見てもいないテレビの音だけが響く坂井家のリビング、小柄な身体を更に小さくしたヘカテーがソファーに座っている。
今朝から……否、正確には昨日の買い出しから戻ってから、ずっとこの調子だった。今朝の鍛練にも参加していない。
『そんなズルいヘカテーちゃんには、私、絶対に負けないから……!』
原因は言うまでもなく、吉田一美の宣戦布告。常なら他者と対立するなど考えられない温厚な少女からの、強烈に過ぎる決意表明だった。
「(私には……関係ない)」
吉田一美は、坂井悠二の事が好き。……だが、それが何だと言うのか。いずれ去る身、別離を迎えると解っている少年に誰が好意を寄せようと自分達の大命に何の影響も在りはしない。
そんな理屈とは裏腹に………
「(怖い)」
吉田一美の見せた意志の強さが、どうしようもなく怖かった。「なぜ怖いのか」という疑問の解を探す事が怖かった。そして……怖いと思いながらも、絶対に負けたくないと思っている自分の心こそが、何にも増して恐ろしかった。
「(どうして……?)」
“狩人”との戦いで消滅を予感した時でさえ、こんな恐怖は感じなかった。
大命も果たさず無為に燃え尽きる、ヘカテーにとって何よりも危惧すべき事態だった筈なのに……何の恐怖も感じなかった。それどころか―――かつてない穏やかな安らぎに微睡んでさえいた。
「(悠二………)」
解っている。
心の奥の奥で、本当は解っている。
あの時の安らぎも、今の恐怖も、一人の少年に起因する表裏一体のものである事を。
「………………」
ヘカテーは迷ってすらいない。進む事も退く事も悩む事もせず、ただ立ち止まって怯えている。
どこに向かっても自分の支柱が壊れてしまう気がして、そうする事しか出来なかった。
そんな少女の異変に………
「ヘカテーちゃん」
母たる千草は、当然のように気付いていた。いくら無表情で感情を隠したところで、彼女の目を欺けるものではない。
千草は力無く視線を返して来る少女に微笑み掛けて、目の前のテーブルにカルピスを置いた。ついでのようにテレビを消す。
「悠ちゃんに、何かされた?」
そしてヘカテーもまた、千草が何か察していると気付けてしまうのだ。進む事も退く事も怖れているヘカテーにとって、彼女に標を示される事さえ抵抗がある。返事はなく、ただフルフルと首を左右に振った。
「……友達と喧嘩でもした?」
ヘカテーの正体も事情も知らないのにピンポイントに図星を突いて来る千草に、ヘカテーは微かに目を見開いた。
自分の抱える悩みや態度に、“そんな事情”は関係ないという事に、未熟な少女は気付けない。千草はもちろん少女の未熟を笑わず、その態度から肯定を汲み取る。汲み取って、細かい詮索はしない。
「(友達と喧嘩、か……)」
ヘカテーの様子から見て、『相手に何かされた』というわけではないと思う。もしそうなら、この少女は不機嫌そうにしているか即座に報復するかしているだろう。
ならば、ヘカテーが何かしてしまった、というケースかも知れない。
「悠ちゃんに、何かしちゃった?」
と考えた途端に息子を疑って掛かる辺り、悠二の評価の低さが窺える。案の定、ヘカテーはハッとした顔で千草を見てから……直ぐ様しょんぼりと俯いてしまった。
「……………………出来ません」
消え入りそうな声で、そんな台詞が聞こえた。それだけで、千草は概ねの事情を察する。
無論、この世の真実を理解したわけでも彼女らの交友関係を把握したわけでもない。それでも、今の彼女に掛けるべき言葉は見つかった。
「大丈夫」
小さな頭を右手でそっと撫でて、左手で抱き締める。脆い心が壊れてしまわないように、柔らかく包み込む。
「いま好きかどうか、それだけなの。他には本当に、何も無いんだから」
「…………………」
好きではない。
ヘカテーはその一言を―――返す事が出来なかった。
遅い足取りで繁華街を歩きながら、池速人は夕方を越えてなお青い空を見上げる。
こんな当たり前に見える世界も、その裏で呆気なく壊れているかも知れない。そして……自分はそれに気付く事も出来ないのだ。
「(これで、良かったんだよな)」
カムシンに頼まれた『協力』は、彼の言う通り危険を伴うものではなかった。この世のものとは思えない体験をする事にはなったが、それが彼を決定的に信用する切っ掛けにもなったのだ。
「(あれがこの街の、真実………)」
フレイムヘイズは外れた存在ゆえに、この世の『在るがまま』を見る事しか出来ない。歪んでしまった現実を調律するには、『在るべき姿』をイメージ出来る人間の助力が必要になる。
今回の場合、その人間こそが池速人だった。そして、その作業の中で池は確信した。この街に無数の欠落が在る事と、カムシンがそれを埋めようとしている事を。他でもない、自分自身の体感で。
「(良かったん、だよな……)」
だから、協力した事に後悔は無い。「なぜ自分なのか」という気持ちも0ではなかったが、かと言って「他の誰かが苦しめばいい」と思うほど手前勝手にもなれない。
つまり後悔すべきかどうか悩んでいるのは、協力そのものではなく………
「(確認して貰えば……いや、でも)」
その後、簡単な挨拶だけ済ませて別れた事についてだ。
カムシンは言った、「貴方の家族は無事でした」と。………逆に言えば、家族以外が無事かどうかは確認していないという事になる。
池はその可能性に気付いた上で、カムシンに確認を頼まなかったのだ。
「(どうしようも、ないじゃないか)」
無事なら、勿論それに越した事は無い。だが、もしそうでなければ? もし知人の誰かが既に喰われてトーチになっていたとしたら?
