「織斑先生が性転換した一夏にしか見えなくなった……」
おれは頭を抱えた。悩みの原因は織斑姉弟である。
事のきっかけは、いつもどおり暇を持て余したおれが一夏の部屋に遊びに行ったときのこと。
扉を開けると、一夏と同室の織斑先生がパジャマ姿でくつろいでいた。年上で妙齢の女性、しかも普段は堅物で担任の先生である織斑先生の無防備な寝間着姿が目に焼き付いてしまった。
それは思春期の男子にとっては垂涎のハプニングで、本来ならば雄性を悶々とさせる艶やかなものだったが、おれを悩ませる理由はそこになかった。
問題は、脳裡に刻まれたその容姿が、どうしても一夏と重なってしまうことにある。
織斑先生の表情を柔和にして、男性的に少し容姿を弄れば、一夏になってしまうのだ。
姉弟なんだから当たり前だろ、という意見ももちろんあるだろうが、おれには死活問題なのだ。
よく考えてみよう。逆を言えば、一夏が女装すれば織斑先生になるんだぞ? 性別が関係なくなるじゃないか。憧れていた女性の顔が親友と重なるなんて、どういう悪夢なんだ。
実はあの姉弟はコインの裏表のような存在なのではないか。もうおれの中では一夏と織斑先生の区別がつかなくなっていた。
ちょっと一夏を女装させて織斑先生と並ばせてみれば姉妹に見えるんじゃないの、とか考えている。おれはどうにかしていた。
「いや、でも一夏はそこそこ鍛えているから骨格的に厳しいか……」
「母は何を悩んでいるのだ?」
「ちょっと世界平和について考えてた」
「何と! 母は立派だな……」
「絶対ウソだってば、ラウラ……」
純粋なラウラに咄嗟に返した嘘を、冷めた眼でおれを見咎めるシャルロットが指摘する。
おれを責めないでくれ。ラウラに織斑姉弟の性差で悩んでいたなんて知られたら軽蔑されるじゃないか。
シャルロットは薄水色のビキニ、ラウラは黒のパーカーを羽織っていて、外観年齢にそぐわない大人っぽいボトムが露出している。
複雑な気分だ。ラウラを見ていると、娘が色気づいた親の心境に陥ってブルーになる。おれは片手で目を覆い、俯いた。
「どうした、具合が悪いのか?」
「こんな気持ちを味わうくらいなら、草や花に生まれたかった」
「は?」
「またラウラのことで傷心してるんでしょ」
顔を上げると、呆けているラウラとむくれているシャルロットの顔があって、おれはかぶりを振った。
視線を巡らすと、同性の妬みを多分に含めた眼力の圧力がおれに降り注ぎ、二人には男女問わない下心と嫉妬と憧憬の目が集中していることを悟る。
なんでおれだけ憎悪だけなんだよ。一夏、早く来てくれ……親友の姿を探し、広大な敷地内を埋め尽くす肌色の雑踏を見回したが、一向に爽やかな笑顔は見えない。
おれは、このダブルデートで着替えている二人を待っている間にトイレに立ち、いなくなった一夏の帰りを待った。
そもそも、なんでレジャー施設のプールに足を運んでいるのかと言うと、ラウラとシャルロットの二人が買い物をしている最中によった福引で、ここの無料招待券を当てたからだ。
四名様まで無料とのことだったので、二人がおれと一夏を誘ってダブルデートをしようなどと言い出した。
束さんの件もあって、外出するのを極力控えていたのだが、ラウラに頼まれては断れない。
一夏が快諾したのもあって、おれも割り切って楽しむことにした。三回しかない高校生の夏だし、楽しまないのはもったいない。
「ハア……ハア……なあ、榛名。そろそろ限界だろ? いいんだぜ、負けを認めても」
「ハァ……その言葉……ハァ……そのままそっくり返すぜ、一夏……」
熱気がおれと一夏を燃え上がらせ、膨大な汗が全身を濡らした。にじみ出る汗は滝のようで、目に入ってきたそれを手の甲で拭った。
横に座る一夏が挑発的な笑みでおれを嘲笑う。馬鹿を言え。おれは辛抱強さではお前には負けない。
顔も運動もお前には負けてるけど、精神面でならお前にだって勝てるんだ。
おれは不敵に笑い返した。一夏も釣られて口角を吊り上げる。
「ふ、ふふ……」
「フフフフフ……」
「ねえ、せっかくプールに来たんだから泳ごうよ」
「鍛錬にしては微温い環境だな。ただ汗を掻くだけだ」
だって、その為の施設だもん。いつまでもサウナに入ったまま出てこないおれと一夏を見かねた二人が、強引に引っ張りだす。
