「放して下さい」
「放したらまた暴れるだろ!」
到着から五分後、御崎大橋のA字首塔の頂で後ろから悠二に羽交い締めにされるヘカテーの姿があった。
「ああ、出来れば彼女と接触する事なく街を去りたかったのですが……」
「ふむ、これも因果を引き寄せる渦の業かの」
悠二らの目印に向けて集合しようとしていたヘカテーとカムシン。……だったのだが、遠方から接近する褐色の炎を認めるや否や、ヘカテーはカムシン目がけて躊躇なく『星(アステル)』を放ち出したのだ。
いきなり暴れたヘカテーを悠二とヴィルヘルミナが取り押さえて今に至る。放たれた光弾が空でしか弾けなかったのは運が良かったと言うしかない。
「ヘカテー……いきなりどうしたって言うんだよ」
悠二は戸惑うしかない。ヘカテーがフレイムヘイズを好きではないのは知っているが、いつもならここまで強行に始末しようとはしない。戦闘不能のマージョリーを見た時も悠二の意を汲んで大人しくしてくれていたのに、今度はまだカムシンが何もしてないのに問答無用だった。
「あんた、『神殺し』の話は知ってる?」
そんな悠二に、横合いからマージョリーが話し掛けた。
『神殺し』という言葉で悠二が思い当たる話は、一つしかない。
「神殺しって、ヘカテーの……」
「そ。で、爺ぃはその大昔の御伽話の生き証人ってわけ」
フレイムヘイズの生き証人、それはつまり……そういう事だろう。ヘカテーにとっては、親の仇の一人というわけだ。
こうなると安易に「止めろ」と言いにくくなってくるが……それでも、言うしかない。
「……ヘカテー、今は封絶が使えないんだ。下手に暴れて壊せば、街も人間も戻せない。お願いだから、大人しくして」
大昔の怨恨より、今の御崎市を選んで欲しいと、切実な願いを込めて。
すると、
「………………」
渋々と、不満も露に、しかしヘカテーは大杖を下ろしてくれた。腕を放しても、もう暴れる気配は無い。
「ありがと、ヘカテー」
「……………」
安堵と共に礼を告げると、ヘカテーは拗ねたように首塔の縁へと移動してしまった。その背中が、カムシンと協力する気はないと物語っている。
悠二も元より、そこまで強いるつもりはなかった。
「『儀装の駆り手』、この状況と貴方の調律、何か関係があるのでありますか」
「説明要求」
ヘカテーを宥めるのは自分の役目ではないと言わんばかりに、ヴィルヘルミナがカムシンに訊ねる。
タイミングから考えて、真っ先に調律と結び付けるのは自然な流れだ。問われたカムシンも頷き、「確定ではありませんが」と前置きして語る。
「おそらく、私が調律の為に仕掛けた血印を利用されたものと思われます。先刻まで繋がっていた同調が、今は完全に断たれているので」
「もっとも、それをどんな目的に使われるかまでは判っておらんのじゃが」
それをさらに、ベヘモットが継いだ。事前の推測の域を出ない、さして有力でもない情報である。
「(こいつの手落ち……いや、利用されたってのは嘘で、全部こいつの仕業って可能性もあるか)」
フレイムヘイズだからと言って信用する理由にはならない。調律なんて都合の良い口車を安易に信じた結果がこれだ。
が、続く言葉に悠二は言葉を失う。
「こういう真似をする輩にも見当が着いています。“探耽求究”ダンタリオン」
『――――――』
悠二のみならず、ヴィルヘルミナも、マージョリーも絶句し、外方を向いていたヘカテーも勢いよく振り返る。
「(こんなに、早く)」
ヴィルヘルミナの友『約束の二人(エンゲージリンク)』を殺し、『零時迷子』に謎の自在式を打ち込んだ“壊刃”サブラクの雇い主。
「(……“銀”の手掛かり)」
それは即ち、悠二の炎を銀色に染めたと目される自在式……マージョリーの仇敵、謎の徒“銀”の手掛かりを知る者であるという事でもある。
「(……おじ様が、来た)」
その謎の自在式……『大命詩篇』と教授自身は、ヘカテーが『零時迷子』を餌にして待っていたものでもある。
様々な因果の発端とも呼べる紅世の王が、遂に御崎市へと到来したと言うのだ。
いつか来る必然たる徒の名を聞いて、悠二もカムシンへの疑念を遥か彼方へと飛ばしてしまった。
「(っ、マズい……!)」
悠二がまず危惧したのは、マージョリーの暴走。
悠二の炎を目にしただけであれだけの狂態を見せた彼女だ。より具体的な手掛かりが眼前にぶら下がった今、封絶の有無など関係なく容赦の無い破壊をばら撒きかねない。