そう……それを知ったところで、池に出来る事は何一つ無い。どうする事も出来ず、いつ訪れるかも判らない知人の消滅に怯え……そして、消えた事にも気付かず忘れてしまう。
カムシンの調律で喰われた人間が戻るのでは、と淡い期待を抱きもしたが……もしそうなら、カムシンは池の家族の生存をわざわざ確認したりしなかっただろう。
つまり、喰われた人間は決して元には戻らない。どうせ忘れてしまうなら……そんな辛い現実を確かめる事などない。今を信じて、何事もなかったように日常に帰って……今まで通り、何も気付かずに生きていけば良い。
……そう、理性で結論づけたというのに、手遅れな葛藤が池の頭の中をグルグル回っていた。当たり前だが、納得など出来るわけがない。
「(あぁもう考えるな! 悩んだって何にもならないんだ!)」
解っているのに、考えてしまう。
坂井悠二が、佐藤啓作が、田中栄太が、平井ゆかりが、近衛史菜が、緒方真竹が、大上準子が、クラスの皆が………吉田一美が、“既に死んでいるかも知れない”。そんな悪夢のような想像が、頭から離れない。
絶対にどうしようもないと解っていて、それでも。
内心の葛藤を面には出さずに歩いていると、不意にポケットが弱く振動した。たったそれだけの事に小さく肩を跳ねさせた池は、携帯を取り出してサブディスプレイを見る。
表示されている名前は………坂井悠二。
「(ったく、何も知らない幸せ者め)」
どうしても浮かんでしまう不安を紛らわす為に心の中で呟いてから、通話ボタンを押した。
【あれ、繋がった。池、おまえ予備校は?】
「ダメ元で電話したのか。色々あって、今日の予備校無しになったんだよ。で、何?」
【何じゃないって。ミサゴ祭りだよミサゴ祭り】
………実に、実に平和な会話。こんな有り難いやり取りを、今まで自分は平然としていたのか。ミサゴ祭りの事にしたって、今の今まで忘れていた。
【おまえ途中から合流って事になってただろ。祭りの人混みだと携帯鳴っても気付かないかも知れないから、事前に時間と待ち合わせ場所決めとこうと思ったんだけど……予備校無くなったなら問題ないな。六時半に御崎大橋の駅側で良いか?】
「……ああ、解った。吉田さんには、お前が連絡しろよ」
電話の向こうで慌てる気配がしたが、返事を待たずに通話を切る。まったく、偶には自発的に動けと思う。
「(我ながら、単純だな)」
この日常が代替品で作られた仮初めの物なんて信じられない。素直にそう、思えるようになっていた。
最近買ったばかりの携帯を、悠二は手慣れた仕草でパタンと閉じる。
「池君、予備校なくなったって?」
「うん。後はシャナがちゃんと来てくれるかだけど」
坂井悠二と平井ゆかりは、肩を並べて川沿いの土手を歩いていた。平井、ヘカテー、シャナ、三人分の浴衣を平井のマンションまで取りに行った帰り道である。「マンションに行って着替えれば良い」と思うかも知れないが、生憎と着物の着付けには千草の手を借りねばならないし、彼女にご足労願うわけにもいかない。
「ヘカテー、何で来なかったんだろ。昨日から様子が変だったけど」
「……さ~てね」
ヘカテーは坂井家に残っている。悠二はやはりと言うか気付いていないが、平井には何となく察しが着いていた。
「(どっちかって言うと、一美の方が心配かも)」
昨日は見舞いに来てくれる筈だった吉田が現れず、買い出しに行ったヘカテーが帰ってからあの調子。これが偶然とは思えない。
どっちの心境についても口を挟む気はないのだが、真実を知らずに深入りしてしまいそうな吉田には思うところが無いでもない。
「前にも言ったでしょ、坂井君が気にする事じゃないって」
まぁ……だからと言って何か出来るわけでもない。結局は、それぞれが自分の心と向き合って出した解をぶつけていくしかないのだから。
「ち・よ・こ・れ・い・と!」
不意に平井が道から外れて、土手の石階段を軽快に跳ねながら下りだした。そのままペタンと腰を下ろした平井に、悠二はワケが解らぬまま続く。
「疲れたの?」
「そーゆーんじゃないけど……ん~む、夏場だと日没が遅いなぁ」
片目を閉じて両手で長方形を作り、まるでカメラを構えるように真南川を見る平井ゆかり。その横顔が、少しだけ残念そうに見える。