外は冬だった。汗が急速に引いていって、外気温の差に身震いする。汗だくの一夏と顔を見合わせた。闘志が萎えていくのを感じた。
暑いと頭も沸いてどうにかしてしまうらしい。見つめ合ったまま、虚しい笑いがこぼれた。男って、ほんと馬鹿。
「榛名~? 今日のデート相手が僕ってこと忘れてない?」
「え? あぁ……」
「本当に忘れてたの? もう……」
シャルロットががっくりと肩を落とす。一夏と全力で馬鹿やってたから、これがダブルデートだということを完全に失念していた。
一夏がトイレから帰還すると同時に、おれたちはウォータースライダーに向かった。高所からとぐろを巻く長い水路は有名らしく、長蛇の列だったのを駄弁りながら待ち、四人の中でおれが最初に滑った。
が、如何せん、おれは現代っ子で長い滑り台で遊んだ経験がなく勝手が掴めない。そうしてモタモタしているおれの背中に一夏が突っ込んできて、二人仲良く着水した。
それがおれたちに火をつけた。
高さ10メートルの飛び込み台から如何にかっこよく飛び降りられるか競ったり、流れるプールに意味もなく逆らってみたり(マナー違反)、競泳用のプールでタイムを競ったりと、IS学園の軍隊じみた訓練で培われた運動能力を発揮しあった。
女の子とデートに来ているときにすることではない、と深く反省する。でも、仕方なかったんだ。
男友達と馬鹿をやる楽しさが。若さは愚かで浅慮で過ちを犯した際の理由に挙げられて嫌なイメージがあるが、忘れてはいけないものだと思う。
将来、こうして遊ぶことにも大人になると純粋に楽しめなくなるから。顧みない青臭さが残るうちだからこそできることがある。
もちろん、それには女の子と触れ合う機会も含まれて入るけど、女の子と接触する機会がおれたちには多すぎたから。
「私は腹が減ったぞ」
「じゃあ、昼にしようか」
ラウラのお腹が可愛くなったのに一夏が吹き出して、施設内のレストランで昼食を摂ることになった。
簡素な白いテーブルを四人で囲って、学校の食堂と比較してもお粗末なうどんを啜る。学食のうどんって美味しかったんだな。
一夏も焼きそばをチョイスしていたのだが、微妙そうな顔をしていた。外で皆と食べる隠し味をもってしても美味に感じられなかったらしい。
シャルロットたちはパスタだったが、こっちは普通に食べていた。そっちにしておけば良かったな。
しかし――金髪、銀髪の日本ではお目にかかれない美少女である二人と周囲の女性を比較すると、容姿の美醜を嘆ぜざるをえない。
もちろん美人もいるが、それはごく少数で、大多数が二人と比べるまでもなく、容姿で劣っている。
IS学園では二人は目立ってはいたけど、ここまで浮くことはなかった。芸能界と比較しても、IS学園の美少女率は異常だった。
こういうところでも、IS操縦者と一般人の住む世界が違うことを実感させられる。
中学のときに学年で一番可愛かった子でも、IS学園では埋没して霞んでしまう。容姿も、学力も、運動能力も、どれもが尋常ならざる女子の集まり。
その中でも二人は国家の代表候補に選ばれるほどのエリートだ。おれが肩を並べていることが如何に異常な事態か。
「榛名、箸が進んでないけど。美味しくなかった?」
「ん……」
シャルロットに言われ、汁に箸をつけたまま、手が止まっていたのに気づいた。憂鬱だ。
IS学園という閉塞的な空間にいると麻痺している感覚が、大多数に混じることで正常に戻ってしまう。
気づかなくていい劣等感だってあるのに。
「ごめん、ちょっとトイレ」
居た堪れなくなり、席を立った。おれだって織斑先生に訓練を仕込まれてきたんだから、自衛くらいできる。
ついてこようとした一夏とラウラを制して一人になる。というか、一人になりたかった。
トイレで手を洗い、鏡に映る自分の顔を見つめて、ため息をつく。薄っすらと色づいた隈がとれない。いつ頃からできたのか、いつしか違和感もなくなっていた。
この所為で暗い印象が抜けなくて、みんなに心配されるのかな。
ブルーな気持ちを引きずって三人の所に戻ろうとすると、レストランの扉の影に見慣れたウェーブがかった金髪と茶色いツインテールの後ろ姿を見つけた。
おれの背中を嫌な汗が伝う。なんでいるんだよ。
