異変の中心には、すぐ気付いた。大通りの先に聳える御崎駅は、材質も不確かなパイプやコードで繭の如く覆われ、一目で魔窟と解る様相を呈していたからである。
「“あんたは何方!?”」
「“兵隊だぁ!”」
「“何をお望み!?”」
「“酒一杯!”」
「“お金は何処に”」
「“置いて来たぁー!!”」
マージョリーの『屠殺の即興詩』が高らかに響き渡り、群青の自在式が無数に伸びる。
「いっけぇ!!」
悠二の眼前で『グランマティカ』が蛇鱗に並び、そこから同じく自在式を放つ。
群青と銀の文字列が複雑な曲線軌道を描いて駅へと奔り………そして、一つ残らず捻じ曲げられた。
「これだけやって一つも届かないなんて」
「……こりゃ、タネ暴かないとどうしようもないわね」
封絶が使えない事情もあり、最初は炎弾も使わず突撃を試みた……のだが、その飛翔の軌道を唐突に曲げられ、電信柱に激突してしまった。その後もこの不可解な撹乱を突破すべく色々と試してみたのだが、結果は御覧の通りである。
「タネ?」
「私たちの自在法にこんだけ対応してる癖に、力の動きを殆ど感じないでしょ。単に『相手が上手』ってだけじゃ、こんな風にはならないわよ」
「つーか、イカレ教授のやり口は殆どが『我学の結晶』ってぇ発明品だ。一口に天才っつっても、我が妙なる歌姫やオメェみてーな自在師とは限らねぇのさ」
すぐ手の届く所に騒ぎの元凶が居るのに、触れる事も出来ない。もどかしい悔しさが奥歯の軋みとなって表れるが、それで状況が進展するわけではない。
今は一先ず、『駅の変貌』と『撹乱の自在法』という情報を持ち帰り、現状打破の手掛かりにする。連絡を取って済むなら手間が省けて良いのだが、おそらく田中に自在式の細かい判別は出来ないだろう。ヘカテーやカムシンらの情報と照らし合わせる為にも、ここは一度戻るべきだ。
そう結論づける悠二のポケットで、携帯が鳴る。慌てて開いて見ると、『安心したら腰ぬけた、ヘルプミー(TT)』というメールが届いていた。差出人は、平井ゆかり。
「……何をしてんだ、何を!」
悠二は大きく息を吐き出して、バリバリと頭を掻く。
あの平井が、今さら歪んだ花火や人々の異変を目にしたくらいで腰を抜かすほど驚くとは思えない。きっとまた何か、要らぬ危険に首を突っ込んだだろう事は容易に想像できた。
無茶な行動に対する憤慨も確かにあるが……今は何より、安心が先に立つ。経緯はどうあれ、無事な事が解ったのだから。
「どうしたのよ、あんた」
「……戻る前に、一人拾っていく」
とりあえず、ここから先は田中と一緒に大人しくしていて貰おうと、悠二は密かに誓うのだった。
銀の火玉が滞空する一室、オモチャの山を押し退けるように広がる、御崎市を模した箱庭『玻璃壇』。
かつて“狩人”フリアグネが根城としていた依田デパートの上層部に、幾つかの人影が立っていた。
御崎駅から戻って来た悠二とマージョリー、悠二に連絡して運ばれて来た平井、路地裏で腰を抜かしていた平井を悠二到着の少し前に発見していた佐藤、御崎市外への脱出を試みて戻って来たヘカテーとヴィルヘルミナ、そのヴィルヘルミナの気配を捉えて合流したシャナ、自分が仕掛けた血印への接触を試して来たカムシン、そして―――
「……………」
シャナに連れられて来た、池速人。
「(次から次に、何で……!)」
池の事情を聞き終えた悠二は、この皮肉な成り行きに片手で額を押さえてうなだれる。
調律に必要な人間のイメージ、異能者と近しく暮らしたが故に残ってしまった外れた気配、理屈は解る……解るが、自分の友人ばかりを狙って巻き込んでいるかのようなフレイムヘイズらに、悠二はいい加減うんざりしていた。
「(いや……)」
元はと言えば自分のせいかと、思い直して沈み込む。
確かにフレイムヘイズが集まって来るのは“狩人”の蚕食に端を発しているかも知れないが、そのフレイムヘイズと平井や池を巡り合わせたのは紛れもなく坂井悠二という“異物”が原因になっている。
その異物に日常を壊された池速人が今、真っ正面から悠二と相対していた。
「お前が……」
