取り出し、目にした途端に、瞳の奥に光が宿る。それを食す為に口を開ける時には、既に無愛想な表情は見る影もなく破顔していた。
「あむっ、はむっ……!」
心底おいしそうに頬張り、これ以上なく幸せそうな顔で味わう。
それは彼女、フレイムヘイズ『炎髪灼眼』がこよなく愛する食物・メロンパンだった。
「むぐ……? 何よ」
モグモグと食べていると、何故か周囲の視線が集まっていた。飲み込むついでのように、代表として坂井悠二を睨む。……と、自覚の薄い異能者は気の抜けた顔で頬を掻いた。
「いや、その……まるで別人みたいだなって」
「?」
曖昧で判然としない言い回しに、少女は自然に首を傾げる。それほど興味があるわけでもないので、構わず次のメロンパンに口を付けた。
平井の方は、悠二の百倍解りやすい。
「超可愛い! 抱き締めてもいいですか!」
具体的には、机の上の弁当を端に寄せて、悠二の隣席から身を乗り出して抱きついた。
そして、
「ぎゃふん!」
頬擦りする事かなわず、手首を軽く捻るような動作だけで一本背負いを食らわされた。「くっ……後は……頼んだ……」などと聞こえて来る。
「……何も投げる事ないだろ。ちょっと抱き付いて来ただけで」
「これは私のメロンパン」
「誰も取ろうとしてないって」
少女が大真面目に応えて、悠二が苦笑混じりに突っ込む。
一本背負いで静まり返った教室に、明るい笑い声が湧いた。
「(この調子なら、馴染むのもそんなに時間掛かんないかもね)」
大の字に引っ繰り返った平井も、逆様の視界でその喧騒に笑顔を向けていた。
しかし、その視界の中に、不審な影が。
「およ?」
コソコソと教室から出ていく、水色の小さな後ろ頭が見えた。
「はぅ………!?」
そのとき何が起きたのか、瞬時に理解できなかった。
五時限目のチャイムが鳴って、3分ほどの時間が経った教室。最後列の吉田一美は、何となく斜め前方にある大上準子の後ろ頭を眺めていた。
幸せそうにメロンパンを齧る無邪気な横顔は、同姓から見ても見惚れるほど愛らしかった。何より、転校生なのに前から坂井悠二と知り合いらしい挙動が気になる。
そんな事をつらつらと思っていた時………
(シュパッ!!)
何かが鋭く風を切る音が聞こえて、
(パンッ!!)
間髪入れず、何かが割れるような破砕音が聞こえて………吉田の左隣に座っていた菅野が昏倒した。
「す、菅野さん!?」
「う、う〜………」
慌てて助け起こしたらば、額に貼りついていた何かがポトリと机上に落ちる。………真ん中から綺麗に両断されし純白のチョークだった。
何やら見覚えのある現象に顔を上げれば、そこは龍虎の向き合う戦場。
「……何のつもり?」
「授業中にお菓子を食べるのは厳禁です」
いつかの学者ヘカテーが、五指にチョークを挟んで教壇に立つ。その敵意を一身に受ける大上準子の右手には、30定規が刃の如く光っている。
「『星(アステル)』よ」
純白の軌跡が流星となって奔り、黒髪の少女を狙い撃つ。まるで忍者の放つ手裏剣、とても女子高生に避けられる物ではない。
クラスの殆どがチョークまみれになって昏倒する大上準子を幻視………
「はっ!!」
するも、少女はそんな不名誉な予測を飛び来るチョークごと残らず断ち切った。石灰の粉が、まるで硝煙のように踊る。
「そっちがその気なら、相手になる」
「教育的指導です」
短く言葉を交わして、二人はそれぞれ床を蹴った。大上は前席の悠二の肩を踏んで跳び掛かり、ヘカテーは左に跳んで横撃を狙う。
「ふッ!」
大太刀ならばともかく、定規では些か以上に間合いが足りない。少女の斬撃は擦りもせず、その空振りの隙を狙ってヘカテーのチョークが飛んだ。