「一夏のヤツ……あたしたちの時は誘っておいて来なかったくせに、何で榛名くんに誘われるとホイホイついていくのよ……」
「許せませんわ……おかげで鈴さんとISで戦闘になって怒られたんですから」
「それは二人が悪いよ……」
「うわあ!?」
「は、ははは榛名さん!?」
呪詛の言葉を呟く二人の自業自得な出来事に感想を漏らすと、ひっくり返る勢いでセシリアさんと鈴さんが振り返った。
動転する二人に呆れて肩を落とす。一夏のストーカーと化してきているな、この二人。
「なにしてるのさ、こんむぐっ!?」
「静かに!」
「大声出したり暴れたら脱がすわよ……?」
扉の影に引きずり込まれ、口を塞がれてついでに脅された。完全に犯罪者の手口だった。
なまじ美少女なだけにレストランを覗きこむ二人は注目を浴びていたのだが、おれを取り抑えたことでざわつき始めている。
その騒がしい野次馬たちだが、鈴さんが犬歯むき出しでがるると睨むと、怖い人に関わりたくなかったのか一斉に散りだした。
なんて薄情な人たちだ。
「騒がない、暴れない、あたしたちの存在をバラさない。オーケー?」
脅迫するように了解をとる鈴さんにコクコクと頷くと、やっと解放された。相変わらず扉と壁の隙間で周りには死角になっているスペースに押し込まれていたが。
「はぁ……なにしてるんだよ。ストーカーなの?」
「うっさいわね!」
「一夏さんと自由に遊べる榛名さんにはわかりませんわ!」
今にも血涙を流しそうな悲痛な表情だった。おれに非はないのに謝りたくなった。
それにしても、またこの二人か。
「鈴さんとセシリアさんっていつも一緒にいるよね。仲良いんだ」
「え? 別に仲良くなんてないわよ」
「そうですわね。仲良しこよしではありませんわ」
口をそろえて否定する。じゃあ何でいつもセットなんだよ。
「全然仲良くなんてないわよね、あたしたち」
「ええ。全然好きでもありませんし」
「セシリアは嫌いじゃないけど好きでもないわ」
「わたくしも、鈴さんは嫌いではありませんが好きでもないです」
顔を見合わせてお互いの関係を確認しあう二人のドライな間柄に悲しくなる。
共通の敵を持った時だけ仲間になる。なんて嫌な関係なんだろう。
おれは紺青のビキニにオレンジのショーパンみたいなボトムのビキニという、臨海学校と同じ格好で中腰になりレストランの様子を窺う二人の突き出た尻を眺めた。
正直、壮観だったが、三人を待たせているのでいつまでも捕まっているわけにもいかない。
こっそりと出ようとしたが、そこを鈴さんに押さえつけられた。
「あの、おれ戻らないと……」
「いいから、ちょっと黙ってなさい」
頭を上から抑えられて、二人の横に並んでおれも渋々と三人の様子を覗き見る。昼食を食べ終えた三人は、おれの帰りを待っているようだった。
「遅いな。母の身に何かあったのでは?」
「大丈夫だって。あれで榛名もガチれば強いんだぞ?」
「どうかなー。榛名ってゲームのヒロイン並みに攫われてるから。案外、クラスの女の子全員と一対一しても負けそうだよね」
シャルロットの辛辣な物言いに情けなくなった。反論しようとしたが、現在の状況といい、シャルロットや一夏に物陰に引きずり込まれたり、束さんに拉致された時と言い、おれは桃姫かってくらい簡単に連れ去られていることを思い出し、ぐうの音も出ない。
でもおれの身を案じてそわそわしているラウラが可愛いからどうでもいいや。
「なあ、シャルロットってさ」
「なに、一夏」
注文したアイスコーヒーのストローに口をつけるシャルロットに手持ち無沙汰の一夏が言った。
「榛名が好きなんだよな?」
「ンブフッ!?」
「汚いぞ、シャルロット」
吹き出したシャルロットが噎せる。おれも吹き出しそうになった。
「ゴホゴホ! ご、ごめん。……ええ!? な、何で一夏がわかるの!?」
「そりゃ分かるだろ。あれだけあからさまならさ」
真っ赤になって動揺するシャルロットと対照的に落ち着いた一夏の指摘が突き刺さる。
同時に横から呪いが聞こえた。
「あからさまな自分への好意は気づかないくせに」
「他人に向く好意にだけは敏いんですのね」
聞こえない聞こえない。でも、鈍感な奴が他人への気持ちにだけは敏感ってよくあることじゃん?