「ここに、何かあるの?」
「今は内緒。もっとベストタイミングの時に、また一緒に来よっ!」
立ち上がると同時に伸びをして、触角を揺らす平井は階段を「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」と駆け上がる。
内緒、と言いながら、もう殆ど正解を漏らしたようなものだ。要するに、夕暮れ時のこの場所からの景色を見せたいのだろう。
「待ってよ、平井さん!」
逃げる背中を、追い掛ける。
届く事の無い彼方から、それでも自分を照らしてくれる太陽を、決して見失わぬように。
「「何か、顔合わせ辛い」」
同じ台詞を綺麗に揃えて、佐藤と田中は沈み込む。俯けた顔が上げられない。
『居るわよ、普通に』
この街にまだ徒がいるかも知れない。そう危惧した二人が搾りだすように訊ねた結果……マージョリーはそれを肯定した。肯定して、こう続けた。
『心配しなくても、この街を喰い散らかしたのとは別口よ。クソ真面目な見張りも居るし、あんた達が怯えてるような事にはならないんじゃない?』
安心すればいいのか心配すれば微妙な保障をしてから、さらに一言。
『私が生かしておくからには、それなりの理由があるって事よ』
ある意味、彼らが最も欲していた言葉をくれた。一先ずは胸を撫で下ろした二人だったが、根本的な問題はそのまま残ってしまっている。
即ち、この街に今も滞在している徒の正体、である。
『えっと……紅世の徒って、どんな見た目してるんですか?』
『最近じゃ“人化”してない奴の方が珍しいけど、それがどうしたってのよ』
彼らは日常のふとしたやり取りから、もっと直球に言えば外見から、自分たちの友人らに対して一つの疑念を持っていた。
即ち………紅世に関わる者なのではないか、と。事の真偽はどうあれ、こんな疑念を持った状態では友人の顔をまともに見られない。マージョリーを祭りに連れ出す事に失敗した今も悠二らに参加表明をしない理由が、これだった。
「やっぱり、姐さんに訊くか? 徒の名前」
躊躇いがちに、田中が提案する。無理もない、最初からすれば良かった筈なのに切り出せなかった質問を、今また蒸し返そうというのだから。
「………………」
佐藤は暫し、逡巡する。
思い到ってしまった可能性か、これまで疑いもせず享受していた日常……そこに生きる友達の姿か。
「………ああ、訊こう」
迷う時間は、それほど必要なかった。
「ただし、坂井にな」
「佐藤と田中も後から合流、ね」
今日はみんな挙動不審だな、などと思いつつ、悠二は携帯を枕元に置いてベッドに大の字に寝そべる。
普段ならばヘカテーや平井が好き勝手に遊びに来る坂井悠二の自室だが、今は彼一人。その理由は、遠方から薄らと聞こえて来る祭り囃子を聞けば自ずと察しが着くだろう。
「悠ちゃーん! もういいよー!」
階下からお呼びの声が掛かった。その恥ずかしい呼ばれ方に、内心で元凶たる母を恨みつつ、悠二は出来るだけ何でもない風を装って階段を降りていく。
色々と複雑な背景を持つ悠二だが、精神的には年頃の男子高校生。可愛い女の子の晴れ姿に緊張しないワケがないのだが……それを悟られるのは大いに問題があるのだ。
「じゃーん!!」
この上なく楽しそうな掛け声と共に、狙い澄ましたようなタイミングでリビングのドアが開く。
そして悠二は……息を呑んだ。
「どう? どう? 悶える?」
白地に水色の星雲を描く浴衣を着たヘカテーと、艶やかな黒髪を団子にして赤い浴衣を着たシャナを、白の浴衣を桃色の帯で絞った平井が、自分の手柄を誇るように見せ付けていた。
悠二は、思わず漏れそうになった「可愛い」という台詞を寸でのところで止めてから、
「う、うん。三人とも似合ってるよ」
本音とも建前とも取れる無難な賛辞を贈った。ただし、顔を背けて微かにどもっているのだから、解る人には解るものだ。
具体的には、二割り増しでニンマリする平井、頬に手を当てて嘆息する千草、鉄面皮ながらビームでも出しそうに睨み付けてくるヴィルヘルミナ、などである。しかし言い換えれば、解らない人には解らない。解らないままに、建前をそのまま受け取る。
「ふぅ、ん……こういうの、動きにくいと思うんだけど」
