「…………………」
水色の炎が、封絶の中に飛散する。舞い飛んだ火の粉は隔離された因果を外界と繋げる事によって、異界の中で起きた“あり得なかった事”を否定していく。
鉄橋の真ん中に穿たれた大穴が、爆風でひっくり帰った車が、その車の中で壊された人間が、“修復”を受けて“在るべき姿”を取り戻していく。
存在を奪われた人間は元に戻らない。だが、封絶内の破壊であれば こうして何事も無かったように元に戻せる。
「…………はぁ」
自身の選んだ結果としてもたらされた現実を見届けてから、悠二はゆっくり目を閉じ、また開いて、己が胸に在る もう一つの現実に目を向けた。……胸に点る灯りは、随分と小さくなっていた。
「貴方が自分で言った事です」
それに何かを思う直前に、ヘカテーの言葉が ピシャリと悠二を打つ。変わらぬ平坦な声に、どこか責めているような響きが混じっているような気がした。
「(ははっ、そりゃそうか)」
ヘカテーはミステスの事を“旅する宝の蔵”と言っていた。悠二が消えれば宝具は無作為転移を起こし、この世の何処にいるかも解らないトーチに宿る。ヘカテーにとっては甚だ不都合に違いない。
「(………でも、ちょっと意外だな)」
ヘカテーが不都合を押して悠二の言う事を聞いてくれたのも そうだが、もっと奇妙なのは自分自身の心だった。
『この街にいる徒を倒して欲しい。僕に出来る事なら、餌でも捨て石でも構わない』
後悔はしていない。自分自身で決めた選択に沿って行動した。
けれど正直……自分でも背負い込み過ぎではないかとは思っていたのだ。いざとなったら もっと怯えて、悩み抜いて、結局最後は我が身可愛さに保身を選ぶかも知れないと思っていたのだが……存外にそんな事は無かった。消滅を前にした人間というのは、本当にこういうものなのだろうか? などと益体も無い事を考える。
「(諦め、かな……でも、何かちょっと違うような……)」
何だか自分が酷く非情な人間であるかのような気がして、悠二は自分自身の気持ちを見つめ直そうとする。しかし、そんな悠長を許さんと言わんばかりにヘカテーが悠二の前に立った。
「……どうしますか?」
何が、問おうとする悠二を包む陽炎の異界が唐突に掻き消えた。日常が戻って来る。
「私は“狩人”との戦いに向かいます。……やはり、招待すると言っていただけあって、今は気配を一切隠していません」
言って、ヘカテーは人差し指を上向けて ある一点を差す。その先に聳えるのは依田デパート、御崎大橋の袂から頭一つ抜き出た高層の廃屋。悠二にもまた、はっきりと解った。この距離でも感じる、いっそ思い知らせるような尋常ならざる違和感を。
「……って、何で解るんだ?」
解ってしまってから、それがどれだけ異常な事か気付いた。世界から零れ落ちたと言っても、坂井悠二は人間なのだ。ついでに言えば、気配云々に通じた武術の達人でもない。
「……“狩人”の言っていた通り、そういう宝具なのかも知れません。先ほどの燐子の爆発も、私には察知出来ませんでした」
ヘカテーでも拾えなかった爆発の予兆を感じた。それがヘカテーの言葉に信憑性を持たせるが、今度は別の疑問が湧いた。
「……ヘカテー、まさか僕の中の宝具が何なのか知らないのに、あのフリアグネって奴に喧嘩売ったのか?」
ヘカテーの言い種が、まるで宝具の能力を初めて知った風な言い回しだった事だ。
「私が回収したいのは宝具に刻まれた自在式です。ミステスの中身を外から確かめる術など、少なくとも私にはありません」
「…………………」
そういう大事な事を、と思う反面、どちらでも同じかとも思う。宝具が狙われている事実には変わりないし、“戒禁”とやらのせいで取り出せないなら文字通り宝の持ち腐れだ。フリアグネを倒す役には立たないだろう。
「それで、どうしますか」
話は戻る。ヘカテーの眼が悠二の眼……その奥に在る本質を見極めんと光る。
「“狩人”も言っていましたが、戦いに同伴すれば貴方も巻き添えになるかも知れません。しかし私から離れれば、彼の燐子が貴方を狙う可能性もある」
「っ………」
フリアグネが去った事で知らず緩んでしまっていた緊張の糸が、再び無理矢理に張り詰められた。
………ヘカテーの言う通りだった。気配がそこにある以上、フリアグネが依田デパートに逃げたのは間違いない。だからと言って、奴の言葉をそのまま鵜呑みにしていいわけがない。悠二を置いてヘカテーが向かったが最後、隠れた燐子が宝具を奪いに来るかも知れない。