すかさず、少女の定規はチョークを残らず切り飛ばす。返す刀で、さらに一歩踏み込んだ。
「っ……」
逆袈裟の一振りがヘカテーの前髪を撫でる。仰け反ったヘカテーは、身体を戻す勢いそのまま両手のチョークを再び投げた。
今度は少女も叩き落とすほどの余裕が無い。ウィービングのように上体を柔らかく動かして躱す。その上体の動きに合わせて振り上げたハイキックと、少女の頭を狙ったヘカテーのハイキックが、
「「やッ!!」」
頭上で綺麗に交叉した。
衝突から間を置かず、両者は互いに跳び退って距離を取る。
「「………………」」
相手の出方を窺う、張り詰めた沈黙。次のアクションに移るべく左足を僅かに下げるヘカテー……
「はい、終了ー!」
の後ろから、平井が小さな身体を羽交い締めにした。小柄なヘカテーの足が、床から離れてプラプラと揺れている。
「……放して下さい。これは教師の矜持と尊厳を守る為の戦いなんです」
「ダ〜メ! あんまり聞き分けない事言ってると、千草さんに言い付けるからね」
不服そうなヘカテーは、しかし坂井家の頂点の名前を出されて渋々く黙り込む。
「大上さんも定規しまって。………こんな所で力見せるなよ」
「私は挑まれたから受けただけ」
一方で、大上準子の前には悠二が割って入って説得を始めていた。
『……………………』
立ち込める白煙と倒れた同胞の姿を目の当たりにして、一年二組の生徒たちは思い知った。
大上準子、転入から二日目。彼女は近衛史菜の終世のライバルとして目される事となる。
そんな、騒がしくも新鮮な学校生活を過ごした日の夜。時刻は11時45分。坂井家は封絶に包まれていた。
さして広くもない屋根の上に、五人にして七人が静かに佇んでいる。
悠二にヘカテー、見学の平井、目的が不明瞭なヴィルヘルミナ、それに『炎髪灼眼の討ち手』。おまけで契約者たるティアマトーにアラストール。メリヒムがいないとは言え、随分と賑やかになったものである。
「メリーさんは?」
「勉強があるからって言ってた」
少し離れた所で、平井と少女、ヴィルヘルミナが眺める先で、悠二が眼を閉じて右手を強く握り締めている。
「フンッ!」
そして、開く。
轟然と燃え上がった銀の炎が膨らみ、踊り、火球の形に固まる。ただしこれまでと違い、数は十。
その炎弾は悠二の腕の一振りで撃ち出され、低い空をフワフワと漂う星へと飛んで行く。
炎弾は星にぶつかり、互いに弾けて連鎖的な爆発を呼んだ。
「………三つ、外しましたね」
爆炎の後に残った星を見上げて、ヘカテーは自分の顎先を摘む。
頭上に浮かぶ星は、遥か夜空の彼方に在る本物の星ではない。ヘカテー自慢の攻撃系自在法『星』である。
「坂井く〜ん、段々命中率落ちて来てるよ。集中力が足りん集中力が」
マネージャーのように言いつつ、手にあるノートのスコア表に7と追加する平井。その小言を耳に入れつつ、
「(………集中できないって)」
と、悠二は心中で愚痴っぽく呟く。
何せ、その平井の横から、さっきから物凄い眼光で睨み付けて来る少女が居るのだ。落ち着いて練習など出来はしない……と悠二は主張したい。
どうせ口にしても「それこそ集中力が足りていない証拠です」とか言われるのは目に見えているので、あくまで心の中でだけだ。
その一方で、
「……体術に比べて、自在法の上達は早いですね。そろそろ『器の共有』は無意味になるかも知れません」
専属教師たるヘカテーの機嫌は悪くない。この無垢な少女はお世辞も言わないが、無闇に厳しく接したりもしない。思った事をそのまま口にするので、この一言は悠二を密かに喜ばせた。
その喜びには、すぐさま水を差される。