佐藤や田中は受け入れてくれた、ならば池も……という淡い期待を抱いていた悠二は、そのたった一言で凍り付く。
池の声には、耳にした瞬間に気付けてしまうほどの明確な拒絶が滲んでいたからだ。
「お前が、トーチ……?」
「……ああ」
諦めにも似た覚悟が、自分でも不思議なほど容易く胸の内に降りる。
信じられないモノを見るように目を見開いた池が、よろけた足取りで一歩ずつ近寄って来る。
「お前が……もう死んでる?」
「ああ」
否定も言い訳もしない。処刑を待つ罪人のような神妙な気持ちで、悠二はただ肯定を繰り返す。
「………………何でだよ」
池は、自分が何を口にしているか解っていなかった。胸中に怒りが渦巻いているという自覚はあっても、それは酷く曖昧で朧気なもの。だが今、その形の無い怒りこそが、半ば無意識の彼を衝き動かしていた。
「お前がそんなんじゃ……」
気付けば、爪が食い込むほど強く拳を握り締め……
「お前を好きな吉田さんはどうなるんだよ!!?」
目の前で固まる左頬を、力任せに殴り飛ばしていた。
悠二は……避けなかった。横に半回転した身体を右足で支え、視線だけを返す。
その目は、微かに見開かれていた。拳ではなく、言葉に。
「あ………」
その視線を受けて、池は漸く正気に帰った。赤く腫れた頬が、一筋血を流す唇が、事実以上に痛々しく映る。
「そろそろ話、進めていい?」
そんな重苦しくなった空気を、やり取りの意味を全く理解していないシャナが、あまりにも平然と破った。
「……って言うか、何で池を連れて来たんだよ?」
シャナの空気を読まない……いや、ある意味で空気を読んだ発言に悠二も乗っかる。
気にならないと言えば嘘になるが、池と話すのはいつでも出来る。
「そいつ、この妙な自在法の中でも異変に気付いてたのよ。って事は、未だに調律の鍵の一つかも知れないでしょ」
「……ああ、もういいや。大体わかった」
自分から訊いた悠二は、早々にその話題を切り上げた。このまま続ければ、池には聞かせたくもない話をされる確信があった。
シャナは誰と合流するまでもなく、この異変と調律の関連を察していたのだろう。だから池の挙動に目を着け、調律の協力者と知ってここに連れて来たのだ。
この異変は調律に深く関与している。ならば、今も異変の影響を受けていない……つまり調律に影響を与えているピースを消せば、この自在法を崩せるかも知れない。
シャナの場合、必要と判断すれば本当に池を手に掛けそうで恐ろしい。
「とにかく、一度状況を整理しよう」
シャナの物騒な目論見は敢えて流し、悠二はそれぞれの情報を聞いて回る。
もっとも、それは整理するほど複雑なものではなかった。御崎駅、市外、血印、その全てに於いて同様に、撹乱の妨害があって近寄れなかった、という事だ。
「……さっぱり狙いが見えて来ない」
かなり周到に準備していたらしい事は解ったが、肝心の目的が掴めない。人々の反応は異様だが、逆に言えばそれだけ。撹乱の自在法にしても、悠二らに邪魔されない為の自衛にしか使って来ない。
おそらく人々の異変は、まだ悠二らが掴めていない“何かの前兆”に過ぎないのだろう。……が、どうもこれは……
「……もしかしなくても、『零時迷子』の事 気付いてないんじゃないか?」
「……………」
悠二の中の『零時迷子』を狙っているにしては、やり方が回りくど過ぎる。フレイムヘイズを嵌める為の仕掛けにしても、こんな無闇に警戒心を煽る利点が見つからない。
至極もっともな意見に、ヘカテーはただ黙り込む。
それが沈黙に繋がるよりも早く、カムシンが口を挟んだ。
「ああ、実際 気付いていないのかも知れません。私の聞いた話では、“探耽求究”は最近、大きな歪みのある所ばかりで目撃されていましたから」
「……また『闘争の渦』か」
教授の狙いは『零時迷子』ではなかった。こうなって来ると、必然的にヘカテーに疑念の視線が集まる。
『全ての元凶は教授である』というのは、そもそもヘカテー一人の証言でしかない。それが証明されなければ、自然と容疑は“謎の自在式”を知るヘカテーの方へと向けられる。