……と、思って振り返ったのだが、
「……何よ、血相変えて」
慌てふためく悠二を迎えたのは、どこか無気力にすら見えるマージョリーの怪訝顔だった。
「あ、いや、別に……」
あまりの違和感に悠二は頬を引きつらせるが、藪をつついて本当に暴れられては堪らない。曖昧に笑って誤魔化す。
無論、誤魔化せてなどいない。
「(……これ、本気でヤバいわね)」
自身の異変にも、悠二の疑念にも、当然マージョリーは気付いている。気付いていて、しかし、それを何とかしようと思う気力が湧いて来ない。
「(……おいおい)」
永らく共に戦って来た契約者たるマルコシアスでさえ、この事態は予想出来なかった。
今までにも、こういう事は何度かあった。終わる事なき戦いの日々に膿み疲れ、燃え尽きたように気力を萎え果てさせる事は。
だが、今回はそれらの前例……心を折られて燃えなくなる類とは明らかに違う。
「(あの戦いで、一体なにがあったってのよ……)」
そんな事は無いと否定し続けて来た。半ば本能的にも似た感覚に抗い続けて来た。……だが、もう認めるしかない。
『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーが、己が仇敵たる“銀”を、避けていると。
そして、いくら目を背けても逃れられない場所まで、真実の引き金は迫って来ているのだと。
「(おじ様が、“もう”来た)」
それと同種の心の乱れを、ヘカテーも自身に感じていた。
教授を捕まえ、『大命詩篇』を回収するのが今のヘカテーの目的。だからこそ御崎市に留まり、ヴィルヘルミナが外界宿(アウトロー)に情報を流すのも黙認していた。
『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の徒は基本的に人間の情報媒体を扱えないが、教授は違う。あのおじ様ならば人間の情報も難なく掴んで『零時迷子』の所在を掴み、逆にベルペオルに自分の居所は悟られない。
そういう狙いで行動し、事実、幾つかのイレギュラーを内包しつつも目論見通りに事は運んだ。
だと言うのに今、ヘカテーの心は晴れない。むしろ、暗雲にも似た重苦しい不安が立ち込めている。
「(私は………)」
もう、解っている。
この街で暮らす口実が失くなってしまう事が、怖いのだ。それが口実だと、解ってしまっていた。
「その血印を、貴方の意志で自壊させる事は出来ないのでありますか。そうすれば、少なくとも今よりマシな状況になると思うのでありますが」
「推奨」
それら二人の異変に気付きつつも敢えて触れず、ヴィルヘルミナは話を進める。
彼女は二人と違い、元凶たる教授よりも雇われた“壊刃”にこそ関心があるので、そこまで過剰な反応はしない。
「ああ、それは真っ先に試してみたのですが、やはり駄目でした。血印に直接接触しない限り、制御も破壊も不可能でしょう」
「……あんたもかなりの実力者なんだろ? その自在式の制御を気付かれもせず完全に奪い取ったってのが、ちょっと信じられないんだけど」
「そういう相手という事であります。人格にかなり問題はあるものの、“螺旋の風琴”にも比肩する天才でありますから」
ヘカテーとマージョリーを置き去りにしたまま、状況整理は続く。
とりあえず、カムシンが自分の仕掛けた血印への接触を、ヴィルヘルミナとヘカテーがこの異常な自在法からの脱出を、悠二とマージョリーがこの異常の中心……御崎駅とその前方に伸びる大通りの調査をそれぞれ試みる事に決めた。
その段になって漸く、悠二は呼び掛ける。
「田中」
この場に居ながら完全に蚊帳の外へと追いやられていた、田中栄太に。
「どこが安全なのかも良く解らない状況だけど、とりあえず適当な所に降ろすから」
「っ」
成り行きでこんな所(橋の首塔の頂)に連れて来てしまったが、もちろん置き去りになどしない。後ろから脇の下に腕を入れて持ち運ぶべく背中に回る。
至極当然のようにそうしようとする悠二を見て、田中は微かに表情を歪めた。
「(やっぱり、俺は……)」
ついさっきまで、彼は今の自分に満足してしまっていた。
何かの役に立ったわけではない。会話に加わる事も出来なかった。それでも、こんな非日常の光景に混ざっているというだけで、憧れのマージョリー・ドーに大きく近付けた気がしていた。