「っ……!」
言いながら、万更でもなさそうにクルリと回るシャナと、どこか動揺した様子で平井の背中に隠れるヘカテーである。
この二人に到っては、「似合ってる」が無難な対応である事すら知らない。額面通りに受け取って、まぁ……悪い気はしていない。
「そ、そういえば、シャナは母さん達と行くんだっけ?」
悠二からすれば、もう最高に居心地が悪い。からかわれるのも照れられるのも真っ平なので、やや無理矢理に、かつ流されにくい話題に逸らす。
「うん、千草とヴィルヘルミナと一緒に行く」
そう、シャナは悠二らと同行しない。元々勝手に話を進めていたが、彼女は一言も「わかった」とは言っていなかったのだ。
その行動の裏に、祭りに誘ったメリヒムに袖にされて自棄酒に沈むヴィルヘルミナ……という、リアクションに困る背景がある事を悠二は知らない。
「それじゃ、そろそろ行こっか。浴衣と草履で歩きにくいし、ちょっと余裕持つくらいでないとね」
「ああ、それに池とか吉田さんは絶対時間前に着いてそうだ」
「……何故ついて来るのですか」
「方向が同じなんだから仕方ないでしょ。文句があるなら、お前が出発を遅らせればいい」
「ほらほら、ヘカテーちゃんもシャナちゃんも喧嘩しちゃダメ。せっかくの浴衣も、肝心の貴女達が怒ってちゃ台無しよ?」
「日本の祭りは初めてでありますな」
「気分転換」
日常に在る者も、仮初めの日常に紛れる者も、今この時ばかりは関係ない。ただ目の前のイベントに胸を膨らませて、坂井家を後にする。
「そっか、やっぱりヘカテーちゃんも……」
「……うん。本人は認めてなかったけど」
過ぎ行く人々の喧騒を耳にしながら、池と吉田は待ち合わせ場所で友人達の到着を待つ。因みに池が一番、吉田が二番である。
「(……うん、やっぱり大丈夫だ)」
もちろん元々の性格も要因の一つだが、池の場合は『安心したかった』という気持ちが大きい。
トーチは少しずつ存在感を失って目立たなくなり、いつしか誰にも気付かれずに消える。それを否定したいが為に、一刻も早く元気な皆の姿を見たかった。………確認してもどうしようもないと解っていても、どうしても気にはなってしまうのだ。
結果として、もちろん確信は無いが、吉田一美は無事だろう。目立たなくなるどころか、これまで見られなかった『芯』のようなものさえ感じられる。
「(あの吉田さんが、あのヘカテーちゃんを言い負かすなんてね)」
それだけ、悠二に対する想いが強いという事だろう。……そろそろ、自分の助けも不要になるかも知れない。
「…………あっ」
小さな、しかし紛れもない喜色を混ぜた声が聞こえた。花が咲くような吉田の笑顔に見惚れた池が、視線を追うのを遅らせた……
「はうっ!?」
「吉田さんーーー!!」
その一瞬に、吉田の額を撃ち抜く純白のチョーク。咄嗟に支えようとした池の手を、吉田は断固たる決意を持って制した。
「へ、ヘカテー!? いきなり何て事するんだ!」
「おしおき星(アステル)です」
「……いや、坂井君はそういうの訊いたんじゃないよ?」
目を向ければ案の定、坂井悠二、平井ゆかり、そして両手の指の間いっぱいにチョークを構えるヘカテーの姿。その後ろにシャナ、千草、ヴィルヘルミナも見える。
「(負けません)」
吉田の挑戦から一日と少し、千草からの教えもあって、ヘカテーは半ば開き直って覚悟を決めていた。
『理想と現実の違い』は今でも怖い……が、それを理由に吉田から逃げる必要は無い。何故なら吉田は、“自分と同じ”だから。いつまでも一緒に居られる……『隣に立てる存在』ではないのだから。
「吉田さん、大丈夫!?」
「へ、平気です……!」
慌てて駆け寄る悠二の手をも、吉田はやんわりと断った。今までのように、恥ずかしさからついつい否定しているのではない。ここは誰かの手を借りる場面ではないと解っているからだ。
痛む額を押さえながら、吉田はヘカテーの前に立つ。
「私、負けないから」
悠二もいる。池も、平井も、シャナも、悠二の母たる千草まで居る状況で、吉田は堂々と宣言する。
(シュビッ!!)
「はうっ!?」
「吉田さんーーー!?」
その顎先に二撃目のチョークを受けて、今度こそ吉田は引っ繰り返った。