モテるやつにありがちじゃん? ハーレム状態の奴なんて特にさ。だから落ち着いて。目に光がないよ?
「で、どうなんだ? 榛名とどのくらい進んだんだ?」
「な、何でそんなに乗り気なのさ!」
恋愛話にノリノリで身を乗り出す一夏にシャルロットが引いている。なんだ、この一夏。
一夏が恋愛に興味があるなんておかしいぞ。
「そりゃ興味あるだろ。親友の恋愛なんだから」
「自分の恋愛に興味はないのね」
「あるのは榛名さんの恋愛事情だけですのね」
怖い。横の二人が怖い。おかげで一夏の口から語られた『親友』という言葉に感動する余裕がなくなってしまった。
まあ、一夏も色恋には歳相応の反応はするのがわかっただけでもいいじゃない。ね?
だから歯軋りしたり、爪を噛んだりしないでよ。怖いよ鈴さんセシリアさん。
「も、もうっ! 何でみんな僕にだけ質問攻めするのー!」
テンパッているシャルロットが吠えた。そういえば、シャルロットが質問されているのはよく見かける。
一ヶ月も同居していたから勘繰る声があるのも仕方ないかもしれないが。
「何でって、榛名が好きなんだろ?」
「それは……好きだけど」
俯き、ボソボソと漏らす。おれも顔が熱くなった。鈴さんに肘で小突かれる。
「だってさ」
「痛いんですけど」
照れ隠しだとバレたのか、セシリアさんには温かい眼差しで微笑まれた。なんなんだよ。
一夏は真剣な顔で言った。
「俺も榛名が好きだからさ――」
「はあ!?」
シャルロットが立ち上がって、半ば叫び声をあげた。おれは冷や汗が流れた。横の二人の顔から表情が消えたからだ。
「もちろん、友達としてだぞ?」
「あ……そ、そうだよね。あはは……」
「うむ、私も母が好きだからな。嫁の気持ちがよくわかるぞ」
「なーんだ。IS出そうとして損しちゃった」
「男同士の友情っていいですわね」
一夏とラウラの純然たる好意が嬉しい。横の二人の満面の笑顔が恐ろしい。
おれは本気の殺意ってヤツを、一瞬だけ体験してしまった。嫉妬って怖い。ホント怖い。
腰を下ろしたシャルロットに真摯な声音で一夏が言う。
「だから、榛名には幸せになって欲しいんだよ。家族と離れ離れになったアイツの気持ちは、両親がいない俺には分からないけど、失うってことは、知らないよりも辛いと思うんだ。
アイツに命まで助けてもらっておいて何だけど、あまり嬉しくなかったんだ。榛名が自分のことを軽く考えているのが伝わってきてさ」
「……それは、少しわかるかも」
シャルロットが目を伏せて同意した。鈴さんもセシリアさんも、耳を傾けている。
軽く考えたことはないんだけどな。それよりも大切なものが増えただけで。
「榛名がラウラに優しいのも、家族ができたみたいで嬉しいからかもね。ラウラといると、すごく優しい顔してるもん、榛名」
「ああ。だからこそ、ちゃんと好きな人と結ばれて欲しいんだ。俺としては千冬姉と結婚してもらいたいけど、本人たちが望んでいないなら薦めない」
「困るな……教官が母の嫁になると関係が複雑で私には把握しきれなくなる」
「ていうか、織斑先生が榛名を好きってのも無理がないかな……」
「それでだ。俺はシャルロットが悪い奴じゃないってわかってるから、榛名が好きって言うなら二人を応援したいと思ってる」
一夏の宣言にシャルロットが目を丸くした。ラウラに目を遣って、確認するように頷きあうと、再び一夏を見る。
「き、聞き間違いじゃないよね? 一夏が僕を応援してくれるって」
「そう聞こえたな」
「? なんだよ。不思議そうな顔して」
一夏が怪訝に眉根を寄せた。
無理もない。シャルロットにとって一夏は、初めからおれの尻を狙うゲイだったわけだし、恋敵のように思っていたはずだ。
それから友好条約を結ぼうなんてふっかけられても信じられないだろう。それにしても、酷い勘違いだな。
シャルロットがちょっと唇を尖らせて言う。
「一夏が他人の恋愛に口を挟むのがおかしかったから驚いただけだよ」
「束さんの件があったからな。束さんは箒のお姉さんで知り合いだけど、親友の人生を滅茶苦茶にしようとしてると知ったら、放っておけない。好きって言うのは、相手を思い通りにするんじゃなくて、相手を想いやるものだろ?