そんなものは、全くの錯覚でしかなかった。だってそうだろう。一人ではこの場に来る事も、降りる事さえ出来ないではないか。
「……田中?」
憧れと現実を隔てる、絶対的な壁。その絶望が態度に出ていたのか、悠二が気遣わしげな声を出す。
これ以上無様な所は見せたくなくて、田中は無理に元気な声を出そうとした。
「待って下さい」
それを遮るようなタイミングで、ヘカテーが口を挟む。無論、意図してそうしたわけではない。悠二でさえ気付いていない田中の苦悩など、露ほどにも気に掛けてはいない。
「どうせ安全な場所が解らないなら、やってもらいたい事があります」
それでも、善意でも悪意でもない無垢な提案が、少年の矜持を辛うじて守る事になった。
「………………」
既に暗く染まった御崎市の空を飛びながら、悠二は頻繁に携帯を開く。
池から幾つか着信が入っているが、それは気にせず名前を探すが、目当ての履歴は無い。
「(……まさか、何かあったのか……?)」
ヴィルヘルミナと祭りに来ていた筈のシャナが居ないのは……気にはなるが、心配はしていない。
田中と同じ立場にあるらしい佐藤にしても、携帯を持っていないので無事を確認する手段が無い。
……だが、手段があるのに連絡が無いという方が、よほど不安を掻き立てられる。もう一度電話を掛けてみるが、やはり繋がらない。
「(平井さん……)」
そう、平井は携帯を持っていて、しかも今の異変に確実に気付いている筈なのに、連絡が着かない。危険を察して脇目も振らずに逃げているならまだ良いが……彼女の性格から考えて望み薄だろう。
「(早く連絡返してよ)」
切に願って、それでも悠二は真っ直ぐに飛ぶ。この頼もしい討ち手らと共に戦う事こそが、最良の未来に繋がると信じて。
ミサゴ祭りは県外でも有名な御崎市自慢の催しだ。当日の御崎駅は必然的に人混みに溢れ、歩くのも不自由する様相を呈す。
自在法によって居場所を入れ替えられた佐藤啓作が現れたのも、その御崎駅の内部だった。
そこで彼は――――見た。
【あー、てすてすてす。はーい皆さんこんばんわー、私は偉大なる超天才にして真理の肉迫者にして不世出の発明王にして実行する哲学者にして常精進の努力家にしてイカス眼鏡に揺るぎない眼差しを秘めた空前絶後のインテリゲンチャー、“探耽求究”ダンタリオン教授の“燐子”、我学の結晶エクセレント28―カンターテ・ドミノでーす】
見慣れた駅の光景……日常の中に、明確過ぎる異物が紛れ込んでいる様を。
いや、紛れ込んでいる、という表現は相応しくない。己一つで光景の印象を壊してしまうほど、異物の存在感は圧倒的だった。
「(ぐ、紅世の、徒……?)」
ガスタンクみたいな身体、歯車で出来た両目、発条にも似た四肢。まるで出来の悪いオモチャのような物体が、拡声器で人の言葉を喋っている。
【たーだ今より、この駅は我々の実験場となります。構築作業の邪魔なので、人間はとっとと退去しちゃって下さーい】
なぜ自分がこんな所にいるのか、なぜ徒がこんな所にいるのか、自分はこれからどうすればいいのか。
間の抜けた脅し文句が響く中で、佐藤は己が思考に呑まれて茫然と立ち尽くした。恐慌に駆られた人波が彼の肩にぶつかりながら逃げていく。
誰もあれが作り物だとは思っていない。その気持ちは佐藤にも良く解る。見た瞬間に「危険だ」と確信できてしまう、そんな得体の知れない違和感が あれにはあった。
「(逃げ……て、いいのか……?)」
全身を震わせるほどの恐怖を感じているのに、何故か佐藤の足は動かない。多少の知識を持っているだけで、“自分が何とかしなければならない”という見当外れの責任を感じて、それ以上に……憧れの人の戦場から逃げ出すという行為を、少年のちっぽけなプライドが支えていた。
だが、それも数秒……
【ガオー! さっさとどっか行け人間共ー! 私はこれからメチャメチャ忙しんだから、邪魔するとホントに食べちゃうぞー!】
「っ!!?」
あまりに平然と発せられた『食べる』という言葉、目の前に聳える絶対的な圧力を前にして、馬鹿な夢想から一瞬で覚めた。
周囲の人間と同じく一も二もなく逃げようと背中を向けた……その時、不可思議な“波”が彼を襲う。
「(………あれ)」
直後に、佐藤啓作は足を止めた。それは佐藤のみに限らない。さっきまで狂騒に駆られていた全ての人間が、嘘のように平静を取り戻していた。