対するヘカテーの態度は涼しいものだ。教授の狙いが何だろうと、彼の持つ『大命詩篇』さえ取り戻せれば良い。そもそも『大命詩篇』を余人に晒すつもりも無かったのだから、フレイムヘイズからの嫌疑など最初から予定の範疇……の、筈なのだが……
「………おじ様の素行なんて知りません」
自分でも予想だにせぬ居心地の悪さに押されて、そんな風に言い訳していた。
もっとも、皆の疑念もそれほど深くは無い。もしヘカテーが元凶なら、とっくの昔に悠二から『零時迷子』を取り出している筈だろうから。
「……とにかく今は、おじ様の狙いを知るのが先決です」
汚名を返上すべく箱庭のビルに飛び乗ったヘカテーが、ピッと人差し指で小さな御崎市を指す。
途端、箱庭が輝き始め、その中に複雑な紋様を映し出した。
「これって……」
「この街に張り巡らされた自在式を視覚化したものです。これで式の特性が解れば、自ずと目的も見えて来ます」
宝具『玻璃壇』。太古の昔、一人の蛇神が創造し、移り往く歴史の中で流れ、“狩人”フリアグネに渡り、今はヘカテーの手にある箱庭。親の逸品を自慢するように、巫女は得意気に胸を張った。
「……へぇ」
自在式だけでなく存在の力の流れをも映す箱庭を見て、悠二は小さく感嘆の声を漏らす。異能者であっても、存在の力は感じるものであり、見えるものではない。
物珍しい光景をひとしきり眺めて……しかし、悠二は首を力なく左右に振った。
「ダメだ。自在式を直接見てみても、細部の構造は掴めない」
それはマージョリーも同様らしく、両掌を上向けて肩を竦めていたりする。
自信満々で披露した宝具が見事に空振りし、ヘカテーは密かに落ち込んだ。
「……………」
そんな少女の内心には気付かず、悠二は一人思案に耽る。確かに『玻璃壇』一つでは決定的な打開策にはならないが、今、この特殊な状況に於いてのみ、自分以上に異変を細かく感知できそうな“人間”を、悠二は一人だけ知っている。
だが……躊躇いがあった。
理不尽に巻き込まれた彼を、これ以上こちらに踏み込ませる事に対する。
「(それでも……今は)」
しかし結局、その感情を、理性で押さえ込む。
彼は馬鹿ではない。ただ言われるがまま従ったのではなく、自分なりに考えて決めた筈だ。
付き合いの長さからそう信じて、振り返る。
「池」
未だ、茫然と自分の右手を見つめている、親友を。
「やってもらいたい事があるんだ」
遠い彼方で、けたたましい汽笛が夜気を震わせていた。
「御崎市のイメージを、もう一度感じ取る?」
「ああ」
表面上は努めて冷静に、悠二は自分の考えを池に説明した。池の方も、悠二が事態の解決を最優先にしていると気付き、雑念を払うように集中して話を聞いている。
「調律ってのは、在るべき姿を知ってる人間に、今の違和感を正確に捉えて埋めて貰うものなんだろ。だったら、おかしくなってる今の街の違和感だって掴めるんじゃないか?」
「……ああ、なるほど。試してみる価値はありますね」
訊かれたカムシンも、密かに感嘆しつつ肯定した。こういう場合に於いて人間を軽視する傾向にあるフレイムヘイズでは気付けない、悠二ならではの着眼点だった。
シャナも、ヴィルヘルミナも、マージョリーも、ヘカテーも、この成り行きに文句を付けず見守っている。
「……解った」
締め付けられるような罪悪感を脇に置いて、池はカムシンの前へと進み出た。
これで二度目、慣れたとまでは言わないが、慌てふためく事もない。
「では、『カデシュの心室』を展開します」
カムシンが目深に被っていたフードを払い、その下の傷だらけの素顔を晒し、巻き布を剥いで鉄の棒を振るう。その先端が床を叩くと同時に、褐色の炎が池に向かって殺到した。
「うわ……!」
「池!?」
炎に呑まれる友人の姿を見て、佐藤と田中が悲鳴を上げる。他の面々は見たままの炎ではないと解っているので驚かない。
驚くのは、これからだ。
「む……っ?」
渦巻く炎が球形となり、炎という曖昧な姿が輪郭を得て変質していく。
そうして形作られたのは……淡く褐色の光を放つ、心臓。
その中に、池速人は立っていた。
『ッッ!!?』
服も眼鏡も装備していない、完全無欠に裸体な姿で。
