってただけで何もしてあげられなかったでしょう? 違う?」
「……それ、は」
その言葉に、おれも言葉に詰まった。おれの苦労話を、誰もが遠い異国のニュースを見聞きするような感覚で聞いて、それで終わりだった。
生徒だけでなく織斑先生も同じで、例外は束さんを除けば会長だけだったんだ。
言い淀む谷本さんに、会長は吐き捨てるように言った。
「確かに私は衝動に任せてこういうことをしたけど、榛名くんの為に何もしてあげられなかった人に否定されたくない。政略結婚ではあるけど、私は自分の意思で榛名くんを選んで、榛名くんの為になりたかったの。それは誤解されたくない」
「……」
谷本さんは俯いて、黙ってしまった。会長はおれの元まで歩み寄ると、おれの手を取った。
「行こ、榛名くん」
何かもう、どうしたらいいかわからなくて、言われるがままに席を立ったおれをラウラが呼び止めた。
「母、待ってくれ。どういうことだ。なぜ教えてくれなかった」
「そうだよ。何で黙ってたんだよ、榛名」
一夏も追随しておれを問い詰める。おれは、
「……」
何も言えずに、会長に手を引かれて食堂をあとにした。
情けなさが募るばかりで、不甲斐ない自分への苛立ちで身が焦がれそうだった。
どう足掻いても人を傷つけなければならないときにどうすればいいかなんて、おれにはわからなかった。
あとがき
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|ハヽ/::::ヽ.ヘ===ァ ::::::::::::::::::::::::
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|::::l:::::/|ハ::::::::∧::::i :::::::i :::::::::::::::: 榛名頑張れ!
|::::|:::/`ト-:::::/ _,X:j:::/:::::l :::::::::::: モッピーはなんにもしないけど
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| / (⌒) (⌒) グッ ::::::::::::::
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