「(何で俺、駅になんて居るんだっけ。ったく、田中の奴どこ行ったんだよ)」
自分が恐怖に震えていた、という数秒前の出来事すら気にも留めず、佐藤はそれまでと逆方向の出口を目指して歩き出す。
その途中でガスタンクのようなロボットの前を横切るが、特に反応は示さない。視界に入っても「ああ、紅世の徒か」と思うだけだった。
【……おんやぁー?】
この現象はロボット……教授の燐子、カンターテ・ドミノにとっても、完全に予想外の出来事だった。
別の目的で制御を奪った調律の自在式が妙な具合に作用して、人間に無用な平静を与えてしまっている。
【もーめんどくさいなー、これから起動の度に人間が群がって来ちゃうなんてー】
今回の目的はあくまでも実験であり、食事ではない。だからドミノは、人間が怖がって逃亡してくれるならわざわざ危害を加えるつもりなど無かった。
しかしこうなってくると、無力な人間だろうと流石に邪魔に思えて来る。
【どうせ実験が成功したらみーんな消えちゃうんだし、別にいーか】
その大きな右手を眼下の人間に翳す。燐子のドミノは本当の意味で人間を“喰らう”事は出来ないが、分解するだけなら出来る。
その掌中に宿る朧気な力が、佐藤啓作を含めた一帯の人間へと伸びて―――
「どっひゃあぁぁぁーーー!!?」
突然、ドミノの眼前に構えられていた拡声器が爆撃された。
爆発という“上書き”された異常事態に人々が戦慄き、再び恐慌と逃走が満ち溢れる。
「この駅は我々が占拠した! 爆破されたくなかったら前の人を押さず、お子様の手を握って最寄りの出口から速やかに避難して下さい!!」
その人波の影響を受けない自販機の上に、一人の少女が立っていた。
白い着物を靡かせ、両手にタロットカードを構え、両の触角を逆立たせて。
「平井ちゃん……?」
佐藤啓作はその名前を、呆然と呟く事しか出来なかった。
あの光景を目にした時、理解したつもりだった。
これは遠い世界の他人事ではなく、自分たちの日常を冒す現実の脅威なのだと。
だから調律師に協力した。この世の歪みを正し、二度と御崎市に紅世の徒が現れないようにする為に。
それを終えて、日常に戻って……それだけでもう、現実の脅威は他人事に戻ってしまっていた。
今でも世界中に徒は居て、人が喰われていて、なのに気付かないでいる。でもそれは、自分から遠い場所の出来事で、自分は早く真実を忘れる事ばかりを考えていた。
……だと言うのに、“これ”は一体何だというのか。
「(……何かが、起きてる)」
歪んだ花火、唐突に“飛ばされた”自分、似たような立場にあると思われるのに、何の異変も感じていないらしい人々。立ち尽くす池速人には、目に映る全ての光景が、まるでタチの悪い冗談のように見えた。
「(これは……僕のせいなのか?)」
真っ先に感じたのは、恐怖。得体の知れない世界に一人迷い込んだような不安と、それと等量の疑念。
もしこれがカムシンの仕業だとすれば、自分に責任が無いなどとは口が裂けても言えない。
相手に呑まれ、体感などという曖昧な根拠で信じて協力し、その結果 街がおかしくなったのだとすれば、元凶の一人は、間違いなく池速人だ。
池がそう思うのも無理はない、あまりにタイミングが良過ぎている。
「(でも、あの人が、そんな……)」
頭を抱えて別の可能性を探してはみても、結局は無駄な事。どんな推測を並べたところで、池にはそれを確かめる術が無いのだから。
夜空に“綺麗な花火”が上がっているのに頭痛にでも苛まれたように蹲る少年を周囲の人々が怪訝な目で見下ろしている。彼らの目には、異変を感じている少年の方こそが異物なのだ。
「お前、気付いてるわね」
その頭上から、高い、それでいて幼さや頼りなさを微塵も感じさせない声が、向けられた。
池はその声を、知っている。言葉の意味を正確に飲み込めないまま、顔を上げる。
「シャナ、ちゃん?」
そこに、思い浮べたままの少女が立っていた。
赤い着物を着飾り、美しい黒髪を団子にした艶姿。つい先刻まで一緒にいた姿のままで、シャナはそこに居た。
友達が、変わらぬ姿で、自分の前に居る。それだけで自分がまだ日常に繋がっている気がして安堵しかけた池は………
『お前、気付いてるわね』
今更になって、シャナの言葉を反芻する。
何故? 誰も彼もが異変を異変と感じていない今、“どうして彼女はそんな事を訊けるのか”?