だからおれは束さんが許せない。恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ねって言うけど、榛名のためなら喜んで蹴られるよ。それが榛名の幸せのためならな」
小っ恥ずかしいセリフを淀みなく言い切る一夏に、全員が閉口した。……なんつー恥ずかしい気障なやつ。
おれなら絶対に思っても言えない。おれが女なら惚れてたぞ。
シャルロットは微笑して、
「なんで一夏がモテるのかわかった気がするよ。一夏って人のためなら何でもできるんだね。改めて思った。一夏が榛名の親友でよかった」
「いや、待ってくれ。さすがに今のセリフは恥ずかしくなってきた。喜んで蹴られるって、俺はマゾじゃない」
「問題はそこじゃないと思うけど……」
何とも締まらない会話だった。鈴さんとセシリアさんから肘で小突かれる。
「やめてください」
「なーにがやめてください、よ。どんだけ小突いてもお釣りが来るわ。これでわかったでしょ?
あんたがどれだけ、色んな人に想われてるか」
「……」
何も言い返せなくて、されるがままに嫉妬のこもった肘を受け入れる。軽い鈴さんの肘なのに、思いの外脇腹に刺さった。
「わたくしたちも同じですわ。始めは誤解していましたけど、今の榛名さんは大切な学友です。
困ったことがあるなら、いつでも頼ってください。何度もあなたに助けられているんですから、わたくしにも恩返しをさせてくださいな」
背中をバシッとセシリアさんに叩かれた。裸だからもみじがつく。痛い。
「まあ、あんたが誰を選ぼうと勝手だけど、あたしたちはシャルロットの味方よ。あんたは知らないでしょうけど、あたしたちの心情としては篠ノ之博士になんて榛名くんをあげたくない。
策略や能力で人をいいように操ろうってそうはいかないわ。そういうの、女の子が一番キライなのよ」
「虐待でしたっけ。あまり、信じられないんですけど」
「知っていらしたんですの?」
「まあ……」
誰に聞いたとは言わない。盗み聞きして知った情報だし、人に話すことでもない。
鈴さんが厳しい声と表情で話す。
「だったら、尚の事、あたしたちが許せないのわかるでしょ? 人の人生滅茶苦茶にしておいて、のうのうと善人面して付きあおうとしてるなんて見過ごせるわけない。
榛名くんの家族を奪っておいて、自分が新しい家族になろうなんて虫の良すぎると思わない?」
「……」
鈴さんの質す声に答えることができなかった。そうこうしているうちに、向こうの三人が浮き足立ち始める。
「ねえ、いくら何でも遅すぎない?」
「まさか、また誘拐されたのかッ?」
「母がまた誘拐されたのか!?」
また、を強調しなくてもいいじゃないか。慌てふためく三人を見て、二人がおれの背中を押した。
「頑張んなさいよ。一夏と違った意味であんたもめんどくさい男だけど、アイツみたいに鈍感でもないんだから、どうすればいいかわかってるでしょ?」
「ファイト、ですわ」
「……」
返事をせず、おれは三人の元に歩き出した。確約なんてできない。高校生で十代半ばの子供だけど、おれには不相応の立場がついて回るからだ。
「悪いな、待たせた」
「遅いぞ榛名。心配させるなよな、大か?」
「一夏、下品」
「大便か。それなら仕方ないな」
「ラウラも下品!」
安堵する三人を見て、おれは胸の支えがとれた気がした。目を眇めているシャルロットに目を遣る。
それに気づいて、シャルロットもおれを見た。自然と見つめ合う。
「なに、榛名?」
「あー、えっと、さ」
「?」
一夏のように二の句が継げない。口にしようとすると、照れが入って喉が硬直する。
しかし、背中に妙に圧力がかかる。叩かれたもみじ以外の不可視の名状しがたいものが背後から睨んでいる。
おれは覚悟を決めた。
「午後から、一緒に回らない? その……今度は、おれと二人きりで」
「……え? ええッ!?」
白皙の頬に赤みがさし、あわくって視線を一夏とラウラを行き来する。シャルロットの動揺する様を見ても、一夏は落ち着いていた。
