時を僅か、溯る。
「(くそっ、いつになったらパンを捏ねられる)」
その日も“虹の翼”メリヒムは、開店前の店内に焼きたてのパンを並べていた。
彼が焼いたパンではなく、店のプロフェッショナルが焼いたパンを運んでいるだけ。パン屋で働き始めて三日、ひたすらにこんな雑用ばかりをこなしている。
「(そもそも、ミサキまでのデンシャ賃はどれくらい必要なんだ?)」
そもそもパン屋になる為に働き始めたわけでもないのだから、別に雑用でも問題はない筈だが……どうにもこうにも口惜しい。
そんな事を思いつつ、盆の上のメロンパンに目をやる。骨してた時には特に感じなかったが、実に芳ばしい香りである。
一つくらい構わないだろうと、その手を伸ばそうとした時――――
「……………む」
人ならざる感覚が、人ならざる気配を捉えた。無駄に垂れ流していた存在感を、何者かが嗅ぎつけて来たらしい。
「(この感じ………大物か?)」
職場を荒らされては堪らない。メリヒムは持っていたパンをレジ横に置いて、一も二もなく飛び出した。
気付かれる為に気配を撒き散らしているのだから、居場所などとうにバレている。迷わず、見晴らしの良い高層ビルへと飛び上がった。飛翔の最中で、着ていた服が剣士の装束へと燃え上がる。
「(…………アタリだな)」
大きくなってくる気配がフレイムヘイズのそれであると知る。
彼の方針的に相手はフレイムヘイズでないと意味が無いので、この結果は幸いと言えた。しかし店は辞めなくてはならないだろう。フレイムヘイズを屠るわけにもいかないし、この街からは離れるしかない。
「(適当に目立って逃げるか)」
自分の身の上も考慮して、炎の色までは晒さない。お目当ての少女以外に喰いつかれても面倒だし、そんな相手を返り討ちにする事も出来ないからだ。今のメリヒムにとって一番厄介なのは、“虹の翼”を仇と狙うフレイムヘイズなのだ。
「(あまり近づき過ぎると、逃げにくくなる)」
いつものように、“王”だという事だけ知らしめて撤退しようと構えるメリヒムを、やはりいつものように封絶が取り込んだ。
「………っ」
別に閉じ込められたわけでもない。そのまま逃げれば済む。……のに、メリヒムは足を止めた。
封絶を漂う炎の色が、彼の身体を金縛りにした。
「あぁ…………」
鮮やかな上にも鮮やかな、紅蓮。かつて惹かれて、かつて痺れて、かつて送り出した、真紅に燃える炎の姿。
その大元は敢えて意識から追い出しつつ、ビルを駆け上がって来る靴音を聞く。
「………!?」
黒衣が翻る、炎髪が靡く、懐かしい少女が………その姿を現した。
「……………シ、ロ?」
灼眼を見開いて、驚愕に震えて、それでも決して大太刀を下げない少女に………
「久々に手合わせと行こうか、フレイムヘイズ」
―――銀髪の剣士は、不敵に笑い掛けた。
「だが、蓋を開けて見れば酷いもんでな。『炎髪灼眼の討ち手』だと言うのに炎もロクに使えない。訊けば、『今まで本気になれる相手に巡り合わなかったからだ』と言う」
銀髪を風に靡かせて、メリヒムが振り返る。
「そこで考えた。俺は強大な王が確実に一人居る場所に、心当たりがあるではないか、と」
直後に投擲される、銀炎の豪速球。僅かに首を捻ったメリヒムの顔の横で、髪の先が微かに焦げた。
「何をする」
「ふっざけんな! そんな理由でケンカ吹っかけて来たのかアンタは!!」
要するに、『炎髪灼眼の討ち手』の成長を促す“かませ犬”としてあてがわれたという事らしい。
あまりにもあんまりな理由に、比較的温厚な人格を持つ悠二も声を荒げずにはいられない。
「……感心せんな。いたずらに『仮装舞踏会(バル・マスケ)』を刺激して、それが世界のバランスを歪めるとは考えなかったのか」
少女のペンダントから、彼女の契約者たる“天壌の劫火”アラストールも遠雷のような詰問を投げた。
「細かい事で喚くな。お前もミステスである以上は常在戦場。こんな事、この先いくらでも起きるぞ」
メリヒムは“当然”これを無視して、悠二の方に身勝手な理屈を押しつける。やはりと言うか、罪の意識など欠片も感じていないらしい。
「……世界のバランスより、私を鍛える方が優先だったの?」
「………まあ、“頂の座”が易々と討たれるとも思わなかったしな」
少女に訊かれて、メリヒムは“当然”正直に応える。
彼にとっては、幾分かの保険を備えた上で強敵と戦わせられる二度とは無い状況だった。いざとなったら、自分が割って入って止める事も出来るだろうという楽観もあった。………もっとも、悠二の健闘で予定を大幅に違える事となったが。