「………『器の共有』って何?」
「うわ、大上さん!?」
いつの間にか悠二のすぐ後ろに、フレイムヘイズの少女が接近していた。その瞳は既に、何かに燃える灼眼。
「ヘカテーの能力だよ。感覚共有……だっけ? 平たく言うと、超高精度の『手取り足取り』」
詰問に近い問い掛けに、何故か少女の後ろから平井が応えた。
少女の不機嫌の理由を何となく察する悠二は、促すように傍らのヘカテーを見て、
「しませんよ」
「……………」
何事か口にする前に、取り付く島もなく断られてしまった。前から薄々思っていたが、とことん相性の悪い二人である。
「……事情は解った。“頂の座”に頼むつもりもない」
少女は素っ気なく言って、自分の鍛練に入ろうと一歩を………踏み出そうとして、止めた。横顔だけ振り返らせて一言、告げる。
「それと、大上準子って言うのは偽名。前に私が割り込んだトーチの名前よ」
平然と言って、何事もなかったように鍛練に入ろうとする。その背中に、
「………ちょっと待て」
今度は悠二が声を掛けた。
「何よ」
「トーチに割り込んだって……どういう意味だ」
訊ねる声に、只の疑問にはないトゲが混ざる。その剣呑さに気付いて、しかし変わらず平然と、少女は返す。
「隠れてる徒を捜す時に、手近な代替物に残った因果を自分にすげ替えて成り代わるのよ。別に珍しい事じゃない」
無知な子供に当たり前の事を説くような目で。
その……完全にトーチを道具としか見なしていない言い草に、同じくトーチである悠二の頭に血が上る。
「………アンタだってトーチみたいなもんだろ。因果を自分にすげ替える? その人の居場所を奪ったって事じゃないか」
静かに、怒る。
「人じゃない、本人はとっくに死んでた。あれは歪みを緩和させる為だけの代替物よ」
その怒りを向けられても、少女の態度は変わらない。それどころか、瞳の中に微かな侮蔑の色が混じる。
「私も同じ。私という人間はとっくに死んでる……ううん、“最初から存在しない”。お前は自分がトーチだから、トーチの存在理由を認めたくないだけ」
これまで出会った異能者の誰よりも冷厳な言葉を突き付けて来る少女に……悠二は怒りに任せて何か言い返そうとして……
「………………」
言えなかった。
何も、言い返せない。
少女の言葉は、“ただの事実”なのだから。
「お前、もっと自分の存在を自覚した方が良いわよ」
俯いて黙る少年に容赦なく、少女は追い打ちを掛けた。
一分か、二分か、重苦しい沈黙を経て………
「名前」
零れるように、悠二は言った。
「あんたの本当の名前、教えてくれよ」
この少女は大上準子ではない。たとえ人間を失っても、確かに彼女としてここに存在している。
この、正しくて残酷な少女を、確かな存在として認める。理屈では敵わないと悟った悠二の、それがせめてもの反撃。
「………名前は無い。只の、フレイムヘイズ」
それすら少女は撥ね退ける。いい加減のしつこさに眉を顰めて。
「他のフレイムヘイズと分ける時は、『贄殿遮那のフレイムヘイズ』で通る。呼び方なんてそれで十分よ」
「にえ……何だって?」
「『贄殿遮那のフレイムヘイズ』」
名前が無い。
予想外の事態に戸惑いつつも、悠二の心には怒り以外の何かが湧いた。
彼女の“正しさ”は、単なる冷酷さから来ているのではないのではないか。そんな疑念が一瞬頭を過って、流れる。
それでも、だからこそ、退かない。
「シャナ」
力強く、一言、言い切る。
「“君”はシャナ。僕は今からそう呼ぶ」
たとえ残影に過ぎないとしても、宝具が無ければ消えて無くなる存在だとしても。
「僕も只の残り滓なんかじゃない、坂井悠二だ」
―――ここに、確かにある存在として。