「…………………」
ならヘカテーと共に行けばいいと、簡単に決める事など出来ない。徒同士の戦いの前では悠二など虫けらのように死にかねない。それに……悠二がいればヘカテーは満足に戦えない。それでヘカテーがフリアグネに敗けでもしたら、これからも御崎市の人間が喰われ続ける。
「…僕、は………」
どう転んでも死の恐怖に晒される不条理な選択を迫られて、いずれ消え往く坂井悠二は………
旧依田デパート。親会社の事業撤廃によって廃れ寂れた廃屋の遊技場に、煌びやかなウェディングドレスに身を包んだマネキンの一軍が整列している。
「(『ダンスパーティー』は一度見せてしまった。もう不意打ちは通じまい)」
屋上の端、御崎市全体を一望できるアトラクション用の舞台の上に、それらを支配する王は浮かんでいた。
「(あの光弾に『アズュール』は通用しない。遠距離で撃ち合う形になるのは避けるべきだな)」
“狩人”フリアグネ。純白のスーツの上に長衣を靡かせる美青年の姿をした紅世の王は、ここに招いた王の到着を待っていた。
「(『トリガーハッピー』も徒相手には意味が無い。……なるほど、相性で言えば最悪に近い相手だ)」
思考の海の中、自身を超える爪と牙を備えた猛獣を狩る為の段取りと、それに臨む気持ちを作るフリアグネに、傍らのマネキンの一人が心配そうな視線を向ける。
「ご主人様……」
彼の燐子にして最愛の存在……可愛いマリアンヌだった。粗末な人形を本体に持つ彼女は今、最も美しいマネキンに身体を潜ませている。
「……大丈夫だよ、マリアンヌ。確かに彼女は強いが……しかしそれだけだ。それさえ判っていれば後れを取る事など無いよ」
計画の破綻ではなく、もはや主の無事の方を心配する愛しい恋人に、フリアグネは蕩けるような笑顔を向けた。虚勢ではない。“頂の座”の力の一端を垣間見てなお、彼には勝てる算段が……いや、必ず勝てるという確信がある。
「……にしても、遅いね。あれだけ強気に振る舞っていたわりには、随分と狭量な事だ」
フリアグネが敵を舞台に招いてから、既に数時間の時が経過している。戦っている間に宝具を奪われるのを警戒しているのだろう。あれから彼女は、あの感知能力のミステスらしいトーチを連れて街中を練り歩いていた。
フリアグネもそれを狙っていなかったわけではないが、この露骨な警戒にさっさと燐子を下げた。邪魔な王さえ狩れば、後はどうとでもなる。
「(………来たか)」
思う間に、敵は無駄な探索を終わりにしたらしい。気配が大きく、接近を知らせて――――
「封絶」
どこからか凛とした声音が響いて、陽炎のドームが依田デパートの中ほどから上を丸ごと覆い隠した。
水色に燃える結界の中、花嫁の一軍が居並ぶ前に、受けて立つという意志も露に星の巫女が舞い降りる。
「約束通りに歓迎しよう、“頂の座”ヘカテー!」
眼前の脅威すら愉悦に変える矜持を弾けさせて、フリアグネは大手を振って高らかに開戦を告げる。それと同時、百にも上る燐子が一斉にヘカテーに飛び掛かった。
「『星(アステル)』よ」
「弾けろ!」
『トライゴン』の遊環と、ハンドベル・『ダンスパーティー』が全く同時に鳴り響く。数十の光弾が流星となって軍を残らず爆砕せんと翔け、数体の燐子が全存在を爆発に変えてそれを食い止める。
王の戦いに相応しい開幕の花火に目を細めるフリアグネの胸中には、二つの感情。敵がミステスを連れていない事への安堵と、封絶を張られた不満だ。
ヘカテーにしてみれば、戦場の外にいるかも知れない燐子に、フリアグネが余計な命令を出せないように因果を切り離しただけなのだが、それは密かにフリアグネの切り札を封じていた。
わざわざ人目のつかない廃屋に招待したのも、敵が封絶を使わない可能性を僅かでも上げる為だったのだが、こうなってしまっては仕方ない。
「さあっ、パーティーの始まりだ!」
“狩人”としての力と技を以て、無粋な獣を屠るのみ。傲慢の中に狡猾な眼光を秘めて、フリアグネは長衣を翻した。
対するは、ヘカテー。
「(絶対に、勝つ)」
果たすべき大命が在る。こんな所で敗けられない。ミステスも渡さない。冷厳な瞳の奥で己を鼓舞して、大杖を強く握り締める。
『捨てるんじゃない、生かすんだ』
戦う意味を思うヘカテーの脳裏に、強い言葉と静かな微笑が、浮かんで消えた。