「何、で……?」
疑問は、そんな半端な声にしかならなかったが、それでも伝わったのだろう。
シャナは纏めていた髪に指を掛け、一気に引き抜いた。
「私はフレイムヘイズ」
流れた黒髪が、強く光る瞳が、紅蓮に燃える。
「『炎髪灼眼の討ち手』、シャナ」
鮮やかに煌めく少女の姿を前に……少年の日常が、また一つ砕け散った。
「せいっ!!」
両の手から放たれた十のカードが、至近で最も大きな存在の力……つまり、ドミノに向かって飛来する。
「のわーーーー!!?」
それは命中と同時に弾け、ドミノの巨体に連鎖的な銀炎の爆発をお見舞いした。
その効果の程を確かめもせず、平井は自販機から跳躍、人々が逃げた事によって拓けた空間に着地し、同時に地を蹴ってドミノから距離を保ちつつ全力疾走。その間にも、袖から何枚もカードを投げ付けている。
「ぎぎ、銀の炎!? 何で人間がこの炎を!?」
案の定ダメージは無いようだが、動揺を誘う事には成功したらしい。後はこのまま、人が居なくなるまで何とか時間を……と思う平井の目に、一人逃げ出さず立ち尽くす少年の姿が映る。
「平井ちゃん、フレイムヘイズだったのか!?」
何か色々と訊きたい事も出来てしまったが、全部まとめて後回しにする。
今はただ、この場を生き残る事こそが最優先。
「人間めー、よくも教授のエェークセレントな実験の邪魔をー!!」
再びドミノが人間の……今度は平井個人の存在を分解すべく力を伸ばす。平井はそれを……躱せない。全力疾走など全くの無意味であったかのように捕まり……
「効かーーん!!」
「なぬっ!?」
そして、ドミノの力の方が霧散した。
もちろん、人間である平井に自在法への抵抗力など無い。この現象も、さっきの爆発も、過保護な悠二が平井に持たせたタロットカードの効果なのだ。
しかし、普通の人間が傍目に見ている分には解る筈もなく、
「す、すげぇ……!」
佐藤の目には、平井が異能を使うフレイムヘイズにしか見えていなかった。
その、まるでもう危機は去ったかのような暢気な態度が、逆に平井の危機感を煽る。
「佐藤君はさっさと逃げて! 絶対振り返らない事!!」
「わ、わかった!」
切羽詰まった声に平井の焦燥を感じたのか、今度こそ佐藤は背中を向けて走りだした。
それを気配だけで確認した平井は、さらにもう一枚のカードを放ち、腕で目を覆って俯いた。
次の瞬間――――
「ンギャーーー!!?」
銀の閃光が駅の構内に溢れ返り、ドミノの視界を奪った。あんな外見の敵に目眩ましが効くのか甚だ不安だったが、どうやら上手くいったらしい。
「…………よし」
改めて周囲を見渡す。主観的には恐ろしく長い時間稼ぎだったが、漸く誰も居なくなった。背後で佐藤がエスカレーターの向こうに走り去るのを見送ってから、平井は改めてドミノに向き直る。
「これでやっと、あたしも全力が出せる」
「な、何を〜、生意気な人間めぇ〜」
どう見ても只の人間にしか見えない。しかし、その人間が間接的にとはいえ銀の炎を使ったという事実に不安を煽られたのか、ドミノに僅かな警戒が浮いた。
どうせハッタリに決まっている。そんなドミノの内心を鼻で笑うように、平井は首から提げて着物の下に隠していた宝具を出す。
「運が悪かったね。あたしがこんな所に転移して来たのは、単なる偶然だったんだろうし」
それは正十字型のロザリオ、『ヒラルダ』。『約束の二人』がヴィルヘルミナに託し、ヴィルヘルミナから平井に預けられた、“人間に自在法を使わせる宝具”。
それを今、平井は高々と天へ翳す。
「風よ、我が命に従いて愚かなる敵を打ち砕け!」
途端、琥珀の暴風が平井を包み込んだ。景色さえも一変させる自在法の発現にドミノは戦慄し、その両手で頭上に炎弾を形成する。
「そうは……させるかぁーー!!」
そして、自身を中心に竜巻を生んだ少女目がけて容赦なく投げ付けた。
馬鹿みたいに白けた緑色の爆炎が一撃で竜巻を貫通し、その余波で周囲の琥珀までも吹き散らした。
………が、
「…………あれ?」
そこには既に、誰もいない。あれだけの大口を叩いた少女を含めて、ドミノを除いた完全な無人となっていた。
「やっぱりハッタリだったんだーーー!!」
悲哀よりも苦笑を招きそうなドミノの泣き声が、無人の構内に響いた。