「―――――」
瞬間、ヴィルヘルミナの白条が奔る。敵意が皆無とは言え、シャナやヘカテーに回避も防御も許さぬ神速で、三人娘に目隠しを施した。
「……?」
「ヴィルヘルミナ、何?」
「カルメルさーん?」
『男の裸』というものに対する知識が無いシャナとヘカテー、何が起きたかも視認できなかった平井は、ひたすらに困惑するだけ。
しかして、保護者一同はそうもいかない。
「池お前……うちのヘカテーに何てモノ見せてくれてんだ?」
「やはり消滅させて調律を崩すべきでありましょうか」
「は……? いきなり何なんだよ!?」
こんな時だけ息の合う悠二とヴィルヘルミナから、殺気が炎となって迸る。
因みに、『カデシュの心室』内にいる池は、自分の姿に対する自覚は無い。理不尽な怒りを向けられてワケも解らず身動ぐ。
「ああ、すいません。そろそろ始めて貰えませんか」
「ふむ、こうしとる間に事態が悪化せんとも限らんしの」
そんな池の窮地を、まるで他人事のように見ていたカムシンが救った。心室が脈動を始め、池の意識が御崎市そのものへと沈んでいく。
「(良く解らないけど、集中しないと……!)」
一度目の感覚を必死に思い出しながら、池は両目を閉じて不可思議な渦に身を委ねる。
昼間との違いは、あまりにも明確だった。
「……僕が意識をそこに向けると、それを強引に別のものに変えられてるような感じです」
「……別のものに変える、ですか」
以前のようにいかない、その事に池は無力感を覚えた。だが、実際には“それで良い”のだ。今まで誰も、そんな感じ方は出来なかったのだから。
「……そういう事か」
真っ先に気付いたのは、悠二。間髪入れず食い付くのは、シャナ。
「今ので何か解ったの?」
「弾かれてるわけでも曲げられてるわけでもなく『別のものに変えられてる』って事は、こっちの力を利用して自在式を起動させてるって事だ。これじゃ、いくら火力を上げても破れっこない」
「……………」
他人のイメージを口頭で聞いただけで、即座に式の内容に当りをつける。解ってはいたが、自分と悠二の自在法の適性には雲泥の差がある。短期間とは言え“螺旋の風琴”の教えを受けた事で、その差はさらに広がっているように思えた。
「これなら自在式さえあれば徒本人が居なくても起動できる。駅の燐子にばかり気を取られるのもマズいかも知れないな」
「けど、その肝心の“探耽求究”が何処にいるかが解らないんでしょうが。ドミノが居たって事は、あのイカレ教授が絡んでるのは間違いないってのに」
因みに、マージョリーが気付けなかったのは彼女が悠二に劣るからではない。彼女は複雑な式を歌に変えて一瞬で構築できてしまう、言わば鼻歌の天才である。だから逆に、丁寧に譜面を描く作曲は苦手なのだ。
「ああ、何をするにもこの撹乱を崩さなければ不可能でしょう。自在式が何処に仕掛けられているか、解りますか?」
池に訊ねる傍ら、カムシンは鉄の棒『メケスト』を『玻璃壇』に差し向けた。連動して『カデシュの心室』から一筋、褐色の炎が血管のように箱庭へと繋がる。
これで、池が慣れない現象を口で説明する必要は無い。掴んだイメージは、全てそのまま箱庭の中に反映される。
そうして映し出されたのは……
「鳥?」
「……いや、鳥の飾りだ」
ミサゴ祭りの象徴とも言える、ミサゴという鳥のハリボテだった。確かに、これなら祭り中の街の何処にいくつあっても不思議ではないし、偽装には持って来いだ。しかし、こうなって来ると……
「鳥の飾りに自在式を仕掛けて、それを人間の業者に配置とか取り付けとか発注した……って事なのか? 紅世の徒が?」
「興味が湧けば人間だろうとフレイムヘイズだろうと無節操に交流する、それがおじ様です」
これまで抱いて来た徒のイメージを粉砕するような真実に驚く悠二に、相変わらず目隠しされたままのヘカテーが、良く解っていないままに説明する。
何はともあれ、これで撹乱の肝は解った……が、
「しかし駅前の飾りは多過ぎるな。こちらの狙いに敵が気付けば、自在式の破壊も妨害して来るであろう。奇襲が通じるのは、最初の数撃。それで最低でも燐子の動きを封じねばならぬ」