腰に手を当て、男臭く笑う。
「いいんじゃないか。二人で回って来いよ。俺とラウラで遊んでるからさ」
「よ、嫁と二人きりか……うん、やぶさかではないぞ」
「お、おおぉ……じゃ、じゃあ、こ、好意に甘えて……」
一夏にしては察しの良い対応の原因も、検討がついている。
背後からの圧力が、一夏とラウラがデートするとのくだりから殺気に変わった理由も、気づいているが気にしない。気にしたら死ぬ。
ラウラを一夏に預け、シャルロットとふたりになる。まだ落ち着く気配のないシャルロットを休憩所のベンチに座らせ、顔も見ずに言った。
「シャルロット」
「な、な、なに! 榛名!」
「シャルロットは、まだ将来、どうなるかわからないよね?」
「え……う、うん。IS学園にいる間は安全が保証されてるけど、卒業してからは……」
自分の話をされて、浮かれていた気分が冷めたようだ。文字通り、心に水を差して、平静を取り戻したシャルロットに、また顔も見ずに言った。
「おれも同じ。どうなるかわからない。シャルロットのことを義憤に駆られて引き止めたけど、問題を先送りしただけで、もしかしたら三年後には、あの時帰った方がよかったんじゃないかって辛い現実が待ってるかもしれない。
無責任なこと言ってごめん。先に謝っておく」
「謝る必要なんかないよ! だって僕は、あのときの榛名に救われたんだもん。それ以上なんか望んでない」
「それでも、無責任だったことには変わりないから。責任も取れないのに人の人生を変えるなんて、してはいけないんだよ」
そう言って、反駁しようとしたシャルロットの怒った顔を見た。
「だから、責任を取れるようになってから、今は言えないことを言う。それまで待ってて」
「……それって」
目を見開くシャルロットに、それより先は言わなかった。待ってて、なんてエゴを押し付けた。男の身勝手なワガママだから、せめてかっこつけたかった。
シャルロットは吹き出して、クスクスと口元を隠して笑った。しばらくして、微笑む。
「うん。待ってる」
――ついでに言及しておくと、それから先のデートは、セシリアさんと鈴さん、そしてラウラが一夏を巡って三つ巴の戦いをプールで繰り広げたことによりおじゃんになった。
女の子って、本っっっ当に怖いですね。
●
夏休みももうそろそろ終わりを迎えようとしていた頃、おれは応接室で与党の幹事長に呼び出された。
夏休みに提出した『紫雲』の搭乗データの解析がようやく終わったらしい。秘書を連れ立って現れた幹事長は、黒革のソファに浅く腰掛けると、難しい顔で言った。
「あー、良いニュースと悪いニュースがあってね。最初に悪いニュースから言おう。『紫雲』のデータなんだが、結果が芳しくなくてね。引き続き研究を継続することになった」
「はあ」
予想通りだ。だって、束さんが適当に改竄して作ったデータだもん。成果が生まれるべくもない。
恐れるは、偽物だとバレることだが、どうやらそれは問題なかったらしい。そこは天才の束さんに感謝すべきか。
幹事長の言う悪いニュースはそれだけだったのか、姿勢を楽にして破顔した。
「次に良いニュースだが、喜びなさい。婚約者が決まったよ」
「は?」
事態が呑み込めず、顔が引き攣った。瞬きを繰り返す。
「君は気が早いと思うかもしれないが、こういうのは早い方がいい。一度断れたんだが、先方から申し込んできてね」
嬉々として語りだす幹事長に言葉が耳に入らない。おれが対応に窮していると、応接室の奢侈な扉がノックされた。
「おお、来たか。入りなさい」
幹事長に促されて入室して来た人物は、見知った人物だった。
「会長……」
「知己だったのか。まあ、お互いに有名人だからね。なら自己紹介はいらないかな」
会長は、別人のような堅い表情で、聞いたこともない真面目な声で、
「榛名くんの婚約者になった更識楯無です。よろしくお願いします」
丁重に、頭を下げた。
あとがき
会長、壊れる。