陽炎の世界の中、崩壊した瓦礫の上で二人、少年と少女が背中合わせに座り込んでいる。
銀炎の弾けた後に残ったのは二人だけ。“狩人”フリアグネの姿は無い。最悪の事態は回避され、御崎市の危機は免れた。
けれど………
「………終わった、ね」
「…………はい」
銀の残火が燻る傍らで、二人は燃え尽きつつあった。
悠二の左腕は炭化して崩れ落ち、ヘカテーの右腕もまた、中途から失われて水色の炎を零している。所々で輪郭を薄れさせる身体は、否応なしに消滅の予兆を感じさせた。
最早ヘカテーにも、人の存在を喰らいに行く力すら残っていない。このまま二人で、消える。その事が、悠二は自分でも不思議なほど怖くなかった。
「紅世の徒は……人を喰らう。……それは、どうしようも無い事なのかな……」
気になる事は沢山あった。訊きたい事も沢山あった。なのに悠二は今……こんな事を口にしていた。
「徒が、人を…喰らうのは……」
それに、穏やかな声が返る。
「……我々と、同じだから…です。隣を歩む……者で、あっても……変わらないモノを持っている。……だからこそ、その存在を……己が物とする事が……出来る……」
「…………………」
力無く、途切れ途切れに囁かれる声に、驚きは少なかった。何となくでしかないが、そんな気がしていた。
………この少女を見ていて、そう思った。
「………どうにも、ならないのかな」
徒は、人と変わらないモノを持っている。そう知ったからこそ強まった想いが、無念となって口を突いて出る。
「……それが、世界の理です……」
ヘカテーはこれまでと変わらず、真実だけを口にする。その、後に………
「……受け入れ、られません、か……」
彼女らしくない、意味の無さそうな問い掛けを続けた。悠二は既に答えられない。それだけの力が残っていない。だから、俯くように首を下ろす。
背中の向こうで、少女が頬笑んだ気がした。
「だったら……祈り、ましょう」
何に? と訊くまでもなく、ヘカテーはそれを教えてくれる。
「…神に、です……」
「(……ははっ…)」
消滅を目の前にしているというのに、初めて聞くヘカテーの冗談が可笑しくて堪らない。
彼女から散り往く火の粉が、封絶の中を癒していくのが解った。
「(悪くは無かった、よな………)」
もう目も見えない。
悠二は、ヘカテーは、消え往く自らを感じながら、それでも確かな何かを探して……どちらからともなく後ろ手に互いの指先を絡め合い、手を繋いだ。
(ゴォォ………ン)
いつしか、封絶は解けていた。
時計塔が鳴り響く。―――時の終わりと、新たな時を刻む為に。
「…………………」
深淵の底というよりは、天上の懐に近い微睡みの中、「地獄じゃなくて天国だったか」などと、見当違いな安堵を噛み締めて……
「………ッ…え?」
坂井悠二は、目覚めた。
「い、生きて……!?」
喜びより驚きが先に立つ。存在を確かめるように何度も自分の身体に掌を当てて……ついでに、夢ではない事も確かめてしまった。
彼の胸には未だ確かに、人間の残滓の証たる灯火が燃えている。
「………おはようございます、悠二」
その上さらに、聞き覚えのある抑揚の無い声が、はっきりと悠二の耳に届く。
ゆっくりと顔を上げたそこには、椅子に座ってこちらを見ている、水色の少女の姿があった。
「…………ははっ」
驚くのにも、もう慣れた。なぜ自分が生きていて、なぜ彼女が生きていて、どうして悠二の部屋にいるのか。今はまだ、解らない事だらけだ。
しかし、“それでも、ただやる”べき事として………
「おはよう、ヘカテー」
少女……“頂の座”ヘカテーに、目覚めの挨拶を返した。
ヘカテーと目覚めの挨拶を交わした一時間後、どうも肉体的ではなく精神的疲労で丸一日寝過ごしてしまったらしい悠二は、何だか妙に上機嫌な母と、相変わらず無表情のヘカテーに見送られて通学路についた。
『“零時迷子”?』
無論、そんな日常を過ごしていられるのには理由がある。
『……はい。時の事象全てに干渉する、紅世秘宝中の秘宝です』
それはフリアグネが求め、ヘカテーの守った悠二の中の宝具。ヘカテーが看破したこの宝具の力こそが、『毎夜零時に一日の消耗を回復させる』という、一種の永久機関だったのだ。
『だったら……』
『……はい、あなたは消えない』
そのおかげで悠二は消えず、ヘカテーも人を喰らう必要が無くなった。何せ悠二からなら いくら存在の力を奪っても、午前零時には全開するのだから。
『……あなたの扱いは、暫く見送る事にします』
フリアグネを倒せば大人しくヘカテーに付いて行く、という約束も、当のヘカテーによって見送られた。
悠二の中身が判明しようと、“戒禁”のせいで手を出せない事に変わりないからか、或いは別の理由があるのか、悠二には判断が着かない。
『なので、暫くこの家に住みます』
『はあっ!?』
それら数々の、奇跡としか呼べない偶然の積み重ねによって、坂井悠二は今日も非日常の中の日常を生きている。
「(何か、たった二日で世界が変わったみたいだ)」