「“頂の座”なら、それも可能でありましょうが……」
「今は封絶が無いんだ。『星(アステル)』なんて使えるわけないだろ」
アラストールが唸り、ヴィルヘルミナが呟き、悠二が睨む。仕掛けを看破したところで、それが逆転の決め手に繋がらない。つくづく厄介な相手だった。
「(あの時、平井さんや佐藤じゃなくて、誰か戦える奴が駅に入れてたら……!)」
必死に考え、しかし思い付かず、益体も無い事を心中で呟く悠二。その耳に……
「坂井くーん」
シャナやヘカテー同様、目隠しされたままの平井の声が聞こえた。
「要するに、駅の燐子を何とかすれば良いんだよね」
「……うん」
平井はこういう時、興味のみで発言するような性格ではない。何だか嫌な予感を覚えつつも、とりあえず訊いてみる。
と……
「このカード、駅の自販機に仕込んどいたんだけども、何か役に立たないかな?」
目隠しされたままの少女は、帯に隠していたタロットカードをフリフリと振って見せた。
「大丈夫か?」
一時的に『カデシュの心室』を解かれて座り込む池に、悠二が声を掛ける。
カムシンを除いた異能者は、既にこの場に居ない。撹乱を破る逆転に備えて、それぞれ動き出している。
全ての準備が整ってから動くべき悠二は、意図せずして少しばかり時の猶予を得る事になった。
当たり前だが動く必要の無い佐藤と田中も、何故か平井が追い立てるように階下へと連れて行った。カムシンもまた、一度街の様子を確認すると言って屋上に移動したので、今ここには悠二と池の二人しかいない。
街の錯乱や池の全裸によって先伸ばしにされていた会話をする機会が、予定より随分早く訪れたというわけだ。
座る池を見下ろすのも、正面から向き合うのも居心地悪く感じた悠二は、視線を交わさずに済む隣に腰を下ろした。
「慣れない事するもんじゃないな、手首ひねったみたいだ」
傍目にはいつも通りの態度を取り戻した池が、ぷらぷらと右手を振る。心室の事ではなく、悠二を殴った事を言っているらしい。
「……悪かったな、殴っちゃって。やり返していいぞ」
「いや、一発くらい殴られた方が気が楽だ」
どちらが、どちらに、何を言っても、白々しさにも似た不自然な違和感が拭えない。
それきり暫くの沈黙を挟んでから、悠二は言った。
「お前さ……」
おそらく今、唯一ごまかしにならないだろう、言葉を。
「吉田さんの事、好きなのか?」
その一言が、躊躇という名の妙な空気を断ち切った。
「そういうわけじゃ……」
池はそこで一度言葉を切ってから、
「……いや、そうなんだろうな」
自分自身に観念するように、認めた。
「お前を殴ってから気付くなんて、何て言うか……間抜けな話だよ。あんな偉そうに説教してた癖にな」
今の自分を、今までの自分を振り返って、池は自嘲そのものといった笑みを浮かべる。悠二はそれを気配だけで察して、しかし視界には入れない。
「僕も似たようなもんだ。“自分の気持ち”が解らないのに……“こっちの事情”は言い訳にならないし」
悠二から見れば、そう言える池が羨ましい。
吉田が好きで、しかし自分の事情が為に受け入れられないというなら同情の余地もあろうが、悠二は違う。
吉田の事を好きなのかどうか、という、根本的な自分の気持ちが解っていないのだ。
「そっか………」
悠二の漏らした弱音をどう取ったのか、池は一つ相槌を打ってから、
「そうだな」
「……え?」
その弱音を、肯定した。
悠二の目が点になる。確かに自分が言った事だが、フォローの一つも貰えるものと思っていた。
「お前、自虐してた直後にその態度はどうなんだよ!」
池速人は、思う。
「だって事実じゃないか、自分で認めてただろ?」
さっきまで、坂井悠二が、遠い世界の住人になってしまったように感じていた。
しかし今、吉田一美に……それに対する自分に悩む彼の情けない姿を見て、思う。
「……やっぱり一発、殴っていいか?」
たとえ死のうと、亡霊となろうと、坂井悠二はここにいる。
「殴られた方が楽なんだろ? 慎んで受け取っとけよ」
そう思えるように、なっていた。