「話は終わりましたか」
それらの話に全く興味を示さず、ヘカテーは大杖『トライゴン』を構え直す。
「……ヘカテー。腹立つのは解るけど、わざわざ今から事を荒立てなくても……」
「破壊します」
三角頭の遊環に水色の光を灯すヘカテー。その小さな身体を、悠二が後ろから羽交い締めにした。
「……放して下さい。こいつだけは、この場で破壊します」
「何で!? 『万条の仕手』の時は聞き分けてくれたじゃないか!」
親の仇でも見るようなヘカテーの様子に、悠二も、ヴィルヘルミナも、他の者らも首を傾げる。
近年に討ち手となった少女は勿論、契約者たるアラストールも、彼女に個人的な恨みを買った憶えなど無い。
確かに先代『炎髪灼眼の討ち手』が討滅した中には『仮装舞踏会』の徒も数多く居ただろうが、それはヴィルヘルミナとて同じ筈だった。特別に狙われる謂われなど無い。
「先に仕掛けて来たのはこいつです」
それも、当然。
ヘカテーが『炎髪灼眼』を嫌うのは、私怨や復讐からではない。その契約者たる“天壌の劫火”が持つ能力……『天罰神』たる炎を危険視しているからなのだ。身に憶えが無くて当たり前である。
「………彼には私から言って聞かせるのであります。どうかこの場はお引き取りを」
未だ仮面で顔を隠したままのヴィルヘルミナが頭を下げる。ヘカテーではなく、悠二に。
初対面から考えると信じられない行動を取る辺り、まだ本調子ではないのだろうが………いずれにしても悠二の返事は決まっていた。
「くれぐれも、頼んだよ」
即ち、ヘカテーを羽交い締めにしたまま………
「悠二………!?」
全速力で、封絶の外まで逃げ出したのである。
「っ――――― 」
水色の爆発を幾つもバラ撒きながら、“頂の座”が攫われて行く。
「………何あれ」
『仮装舞踏会』の巫女がミステス一人に主導権を握られている、という奇妙な光景を、少女は呆然と見送った。
「止まるのであります」
「制止要求」
さりげなく逃げようとしたメリヒムの足に、純白のリボンが巻き付いた。
メリヒムのしょうもない思いつきのせいで大迷惑を被った事件から一日跨いだ月曜日。登校の先頭を歩くヘカテーはお冠である。
「……………………」
『炎髪灼眼の討ち手』の事について、ではない。そちらの方は、あれから悠二の説得を受けて納得した。
と言うのも、
『あの子を殺したって、中の王が死ぬわけじゃないんだろ!』
悠二が説得の為に並べ立てた言葉の中に、何も知らない癖に核心を突く内容が混じっていたからだ。
確かに、フレイムヘイズは紅世の王を宿した入れ物。器を壊された王は紅世に帰り、再びの契約に臨む。
つまりここで『炎髪灼眼』を壊しても、肝心の“天壌の劫火”は討滅できず、新たな器を得てこの世に顕現出来てしまうのだ。
壊すなら、そう……大命の手順が完了し、それを実行に移す直前が望ましい。それまでは、無害な巫女を装っておく事にした。
………ので、ヘカテーはその事はもう気にしていない。怒っているのは、別の事。
「はぁ〜……吉田さんに何て言い訳すればいいんだろ」
朝からこればかり口にする悠二に、である。
どうやら『炎髪灼眼』の襲来によって置いてきぼりにした吉田一美の事を気にしているらしい。
らしい、が………何故だかヘカテーは、それが無性に気に入らない。そもそも悠二が彼女と出掛けた事など、ヘカテーは聞かされていなかった。そんな事は悠二の勝手と言えばそれまでだが、どうにもこうにも気に入らない。
朝からずっと不機嫌をアピールしているのに、悠二は構わずヨシダヨシダ。それが尚ヘカテーの機嫌を悪くする。
「ふっふっふ………」
いつもなら人一倍騒ぐ平井も、今日に限っては何故にか口数が少ない。わざとらしく怪しげに笑っているのに、悩める悠二がツッコミを入れてくれないから少し淋しそうだ。
「(急用を思い出した……で良いとして、問題はどんな急用かだよな)」
いつになく静かなトリオの登校は、それぞれが悩みを解決していないが故に矢の如く過ぎて行く。
その先に待っていたのは、悠二の謝罪を笑顔で受ける吉田でも、ヘカテーのご機嫌を取る悠二でもなく………
「転校生を紹介する」
チャイムより少し遅れた担任の、一般生徒から見れば堪らなく刺激的な宣言と………
「大上準子。よろしく」
髪と瞳を黒に冷やした―――『炎髪灼眼』の少女だった。
―――世界は佇み、流れ往く。誰かと誰かの出逢いを結び、いつか零れるその日まで。