いや三日か、などと小さな事を気にしながら歩く悠二の視線の先……T字路の向こうから、食パンを咥えた少女が走っていた。
焦げ茶色の長髪をツーサイドアップにした童顔の女子高生……平井ゆかりだ。彼女は悠二の姿を目聡く見つけると、大袈裟に砂埃を立てて制止する。
「おはよっ、爽やかな朝だね少年よ!」
「何が少年だ。まだ走るような時間じゃないだろ」
「いや〜食パン咥えて登校するなら走らなきゃ! みたいな鉄則があるから」
相変わらずのノリで挨拶して、そのまま二人連れ立って住宅地を進む。
家が近所で学校も同じ、しかも二人ともギリギリ間に合う時間に登校するので、こういう朝も別段珍しくはない。
「さぁ吐け坂井悠二! 一昨日のカワイコちゃんは何者だ!?」
もっとも、話題は珍しくならざるを得ない。探偵気取りの平井の人差し指が悠二をビシッと差した。
「それは……ほら、うちの父さんって普段どこにいるか判らないだろ? 何か余所で父さんと知り合った身寄りの無い子で……」
「ウソをつけぃ!」
咄嗟に思いついたわりには上出来だ、と内心で自分を褒めていた悠二の背中に、ボスンッと痛くもない正拳突きが当たった。
然る後に、隣に並んだ平井が下からわざとらしい仕草で悠二の顔を覗き込む。
「フムフム……んっ、いつもの坂井君だ」
そして、満足そうに触角を羽ばたかせて笑顔を咲かせた。
「何だよ、それ」
「ほら、一昨日。坂井君、何か元気なかったじゃん」
「…………あー」
言われてやっと、悠二は平井の杞憂の意味を知る。ヘカテーと一緒に散策している最中に平井と出くわし……悠二は彼女の両親の消滅を知って、それを露骨に態度に出してしまったのだ。
あの後すぐにフリアグネとの戦いがあったせいで、それらの過ちにまで頭が回っていなかった。
「まあ、ちょっとね。二日も気にするような事じゃないよ」
だから今はせめて、無用な心配は掛けまいと努める。下手に誤魔化すと逆効果に思えたので、それっぽい言い回しで追及を避ける。
「それはそれとして、あのカワイコちゃんは何者なのかね?」
………そっちの言い訳は、思いつかなかった。
……………………
やがて御崎高校に到着し、悠二と平井は自分たちのクラスに入る。ここでも試練は待っていた。
「さ、ささ、坂井君! 土曜日 橋の所で一緒にいた小さい子、誰なんですか!?」
教室に入るや否や、平井の親友に当たる吉田一美が、彼女らしくない必死な様子で悠二に詰め寄って来たのだ。
御崎大橋の戦闘で危うく封絶の修復に使われてしまいそうだった彼女だが……よくよく考えれば、あそこに居た以上はヘカテーと一緒に歩く悠二を目撃していても不思議は無かった。
「(こ、これは不味いかも………)」
怯む悠二に、災難は容赦なく降り掛かる。ファミレスで悠二らを見掛けていた佐藤啓作と田中栄太が、流れに乗って吉田に便乗して来たのだ。
「まさかのロリ属性持ちだったとは、坂井……おまえ意外とマニアックな趣味だったんだな」
「おとなしい顔してどんな手管を使った! 教えデッ!?」
執拗に詰め寄って来る田中を殴ったところで、ホームルームの時間を知らせる予鈴が鳴った。
毎朝ギリギリに登校する生活習慣に助けられた悠二は、安堵の溜息を吐きながら自分の席へと向かう。
因みに、席が隣の平井からは逃げられないのだが、彼女については諦めている。どうせ近い内に坂井家までやって来るに決まっているからだ。
その証拠に、彼女からの追及は登校途中で止んでいた。これは「自力で解き明かしてやる」という意思表示である。
「(……どうしよう、ホントのこと話すわけにもいかないし)」
無論、これから居候を始めるらしいヘカテーの存在を隠しきれる自信も無ければ、誤魔化しきれる自信も無い。
平和な悩みを抱える事の許される幸せを、ほとほと困り果てながら悩み耽る悠二は、もちろん退屈なホームルームの内容などロクに聞いていない。
「というわけで、転校生を紹介します。入りなさい」
「………はい」
だから、教師の呼び掛けに応える澄んだ声に、不意打ちに近い嫌な予感を覚えた。
やめろ、という警鐘に逆らって、俯いていた顔を上げると………
「……ギリシャから来ました、近衛史菜です。よろしくお願いします」
御崎高校の制服に袖を通した水色の少女が、小さな頭を下げていた。
「おおおっ!?」
「あの子、確か……」
「う、嘘っ……高校生!?」
「キターーー!!」
若干四名の叫びに続いて、教室中が喧騒の渦に呑み込まれる。教師の制止も及ばない騒ぎの中を素知らぬ顔で通り過ぎたヘカテーは、ちゃっかりと悠二の隣……平井の反対側の席に着いた。
………元からその席に居た菅野を押し退けて、だ。
『おおおおおーーー!?』
佐藤と田中辺りにある事ない事 吹き込まれていたらしいクラスメートの喝采が揃う。
「は、はは………」
何もかも諦めた気分になって、悠二は机の上に突っ伏した。
―――非日常は続いて行く。日常に紛れて、しかし変わらず、この世の隣を進んで行く。